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弓と剣  作者: 淳A
遠雷
462/490

手術  御典医、ミューエンチの話

 常ならぬ御方と聞いてはいた。

 一見、平凡。 ある意味、それが準大公の非凡を更に際立たせている、と。 平凡に見える非凡とは、一体どういうお人柄なのか。

 凛々しい容貌。 飛竜を乗りこなし、驚異の射手にして泳ぎ手。 加えてどれほど秋波を流されようと奥様一筋。 群がる美人に恥ずかしがって頬を染め、それが又、更なる人気を煽っていらっしゃる。

 これで平凡と言われても、どこが? としか言えない。 ただ非凡は非凡でも、準大公専属書記が少し悲しげに呟いたり、大審院事情聴取官が肩を竦め眉を顰めて囁く非凡は、準大公を知らない私が口にする非凡とは又少し意味が違うような?

 一介の御典医に過ぎない私に青竜の騎士へお近づきになる機会などある訳もなく、想像出来なかったが、産屋の屋根越しにお声を聞いて腑に落ちた。 これか。


 勿論、夫が妻に土産を買った事、それが栗入りの菓子である事を指して非凡と言いたいのではない。 貴族が妻へ贈る土産なら宝飾品か衣料品だ。 菓子は普通の範疇から大分外れていると思わないでもないが、非凡とまでは言えないだろう。 夫が少し離れた所にいる妻に声をかけるのも日常茶飯事と言えるが、その妻が産屋の中にいるとなると、それだけで常軌を逸している。

 確かに産屋の中の者に寄るな触るなという禁忌はあっても声を掛けるなという禁忌はない。 だがそれは裸で神域に入ってはならないという禁忌がないのと同じで、わざわざ言うまでもない事だからだ。

 私なら、いや、私でなくとも普通の人なら扉や窓が閉め切られている家の中にいる人に向かって声を張り上げたりはしない。 仮にここが産屋ではなかったとしても。 しかも木に登ってまで。 ここが神域である事をお忘れになった訳でもあるまいに。


 儀礼に疎い御方とは聞いているが、ものには限度がある。 祭祀長を見下ろしてはならないとは儀礼の初歩の初歩。 祭祀長にお目通りする機会など生涯ないはずの平民の私でさえ小学校に上がる前に知っていた。 伯爵家の正嫡子が御存知ないはずはない。 仮に御存知なかったのだとしても、そのような言い訳が世間に通用するか?

 加えて、この産屋。 正面玄関、両開き扉の左右どちらにも祭祀長紋が刻印されている。 つまり元は代々の、でなければ先代の祭祀長がお住まいだった家なのだ。 それは神域内で最も屋根が高い家である事を意味している。

 現祭祀長のお住居はここより遥かに小さい。 スティバル祭祀長が只今どちらにいらっしゃるのか私は知らないが、ここの屋根より高い位置にお座りのはずはない。 それはお目通りを終えたばかりの準大公こそ御存知だろう。 なのにここの屋根より高い枝に登ったら、二軒隣にあるスティバル祭祀長のお住居も丸見え。 たとえ祭祀長のお姿を見下ろしてはいなくとも見下ろすつもりで登ったと解釈されても仕方がない。 そのような不敬、他の者がしでかしたら即座に死罪だ。


 青竜の騎士の称号を賜ったのはごく最近だが、元々誉れ高き英雄。 他の者と一括りに出来る御方ではない。 それにぎょっとするような不敬なら過去にもあったらしい。 中には準大公ファンでさえ眉を顰めるようなものが。 にも拘らず陛下の御寵愛を一身に集めていらっしゃる。 減るどころか増える一方。 それは御本人も御承知だろう。

 では、どうせ許されると知っての狼藉? それにしては儀礼を間違えたとお気付きになった途端、焦るあまりどもられて更に挙動不審になられたとか、涙目になっていらした等。 しきたりの無視や儀礼上の失敗は数え切れない程あるのに、誤摩化し方のまずさが憐憫を買うからか、傲慢不遜と陰口をたたく者はいない。 そのような御方が不敬を承知でわざと木に登ったとは思えないのだが。

 まさか酩酊なさっての醜態? しかし普段お酒を召し上がらない御方のはず。 酒に全くと言っていいほど耐性がない事は噂に疎い私でさえ知っている。 準大公贔屓として知られるスティバル祭祀長が白昼強い酒を無理強いなさったとも思えない。 そもそも一番下の枝でも地上四メートルはありそうな大木に酔っ払いが登れるか?

 すると突然の気狂い? 今の今まで準大公が正気を失ったという噂を聞いた事はないが。 常軌を逸したお振る舞いも後で伺ってみるとそれなりの理由がおありなのだとか。

 ただ偉業を成し遂げた英雄であろうと人は人。 自覚症状がない疾病、又は人に言えない精神疾患に悩んでいないとは限らない。 とは言え、毎日多くの人々に見つめられている有名人に狂気の片鱗でも現れたらその翌日には皇国中に知れ渡るのでは?


 狂人どころか準大公は人の鬱を払うと噂されている。 準大公にお会いしただけで活力が湧き、特に握手をされたら長患いさえ一瞬に消えた、と。 実は私自身、準大公の視線を浴びただけで不思議と体が温まり、気力が漲ったような気がした。

 医学的な証拠はない。 あったとしても偶然の産物かもしれないが、即位以来鬱々となさっていた陛下が新年に準大公にお目通りになって以来、見違える程お元気になられた。 ジュジュ(ボルチョック筆頭御典医)とテイソーザ皇王庁長官も。

 私が城内で働くようになってから十八年経つ。 その間、陛下近辺で明るい笑い声を聞いた事など一度もなかった。 それが今や少しも珍しい事ではない。 全て準大公のおかげとは言わないにしても古卵の孵化を奏上なさりにいらした時の熱狂は明らかに準大公のおかげだ。

 あの時も私は間近にお姿を拝見した訳ではないが、準大公から放たれる温かい光に包まれたような気がした。 なぜ源が準大公だと思ったかと言うと、準大公が動くとその光も動いたのだ。 陛下や祭祀長が動いても動かないのに。

 準大公が正気を失ったと誰かが噂したとしても、仮にその診断を下したのがジュジュだったとしても信じられるものではない。 かと言って、正気で神域内の木に登り、産屋に籠った妻に声掛けしたのであれば尚更まずい。 いくら滅多な事では罰せられない御方であろうと。

 このような懸念、出産間近の準大公夫人の前で口には出来ないが、準大公夫人の侍女二人は貴族の出自のはず。 平民の主治医と薬師が心配しなくても驚かないが、彼女達にも心配した様子が見えないのが不思議だった。 これがどれ程の無作法か、気付いたであろうに。


 夫人がきゅっと拳を握りしめ、傍らのメイレに語りかける。

「がんばるって約束したんだもの。 がんばらなきゃ。 逆子だろうと、どんと来い、よ」

 逆子? 逆子だと? 私は何も聞いていない。

 取り乱した事を悟られまいと焦る私には目もくれず、メイレが微笑んで夫人に応える。

「気合いが入りましたね、奥様。 大隊長の励ましが効いたのか、お子様も出る気満々です。 今日は涼しい風が吹いていますし、如何でしょう。 今日手術を終わらせ、軽くなったお腹で栗入りお菓子を楽しまれては」

「ふふっ。 その方がいっぱい食べれそう。 では、お願いします」


 手術? 何の事だ? 皇王族への治療には万を数えるしきたりがある。 それらに縛られ、皇王族のどなたに対しても手術は行われていない。 百年以上。 これは臣籍に下られた御方を含む。

 但し、皇王族配偶者はほとんどが外国人で主治医を連れてお輿入れなさる。 外国人の主治医が開腹手術を執刀した例ならあった。 いずれも母体が絶命した後、お子様を救う為にした手術だから処罰されてはいない。

 するとお子様の命を救う為に夫人を犠牲にする? それなら尚の事、事前の許可が必要だ。 もっとも準大公夫人は臣籍に下った皇王族ではないし、皇王族の配偶者でもない。 同じしきたりを適用すべきか否か議論はあるだろうが。 準皇王族の一親等。 涼しい風が吹いたとか身軽になってお菓子を食べたいという理由で手術をしていいはずがない。


 待ったをかけようとしたその瞬間、出発の際にヴィジャヤン筆頭御典医見習から命じられた事を思い出した。

「少々しきたりを無視した治療となった場合でもメイレの指示に従うように」

 従えと命じられたのだ。 従わなかったら命令違反となり、死罪もあり得る。

 しかし。 だがしかし。 手術となると、どれほど簡単な手術であろうと「少々の無視」では収まらない。 と思うのだが。


 手術室へ向かう途中、恐る恐るメイレに聞いた。

「手術、とは。 何の手術でしょう?」

「逆子を取り上げる為の開腹手術です」

 夫人がまだ生きていらっしゃるのに?! と叫びそうになったが、危うい所で口を塞いだ。

 まさか。 私にその手術をしろと?

「私は、開腹手術をした事など一度もありません」

 その返事に全く動じる様子を見せず、メイレが答える。

「手術をするのは私です。 見たくないのでしたら手術室の前でお待ち下さい。 麻酔が効くまで一時間程待ちますし。 手術自体は三十分かそこらで終わります。 終わり次第お知らせしますので確認して下さい」

「出産を最初から最後まで実際に見たのでなければ出産証明書は書けません」

「見るのはかまいませんが、室内を酢で拭いたので、まだ臭いが残っているかも。 それと、用意してある上掛けを着て下さい。 水を弾くように蝋を塗ってあるのでごわごわしていますけど。

 あ、酒に浸した布を用意してあるので、手術室に入る前に必ずそれで両手を拭き、拭いた後でも手術用ナイフと縫い針には触らないようにお願いします。 又煮沸しなきゃいけないとなると手間なので。 一応予備もあるんですが。 使い慣れたやつでやりたいし」

「それは、その手術は、どなたが許可なさったのでしょう?」

「ヴィジャヤン大隊長です」

「するとヴィジャヤン筆頭御典医見習は御存知?」

「さあ?」

「では、ボルチョック筆頭御典医には?」


 メイレは私の質問が聞こえなかったかのように答えない。 瞳に岩より固い決意が浮かんでいる。 準大公の不利になるような事は死んでも言うものか、という。 この様子では、知らせるなと命じられたのか、知らせよと命じられたのに知らせないのか、聞いても無駄だろう。

 だが推測なら出来る。 私が到着してから丸一日、この手術について伝える時間ならいくらでもあったのに間際まで黙っていた。 そして準大公夫人とお付きの三人、誰も手術と聞いて驚いていない。 という事は、これは準大公が命じた手術であり、準大公から口止めされているのだ。


 私に止められる事を恐れて? 止めはしない。 夫人の死亡を確認した後、お子様を取り出す為なら。

 しかし縫い針。 入念な消毒。 簡単至極な手術であるかのような口ぶり。 しかも手術後に菓子をと勧めているところを見ると、どうせ助からない命と諦めての手術には見えない。

 止めろと言うべきか? 身分上、御典医は軍医の誰よりも数段上。 止めろと言う権限ならある。 準大公はしきたりを御存知ないからお許しになったのだろうし。 たとえ筆頭御典医見習からメイレの指示に従えと命じられていようと、これは止めるべき。 ではあるのだが。


 御典医として召される前、私は管財庁で働く測量技師だった。 出産だけでなく、私が直接怪我や疾患を手当した事はない。 実際の手当は他の御典医がしている。 召されてから医学を学び、御典医見習から御典医に昇進した今でも学んでいるが、教科書から知識を学んでいるだけの私では何の助けにもならない。

 実を言うと、なぜ私が御典医に選ばれたのか未だに理由を知らないのだ。 実家は単なる平民で、父は縫製工場で働く機械工。 母はその工場のお針子。 父は読み書きが出来たが母は文盲。 食うに困ってはいなかったが、間違っても富裕とは言えない。

 偶々父方伯母がボルチョック男爵の愛人で、私の学費を出してくれた。 それで測量術を学び、ボルチョック男爵の推薦で測量技師として管財庁に雇われたが、学者ではないし、医学に興味があった訳でもない。


 不思議に思ったが、医者でも名家でも裕福でもない平民出身の御典医見習は私以外にもいた。 さすがに無学文盲はいなかったが、明らかに医者としての知識や金や身分や縁故が理由で選ばれたのではない。 そしてなぜ選ばれたのか、その理由を知っている者は誰もいなかった。 それで当時筆頭御典医見習であったジュジュに聞いたのだが、知らないという返事だった。

「採用理由を知っているのは筆頭御典医だけだ。 私は見習。 自分が選ばれた理由さえ知らされていない。 知りたければ私が筆頭御典医になるまで待て」


 急いで知らねばならない理由がある訳でもないから気長に待ち、ジュジュが筆頭御典医になった時再び質問した。

「条件がある。 筆頭御典医見習になってくれるか? くれるなら教えよう」

「それでしたら教えて下さらなくても結構です」

 筆頭御典医見習になれば筆頭御典医になる事が決まっている。 医者として素人同然の私が皇王陛下の侍医? まっぴらだ。 それでなくても陛下のお側に行っただけで自分の生気が吸い取られるような感じがして、悪寒と冷や汗が止まらなくなるのに。

 それに答えを聞いた所で、それが真実か否か私に確かめる術はない。 全くの嘘ではないとしても事実の一部で全部ではないだろう。 筆頭御典医見習になれば教えてもらえるなら、ジュジュは私が採用された時、既に答えを知っていた事になる。 自分が選ばれた理由さえ知らされていないと言ったくせに。


 改めて思い返してみると、ジュジュは若い頃、剣士として嘱望されていた。 ジュジュは正嫡子で私は愛人の甥だから血縁関係はない。 親戚とは言え、別に仲が良い訳でも人柄をよく知っている訳でもないが、剣の傍ら医学の勉強をしていたとは誰からも聞いた事がなかった。 ジュジュも筆頭御典医か誰かの気まぐれで採用されたのかもしれない。 私がそうであったように。

 いずれにしろ私を御典医見習に推薦したのは十中八九、ジュジュだ。 親兄弟や管財庁の誰かがそのような突拍子もない推薦をするはずがないし、した所で受け付けられないだろう。 ならば自分の採用理由は知らなくとも私の採用理由は最初から知っていたのだ。

 それが何であるかは秘中の秘。 筆頭御典医か、いずれその職に就く者以外には知られたくないという訳だ。 まあ、御典医という職業自体、秘密まみれ。 採用理由など知らねば生きていけない訳でもない。


 この出張にしても異例だらけ。 当事者であるはずの私にさえ知らされていない事ばかり。 準皇王族の実母の出産という前例がないだけに、どこまで異例を許容すべきか、誰にも決められなかったからだろう。

 しきたりに従うなら皇王族の配偶者、親戚、姻戚が出産する場合、後宮内に建てられた産屋と決まっている。 例外は外国へ嫁がれた場合のみ。 テイソーザ大公夫人も後宮内の産屋で出産なさった。

 後宮外でも出産出来ない訳ではないが、その場合出産証明書を書くのは御典医ではない。 御典医が書いた出産証明書がなければ皇王族との血縁関係は認められないから、本人だけでなく、その一族にとっての大打撃となる。 だから妊娠が分かった時点で後宮入りし、担当御典医と面通しするのだ。


 準大公夫人の妊娠初期、ヴィジャヤン殿は平の御典医でサリ様の主治医だった。 出産にはヴィジャヤン殿が立ち会うと予想され、面通しがなくても不審を抱く者はいなかったが、その後ヴィジャヤン殿は筆頭御典医見習に昇進した。 その時点で他の御典医と面通しすべきと分かっている。 なのにいつまで経っても誰にもお呼びがかからないため御典医全員が首を傾げていた。 いくら筆頭御典医見習になって日は浅いと言っても伯爵家正嫡子。 出産証明書に関するしきたりを知らない訳ではないだろうに。


 しかもこちらに到着してみれば産屋がなんと神域内。 後宮内でなければ場所がどこであろうと異例だが、神域内とは。 神域内でなければしきたりに従い、それを覆せるのは皇王陛下か皇王妃陛下のお言葉のみだが、神域内なら祭祀長猊下のお言葉に従わねばならない。 しきたりがあろうとなかろうと祭祀長が産屋はこちらとおっしゃったのならここが産屋だ。 すると、手術をするかしないかも?

 それをお伺いしようにも私は既に産屋の中。 連絡手段は手紙以外にない。 仮に今すぐ手紙を出せたとしてもお返事が届く前に手術が始まる。 待てと私が言った所で無視されるだろう。 力づくでは敵わないのだから。

 今回の私の出張には四人の護衛が付いて来たが、検問所で神官に阻まれ、産屋どころか神域の中にさえ入れてもらえなかった。 私一人で四人を止める事は出来ない。 数で負けるし、主治医、薬師、侍女のミンはともかく、もう一人の侍女、カナ・ジンガシュレの筋肉を見れば一対一の腕相撲だとしても私が勝てる見込みはゼロだ。


 止めようもないため息が漏れる。 最初からこうなるようにお膳立てされていたような気がしてならない。 なぜそれが可能だったのかは分からないが。

 まずこの派遣を命じた人がヴィジャヤン筆頭御典医見習だった。 見習は見習。 筆頭御典医ではないし、御典医の出張は筆頭御典医でさえ簡単に命じられる事ではないのに。

 皇太子殿下付き御典医なら殿下に同道して離宮へ行く。 皇王女殿下付き御典医なら殿下がお輿入れなさる時に同道する。 だがそれ以外の理由で平の御典医が皇王城から出るとしたら死んだ時くらいだ。

 筆頭御典医なら陛下の特命による外出があるが、それだとて頻繁にある事ではない。 先の筆頭御典医の場合、城外へ出たのは先代様譲位の後、御外遊に同行した時が初めてと聞いている。 先代様が城内にお戻りになる事はないのだから先の筆頭御典医にとってそれが最初で最後の外出だ。

 ジュジュは準大公に皇寵を授ける為一度外出した。 皇寵は城内でも下せるのだから大変異例で、次の外出があるとしたら当代様の譲位か崩御された時だろう。 筆頭御典医見習でも城外への外出が許された前例はなく、ヴィジャヤン殿が初めてだ。

 外出が出来ない事に愚痴を零す御典医はいるが、私自身は不満を感じた事はない。 皇王城は巨大だ。 城内で働いて十八年経っても一度も足を踏み入れた事がない区画がいくらでもある。 それにしても、なぜ外出したいと愚痴を零した事がある訳でもない私が選ばれたのか。 御典医に選ばれた理由さえ知らない私には推測のしようもない。


 出産が難産、又は死産となる事を予想し、捨て石として選ばれたと疑えない事もないが。 それはありそうでなさそうな筋書きだ。 皇王族が病気になれば担当御典医の責任で、快癒すれば叱責で済むが、快癒せずに死亡となれば死罪もあり得る。 その場合、連座でその御典医を推薦した者の責任も問われるのだ。

 女性皇王族の死亡原因第一位は出産。 正常分娩でさえ命を落とす事がある。 逆子とは知らなかったとしても、準大公夫人の出産に立ち会うのが出張の目的である事はジュジュも知っていた。 私がいながら準大公夫人が死んだら、連座で私を推薦したジュジュも処刑されるだろう。 なのに私の派遣に異を唱えないのはおかしい。 自分に火の粉が降り掛かる恐れのない平の御典医なら他にいくらでもいるのだから。

 筆頭御典医見習が筆頭御典医の失脚を謀った故の人選とは尚更考えられない。 御典医なら誰でも知っている。 代々の筆頭御典医は全て短命。 短ければ数年、長くても十年未満で亡くなっている。 美しい妻を娶ったばかりで、まだ二十代のヴィジャヤン筆頭御典医見習が急いで就きたくなるような地位ではないのだ。


 ともかく今は、この手術にどう対応するか、だ。 私に限らず助産経験がある皇国人の御典医は一人もいないが、御典医以外の医師の同行も許されなかった。 後宮には何人もの外国人主治医がいるし、助産経験の豊富な民間医師を特命派遣する道もある。 それは私を派遣するより余程簡単なはずなのに。

 もしや下手に助産経験のある医師を派遣するとメイレの邪魔をするかもしれないから? それほどメイレの腕を信頼しているという事か?

 彼の腕前なら私も聞いている。 と言うか、彼が執刀した患者の予後を見た事があるのだ。 新年に登城する北軍護衛兵の中にはメイレに治療された剣士が何人もいて、指をつないでもらった剣士に手を見せてもらった。 指が正常に動いているだけはない。 傷痕がとてもきれいだった。

 他にも助かるはずのない状況で命を助けられた北軍兵士が多数いるのだとか。 医者だった父の下で子供の頃から研鑽を積んでおり、助産経験も豊富らしい。 容貌は二十歳そこそこにしか見えないが、彼のおかげで助かった患者を見れば国内有数の外科医である事が分かる。 私より、投薬専門の御典医の誰よりも頼りになる事は確かだ。 さればと言って準大公夫人の命運を一介の軍医に丸投げする事が許されるのか?


 成功しても失敗しても数々の困難が予想され、ああなったら、いや、こうなったらと考えている間に手術室へ着いた。 外で待っているのも手持ち無沙汰だし、好奇心もある。 メイレと共に手術室へ入った。

 元は湯殿だったのではないか。 手術室は美しいタイル張りで、庭が眺められるような位置に広い湯船が置いてあり、水が張られていた。 湯船の側にはキャスターが付いた寝台、その隣に赤子用の寝台籠が用意されている。

 眠り薬を錠剤にしたようで、それを飲んだ夫人がうとうとし始めると、夫人を寝台に横たえ、四人は手際よく準備を進めた。

「奥様、指が動かせますか?」

 薬師のリスメイヤーが何度か同じ質問をした。 夫人の指が動かなくなると、メイレは腹部を露わにし、腹壁を切開した。 何度も切った事があるかのように迷いがない。

 次に子宮。 そして胎盤を取り出し、お子様を侍女に手渡す。 すぐさま子宮を縫い始め、縫い終わると止血を確認し、その後腹壁を縫う。 縫い終わると侍女に命じた。

「包帯を巻いて」

 侍女が傷付近を丁寧に拭い、重しのようなものを置き、包帯を巻いて留める。 メイレが手を洗いながら私に告げた。

「終わりました」

 腹壁切開開始から二十分。 いや、縫合終了まで十五分もかかっていないだろう。 鮮やかと言うか、見事と言うか。 ここまでの腕前とは知らず、密かに舌を巻いた。


 侍女のカナが寝台を押し、赤子を抱いたミンがそれに続く。

 うぎゃあ、ぎゃああっ

 甲高い赤子の鳴き声が響き渡る。

 男子。 間違いなく準大公夫人がお産みになられたヴィジャヤン準大公家第二正嫡子。 準皇王族二親等。 ここが後宮であれば五歳のお誕生日をお迎えになるまで城外への外出は禁じられ、様々なしきたりでがんじがらめとなるはずの御方だ。


 出生証明書を書かねばならない。 それは元々書くつもりでいたが、書いた出生証明書を提出すべき筆頭御典医がここにはいない。 それに関する指示は何もなかった。 誰からも。

 後宮の産屋なら、私は準大公夫人と共に産屋を出、それから出産証明書を筆頭御典医に提出する。 それは皇王庁長官へ提出され、次に皇王妃陛下へ。 最後に陛下の御名玉璽を頂戴し、正式に準皇王族の二親等として認められる。

 それまではヴィジャヤン北方伯家の長男、第二正嫡子に過ぎない。 準大公位は相続可能な爵位ではないから、実弟であろうとサリ様にお目通りする資格はないのだ。 同じ家で寝食を共にするなどもってのほか。 夫人がサリ様のお側を離れる事は考えられないから、準皇王族の二親等として認められるまで弟君は御家族と離れて暮らす事になる。

 なるべく早く筆頭御典医へ提出する事だけを考えるなら、準大公夫人が産屋から出られた日に皇都へ出発すべきだが。 私が出発した後でお子様か準大公夫人のどちらか、或いは両方の容体が急変してお亡くなりになったらどうする?

 今は母子共に御健康だが、お乳係が待機している様子はない。 母親から離された新生児の容態が急変するのはよくある事。 それによる死亡や障害を隠蔽する為、お子様が取り替えられたら? そのような不正や隠蔽は一切なかったと誰が証言する?

 後宮ならお子様の成長を見守る者が何人もいるから今日生まれたお子様が誰とも取り替えられていない事を私が見届ける必要はない。 けれどここは神域。 神官にお子様から目を離さないでくれとは頼めないし、頼んだ所で断られて終わりだろう。 産屋が神域内とは知らされていなかったから監視役を連れて来てはいないし、私に監視役を雇う権限がある訳でもない。

 出産の証人は四人いる。 お子様をお世話する準大公の奉公人もいるだろうが、彼らが事実を証言をしようと世間が額面通りに受け取るかどうか。 世間が何と言おうと両陛下さえお認め下さればそれで済む話ではあるのだが。 皇王陛下はともかく、皇王妃陛下がお認め下さるか? 下さらなかったらそれは誰の責任だ?


 一晩まんじりともせず考えたが、どうすれば最善で誰も責められずに済むのか、全く見当がつかない。 朝、砂を噛むような心持ちで朝食を取っていると、準大公夫人が廊下をお通りになった。 カナとメイレが両脇を歩いているが介助はしていない。 夫人は今にも倒れそうなお顔の色なのに。

 出過ぎた真似かとは思ったが、立ち上がって準大公夫人に声を掛けた。

「御無理なさいますな。 昨日多量の失血をなさったばかりの御身に障ります。 二、三日は休養が肝要かと」

「おはようございます、ミューエンチ御典医。 どうか御心配なく。 今朝はお土産のお菓子も沢山食べられましたし、この調子なら今日の午後には家に帰れます」

 するとメイレが難色を示した。

「うーん。 それは、どうでしょう。 少なくとも一週間、出来れば二週間はこちらで休息なさった方がいいです。 歩くだけなら大丈夫だと思いますが。

 産屋から出たらまず祭祀長へ御挨拶なさいますよね。 あの重たい儀礼服を着て、お子様を抱いて。 平伏した後、介助なしで立ち上がるのは、ちょっと。 踏ん張った時に傷口が開いちゃうかも。 元気な姿を早く大隊長にお見せしたい気持ちは分かるんですけど、見栄を張っている場合じゃないです」

 侍女がメイレにきつい視線を投げる。

「失礼な。 奥様が見栄を張られた事など今まで一度もありません」

 命を助けてもらった医師に対し、子供を叱るような口調だ。 お前こそ失礼だろうと内心呆れたが、メイレは侍女に弱みでも握られているのか、素直に謝る。

「すみません。 そんなつもりで言ったんじゃ、」

 侍女を宥めるかのように夫人がおっしゃる。

「お腹を切るなんて初めてだもの。 無理している事に自分じゃ気付けないかも。 ね?」

「奥様が成し遂げられた初めては逆子の出産だけではございません。 ですが、この手術の成功は難産対策として広く知られ、ひいては他の女性の命を救う事にもなるかと存じます。 術後の無理のせいで回復が長引いては却って旦那様の御心配の種ともなりましょう。 呉々も御無理はなさいませんように。 今暫くの御辛抱です」

 私への言葉でもないのに思わず深く頷いた。 この手術がお手本になる事に疑いを挟む余地はない。 それによって多くの女性の命が救われるであろう事にも。

 夫人は侍女の言葉を大げさと捉えられたか、微笑みながらお応えになる。

「カナ。 その優しい言葉、次の剣の稽古の時まで忘れないでね」

「それはそれ、という事で」

「カナったら」


 その時屋根の向こうから準大公の大きな声が聞こえて来た。

「リネーっ! 大丈夫かあーっ! 生まれたんだってえ?」

 止める間もなく、夫人が大声でお答えになる。

「大丈夫ですっ! 男の子ですっ!」

 慌ててメイレが止めに入った。

「奥様、大声を出したらお腹の傷に障ります」

 侍女がすかさず大声を張り上げる。

「旦那様! 奥様に声を張り上げさせてはなりません!」

「ご、ごめん。 小さい声で返事してもちゃんと聞こえているから、な?」

 そして段々御自分の声を小さくなさった。

「カナ、聞こえた? 旦那様、最後に何とおっしゃったのかしら」

「あ、聞こえなかった? 無理しないでね、て言ったの」

 今度は大きなお声だ。 なんと、屋根の向こうにいるのに夫人の囁きが聞こえた?

 だから非凡とは言うまい。 ただ何と言うか。 なさる事が一々平凡とはかけ離れていらっしゃるのだ。


 今回の手術にしても成功したのは医師が有能であればこそ。 とは言え、前例なき手術を執刀するには準大公の御決断なしには不可能だ。 皇王妃陛下の御不興を買い、爵位、財産、名誉、全て剥奪される恐れがある上に、必ず成功するという保証がある訳でもない手術。 周囲は必死に止めたはず。


 妻の命長かれと願う。 それ自体は平凡な祈り。 誰にでも、私にも出来るが。 この手術の決断。 それは準大公だけが為し得た事。 無事に生まれた逆子は一見平凡な非凡が引き寄せた奇跡と言える。

 ならばその結果、何が引き起こされるかは天の配剤。 一介の御典医が思い悩むべき事ではない。


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― 新着の感想 ―
[一言] おめでとうございます! ご長男がどんな風に成長していくのか、今から楽しみです。
[良い点] 無事出産おめでとう! カナの他の女性の命も救われるに感動。それにしてもメイレが神業すぎる!サダ信者や猛虎信者に続きメイレ信者が着実に増えてそう。 更新ありがとうございます。面白かったです。…
[良い点] 若、無事にお子さん誕生おめでとうございます! [一言] (勝手に)若由来の諺 「若の常識、世間の非常識」 意味 ・その人にとっては常識でも、他の人にとっては非常識。 だが、地域によって文…
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