産屋
無事帰宅し、リネとサリを迎えに神域へ行く為身なりを整えていると、トビが言った。
「旦那様。 昨日お腹のお子様が下りてまいりまして。 奥様は産屋へお籠りなさいました。 カナ、メイレ、リスメイヤー、タケオ夫人侍女ミンが同行しております。 明日、手術をするとの事」
「うぶや? て、どこにあるの?」
「神域内にあるスティバル祭祀長のお住まいの二軒左隣と聞いております。 そちらに、と祭祀長直々の仰せがあったのだとか」
「ふうん。 じゃ、まずスティバル祭祀長にお礼を申し上げて、次にモンドー将軍からサリを受け取ってからリネに会うとするか」
「奥様にお会いする、とおっしゃいますと?」
トビの瞳が危険な色を帯びて光る。
これ程びびるやつ、今年に入ってから見た事あったっけ? いや、去年一年間を思い返してもここまで危ないのはあったかどうか。 今まで見た事ない、とまでは言わないが。
非常にまずい、て事は分かる。 でもリネに会いに行く事の何がまずいの?
会いに行く順番を間違えた? そんなはずはないよな。 最初に祭祀長、次に上官。 不在中、妻子の面倒を見て戴いたお礼を申し上げた後に妻、でいいだろ。 前回ダンホフから戻った時はリネとサリが一緒だったから、次に妻、はなかったけど。
そう言えば、祭祀長にお目通りする前に妻と交わるのは駄目とか、そんな規則があったような。 もしかしたら祭祀長にお目通りする日に妻に会っては駄目という規則がある? そんなバカな。 お目通り前ならともかく、終わった後にも規則があるだなんて。
他に何がある? 分からない。 ゆっくり考えたら分かるかな? 無理無理無理。 トビに聞くしかない。 怖いけど。 いつまでもトビにびびっていたら駄目だ。 一応、俺が主なんだし。
実はトビが主だったりして、と頭の中で誰かが囁いたような気がしたが、心の耳を塞いだ。 今更そんな事を言われたって困る。 ごくんと唾を飲み込み、気合いを入れ直す。
「今日はまだ手術してないんだろ。 会っちゃ駄目な理由でもあるの?」
気のせいか? 俺より背の低いトビに見下ろされたような。 不気味な静けさでトビが質問する。
「まさか産屋に関する禁忌を覚えていらっしゃらない?」
嘘をついたって始まらない。 仕方なく首を縦に振る。
「そもそもうぶやって、何?」
部屋にはダーネソン、アラウジョ、ロイーガもいた。 トビは顔色を変えていないが、他のみんなの顔が青ざめる。
何かがすごいスピードでトビの頭の中を駆け巡った。 そこから何が引き出されるのか。 分からないながら俺にとって嬉しくない事が起こりそうな嫌な予感がする。 トビ以外の奉公人に、助けて、と視線を投げてみたが、みんな俺の足元付近を見つめているから助け舟は出そうもない。
逃げる? 逃げ切れるものならな。 だけどここにいるのは韋駄天のトビと北軍一の駿足と噂されるダーネソンだ。 逃げ切れる訳がない。 死にもの狂いで走ったって無駄。 俺の足じゃこの二人よりずっと遅いアラウジョにさえ勝てないんだから。
もっとも足は速かろうとこの三人は軽量だ。 投げ飛ばせない事もない。 アラウジョの剣には敵わないが、常識のある奴だから上官に向かって剣を振り回したりはしないだろう。
問題はロイーガ。 俺より体格がいいし、どこで覚えたんだかタックルがうまい。 主に勝つのは申し訳ないと思うタイプだから徒競走を挑んだ事はないが、他の連中との競走を見る限り、俺とは五分五分。
ただ今日の俺は飛竜の操縦を終えたばかりで疲れている。 今の体調じゃおそらく勝てない。 旦那様をお止めしろ、とトビが命じたら、ロイーガは主への遠慮なんか綺麗さっぱりどぶに捨て、猛スピードでタックルして来るだろう。 こんな所で愚痴りたくはないが、我が家の奉公人ときたらどいつもこいつも俺を敬っていると言うよりトビが主としている人だから敬っておくか、て感じだし。 つまり四対一。
逃げる気力さえない俺にトビの容赦のない質問が浴びせられる。
「すると産屋の建設をお命じにならなかったのは産屋の存在自体を御存知なかった故、なのでしょうか?」
「うぶやなんて聞いた事なかったもん」
力なく首を縦に振って言い訳したが、トビの目から容赦のない光は消えない。
「産屋は簡単に申せば妊婦が出産する小屋です。 出産の穢れを忌み、自宅内での出産を避ける為、庭の片隅に建てられ、出産後焼き払われます。 但し、焼き払うのは貴族の習わしで、余程裕福ならともかく、平民が焼き払う事はありませんが。 後宮でしたら正妃妾妃に拘りなく、出産の度に産屋が建てられ、産後、焼き払われるのがしきたり。
貴族であっても普通は家内で一軒の産屋を何度も使い、焼き払うのは死産であった時か、代替わりの際に建て替えられるくらいでしょう。 バーグルンド南軍将軍は夫人がお亡くなりになった際、産屋として使用した広大な別邸を焼き払ったと聞いておりますが。
準大公家としては建てる手間を省いて戴いた事でもありますし、出産後、同等の家を新築して寄贈すべきではないかと存じます」
「えっ。 祭祀長宅の二軒左隣、て。 確か、平屋で古っぽいけど、この家よりでかいぜ。 直径一メートルはある檜の柱四本で玄関の廂を支えていたし。 あれと同じ家を建てるとしたら相当な金がかかるだろ。 一億じゃ済まないかも。 そんな金、我が家にあるの?」
「ございます」
いつの間に、と聞きそうになったが、今は金が問題なんじゃない。
「で、でも。 産屋は出産後焼き払うんだろ? あんな大きな家を燃やしたら火がそっちこっちに飛び移ったりして」
「此の度は産屋として建てられた訳ではない家をお借りしただけですし、奥様は準皇王族の実母とは申しましても臣下。 焼き払うまではなさらないかもしれませんが。 いずれにしてもそれは家主ではない当家が決める事ではございません」
「ぬうう。 産屋なんて要りません、と遠慮すればよかったのにぃ。 それでなくても手術が成功するか、心配ではち切れそうなんだから」
「それこそが理由ではないでしょうか」
「はあ? 手術の事、スティバル祭祀長が御存知なの?」
「そのようです。 メイレとリスメイヤーが開腹手術の準備をしておりましたし。 奥様が万が一をお覚悟なさり、御実家の皆様へ形見分けの品々を送られまして。 受け取った方々のお口は堅かったようですが。 常ならぬ品が御実家に届いた事、兵士用の外科手術とは思えない準備のあれこれ等から推察されたのではないでしょうか。
以前ベイダー先生が大審院に審議される可能性を指摘なさいましたが、手術した場所が神域内でしたら、そこで何が起ころうとそれは祭祀庁の管轄。 大審院から糾弾される事は避けられます」
「うーん。 手術が失敗したら大審院から責められなくとも祭祀庁から責められるような気がしないでもないけど」
「だと致しましてもスティバル祭祀長のお声掛かりでは奥様がお断りなさる訳にはまいりません」
「皇王陛下の直命も同然だもんな。 俺がその場にいたとしても断れない。 俺の為を思ってのお心遣いならなおさらだ。 お産をどこでするかくらい自分で決めさせてよ、と言いたいのは山々だけど」
それにしても神域内で出産? 今まで一度も聞いた事ないだけに不安になった。
「神域内で出産とか、本当にいいの?」
「前代未聞ではございます。 スティバル祭祀長のお言葉がなければ実現しなかったでしょう。 ただいくら前例はなかろうと産屋に関するしきたりは世間の一般常識。 禁忌を犯せばたとえ大審院で断罪されなくとも神官や世間が黙っていないと思われます。 くれぐれもお気を付け下さい」
「禁忌? 例えば何?」
「一旦妊婦が産屋に籠ると、床上げまで産屋から一歩も外出は許されません。 妊婦だけでなく、共に産屋に入ったお付きも同様で、これには医師や助産婦、侍女、下働きを含みます」
「出歩けるようになるまで時間はかかるとしても、明日手術が終わった後に会いに行ってもいいよな?」
「入るのは御自由ですが、出るのは御自由という訳にはまいりません。 単なる面会であろうと産屋に入った事になり、奥様が産まれたお子様を抱いて自力で玄関から歩き出せるようになるまで旦那様も産屋から出れない事になります」
「リネと赤ちゃんの顔だけ見たらすぐ出るのでも駄目?」
「産屋内にいる誰かの顔を見たら、それどころか開いた玄関の前に立っていただけで産屋に入ったと見なされます」
「げっ。 まあ、明後日には戻るよな。 それまでの我慢だ」
「脅す訳ではございませんが、お子様、或いは奥様に万が一の事があった場合もお覚悟下さい。 亡骸は出されますが、産屋内にいた者はそのまま産屋内で三十日間は喪に服すしきたり。 奥様の産後の肥立ちが悪く、お一人で動けない場合も産屋内の全員が足止めされます」
産屋への出入りなんて誰も一々チェックしているもんか、と言いそうになって、そんなはずはない事に気付いた。 以前は大した数の神官がいなかったし、神域内を巡回警備している兵士もいなかったが、今では神官だけで百人以上住んでいる。 大工や庭師、下働きまで含めたら数百人、いや、千人に近い。
スティバル祭祀長は長年どなたの御機嫌伺いもお断りなさっていたが、今年に入ってからどんどんお目通りをお許しになっていらっしゃる。 訪れる貴人や外国の王侯貴族の数も増えたから、警備もずっと厳しい。 夜でも警備兵が巡回しているし、近所に住む神官や下働きの目だってあるだろう。
それに誰がいつ神域に入り、どこを訪問していつ出て行ったか、検問所で記録されている。 刺客でもあるまいし、夜中にこっそり神域に忍び込むなんて真似は出来ない。
「旦那様が長期の滞在となっても構わないとお考えならともかく、そうでなければ奥様がお戻りになるまでお待ち下さい」
「分かったよ。 なら窓からリネの顔を見るだけで我慢する」
「産屋に窓は付けないしきたりです。 今回の場合、外向きの窓は全て板で覆ったと聞いております」
「えっ。 日中、家の中はまっくら?」
「お借りした産屋には中庭が付いているのだとか。 それでしたら採光に問題はないでしょう。 ですがしきたり通りの設えなら正面玄関しか開いておりません」
「しょうがない。 差し入れだけしておく。 リネにお菓子のお土産買ってきたんだ。 差し入れするのはいいんだろ?」
「その際、誤ってドアが開けられたらそれまで、である事を御承知おき下さい。 そのような事故を防ぐべく、米、芋、根菜、小豆や大豆、漬物、乾燥食品なら半年分。 薬、調味料、日用品等は一年分を持ち込んでありますが」
「一年分?! 明後日には戻って来るんじゃないの?」
「サリ様の時は夜九時に破水。 産屋に自力で移られ、午前二時に御出産。 午前四時にはサリ様をお抱きになって二階の自室に戻られた奥様の事。 並み外れた体力と強靭な回復力で、明後日にはお戻りになるかもしれませんが。 何分開腹手術。 予断を許さない状況です。 手術が成功した場合でも通常の出産以上の失血でしょうし、傷口が塞がるまで日数がかかるはず。 手術の翌日、立って歩けるようになるかどうか」
「何日くらいで戻れると思う?」
「メイレは一週間程度を予想しておりました。 傷口は完全に塞がっていなくとも寝てばかりより歩き始めた方が回復は早いのだとか。 しかし傷口が塞がるまでは階段の上り下りは避けた方がよいとの事。 その為一階にある空き部屋の模様替えをしておきました」
「一週間か。 じゃ、このお菓子、みんなで食べて。 どれだけ日持ちするのか聞かなかったから」
「いえ、玄関前に置いて下されば大丈夫です。 玄関脇に呼び鈴が設置されておりますので、お菓子を置いたらその呼び鈴を鳴らして下さい。 ドアがすぐ開かれる事はないでしょうが、鳴らしたと同時にその場から離れる事をお忘れなく」
「それならついでに新鮮な野菜や果物、卵も差し入れるよ。 適当に見繕って」
「スティバル祭祀長より、中庭を潰して畑にするように、との仰せがございまして。 中庭は縦横十メートルあるのだとか。 トマト、きゅうり、茄子、いんげん、ししとう、ピーマン、おくら、ネギ、ほうれん草、苺、ラズベリー等。 既に様々な野菜や果物が植えてあり、奥様がお籠りになった日にはどれも収穫するばかりであったと聞いております。 雌鳥小屋も設置され、新鮮な卵も入手可能との事」
なんと。 至れり尽くせり。 好きな時に外へ出られないんじゃ居心地がよくても監獄っぽいけど。 そこまでしてもらったらいちゃもんの付けようがない。 しきたりなんて従いたくはないが、従わなかったら後でなんだかんだ文句を言われるのは俺だ。
「ちぇっ。 産屋なんて面倒なもの、俺の実家にはないのに」
「ございます。 代々のヴィジャヤン伯爵夫人はどなたも里帰り出産なさり、ヴィジャヤン伯爵家の産屋は未使用な為、代替わりの際にも焼き払われてはおりませんが。
十一年前の七月二日、南への御旅行からお戻りになった翌日、旦那様は産屋を指して私に、あれ、何、とお聞きになりました。 その時只今御説明申し上げた事をお伝えしております」
そんな遥か昔の話を今持ち出さないでよ、と言いそうになったが、十一年前なんてトビにとっては昨日起こった事も同然だろう。 他の事まで思い出されたくないから急いで話題を変えた。
「えーっと、サリの時はこの家で出産したんだろ。 なんで俺に産屋の事を言わなかったの? 大峡谷へ行く準備で忙しかったから?」
「それもございますが、産屋に関しては奥様の御希望が優先されます。 この家の裏庭に庭師用の道具小屋があった事、覚えていらっしゃいますか?」
「言われてみれば、そんな小屋があったような」
「奥様が、そこで産むからわざわざ新しく建てないで、とおっしゃいまして」
「そうだったんだ。 まあ、夏だし。 冬だったら凍死しているぜ。 それにしても産屋を建てたとか、誰からも聞いた覚えがないな。 みんなどうしているんだろ」
「北の貴族は夏の出産であろうと南にある別邸に産屋を建てるようです。 建築費用が安く済みますし、焼き払うのも簡単だからでしょう」
「南に別邸がある人ばかりじゃあるまいし」
「なければ自宅か領内にある別邸の庭に建てるでしょう」
「平民なら自宅さえない人がいるよ」
「産院を利用する者も多いと聞いております」
「あ、産院。 それなら聞いた事ある。 リネは産院は嫌だったの?」
「産院に行けば産院所属の医師か助産婦に頼む事になります。 メイレや他家の侍女が突然現れて出産を仕切る、という訳にはまいりません。
当時当家に別邸はなく、奥様の御実家は農家。 そちらでの出産は大変な不便が予想されましたし、奥様の御希望もあり、こちらで出産となった次第。 簡単な道具小屋ですが、広さはありましたので。 それを出産用に設えました」
「なーんだ、産後に焼き払ったから新しくなっていたのか」
「と申しますより、ロックによって屋根が壊された為、修理工事用の足場を組む必要がありまして。 それで取り壊したのです。 廃材の使い道がなく、燃やしたので焼き払った事になるとは存じますが」
「ふうん。 今回も夏なんだし、新しい道具小屋がある。 あそこで出産、て訳にはいかない?」
トビが瞳がぎらんと光る。 あっぶねー。 何がどう危ないのか分からないが、俺は慌てて自分の言葉を取り消した。
「いやいやいや。 しきたりを無視するような真似、やっちゃ駄目だよな」
「なさってみては? 僭越ながら申しますと、旦那様は御遠慮なさるあまり諦める事が多々ございます。 神域内での出産の前例はないのですから、しきたりなどあってなきが如しとも申せましょう。
ただ本日ベイダー先生はサリ様のお側です。 無視しても許されるのか、スティバル祭祀長へお目通りする前に先生の意見を伺っている時間はございません。 産屋をお断り申し上げるか否か、只今お決め下さい。 お礼を申し上げれば神域内の産屋で出産という事になります」
「う、うん。 有り難い事は有り難い、よな? 受け取るのは気が重い、てレベルの御好意なだけで。 断ったら絶対角が立つだろ。 家を建て替える費用は痛いけど」
「スティバル祭祀長は大変御心の広い御方でいらっしゃいます。 建て替え不要とおっしゃるのではないでしょうか。 お仕えしている数千の神官の心も広いかどうかは存じませんが」
神官の皆さんからは、お言葉があろうとそこまで甘える奴がどこにいる、とか言われそう。
そっとため息をついて、ヘルセス領から帰る途中、土産物屋で買ったお菓子に視線を投げた。 お世話になったし、と思って。 スティバル祭祀長とモンドー将軍。 そして何度も長々休暇を取って迷惑を掛けたトーマ大隊長とサーシキ大隊長にも。
モンドー将軍と同僚はともかく、スティバル祭祀長のお心遣いに菓子折り一箱じゃ、ちょっと、と言うか、かなり恥ずかしい。 恥ずかしいで済むならいいが。
産屋の事、皇王陛下にどう思われるだろう? 今の所、俺の事をすごく気に入って下さっているけど。 神域内で出産など言語道断とか、いくら祭祀長のお言葉に従っただけでも、厚かましいにも程があると思われたら?
加えて開腹手術。 事前にお許しを願い出なかった事について、きついお叱りがある事を覚悟しないと。
そこで昨日、リネへのお土産を選んでいる最中に師範から嫌みを言われた事を思い出した。
「ネアカな奴」
正直言って、むっとした。 師範の顔には何も浮かんでいなかったが、声の調子でバカにされている、少なくとも褒められていない事は明らかだったから。 たぶん師範は産屋の事、そして俺達が帰る頃にはリネがもう産屋にお籠りして簡単に会えない事を知っていたんだろうな。 だけど呑気な俺は妻にお土産を買った事に対する嫌みだと思ったんだ。
師範とは何度も一緒に旅をしているが、師範が土産を買っている所を見た事は一度もない。 妻だけじゃなく、上官、同僚、部下、親戚、隣人、友人、奉公人。 溺愛している娘にだって。 百剣の皆さんだって、あの根暗では右に出る者がいないマッギニス補佐でさえ、お土産を買っている所を見た事があるのに。
それで師範に言い返した。
「ネアカで悪うござんしたね。 世の中ネアカな人だらけでしょ。 師範に比べたら」
なぜネアカと思うんだか、あの時理由を聞いておけばよかった。 と今頃悔やんでも遅いが。 それに産屋に関して言えば、お土産を買っている時点でもう手遅れだし。 リネはもう産屋入りしていたんだから。
取りあえずスティバル祭祀長にお目通りし、産屋と手厚いお心遣いを頂戴した事についてお礼を申し上げた。 するとスティバル祭祀長が春の日差しのような口調でおっしゃる。
「慶事の手助けをする機会にまみえるも慶事。 さりながら出産が命がけの難儀である事も又人の世の慣らい。 特に今回のような開腹手術となるとな」
「申し訳ございませんっ!」
深く頭を下げて謝った。
「テーリオ。 言った通りであろう?」
何が言った通りなのか分からなくてスティバル祭祀長のお顔を見たら、テーリオ祭祀長見習が教えてくれた。
「スティバル祭祀長が予想なさいました。 ヴィジャヤン大隊長は開腹手術を指示した事を謝罪なさるであろう、と」
「あの、では、謝るべきではなかったのでしょうか?」
それにスティバル祭祀長がお答え下さった。
「そなたの過ちを即座に認め、謝る直ぐな気性。 変わってほしくはないのだが。 この場合謝罪しては、悪い事と知りつつ命じた、と受け取られよう。
手術は母子の命を救うのに必要な治療手段と聞く。 適切な処置と信じて指示したのであろう? ならば謝るものではない。 逆子では手術に失敗したとしてもそなたを責める者はおるまい。 迂闊な謝罪は慎むように」
「では、執刀した医師が責められる事もありませんか?」
「検分担当御典医の報告書に注意を払う必要はあろう。
テーリオ。 担当医の名は?」
「ミューエンチと名乗りました。 ボルチョック筆頭御典医の母方従兄弟だとか。 本日既に産屋入りしております」
「その者が皇都への帰途につく前に会おう」
「御意」
スティバル祭祀長とテーリオ祭祀長見習が御退席になり、俺と師範はサリの待つ部屋へと案内された。 案内してくれたのは今まで会った事のない神官で、俺と同い年くらいに見える。 俺だけでなく師範にも丁寧な物腰で対応してくれた。
「祭祀長見習付神官、シバースと申します。 非才を顧みず、産屋の設えを担当致しました。 何分神官の中には産屋を見た事は勿論、建設した経験がある者がおりません。 急遽皇王庁へ支援を要請し、大工、御典医、助産婦の助言の元に設えましたが、準大公夫人のお気に召さない所があるかと存じます。 御要望がございましたら何卒御遠慮なさらず、お知らせ下さい。 それは昨日準大公夫人にもお籠りになる前に申し上げたのですが、今の所何の御連絡も戴いておりませんので」
「数々の細やかなお心遣いを戴いた事、忝く存じます」
「猊下の御心に添ったまで」
それはそうかもしれないが、上が命じれば下が従うと決まったものでもない。 短期間で産屋に改装するには相当な無理をしただろうに、恩着せがましい態度じゃない事が有り難かった。
通り過ぎる俺と師範に対する他の神官達の態度も随分恭しい。 多少の間違いは笑って許してくれそうな感じ。 だからってメイレの命が保証されたと思うのは早過ぎる。 俺にとっては大した事ではなくとも神官にとっては大した事だったりするから。
今更ながらサジ兄上を連れて来れなかった事を悔やんだ。 サジ兄上がいたってメイレの命が保証されたかどうかは怪しいが、少なくともメイレが自分の命を心配しながら手術する事にはならなかったと思う。
サジ兄上の代わりに会った事もない御典医が現れて、さぞかしびっくりしたに違いない。 予定通り手術してくれるだろうか? サジ殿がいらっしゃらないのでしたら手術しません、とごねられたりして。
それにミューエンチ先生、てどんな人? 俺が知っている御典医は筆頭御典医のボルチョック先生だけだ。 大きな声では言えないが、すごい変人でさ。 普通の人だったらなれない職業だから無理もないけど、今度来た人もあんな感じなら困るかも。
一口に御典医と言ってもサジ兄上のようなまともな人もいる訳だから一縷の望みは残っているが。 ボルチョック先生の従兄弟なら、性格も似ていたりして?
この際性格はどうでもいいが、今回の手術をどう報告するか全く想像がつかない。 たとえ成功したとしても。 ましてや失敗だったら?
そもそも手術の邪魔をする気だったりして? そこまではしなくても報告書に嘘を書くくらいの事はされるかも。 嘘を書かれたくないなら賄賂を寄越せとねだられたり、金は要求されなくてもあれしろこれしろと脅されるとか。
御典医は無爵だけど、組織上皇王陛下直属、つまり俺の同僚だ。 俺がモンドー将軍の部下でもあるように、御典医は皇王庁長官の部下でもあるらしいが、ともかく神官ではない。 祭祀長のお言葉に従うかどうか、本人に聞いても正直に答えてくれるとは限らないし。
向こうから何か言われる前に根回しするべき? 奉公人達には根回しするなと言ったものの、本当にそれでいいのか自信はない。
モンドー将軍の御意見を伺ってみる? 伺ってもいいが、その意見に従う? 従わない? どっちを選ぶかで悩みそう。 相談された方だっていい迷惑だよな。 どっちにしろ絶対誰かに非難されるに決まっている。 手術が失敗どころか成功してさえ。
迷いに迷ったが、モンドー将軍からサリの警備を引き継いだ時、俺は何も聞かなかった。
帰り道で産屋の前を通り過ぎた時、最初は玄関先にお土産を置いただけで帰るつもりだった。 でも玄関脇に大きな樫の木が立っている。 そこから産屋へ向かって伸びている枝が屋根より少し高い。 あそこからなら声が中にまで届く。 そう気付いた途端、じっとしていられなくて風呂敷にお菓子を包み、腰に巻いた。
「ケルパ、踏み台になって」
ケルパが心得たように樫の木の枝の少し手前に屈んでくれた。 助走を付けてケルパの背を蹴り、枝に飛びつく。
「リネーッ。 元気かあっ」
枝の上から大声で叫ぶと、リネの明るい声が返った。
「はいっ、元気ですっ!」
「お土産のお菓子! 栗入りなんだ。 中庭に向かって投げるから、食べてっ」
「戴きますっ。 ありがとうございますっ!」
「明日、がんばれっ! 早く元気になって戻って来い! 待ってるぜっ!」
「がんばりますっ!」
「メイレ! リネの事、よろしく頼むっ!」
「了解っ!」
メイレの声がいつも通りでほっとした。 それと手術が成功するかどうかは別だとしても。
俺に出来る事はもう天に祈るだけ。 天がどんなに気まぐれか分かっちゃいるけど、何とかなりそうな気がする。 枝から飛び降り、師範に言った。
「きっと大丈夫ですよねっ」
師範はすっと目を逸らし、俺だけに聞こえるように呟いた。
「つくづくネアカな奴」
「そう、ですか? 自分ではトビやマッギニス補佐に影響されてかなり暗い性格になったと思っています。 根暗、と言ってもいいんじゃないかな。 勿論、普通の人と比べたら、の話ですけど」
師範がつくづくネアカと思う理由を聞いたりはしなかった。 そんなの聞かなくても分かる。 産屋の庭木に登ったからだろ。 産屋の庭木に登っちゃ駄目、というしきたりがあるかもしれないのに。
ない、よな?