目力 2
馬車に揺られながら取りとめもない事ばっか考えた。 リネを逃がすとしたらどこへ逃がせばいいんだろ、とか。
自分の村に隠そうたって隠し切れるもんじゃない。 お隣さんの昨日の夕御飯が何どころか今日の夕飯だって作る前に知ろうと思えば知れる土地柄だ。 ご飯の量が一人分増えた途端、誰か来たと気付かれる。 リネは男並みに食べるから。
かと言って、あたしもリツも親兄弟はとっくに死んでる。 リネを匿ってくれそうな親戚なんか一人もいない。
出世した息子がいる、て言やいるけど。 金を貸してくれならともかく、リネを逃がすのに手を貸してと頼んだって、バカも休み休み言え、と怒鳴られておしまいさ。 腹を切られた? それがどうした、助かったんだから文句を言うな、とか言いそう。
まったく。 そもそもリネがこんな目にあったのだって、元はと言えばリイのせいじゃないか。 人の気持ちも聞かずに勝手に入籍して。 離縁の手伝いぐらいしやがれ。 と、あたしが怒鳴ったところで、ふん、と鼻で笑われるのがせいぜい。 リネに気持ちを聞いていたら二つ返事でうんと言ったろ、と開き直られる。
今じゃ貴族の親戚が覚え切れないくらいいる。 でもまさか旦那から逃げる手伝いを旦那の実家に頼む訳にはいかないし。
ヨネさんならリネと仲がいい。 縋れば大抵の事に一肌脱いでくれそう。 自分だって同じ目にあうかもと思えば同情してくれるだろ。 ただ自分の亭主に逆らってまで義理の妹の家出を助けてくれるかと言うと。 そこまではしてくれないような。
ヨネさんの実家は、こっちから頼んだ訳でもないのに家の前の道をならして馬車が通れる広さにしてくれた。 頼み事をしても門前払いにはしないかも。 だけど所詮は貴族。 リネ対旦那となったら平民のリネより貴族の旦那の肩を持つだろ。 下手に相談したら全部旦那に筒抜けに決まっている。
他はみんな年賀状のやり取りをするだけの付き合いだ。 どんな人柄で何を考えているんだか見当がつかない。 ダンホフは血も涙もない金貸しとして有名だから親戚になる前から知っていたけど、親戚になったってあんな所へ頼み事をしに行く気になれるもんか。
まあ、金を払えば頼み事を聞いてやると言われた方が気楽、て言や気楽さ。 ただダンホフの言い値を払える金なんて、あたしんちにある訳ない。
なら親戚じゃない貴族に頼る? ミッドー伯爵様とか。 わざわざ我が家まで足を運んで酒蔵の防寒や酒樽の木によって味に違いが出るとか、あれこれ教えてくれた。 一緒にご飯を食べたりして実直なお人柄だって事は知ってる。 口が堅いし。 だめならだめとはっきり言ってくれるから相談だけならしてもいいかも。
でも仕事の取引先と言うか、酒を買ってくれる、要するにお客さんだ。 お客さんに娘の家出の相談をするのは、ちょっと。 後々まずい事になりそうな。
いっそ全く知らない通りすがりの誰かに金を払って匿ってもらう? 六頭殺しの顔は知られていてもリネの顔は知られてない。 リネ・タケオなんてよくある名前だし、農婦の格好してりゃ本名を名乗ったって六頭殺しの妻とは誰も思わないだろ。
ただリネの側にはいつも誰かいる。 その人の目をどうごまかすか。 その人に味方になってもらうか、誰かの手を借りなきゃ逃げるのは無理っぽい。 けど、誰かの手を借りたらそこからバレたりして?
もしあたしがリネを逃がしたとバレたら、たぶんあたしの首が飛ぶだけじゃ済まない。 リツはもちろん、リノやピピ、孫のリンまで殺される。 誰が逃がす手引きをしたんだかバレないようにしないと。 て事は、誰の手も借りずにやらなきゃ。
そんな危ない橋を渡るような真似、自分以外の誰かがやろうとしたら、やめとけ、て言うよ。
じゃ、諦める? 助けて、と縋る娘を置き去りにして?
いや、縋ってくれるならいいんだ。 縋るどころか逃げたくないとごねられたら?
手紙にも、憧れの人と結婚出来て毎日幸せです、と書いていた。 それが嘘なら逃げる気にもなってくれるだろうけど。 リイの結婚式であたしが見た限りじゃ、リネはとても幸せそうだった。 とは言ってもさ、ほんとに幸せなのか、実は自分でもよく分かっていなかったりして?
そりゃ玉の輿だ。 世間からは羨ましがられる。 けど玉の輿て、きっと乗った後の方が大変だよ。 あたしや世間の皆さんが想像するよりずっと。
毎日何をやらされているんだか知らないけど、嫁に行って一年半も経っている。 酒樽を積み上げていた時の筋肉なんぞ、きれいさっぱりなくなっていると思ったら、なくなるどころか増えていた。
しかも手には剣ダコ。 頼り甲斐のありそうな護衛が二人も張り付き、侍女のカナさんにも隙がない。 なのに時々自分の後ろを鋭い目付きでちらっと見たり、全然油断していなくて。 まるでリネが護衛みたい。
そのうえ歌を歌え、踊れ、礼儀作法を覚えろ、あれをしろ、これもしろじゃ、食っちゃ寝のお気楽な奥様暮らしとは言えないだろ。 つらい目にあったのだって、きっと今回の出産が最初じゃない。 たぶん最後、て訳でも。
どんなにつらくたって誰かに文句を言ったり、愚痴ったりするような子じゃないんだ。 我慢強くて。 ちっちゃい頃から家事の手伝い。 少し大きくなったら男がやる仕事まで手伝わされたのに、ひとっことも泣き言を言わない。 腹を切られて痛かったろ、と辺りに誰もいない所で聞いたって、そんなでもなかったよ、と笑ってごまかしそうな気がする。
なんでだか、うちの子は三人共やたら我慢強くてさ。 痛みを感じてない訳じゃないのに、これくらいで痛いと言っちゃだめ、と思っているみたいな? リツが貴族に殴られた時の大怪我を覚えているからかも。 あの時リネは二つだったけど、リツがまともに歩けるようになるまで何年もかかったから、たぶん覚えている。
あの頃はきつかった。 ばあちゃんがもらう遺族年金がなかったら、一家で飢え死にしていたよ。 あれに比べりゃ今は天国だ。 食べ物に不自由していないし、仕事がきつけりゃ人を雇えばいい。 その金もある。 おまけに人を雇いたいとタジばあさんにちょっとこぼしただけで、雇ってくれませんか、と気立てがよくて力持ちの若い者が訊ねて来たり。
リネが子連れで帰って来たって全然困らない。 水をヤカンからがぶ飲みしたって四の五の言われない実家暮らしの方がよっぽど気楽じゃないのかい?
とは言っても上の子は雲の上へ嫁ぐ事が決まっているし、旦那は外に子供を作ったりする人じゃないらしい。 て事は、下の子は家を継ぐんだろ。 なら子供は置いていかないと。 だけど子供は置いて行け、なんて言ったら逃げ道を用意してあげたってリネが逃げる訳がない。
じゃ、子連れで逃げる? 二歳と乳飲み子を抱えて? いくら呑気なあたしだって逃げ切れない、て事は言われなくたって分かるよ。 旦那は草の根を分けても、て感じで探すだろうし。
結局、逃がすのは諦めるしかない?
はああ。 世の中、なんでこう、自分の思い通りにならないのかね。 別に偉くならなくたっていいんだ。 一日働いて、夜は家族一緒に御飯を食べて寝る。 それがようやく出来るようになったと思ったら、やれ貴族と結婚だ、出産だ、瑞兆だ。
そりゃ目出度いよ。 あたしだって世間のみなさんと同じように喜んださ。 自分の娘の話じゃなかったら。 そんな目出度い事、よそんちの娘とやりゃいいじゃないか。
ともかくリネに会って何があったんだか聞かない事には話は始まらない。 なんだかんだごまかされるかもしれないから一ヶ月は様子を見ないと。
長居して婿殿にけむたがれたら宿屋に泊まればいい。 そのつもりで自分の金だって持って来た。 金を使い切ったって、どうせ夏。 外で寝たって死にゃしない。 リネんちには広い前庭と裏庭もある。 ばあさん一人、木陰に転がっていたって目障りにはならないだろ。
そう言や、裏庭に道具小屋があったね。 あそこに寝起きさせてもらえないかな。 この村にあったら明日から宿屋がやれそうな立派な作りだった。 増築前のあたしの家より広くて窓まで付いているんだから。 あの窓、丁度この馬車の窓くらいの大きさじゃなかったっけ?
ふと窓を眺めたら、外の景色がどんどん流れている。 奉公人に余計な事を聞いて旦那に告げ口されたらやばい。 そう思ってずっと黙っていたけど、馬車の速さにびっくりして話かけちまった。
「ねえ、ダーネソン。 この馬車、すごく速いね?」
「ゆっくり走らせた方がよろしいですか?」
「いや、早く着きたいから、それはいいんだけどさ。 こんなに速いのに、なんで揺れないんだろ?」
「揺れが少なくなるように設計された新型の馬車だからでしょう」
「いくら新型だって、まっすぐ走るには道もまっすぐじゃないと。 第一駐屯地に行くには何通りも行き方があるけど、どれもまっすぐじゃない、て聞いたよ」
リイの結婚式に行った時は行きも帰りも馬車はがたがた。 ゆっくり走っても揺れに揺れ、馬車の天井に頭をぶつけそうだった。 道が曲がりくねっていたから。 もちろんこんな速さで突っ走るなんて無理。 まさかあたしをリネに会わせたくなくて、第一駐屯地への道じゃない道を走ってる?
「村の外へお出掛けになるのはお久しぶりでいらっしゃいますか?」
「久しぶりって言うか。 これで二回目さ。 一回目はリイの結婚式。 この村で生まれ育って幼馴染と一緒になったから、村から出る機会なんてまるでなくてね。 村には皇都に出稼ぎに行く人もいるけど。 旅費も結構かかるから、あたしは出稼ぎに行った事はないんだ。 貧しくて、遊びで村の外へ行くなんて事もなかったし。 けど一回目はたった三年前だよ。 まっすぐで平らな道は第一駐屯地近くになるまでなかったような?」
「大がかりな土木工事をする時は、まず道を整備するもの。 それで道がまっすぐになっているのでしょう」
「土木工事?」
「ミッドー伯爵の酒造工場です。 酒を瓶詰めするだけでなく、酒樽、酒瓶用ガラス、酒瓶を入れる贈答用木箱なども製造するのだそうで。 同時に工場で働く職人と家族の為の住居を建て、上水、下水等の整備もすると聞いております」
よくよく外を見てみれば、人、人、人。 前は村境を越えたら何日も見渡す限りだだっ広い野っ原で、人っ子一人いなかったのに。 野良仕事をしているんじゃない。 たくさんの土方が信じられない数の石や材木を運んでいる。 土台の大きさを見りゃ、とんでもない大きさの建物だ。
「ひえー。 これ全部、ミッドー伯爵様の工場?」
「その他にグゲン侯爵の製粉工場、ダンホフ公爵の銀行の建設も始まっております。 食料、衣料、家具や日用品など、様々な店も開店予定なので、この周辺は大変便利になる事でしょう。 道も快適になった事ですし、お買い物にお出掛けになられては?」
「出掛けるって。 あたしんちから村境まで辿り着くのに半日かかるんだよ。 泊まりがけで買い物に行ってる暇なんてあるもんか」
「馬車なら村境まで三十分、いずれ出来る繁華街まで一時間半程度です。 お買い物やお食事を充分お楽しみになられても、その日の内にお帰りになれるかと」
「荷馬車は仕事で使うし、その他に馬車なんて持ってない」
「グゲン侯爵から贈られた馬車はどうなさいました?」
「よそんちの馬車に勝手に乗ったらまずいだろ」
「その馬車はタケオ家の皆様にお使い戴く為のもの。 御者がそう申しませんでしたか?」
「いくらそう言われたって、平民のあたしが貴族の馬車に乗ったと世間に知られたら、ただじゃ済まないよ」
「当家はもちろん、どの貴族の馬車にお乗りになろうと、瑞兆の血縁御家族を咎める者などおりません。 また、平民入るべからずを掲げている店であろうとお出入り自由です。 それは家紋なしの馬車に乗っていても同じですが、家紋が付いておりますと御身分を一々説明する手間が省けます。 家紋付き馬車から下りて来た人の入店を断る店などございませんから。
もっとも新しい街で平民の入店を断る店があるとは思えませんが。 第一駐屯地の商店街、そして皇都でもこのサインを見掛ける事はなくなりました。 旦那様は平民お断りの店でお買い物なさった事はございません。 それが知れ渡ったからでしょう」
嘘をつくような人には見えない。 でも、この人がそう思っているだけ、だったら? しょっ引かれてから、平民が貴族の馬車に乗るのはやはりまずかったようです、と言われても困るんだけど。 ま、そもそも馬車に乗らなきゃ誰からも文句を言われずに済む話だ。
「ふうん。 でも工事が終われば土方はいなくなるだろ。 開店はしたものの客が来なくて閉店、となったりしないかね?」
「ミッドー伯爵が雇った蔵人だけで二百人。 工場の職人を含めれば千人を越えると聞いております」
「千人?!」
「加えて製粉工場、銀行、どちらも酒造関係の数倍の規模なのだとか。 第一駐屯地は既に北の皇都と呼ばれる程の活況を見せておりますが、神域を守る軍事基地なだけに勝手な開発は出来ません。 その点、この地域一帯は無人の荒野。 どこも手付かずでしたから職人用の住宅がいくらでも建てられます。 工場や小売店だけでなく、公園、遊園地、学校、病院も建てられるとの事。 賑わいはいずれ第一駐屯地を上回るでしょう」
魂消て言葉も出ない。 前はリツの酒を買いに他の村から来る人が結構いた。 でも専売契約をしてから誰にも売ってない。 見知らぬ人が村に来る事はなくなって、ずいぶん静かになったと思っていたら。 村からそんなに遠くない所でこんな事がおっぱじまっていたと聞いて、嬉しいより不安になった。
「でもさ、そんな都会になったら、もっと税を払え、て事にならないかい? 昔は食うや食わず。 それでも毎年取り立て役人が来て、隠している金目の物がないか家中をひっくり返されたよ」
「今でも税を取り立てられているのですか?」
「改めて考えてみりゃ最近は取り立て人、来てないね」
「最後に取り立てがあったのはいつでしょう?」
「えーと。 リネの結婚が決まった年、だね。 翌春に、もらった結納金で酒蔵をどんどん建てたんだ。 なのになぜか誰も税の取り立てに来なくて。 変だな、て、みんなで首を傾げた事を覚えている。 金は全部酒造りに使って残らなかったんだけどさ」
なにせ蔵の数だけ見りゃ、えらい羽振りだ。 金をたんまり手にしたと思われて、大工に蔵を頼んだ翌日、税の取り立て人が現れたって不思議じゃない。 しかもミッドー伯爵様からの入金で、酒蔵は毎年増えている。 取り立て役人だって金がないのに毎年蔵が建てられるとは思わないだろ。 いつも向こうからいきなり来て問答無用、欲しいだけふんだくっていく。 そんな感じだったから、遅かれ早かれがっつり絞られると覚悟していた。
「向こうから来ないのに、こっちから払いに行く気になれなくてさ。 そもそもどこへ払いに行けばいいんだか知らないし。 ただ気味が悪いって言や、気味が悪いよ。 いつかこれまでの未払い分まとめて払えと言って寄越すんじゃないか、てね。 ま、そんときゃそん時だ」
「御心配なさらずとも税の取り立てはございません。 そのような事があれば是非御一報下さい。 こちらで対処致します」
「これからも払わなくていい、て事? そんな、うちの税を北方伯様に払ってもらう訳には」
「いえ、アキ様が皇王族の血縁となられた時点で、ミルラック村は皇王陛下の直轄領となりました。 御家族のどなたか爵位をお持ちであれば人頭税を納める必要がありますが、どなたもお持ちではありません。 税を払えと言う者が現れたとすれば、それは詐欺です」
「あれ? だけど子供がまだ産まれてない年にも税の取り立てはなかったよ」
「御結婚翌年の税は旦那様のお父上、ヴィジャヤン準公爵が払ったと聞いております。 奥様の御実家に金銭的な負担がかからないように」
「ええっ。 あたしってば。 自分ちの税なのに全然知らなくて。 今更お礼しても遅いかい?」
「お礼やお返しをなさる必要はございません。 元々結納への課税は当家が払うつもりでおりましたところ、準公爵が、サダ基金を使わせてほしい、とおっしゃいまして」
「サダききん? 誰か飢え死にした?」
「いえ、人が飢える飢饉ではなく、纏まったお金の事を基金と申します。 なんでも旦那様は成人前から善行を積み、謝礼を戴く事が何度もあったのだとか。 同時に、とんでもない迷惑をお掛けする事もあったらしく。 戴いた謝礼から迷惑をお掛けした方々へ慰謝料を払っていらしたとの事。 準公爵は、サダの尻拭い基金、と笑っていらっしゃいました」
「はあ。 そうだったのかい。 やっぱりねえ」
「やっぱり、とおっしゃいますと?」
「あ。 いや、その、英雄になるくらいの人の親の苦労て、半端じゃないんだろな、と思っていたから。
それにしても、ほんとに払わなくていいの? 百万をもらうなんて初めてで、税の事まで頭が回らなかったけど。 三十万は下らなかったんじゃないのかい? 今ならそれくらい、貯金だってあるし」
「おそらく、アキ様にそのようなお気遣いをさせてしまう事を恐れ、何も伝えなかったのではないでしょうか」
「そう、かねえ? 何も知らない田舎者なもんで、申し訳なかったね。 じゃあ、せめて北方伯様にはお礼を言っとかないと」
「お礼をおっしゃられても旦那様では何の事かお分かりにならないと存じます」
「え?」
「税や後始末などに関しては大変無頓着な御方でいらっしゃいますので」
「でもさ、いつだったっけ。 リネが手紙で、納税締切日が近いから旦那様がとてもピリピリしている、て書いて寄越した事があったよ」
「ピリピリしているのは執事のウィルマーです。 ウィルマー執事がピリピリしている以上、旦那様がピリピリしない訳にはまいりません」
それって普通は逆なんじゃ、と言おうとして、やめておいた。 普通だの普通じゃないのと平民くんだりが言っていい立場の人じゃないんだし。 年賀状を手書きで出す貴族なんて元々普通じゃないんだろ。 それより。
「その、直轄領? なんだけど。 これからあたしの村にはどんどん人が移り住む、て事かい?」
「それは陛下の御一存なので、私が予想してもよい事ではないのですが。 おそらく住民が急激に増える事はないでしょう。 直轄領に移り住むには陛下のお許しが必要です。 移住を願い出ても許可される事は滅多にございません。
最近移住した者がいるとすれば、それは陛下の御命令によるものか、又は住民が領外の者と結婚したか、奉公人として雇いたいと希望したのです。 因みに元からの住民でない者が離婚したり、解雇された場合、領外へ退去せねばなりません。
尚、領民が領外へ引っ越す事や旅行などは今まで通り自由です。 但し、領内で生まれ育った民であっても、一度領外へ移り住めば戻るには陛下のお許しが必要となるのでお気を付け下さい」
「それってつまり、リネが実家に。 例えば三人目が出来て、里帰り出産したいとか。 そういう時でもお許しをもらわなきゃいけない、て事かい?」
「はい。 一般家庭の女性でしたら長々審査される事はないと思いますが。 奥様の場合、御身分が御身分ですので、前例がない、と待ったがかかればそれまでです。
旦那様が陛下にお強請りなされば或いは。 しかし奥様だけ里帰りなさるのか。 サリ様も御一緒か。 御家族全員、半々、いずれの場合でも警備上、大問題になるかと存じます」
「そ、そんな。 護衛の兵隊さんを泊める部屋ならあるよ。 増築したから」
「奥様お一人だけで里帰りなさるのでしたら護衛は二十人程度かもしれませんが、サリ様も御一緒の場合、護衛は最低でも百人を越えるでしょう」
「ひ、百人?! 住み込みの護衛は二人、てリネから聞いているんだけど」
「住み込みの護衛が二人で済んでいるのは、旦那様のお住居周辺が北軍兵士によって四六時中厳重に警備されているからです。 現在ミルラック村には宿屋、貸し間の類が一軒もありません。 百人の兵を駐在させるには、まず宿舎を建設する事になるかと。
また、村境と言っても壁や柵に囲まれている訳ではないので侵入者をどう防ぐか。 防御壁や検問所を建設する事になれば宿舎どころではない歳月がかかると予想されます」
防御壁? そりゃ言葉を聞いた事ならあるけど。 生まれてこのかたそんなもの見た事なんか一度もない。
こんなど田舎に? と言おうとして、ここが田舎とは言えない場所になろうとしている事に気付いた。 ただ話が大き過ぎて。 里帰りするだけなのに、なんでそこまで?
言うだけ言ってみた、てだけの法螺? それともリネの為と言うより、リネの娘が雲の上に嫁ぐからリネも偉くなっちまった? でもそれって変じゃないかい?
今あたしが通っている道は延々と続いている。 こんな道を作るには相当な人手と半端じゃない金がかかったはずだろ。 もちろん、時間も。 工場を建てる前に道を作ったのならリネが瑞兆を産む前に作り始めたんじゃなきゃ間に合わない。
そのうえ工場を建てるの、店を開店させるの。 一体どんだけ金がかかった事か。 そりゃリツの酒はうまいよ。 結婚式でも相当受けてた。 だからって酒の為に道を作り始める人がいるかい? 酒のおかげじゃないなら他にどんな理由で?
リイがグゲン侯爵のお嬢さんを嫁にしたから? 入隊以来一度も家に帰った事がない息子だって事は、みんな知ってるのに? リイの為じゃない事だけは確かだろ。
「あの、さ。 この道、誰の命令で作り始めたのか知っているかい?」
「誰かが命令したとは聞いておりません。 ダンホフ公爵、グゲン侯爵はもちろん、ミッドー伯爵も大変有力な貴族です。 彼らに命じる事が出来るとすれば陛下しかありえませんが、勅命工事であれば数々の便宜が得られるもの。 それを秘密にするはずはないので」
「誰の命令でもないのに道がどんどん出来るもんかね? もしかして、北方伯様が何か手を回した?」
「確かに短期間で驚くべき変化ですが、道を作ってくれとか、それに類するお言葉を旦那様がおっしゃった事はございません。 ただ、何もおっしゃらないから周囲が何もしない、という訳でもなく。
旦那様は未だに奥様の御実家に御挨拶に行けないでいる事を申し訳なく思っていらっしゃいます。 ふとした折に、御親戚や御友人へ漏らされた事がおありです。 耳にした者の数は多くはないのですが、旦那様のお言葉は野火のように広がる傾向がございまして。
ミルラック村には岸辺にアルファルファが群生している湖がございます。 建物を建てようと思えばいくらでも建てられる立地ですが、あの周辺に家や工場が建つ事はおそらくないでしょう。 飛竜はアルファルファを好みますし、良い水場でもあり、飛竜の離着陸に適した自然の駐竜場になっておりますので。 駐竜場を作って欲しいとか、奥様の御実家に飛竜で行きたい、と旦那様がおっしゃった事は一度もないのですが」
北方伯様の顔を思い浮かべる。 普通じゃない、て事は分かる。 でも人や金を自由に動かせるような人には全然見えない。 やたら低姿勢でさ。 初対面の時なんか、モジモジしながら何を言うかと思えば。
「あの、あの、俺も、おとうさん、おかあさん、て呼んでもいいですか?」
こうさ。 変わってるよね? 貴族なのに平民のあたし達に、いいですか、と聞くだなんて。
しかもおとうさん、おかあさん、て。 なんだそりゃ、て感じ。 貴族が平民を呼ぶなら相手が義母だろうと何だろうと、名前の呼び捨てじゃないの?
あの人の為に道を作る、て。 なんで? 変わった人だから? そんなバカな。 道や街を作るとか、ただの変人の為にやらないだろ。 かと言って、ただの変人じゃないんです、と言われても。
そう言えば。 結婚式の時リイに注意されたっけ。
「いいか、母さん。 サダののほほんとした外面に騙されるなよ。 特に目力にはくれぐれも気を付けてくれ」
「目力?」
「あいつの目にはな、人にうんと言わせる力があるんだ」
「無理強いするような人には見えないけど」
「本人に無理強いしているつもりはない。 だから余計始末におえねえ」
「ふうん? ま、あたしは大丈夫。 うんと言いたくなきゃ言わない性格だし」
「なのになぜか、うんと言っちまう。 いつの間にか。 そこがあいつの目力の恐ろしい所さ。 この俺が、うんと言わされているんだぜ。 信じられないだろ」
「へえ。 じゃ、うんと言いたくないときゃどうすりゃいいんだい?」
「目を見ない事」
ひょっとしてリネもその目力で、うんと言わされた?
そうかもしれないし、そうじゃないかも。 どっちにしろ、人も道もこんなに簡単に動かしちまうだなんて。 皇王陛下よりすごいんじゃ? 北方伯様から逃げるのはお天と様から逃げるようなもん?
リネに会ったってどうせ無駄足と考えただけで、どっと疲れちまった。 昨日の勢いはどこへやら。 もう家へ帰りたい。 とは言っても今朝出発したばかりだ。 子供じゃあるまいし、お昼前に家へ帰りたいなんて恥ずかしくて言えないよ。
道がいいからか、三日目の夕方には第一駐屯地にある北方伯様の家に着いた。 馬車から下りた途端、家から人が飛び出した。 なんと。 北方伯様、御本人が。
「おかあさん! いらっしゃい!」
そう言いながらいきなりあたしを抱きしめる。 平民は帰った家族を迎える時に抱きしめるけど、貴族に抱きしめる習慣はないと聞いていたのに。
ドキマギしているあたしに北方伯様は鼻がくっつきそうになるくらい顔を近づけた。
「今回はゆっくり滞在してくれますよね? 少なくとも一ヶ月は。 二ヶ月でも三ヶ月でもいいけど。 一週間やそこらで帰るなんて言わないで。 ね? ね?」
キラッキラの期待に満ちた目。 これか。
自慢じゃないけど、あたしは相手が貴族だろうと遠慮なんかしないし、口下手、て訳でもない。 今日リネの顔を見たら明日リイの家に寄って、その日の内に帰るつもりだった。
「な、長居は、お邪魔じゃ」
「ぜーんぜんっ! こんな機会、そうそうないし。 俺の領地を是非見て戴きたいですっ。 夏じゃないと飛竜でひとっ飛び、て訳にはいかないから。 でも夏はお忙しいんでしょ? いらして下さいとお願いしたら御迷惑だろうと思って遠慮してました」
飛竜になんか乗りたくない。 て言葉が出て来ない。
「……うん。 ま、その」
「おーしっ。 じゃ、明日はまずこの辺りの観光、て事で!」
うんと言っちまったものの、やっぱり帰ろうと思わなかった訳じゃない。 リネが幸せに暮らしている、て事は会ってすぐ分かった。 聞かなくても分かる事は聞かなくていい。 傷は思ったより小さかったけど、痛くなかったはずはないし、逆子の手術なんて誰だって怖い。 やりたくないさ、リネだって。
でも嫌と言ったらあの目力で迫られるだろ。 妻を折檻するような人じゃないらしいけど。 リネは北方伯様に惚れてる。 嫌と言えなくたって不思議じゃない。 北方伯様に惚れてる訳でもないあたしだって、うんと言うつもりなんかこれっぽっちもないのに言っちまったし。
領地に連れて行かれた時だって。 うんと言えばどういう目にあうか、知っていたとしても嫌とは言えなかったよ、きっと。
そりゃあんなに顔を近づけられちゃ目を見ない訳にはいかないけど、目を瞑っていたって北方伯様に嫌って言える人はそういないんじゃないのかね。 なにせあの頑固なリイにうんと言わせているんだ。 そんじょそこらの目力とは訳が違う。
たださ、うんと言った事を後悔していないか、て言うと。 それはそれって言うか。
実は大峡谷へ向かっている時、変な鳥の群れに襲われてさ。 北方伯様とリイが追い払ったけど、その最中、北方伯様がいきなり飛竜の手綱を投げて寄越したんだ。
「おかあさん、ちょっとこの手綱を握っていて」
普通、そんな事を生まれて初めて飛竜に乗った人にさせるかい? いくら普通じゃない人と知っていたってさ、たまげたのなんの。
飛竜はその鳥を払い除けようと身をくねらせたり、ひっくり返ったり、大騒ぎ。 振り落とされて死ぬかと思った。 必死でしがみついて何とか凌いだけど、地面に着いた時にはヘロヘロ。 立っているのがやっとの有様。 いくらとろいあたしだって身に染みたよ。 北方伯様にうんと言ったらどんな目にあうか。 次はないね。
飛竜の上で奮闘していた二人は平気のへいざ。 汗一つかいちゃいない。 でも下りてから仲良く? 兄弟喧嘩っぽい言い合いをしていたけど。
「ちぇっ。 六十二本も無駄にしちゃった」
「一本も外してないし、一本で二羽、時には三羽射落としていただろ。 何が無駄なんだ?」
「あの辺りは矢を拾いに行けないんです。 人を引き込む流砂みたいな穴がそっちこっちにあって」
「お前、まだ落ちた矢を拾ったりしているのか?」
「そりゃ拾いますよ。 鳥を射落としたくらいでだめになったりしないし、ただじゃないんだから」
「つくづく貧乏臭い奴」
「貧乏臭くて悪うござんした。 バゲリスタやジャオウエの皮でさえ拾わなかった師範ですもんね。 矢なんて安物、ちゃんちゃらおかしくて拾えないでしょうよ」
「ふん。 俺は金持ち臭い、てか。 そりゃあ嫌なもんを嗅がせて悪かった。 俺もお前を見習って少し貧乏臭くならないとなあ。 なら今回の護衛代を払ってもらおうか。 軍からは一ルークも出ないんだし」
「ご、護衛代? そんな。 今まで払えと言った事は」
「ただじゃ有り難み、てのに欠けるもんな。 道理で全然感謝されない訳だ」
「毎回ちゃんとお礼を言ってるじゃないですか!」
「口先男、て言葉、知っているか?」
「う。 じゃ、じゃあ、いくら払えば」
「金でもらえば角が立つ。 そうそう。 お前の手書きの色紙。 あれでいいぜ。 一枚十万ルーク出してもいいから買いたい、て奴がいるんだとさ」
「「十万?!」」
どうやら北方伯様も知らなかったらしく、あたしと一緒に目を丸くしていた。
「ま、色紙でいいなら。 次のお習字の時間に書いておきます」
お習字をしているのに、あんな字? とは思っても言わなかった。 もしかしたらあたしんちに来た手書きの年賀状、十万は無理でも五万くらいの価値があったりして。 だとしても売る気はないけどね。 昔のやつがなかったら上達しているのかいないのか比べられないし。
「ところで、師範。 色紙の宛名は師範と北の猛虎、どちらがいいですか?」
「タケオ大隊長にしとけ」
「お兄様へ、なんちゃって。 いでえっ!
冗談ですよっ! んもー、一々本気にしないで下さい」
実の弟とさえこんなじゃれあいをした事は一度もなかったのに。 リイもずいぶん丸くなったもんだ。 これも北方伯様の目力のおかげなのかな。
え? 結局、北方伯様にうんと言いたくない時はどうすりゃいいんだ、て?
ああ、それ。 こっちから会いに行かなきゃいいのさ。
追記
飛竜を操縦した最初の女性はモン・ウェイザと記録されているが、巷間では準大公の義母であり、北の猛虎の実母、アキ・タケオと信じられている。 飛竜で大峡谷を訪れた際、鳥の大群に襲われ、弓と剣が追い払っている間、アキが飛竜の手綱を握っていた、と。
但し、飛竜の所有者であるダンホフ公爵家の飛行記録にこの操縦の記載はなく、大峡谷への飛行を最後として、客としてもアキが乗竜した記録は見当たらない。 しかしウェイザを始め多くの女性操縦士がこの噂に触発され、飛竜操縦士を目指すようになったと語っている。
尚、皇王庁宝物館には幼少のサリ皇王妃が描いた「空飛ぶばあば」と呼ばれる絵がある。 飛竜の手綱を握っているのは明らかに女性で、父方祖母は生涯一度も飛竜に乗った事がない為、母方祖母が飛竜を操縦したという噂になったとする説もあるが、真偽不詳。
(「航空史を彩った女性飛竜操縦士」より抜粋)
「遠雷」の章、終わります。