棒飴
ヘルセス本邸脇にある駐竜場に到着した時、出迎えの中にサジ兄上の姿が見えなくてがっかりした。 ヘルセス家の人じゃないんだから出迎えに現れる訳がないと知っていても。
早くサジ兄上に会いたい。 なぜこんなにサジ兄上に会いたいと思うんだろう。 逆子の事をどういう風に伝えるか、まだ決めていないのに。 サジ兄上に会いさえすれば全てうまくいく。 そんな気がするんだ。 もしかしたら今でも心のどこかでサジ兄上の事を魔法使いと信じているのかもしれない。 そう信じるようになった切っ掛けは、俺が二つか三つの時にあった迎魂節の仮装パーティーだ。
迎魂節は亡くなった人達の魂をお迎えする日で、どう祝うかは各家それぞれだけど、我が家では毎年日没後に仮装パーティーをしている。 子供達も参加していい。 と言うか、これは子供達を喜ばせる為のイベントという感じ。 会場のど真ん中に沢山のお菓子が入っているお棺が置いてあり、子供でも自由にお菓子が取れるようにお棺の蓋が開けてある。
赤ちゃんでも大人に抱かれて参加するから、それは俺にとって初めての迎魂節じゃないはず。 だけど迎魂節を見た覚えが全然なかったし、その前日だか前々日に俺はお葬式に参列していて。 そこでお棺を見たものだから、きっとこれもお葬式なんだと思い込んだ。 俺がもう少し賢い子だったら、みんな華やかな色の服を着て、笑い声や楽しそうな音楽が流れている迎魂節とお葬式を混同する事はなかったんだろうが。
お葬式ではお棺の中に白い服を着た人が入っていて、青白い顔がとても寒そうだった。 それはお棺が寒いからだと思っていた俺は、子供達が先を争ってお菓子を取っていき、お棺が段々空になっていくのを見て震え上がった。 偶々その日の俺の仮装は白い服で、他に白い服を着ている人はいなかったから。
もうすぐお棺が空っぽになる。 空っぽになったお棺に入れられるのは誰?
僕? こんな薄っぺらの服しか着せられていないのに? 寒くて凍えちゃう。
そんな事を考えたような気がする。 ただただ恐ろしくて。 走って逃げようとしたが、カナにがっちり掴まえられて離してもらえない。 お菓子がどうとか言っていたが、お菓子なんかどうでもいい。 俺をお棺の方へ連れて行こうとするカナに必死に抵抗した。
ぎゃあぎゃあ泣き喚く声が聞こえないはずはないのに誰も助けに来てくれない。 母上でさえ、この子ったら、本当におばかさんでしょうがないわね、みたいな顔で遠くから眺めているだけ。
そこにでっかいひまわりみたいな仮装姿のサジ兄上が現れた。 緑の手袋をはめた手に大きな飴が付いた棒を持っていて、その飴をくるくる回している。 同じ飴を持っている子は他にもいたけど誰も回したりしていないから、会場の灯をキラキラ反射させているサジ兄上の飴は特別な飴に見えた。
「サダ。 これ、なーんだ?」
泣くのに忙しくて答えられないでいると、サジ兄上が俺の耳に優しく囁いた。
「教えてあげる。 特別だよ? サダにだけ。 これは魔法の飴なんだ」
「うぐっ、ひっ、ひっく、ま、ほ?」
「魔法、て何だか知っているかい? 魔法を使うとね、不思議な事が出来るんだ。 例えば。 この飴を舐める」
サジ兄上はぺろっと飴を舐めるふりをした。
「すると魔法が体に宿る」
そう言ってしゃがみ込んだかと思うと両手を大きく広げてジャンプした。
「うわあ。 もう何も怖くない!」
そしてロウソクの火を吹き消すみたいに、ふっと息を吹く。
「お棺だろうと一吹きさ」
お棺を吹き消せる? すごい! すごい! すごい!
びっくりして泣き止み、サジ兄上に魔法の飴を強請った。
「ちょ、ちょーだいっ」
いつもなら頂戴と言えば何でもくれるサジ兄上が、意地悪するみたいにさっと飴を高く持ち上げた。
「だめだめ。 泣いている子にはあげられないよ。 涙で魔法が溶けてしまう。 貴重な魔法を無駄にしたら勿体ないでしょ」
そう言われ、俺は慌てて服で目をごしごし拭った。
「な、泣か、ないっ、もんっ」
「ふうん。 本当かな? あやしいなあ。 せっかくの天使の衣装も、ほら。 ぐしょぐしょだし」
急いで服を脱ごうとしたが、ぴらぴらした布がいっぱい付いていて脱げない。
「カナっ、脱がせてっ」
「はいはい。 サダ坊ちゃん、お着替えはてんとう虫しかありませんが、いいんですね?」
「うんっ」
最初から赤に黒丸のやつを着せてくれれば泣かなかったのに、と言いたかったが、涙と鼻水を拭いてもらうのに忙しくて文句を言っている暇はなかった。 それにどっちがいいか、最初に聞かれたような気がする。 てんしと答えたのは自分だ。 てんとうむしだとてんしより長い。 噛まずに言える自信がなかったし、天使が白い服だとは知らなかったから。
着替えるとサジ兄上が飴を手に握らせてくれた。 早速ぺろっと舐め、お棺に向けて力一杯息を吹いたけど、お棺は消えない。
「あれ?」
サジ兄上が飴を舐めるふりをした後、両手を広げてジャンプした事を思い出し、ぴょんと飛び跳ねて両手を広げ、それからぶーっと息を吹いてみた。 それでも消えない。
「あれれ?」
「ち、ち、ち」
泣きそうになってサジ兄上を見上げると、緑色の人差し指を立てて左右に振っている。
「サダ。 よーく見てごらん。 あのお棺はサダが三人入るくらい大きいだろう? あんなに大きい物を吹き飛ばすにはね、沢山の魔法が要るんだ。 少し舐めたくらいじゃ足りないよ。 この飴を丁寧に最後まで舐めないと。 舐め切れるかな?」
こくこく頷いたらサジ兄上が優しく微笑んで俺の頭を撫でてくれた。
「いい子だね。 落とさないように気を付けて」
俺が覚えているのはそこまで。 すごく大きな飴だったから舐め切れたかどうか覚えていない。 舐めては吹いてジャンプ、舐めては吹いてジャンプを繰り返したから、疲れ切って舐め終わる前に寝こけたのかも。
でもそれ以来、俺はちょっとやそっとの事では怖がらない子になったから魔法のおかげに決まっている。 そして魔法が使える人なら魔法使いだろ。 それで俺はサジ兄上の事を魔法使いと思うようになったんだ。
それが単なる俺の思い込みと分かったのは小学校一年生の時だ。 魔法使いを見た事がある子、魔法使いがいると信じている子が同級生の中に一人もいなくて。 最初はサジ兄上に会った事がないからだろうと思っていたが、俺の家に何度も来て、サジ兄上にも会った事があるカーゼペーダ先生も魔法使いを見た事はないとおっしゃる。
えっ、と思ったが、サジ兄上は最初に会った時に、次兄のサジです、と挨拶しただけだ。 サジ兄上が自分の事を魔法使いですと言った事はないし、俺だってサジ兄上が魔法使いだと先生に言った事はない。 顔を見ただけじゃ魔法使いと分からなくても当たり前だよな。
じゃあ、改めて先生に教える? そこで急に自信がなくなった。 絵本に出て来る魔法使いはみんな年寄りっぽい。 サジ兄上みたいに若くても魔法使いになれるのか? ひょっとしたら今はまだ弟子とか見習で、正式の魔法使いじゃないのかも。 なのに魔法使いだと言ったら先生に嘘をついた事になる。
それにもしこれが秘密だったら? 貴族だからか、普通の家なら秘密になりそうもない事が俺の家では秘密だったりする。
例えば小学校に入る前の年、俺は飛竜の背に乗せられた。 飛竜に乗った事がある人はどこにでもいるし、同級生にも何人かいて珍しい事でもなんでもない。 なのに誰にも言っちゃだめなんだって。 不思議に思って父上にその理由を聞いたら。
「お前の母の機嫌が悪くなるからだ」
「あの、なぜ母上の御機嫌が悪くなるのですか」
「お前はなぜ青竜の背に乗るなどというバカな真似をした?」
「え? なぜって。 それは、その、」
そんな事を聞かれても、俺が自分から乗りに行ったんじゃない。 外で遊んでいる最中に突然青い飛竜が現れ、俺を摘まみ上げて背中に放り投げたかと思うとそこら辺を飛び回り始めたんだ。 父上もそこにいて一部始終を見ている。 なぜそんな質問をするのか訳が分からなくてまごついていると、父上がおっしゃった。
「そのようにな、自分がした事であってもなぜかを答えられない事はままあるものなのだ」
父上の答えはいつも簡単で納得出来るものばかりだけど、その答えにはちょっと引っかかった。 今まで母上に答えられなかった事なんて一つもない。 その母上に答えられない事がある? しかも自分の事なのに?
「なぜ機嫌が悪くなるのか自分でも答えられない、て。 あの、それは、どういう意味」
「私は忙しい。 この件に関しては後にしなさい」
父上はそそくさとお出掛けになり、それ以上聞けなかった。 なぜ青竜の背に乗る事がバカな真似なのかも。
理由は分からないが、母上が不機嫌になったら俺だってとても困る。 だから誰にも言ってない。 おばあ様には誰にも言うなと言われる前だったから教えたが。 どうやらそれで父上に注意されたみたい。 つまりおばあ様にさえ言っちゃいけない事だったんだ。
今なら乗客用飛竜に乗るのと青竜の背に乗せられる事の違いが分かる。 青竜に乗ったと知られたら世間に大騒ぎされるという事も。 だけど青竜に乗せられたら名誉だろ? なぜ母上の御機嫌が悪くなるのか、なぜおばあ様にも秘密だったのか、今でも分からない。
分からないと言えば、本邸二階にある扉の開け方が秘密な理由もだ。 それなんか母上や兄上達に言うのもだめなんだって。 しきたりがどうとかこうとか。 次代であるサガ兄上にさえ秘密にしなきゃいけないしきたりなら、なぜ三男の俺が知っているの?
もっとも俺だって開け方を教えてもらった訳じゃないんだけどさ。 かくれんぼをしていた時、おじい様がそこに隠れようとしている所を廊下の端から見ていたんだ。 結構距離があったし、手の込んだ開け方だから、おじい様はおバカな俺に分かるはずがないと油断したのかも。 なにせ俺は子供の頃からすごく物覚えが悪い子で、簡単な言いつけでも一回で覚えたためしがなかった。
もしおじい様が俺と一緒に森に狩りに出掛けていたら俺の目が並外れていい事や、目で見た手順なら一回見ただけで覚えられる事に気付いたと思うが。 そしたらどれほど離れていようと俺の姿が見える所であの扉を開けようとはしなかったかもしれない。
ともかく、そんなこんなが色々ある家だ。 何が秘密で何が秘密でないか、ちゃんと聞かなきゃ分からない。 それにサジ兄上が魔法使いという事は青竜や扉の開け方なんかよりずっと重要な秘密のような気がした。 聞かずに秘密をばらしたと知られたら、きっと叱られる。 父上なら泣いて謝れば許してくれそうだけど、サガ兄上は父上よりずっと厳しい。 泣いて謝ったくらいじゃ許してくれないだろう。 最悪、お習字の練習を毎日やらされる。 上手になるまで。 つまり、一生。
その可能性を考えただけで、ぎゃーっと叫びそうになった。 いや、実際叫んだのかもな。 辺りにいた同級生が怯えた顔をして俺を見ていたから。
勝手な事をして叱られたくないが、両親は出掛けていて留守だったからサガ兄上に聞いた。
「サジ兄上が魔法使いという事、カーゼペーダ先生に教えてもいいですか」
「サジが魔法使い? バカな事を言うものではない」
「え?」
「サジが自分の事を魔法使いと言ったのか」
「い、いいえ」
「では、なぜそう思った」
「ずっと前の迎魂節の時にサジ兄上が棒飴を下さって。 魔法の飴だ、とおっしゃったから」
「毎年迎魂節の時配られる棒飴の事か」
「はい」
「するとその飴を手渡したのが私だったら、私は魔法使いという訳か」
「そ、それは、」
「魔法の飴をもらったからと言ってその人を魔法使いと思い込むのは短絡的に過ぎる。 第一、サジがそんな年寄りに見えるのか」
「やっぱり年を取らないと魔法使いになれないんだ」
「さあ? 魔法使いになった事は勿論、会った事もない私には分からないが。 そもそもお伽噺の世界の話だ。 仮に実在する職業だったとしても子供でもなれるものではなかろう。 それともお前は魔法使いに会った事があるのか」
「サジ兄上が魔法使いじゃないなら、ありません」
すぐ側で本を読んでいらしたサジ兄上が本からお顔を上げておっしゃった。
「サダ。 魔法使いに会う機会があれば子供でもなれるのか聞いてごらん」
「はい」
「ただ見掛けに騙されないように気を付けるんだよ。 特に迎魂節の時は、我こそは魔法使いと名乗る人が沢山いるから。 そう名乗ったからと言って本物の魔法使いとは限らない」
「本物だって見分けるにはどうしたらいいんでしょう」
「魔法を使って見せて、と頼むのが一番確実かな」
サジ兄上が魔法使いじゃない事はそれで分かった。 だけどサガ兄上は、あの飴は魔法じゃないとか、サジ兄上は魔法が使えない、とはおっしゃらなかった。 それに魔法じゃないならあの時どうやって俺を泣き止ませたの? それって簡単そうに見えるけど、簡単じゃないよ。 俺は泣いていない時でも説明なんかろくに出来ない子だったし。 俺の事をよく知っているカナでさえ、寒い、寒い、と泣き喚く俺に、今夜は暑いくらいでしょう、と言っていた。 お棺に入れられる事を怖がって泣いていると分かってくれたのはサジ兄上だけだ。
泣いている子に棒飴を差し出してあやすのは他の人にも出来るだろう。 でもサジ兄上以外の人からこれは魔法の飴なんだと言われても信じなかったと思う。 サジ兄上の言葉だから信じたんだ。 そしてサジ兄上の言葉ならきっと誰でもすぐに信じるよ。 俺が子供だから騙されたんじゃない。 今言われたとしても信じるような気がする。
俺を騙すのなんてちょろいと思うかもしれないが、俺は家族や奉公人とか、よく知っている人がついた嘘なら割と見抜ける。 特に父上の嘘は見抜けなかった事はない。 どうせばれると知ってから父上は俺に嘘をつかなくなった。
あ、あ、又、疑いの目。 それ、止めてくれる? 嘘だと思うなら俺の父に聞いてみれば? きれいにスルーされるかもしれないけど、否定しないなら肯定した、て意味だから。
ともかく、あの飴を舐めて以来怖いものなんてなくなった。 だからサジ兄上の言葉に嘘はない。 俺の為に作ったのでも何か細工した訳でもない飴を使って怖いものを吹き飛ばせるなら、それってもう魔法と言えるんじゃないの?
とは思ったが、何年経っても本物の魔法使いに会えず、いくつになったら魔法使いになれるのかを聞く機会もなかった。 それにしびれを切らしたと言う訳でもないんだろうけど。 ある日サジ兄上は医者を目指すとおっしゃった。
「医者? せっかく魔法が使えるのに。 そんな、普通の人にだって出来る仕事をわざわざ選ばなくても」
「サダったら何を言うかと思えば。 私は普通の人だよ」
そう言って微笑むサジ兄上の目がきらっと光った。 サジ兄上が嘘をついたり冗談を言ったりする時、目がいたずらっ子みたいに光るんだ。
やっぱり魔法が使えるんじゃないか。 そう思った俺は母上の意見を聞いてみた。
「サジ兄上が魔法使いを目指さないのは宝の持ち腐れだと思いませんか」
「サジが魔法使いになりたいと言ったのかしら」
「そうは、おっしゃいませんでしたが」
「本人がなりたいと言うのなら私は別に構わないわ」
「母上からお勧めになっては?」
「そうねえ。 そのような特殊な職業に進みたいのなら本人が親を説得するくらいの気構えを見せないと。 少なくとも弟が望んだからやるというものではないでしょう。 それに医者は片手間にやれる仕事ではなくてよ。 魔法使いになるなら医者になる道は諦めるの? あんなに一生懸命医学校の入学試験準備をしているのに」
「だけど、」
「サジの勉強の邪魔をしてはだめ。 分かったわね」
じっと俺の目を見つめておっしゃった。 目力の強度(一から五段階で、五が最強)で言えば、五。 マジ。
マジの母上に逆らった人を見た事はない。 これは父上を含む。 マジの母上なら魔法なんか使わなくても俺を吹き飛ばせるだろう。 幸い吹き飛ばされた事はまだないが。
念のため父上にも同じ事を聞いてみた。
「魔法で御飯が食べられるのなら誰も苦労はせん」
ばっさり。 母上よりもっと取りつく島もない。 それでサジ兄上はたぶん両親に反対される事が分かっていたから魔法使いになる道を選ばなかったんだろうと思ったんだ。
さすがに今は魔法使いなんて存在しないと知っている。 呪術師という似たような職業ならあるけど、呪術には種も仕掛けもあり、勉強してなるものだ。 種や仕掛けがなくても不思議が起こせる魔法使いとは似ていても全然違う。
ただ魔法使いという職業に就いてはいなくても、サジ兄上には魔法が使えるような気がしてならない。 例えば人を夢中にさせる手際。 老若男女、相手を選ばない。 どんな気難しい人でもサジ兄上に会った途端、御機嫌になる。
ユレイア義姉上にしても誰かに夢中になるような人には見えなかった。 師範のような男の魅力溢れる人の側にいたって、一ヶ月の滞在中、ずっと冷静な態度だったし。 しかもサジ兄上とは結婚式まで、お見合い、新年、そして俺の叙爵式の三回しか会っていなかったんだと。 なのに夫を見つめるユレイア義姉上の視線には深い愛しさが込められていた。
ダンホフ公爵だって、こういう言い方はおかしいかもしれないけど、サジ兄上に夢中だ。 噂じゃ金以外の何かに夢中になる事は絶対ない人と聞いていたし、俺と初めて会った時も、こいつの価値は何万ルークと値踏みしている感じで、噂通りの人だと思った。
ところがサジ兄上の結婚式の時では招待客そっちのけで花婿にでれでれ。 サジ兄上の肩をそっと抱き寄せたりして周囲をびっくりさせていた。 それはただで出来る事だから俺はそれほど驚かなかったが。 お花が好きなサジ兄上を喜ばせる為に温室を建ててプレゼントしたと聞いた時は俺も驚いた。 百万や二百万で建てられる大きさじゃなかったから。
あれが魔法じゃないなら奇跡だろ。 伝説の動物に出会うよりずっとすごい。 ロックや海坊主や青竜や青い人に会えたのは単なる偶然か、向こうの気まぐれだ。 俺がまた会いたくたって会える訳じゃない。 弓の腕だけは稽古の結果で偶然じゃないが、弓がうまいだけの英雄より不思議を自由自在に起こせる魔法使いの方が格は上だと思う。
サジ兄上のすごさは分かる人には分かる。 だから筆頭御典医見習に選ばれたんだ。 なんでもある日筆頭御典医のボルチョック先生に呼ばれ、今日からあなたは筆頭御典医見習と言われたんだとか。 手術の腕を買われた訳でも試験に合格した訳でもないらしい。 それを聞いても俺は変とは思わなかった。 サジ兄上は人をリラックスさせる独特の雰囲気がある。 そこにいるというだけでメイレもリネも心強いだろう。
ただサジ兄上が北を訪問するには上司の許可が要る。 たぶん、陛下からのお許しも。 すると、ここからまず皇都へ飛ばないと。 皇寵があるからお目通りは叶えられると思うが、サジ兄上の訪問にすぐにお許しがもらえるかどうかは分からない。 急がないと、あっと言う間にリネの出産予定日になってしまう。
気持ちが焦り、失礼を顧みず、出迎えに来てくれたレイ義兄上にいきなり聞いた。
「兄のサジはもう到着したでしょうか」
「サダ様は兄上に恵まれていらっしゃる」
レイ義兄上は一見俺の質問と何の関係もない返事をした。
「弟の為なら火の中水の中。 しきたり。 上司の命。 筆頭御典医見習という得難い職務。 いえ、自らの命であろうと投げ捨てる覚悟がある兄は、中々いるものではございません」
そう言われて、ぐっと詰まった。 いくらにぶにぶの俺にだって分かる。 レイ義兄上は全部知って言っているんだ。 逆子の事。 開腹手術の事。 そして俺がサジ兄上に手術の立ち会いを頼むつもりでいる事。 たとえサジ兄上自身は来る気満々だろうと、来てくれと頼む事はサジ兄上の迷惑にしかならないという事も。
はっきり言って誰かから説教される覚悟はしていたが、されるとしたら父上か、でなければサジ兄上贔屓のダンホフ公爵。 サガ兄上、ナジューラ義兄上の可能性もあると思っていたが、レイ義兄上にとってサジ兄上は妹の夫の弟でしかない。 サジ兄上の為に一肌脱ぐ程の深い付き合いがあるとは聞いていないし、サジ兄上の心配をしてあげなきゃいけない理由は他の親戚に比べたらないに等しい。 そのレイ義兄上からこんな風に諫められるとは予想していなかった。
「サダ様も御存知のように、筆頭御典医は実母の葬式に参列する為であろうと陛下のお側から離れる事は許されておりません。 見習であろうとそのしきたりを全く無視しては波風を立てるのは必至。 私の結婚式への御出席は見習に昇進なさる前にお返事を戴いていた為に叶いましたが」
「う、でも。 葬式は、その、参列しても死んだ人が生き返る訳じゃないし」
「弟の妻が出産する程度の理由で遠路遥々呼びつけられる職務の方ではない、という事は御理解なさっていらっしゃるでしょうか」
「それは、まあ。 だ、だけどサリ様の主治医でもあるし。 年に二回、訪問する事になっているから」
「すると主治医として訪問した場合、滞在中に行われた治療は全てその主治医の責任となる事も御理解なさっていらっしゃる? たとえ治療が成功したとしても前例にない治療に立ち会ったというだけで処罰の対象になる事も?」
リネが生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。 そんな細かい事を言わないで、と泣きたくなったが、サジ兄上に迷惑を掛ける事に変わりはない。
「えーと、事前にボルチョック先生から許可をもらってもだめ、ですか?」
「これは明らかに筆頭御典医の裁量を越えております。 陛下の胸先三寸で決められる事でさえないでしょう。 このような大幅なしきたりの変更となると、数年がかりでも結論が出るかどうか。
それを待ってはいられない、と強引にサジ殿を北へとお連れになりますか? 皇寵厚き準大公ならやってやれない事ではございません。 サジ殿はともかく、サダ様への処罰はないと思います。
とは申しましても、そのような横紙破り、皇寵の乱用にあたるのでは、と問題にされる事は避けられず、そうなれば最早サジ殿お一人の迷惑では済まないかと。 サダ様を庇う者、攻撃する者の間で国を二分する騒動に発展する事をお覚悟下さい」
こんな言いづらい事を言ってくれる人はレイ義兄上だけだ。 有り難い事だとは思う。
じゃ、サジ兄上に頼む事は諦める? それとも忠告を無視して頼む?
どうしよう。 どちらにしても後々問題が出て、レイ義兄上を含む親族の皆さんの温情に縋る羽目になるような。 忠告を無視したとしてもレイ義兄上が俺を見捨てる事はないような気もするが。 だからって強行突破する? 仏の顔も三度まで、とか言うんだろ。 俺、もう、三回以上迷惑掛けているよな?
どうしたらいいのか。 結婚式が終わり、舞踏会が終わり、北へ帰るか皇都へ出発するか。 決めなきゃいけない時間になっても決められない。
誰かに相談しようとは思った。 父上、母上、頼りになる親戚が沢山出席しているし、親戚以外でもテイソーザ長官やハージェス東軍祭祀長とか、頼って頼れない事もなさそう。 だけど誰もリネの様子を聞いて来ないし、説教めいた事も言わない。 それが何より雄弁に、自分で決めろ、と言っているようで。
それでなくとも俺は自分で決めなきゃいけない身分になった。 誰に相談した所で、どちらを選んでも後悔すると知っていれば、俺にどうしろとは言わないだろう。
サジ兄上だって俺が頼めば文句も言わず、一緒に北へ来てくれると思う。 自分の人生がむちゃくちゃになると知っていても。 なのに頼んだら、それって相談でもお願いでもない。 強制というか、命令だろ。
いくらリネを愛していると言ってもサジ兄上を犠牲にしたい訳じゃない。 そんな事をしたらサジ兄上を愛する沢山の人達を悲しませるし、俺だってサジ兄上を愛しているんだ。 散々迷った末、結局俺はサジ兄上に何も頼まなかった。
出発の朝、見送りに来てくれたサジ兄上が俺に迎魂節の棒飴を差し出した。
「思い出の品がお気持ちの支えとなる場合もあるかと思いまして」
「サジ兄上、これを覚えていて下さったんですね。 ありがたく頂戴します」
早速棒飴をぺろっと舐め、ふっと大きく息を吹いたが、内心の不安は吹き消せなかった。
「はあ。 やっぱ最後まで舐め切らないとだめか」
サジ兄上が柔らかく微笑む。
「あの時も最後まで舐めてはいらっしゃいません。 けれどお棺を恐れて泣いていた子は、長じて数々の奇跡と繁栄を齎す英雄となられました。 いずれの偉業も御自身のお力で成し遂げたもの。 サダ様は単なる偶然とお考えかもしれませんが。 偶然を幾度となく生起させる事。 それこそ魔法。 私が愛する妻と巡り会えたのもその余禄に与った結果です」
「うーん。 サジ兄上のお見合いは俺が切っ掛けだとしても、リネと子供が助かって、誰からも責められない、なんて奇跡、俺に起こせるかなあ?」
ため息混じりに呟くと、サジ兄上が確信ありげに言う。
「道は自ずと開けましょう。 どうか御自分の魔法の力をお信じ下さい」
自分を信じる事は難しい。 でもサジ兄上を信じる事なら簡単だ。
棒飴を懐に仕舞い、俺は北へと飛び立った。