十番目 2
モンドー将軍がヴァレーズ王太子に冷徹なお声をかける。
「説明して戴こう」
真っ青な顔で王太子が呟く。
「説明? 説明とは。 まさか葡萄酒のせいだと?」
「すると葡萄酒のせいではないと? 昼食会前にその目で彼の剣舞を見たではないか。 健康、頑健、酒豪のポクソンが、突然流行り病に倒れたとでも?」
「し、しかし、御覧のように私のグラスにも同じ葡萄酒が注がれております。 毒入りのはずは」
そう言って飲み干そうとする王太子をマッギニス補佐がお止めになる。
「少々お待ちを。 その葡萄酒の確認をさせて戴きたい」
そして給仕に向かってお命じになる。
「イカムをここへ」
給仕がイカムと呼ばれる小動物が入っている籠を持って来た。 マッギニス補佐が王太子のグラスから小皿に葡萄酒を少し垂らして籠に入れると、それを舐めたイカムは即座に仰向けに転がり、絶命した。
「そんな、馬鹿な」
王太子が力なく囁く。 演技で驚いているようには見えなかった。 とは言え、世間に演技上手はいくらでもいる。 真実驚いているのだとしても、北軍の中に以前クポトラデルの王太子に会った人はいない。 つまり彼の出自を証明する者は随行四名と護衛五十名だけ。 全員で口裏を合わせる事くらい簡単だ。 全員が偽者の可能性だってある。
勿論、全員本物の可能性もあるが。 ついでに言うなら真の標的は王太子だった可能性もある。 その可能性の方が北軍将軍を狙っていた可能性より高いような気がするが。 誰でもいいから殺す事で外交問題を引き起こし、皇国がクポトラデルと開戦する事を狙っていたのかもしれない。
マッギニス補佐がリスメイヤーにお訊ねになった。
「仕込まれた毒が何か、特定するのにどれくらいかかる?」
リスメイヤーは持参した箱の蓋を開け、数枚の紙と小瓶五本を取り出した。
「この五種類の試薬で分かるならすぐですが、分からない場合最低でも二、三日はかかるかと」
「試してみよ」
リスメイヤーが紙を試薬に浸し、それぞれに葡萄酒を数滴づつ落とすと、どれも違う色になった。
「ネバーマントです」
「致死量は?」
「この葡萄酒なら一口飲んだだけで助かりません」
室内に緊張、と言うよりタケオ大隊長の怒りが満ちる。 青筋を立てている訳でも怒鳴り声をあげている訳でもないが。 まるで爆発直前の火山の火口を覗いているような。
新兵の頃のタケオ大隊長は怒りが歩いているような兵士だったが、側に寄らなければいいだけ、と誰もが理解していた。 けれどこの怒りは違う。 敵味方、誰彼構わず巻き込むマグマだ。 犠牲になるのは誰か分からない。 自分かも? そう思うと他の出席者がどのような反応を見せているのか、辺りに視線を泳がせる事さえ憚られた。
タケオ大隊長が王太子に向かい、一見落ち着いた口調でお訊ねになる。
「北軍将軍暗殺を企てた理由は何か?」
「クポトラデルが皇国将軍のお命を狙わねばならない理由はありません。 今も、これからも。 毒殺など滅相もない。 葡萄酒が毒入りであった事は只今知りました」
タケオ大隊長は王太子随行の一人一人に同じ質問をしたが、全員同じ答えだ。 それ以上深く追及はなさろうとせず、モンドー将軍に願い出る。
「クポトラデルへの進軍許可を頂戴したい」
「逸るな。 今のところこの葡萄酒が毒入りであったという事しか分かっておらん。 詳しい調査の結果を待て」
それにうんともすんともおっしゃらず、タケオ大隊長は静かに、とても静かに大隊長徽章を外した。
「リイ・タケオ、本日をもちまして退官致します」
そして退室なさろうとする。
「ま、待って。 俺も一緒に行くからっ!」
ヴィジャヤン大隊長は頬を伝う涙を拭おうともなさらず、大隊長徽章を外された。 タケオ大隊長が歩みを止め、舌打ちなさる。
「何が一緒に行く、だ。 俺がどこに行くかも知らんくせに」
「知ってます。 クポトラデルでしょ。 そんな無茶、やっちゃダメ、と止めたって行くんでしょ? なら俺も退官して付いて行きます」
「寝言を言うな。 お前が付いて来る方が余程の無茶だし、迷惑だ」
「無茶だって迷惑だって。 危ない橋、師範一人で渡らせる訳にはいかないし。 そ、それに。 俺は準大公なんだよね? 退官しても。 だけど師範は今退官したら無爵でしょ。 平民がどうやってクポトラデルの王様に会うんですか? 面会を申し込んだって会う前に殺されるかも」
「それが向こうの目的だったのかもな。 ま、その時はその時だ。 大隊長補佐の毒殺より北の猛虎惨殺事件の方がいい開戦理由になるじゃないか」
「ちっともよくないですっ! ぽ、ポクソン補佐だって、生きていたら絶対師範を止めたに決まってる」
「生きていたら、な。 残念ながら死人に俺は止められん。 虎を止めていた奴が死んだらどういう目にあうか、ポクソンを殺した奴らに知っておいてもらう。
だがこれは私怨だ。 軍は元より他の誰かを巻き込むのはまずいよな。 それくらいポクソンに言われなくとも分かっているさ。 お前は家に帰って昼寝でもしていろ」
「俺がどこで昼寝しようと師範の知った事じゃないですっ!」
丸腰、無爵、裸も同然で外国へ殴り込みは無茶だが。 マグマを吹き出さんばかりのタケオ大隊長に面と向かってお諌めなさるとは。
死線を死線とも思わず乗り越えていらした事で知られるヴィジャヤン大隊長だが、はっきり言ってこの御方を豪胆と思った事は一度もなかった。 タケオ大隊長に対して弱気だから誰にも弱気とは限らないが、部下や奉公人にも逆らえないお人柄と聞いていたのに。 内心密かに見直した。
それにしてもタケオ大隊長が即退官を決意なさるとは、なんと思い切った。 あの酒を勧められたのが自分だったら、と考えれば怒りたくなる気持ちは分かるが。 第三大隊五千人を指揮し、百剣の頂点でもある。 冷静沈着。 部下の弔い合戦を仕掛ける為、全てを捨てるような熱血漢には見えなかった。
準皇王族の血縁ではいらっしゃるが、爵位や領地がある訳ではない。 道場を開けば世界中から入門希望者が集まるとしても即座に確実な収入源とはならないだろう。 大隊長のままの方が武器も兵士も調達しやすいはず。 それが分からないような御方とも思えないのだが。
タケオ大隊長の人気は単なる剣の腕前に対する畏敬と思っていたのは間違いだったか。 部下に行って復讐して来いと命ずるのではなく、自ら復讐に赴く。 その心意気。 俺が剣士だったら付いて来るなと言われても付いて行きたくなっただろう。
ただ同じいきなりでもヴィジャヤン大隊長の退官なら驚かない。 飛竜を操縦した事で西軍にとか、いや、義息は未来の東軍将軍、東軍副将軍だろうとか。 元々引き抜きや移籍の噂がいくらでもあった。 ヴィジャヤン大隊長のお父上の従兄弟は現西軍将軍だし、ヴィジャヤン大隊長の母方叔母の夫は現東軍副将軍。 南軍将軍はヴィジャヤン大隊長を養子に望んだ事もあったのだとか。 おまけに皇王陛下の大のお気に入り。 陛下が近衛への移籍を打診なさったという噂もある。 四軍のどこを選んだとしてもスムーズな移籍となるだろう。
仕官先に困っていらっしゃらないだけでなく、領地がおありだから仕官などしたくなければしなくともよい御身分だ。 部下もそんなにいらっしゃらないし、突然退官しても誰も困らないと思ったのだが。 タケオ大隊長の退官には冷静な面持ちでいらした将軍が、ヴィジャヤン大隊長が退官なさると仰った途端、それはそれは深いため息をおつきになった。
「事ここに至ってはやむを得ん。 マッギニス」
「はっ」
「本日付で其方を特務大隊長に任命する。 ヴィジャヤン準大公閣下に同行し、身辺警備及び警備隊の指揮を執れ。 人選、作戦の詳細は一任する。 大隊長徽章は出来上がるまでそこにあるタケオのを使え。 それと軍票。 クポトラデルでは通用せんが、途中、通用する国があるから持って行くように」
「了解。 幸いダンホフの飛竜がまだおります。 途中からは陸路になりますが、二週間程度でクポトラデルへ着くでしょう。 任務にはタマラ、アラウジョ、メイレ、リスメイヤー、エットナー、タケオ殿の従者コシェバー、ダーネソン準大公家執事補佐。 以上を同行させ、全員が揃い次第、出発致します」
「うむ。 クポトラデル国王に真相の究明、下手人の引き渡し、真摯な謝罪及び相応の賠償を要求すると伝えよ。 尚、クポトラデル王太子と随行員全員を人質として留め置く。 今回特使の労をお取り下さる準大公とその警備全員が無事に戻らない限り、一人として帰すつもりはない」
「委細、承りました」
つまり、たった十人でクポトラデルへ殴り込み? それは死にに行くようなものでは? もし毒殺の標的が王太子で、国王がそれを知っていたのなら王太子を人質にしたところで何の役にも立たない。
マッギニス特務大隊長は将軍に敬礼し、次にヴィジャヤン大、いや、ヴィジャヤン準大公に向かって貴人に対する挨拶をした。
「準大公閣下。 では本日出発という事で、よろしいですね?」
準大公はハンカチで涙と鼻水を拭きながらこくんと頷く。 マッギニス特務大隊長は次にタケオ大、いや、タケオ殿に向かって礼をした。
「タケオ殿。 準大公閣下からのお召しです。 クポトラデル王国への訪問に御同行下さい。
準大公のお言葉を覆せるのは陛下か祭祀長のみ。 スティバル祭祀長に直訴なさいますか? 仮にお言葉があり、同行は免れたとしても目的地が同じなのです。 閣下の前に立つか後ろか。 二、三歩の違いとなるでしょう」
ダメ押しをするかのように準大公が付け加える。
「俺を置いてばっくれようとか、考えても無駄なんだからっ!」
タケオ殿の目に見下した光が浮かぶ。
「ふん。 御同行は俺の尾行をやれる人数でもないようだが。 準大公ともあろう御方が四六時中寝ないで俺を監視する気か?」
「え? あ。 け、ケルパ。 ケルパを連れて行くもんっ!」
ケルパの名を聞いた途端、タケオ殿の見下した光が諦め色に変わった。
「逃げん。 だからケルパは置いてこい。 サリ様の警護が手薄になるだろうが」
「う。 そ、それは。 まあ、その。 に、逃げないと約束してくれるなら連れて行かないです」
準大公家には人を選ぶ気難しい飼い犬がいるとは聞いていたが、北の猛虎に失踪を諦めさせる程の鼻だとは。 それにしても犬がいないと警備が手薄? では、犬がいれば警備が手厚い? 一体、何が何だか。
いや、犬を気にしている場合ではない。 毒殺事件の真相究明だなんて。 そんな難しい任務、あの準大公にやれるのか? 御立派な爵位さえあれば解決するという問題ではないだろうに。
実際調査するのはマッギニス特務大隊長だとしても、名目上とは言え一行のトップは準大公だ。 調査結果を見てどう判断し、クポトラデルとどう交渉するか、決断なさるのは準大公になるのでは?
或いはそれもマッギニス特務大隊長がなさる? それともタケオ殿? いずれにしてもお二人の意見が異なった場合どちらを採用するか。 それを決められるのは準大公しかいらっしゃらない。
しかし準大公ではいつまで考えても決められず、わずか十人の隊が二つ、いや、三つに分かれたりして。 それよりあり得るのが、特務大隊長がせっかく纏めた話を準大公が肝心な所で余計なお口を挟み、ぶち壊す、だ。
伝説の英雄お二人との旅。 それだけ見れば生涯自慢出来る話だが。 それもこれも生きて帰れれば、の話。