無口
「旦那様。 タケオ大隊長に逆子の事をお伝えになった方がよろしいのではないでしょうか」
ヘルセス領へ出発する準備をしている時、トビが意見してきた。
「御旅行の最中、お二人きりになる機会があるかと存じます。 手術は成功するはず。 とは申しましても万が一の心づもりはしておかねばなりません」
トビの意見は何でもはいはいと聞いている。 これだって別に悪い事を言っているとは思わない。 そうしておいた方が後で自分が困らないとさえ思う。 だけど素直にうんと言えなかった。
「万が一? なんでそんなものを考えなきゃいけないのさ。 リネは絶対助かる。 メイレがいるんだから。 そう信じているから、今、俺は平気な顔をしていられるんだ。 そうじゃなかったらぶわぶわ涙が流れて何かを考えるどころの騒ぎじゃない。 万が一なんて。 そんなものが本当に起こったら俺にやれるのは泣く事だけ。 心づもりはトビがしておいて」
そう言えば引き下がるかと思ったら、ぐっと身を乗り出して来た。
「万が一が現実となった場合、喪主は旦那様ではないという事は御理解戴いているでしょうか」
「え? 俺じゃないなら誰さ?」
「サリ様です。 喪主は三親等以内の血縁で一番身分の高い人が務めるもの。 そのお二人が同一人物か、身分に差がなければ配偶者が務めますが、サリ様の御身分は旦那様より上。 ですから旦那様は喪主代行となられます」
「肩書きなんか何でもいいよ。 葬式はこうじゃなきゃ嫌、とサリがごねる訳でもあるまいし。 葬儀は内輪で。 泊まらずに来れる距離でない人は呼ばなくていい」
「それですと対外的には密葬となってしまいます。 旦那様が喪主でしたらそうなさっても何も問題はないのですが、皇王族が喪主なのに密葬なさるのは死者が罪人か、自害なさった場合に限られます。 喪主代行に決定権がある事とは言え、密葬を選択なさればサリ様に恥をかかせた、と旦那様が世間から強く非難される事になりましょう。
どなたか、それは婚約者であるオスティガード殿下に恥をかかせたも同然、とお考えになるかもしれません。 そのどなたかが皇王妃陛下であった場合、たとえ皇王陛下がお庇い下さったとしても相当揉めるかと存じます。 ヴィジャヤン派閥内でさえ旦那様を庇う方々とサリ様のお立場を優先なさる方々、二つに分かれるのではないでしょうか」
大きなため息が零れる。 これじゃ万が一があったとしても俺が泣いている暇はなさそう。
「じゃ、トビがいいように決めて。 俺は言われた通りにするから」
「葬儀の詳細が決められるのは喪主か、その代行のみでございます。 又、皇王族の代行は三親等以内の血縁、もしくは祭祀長か将軍にしか許されておりません。 旦那様が喪主でしたら私が代行を務める事は可能ですが」
「誰が決めたかなんて、こちらから言わない限り誰にも分からないだろ」
「なぜそういう選択をなさったのか、後で必ず理由を聞かれます。 主要項目だけで百を越える選択。 その理由を全て覚えて下さいますか?」
覚えられるよ、それくらい、なんて言ったらケルパのぶーを食らっちゃう。 がんばった所で覚えられるのは三つか四つだ。 何しろ自分で決めた事でさえしょっちゅう忘れているんだから。
苦し紛れに呟いた。
「すぐに覚えなくたって、一日に二つ、いや、三つづつ覚えればいいだろ。 だめ?」
「スティバル祭祀長とモンドー将軍へは葬儀前に詳細を御報告なさらねばなりません。 ですから半日か、長くても一日で全てを覚えて戴く必要がございます」
「そのお二人なら理由なんかはっきり言わなくても突っ込んだりしないよ、きっと」
「何分準皇王族が喪主となった葬儀の前例がないだけに、今回の葬儀が前例となるでしょう。 前例はしきたりとなり、しきたりにはなぜそうなったか、その理由が必ず記録されるもの。 なのでお二人から質問されなかったとしても、お側で仔細を記録している者か、後で尚書庁の書記が必ず質問するはずです。
例えば冬に行われる葬儀の際、熱い甘酒か甘茶を弔問客に振る舞いますが、それはお寒い中、弔問に訪れて下さったお客様のお体を温める為のもの。 ですから夏は冷たいお水かお茶を振る舞います。 熱いお酒やお茶を出したりは致しません。 理由が明記されていないと葬儀では必ず熱い飲み物を振る舞うしきたりとなり、夏の葬儀に出席する弔問客にとって汗だくの弔問となってしまいます」
まさかこの俺が前例になる日が来ようとは。
「うーん。 師範なら、適当に決めた、理由なんかない、とか言いそうだけどな。 あ。 だから? 代行は師範の方が面倒がないから今の内に知らせておけ、て事?」
「いえ、代行は旦那様がなさった方がよろしいかと存じます。 何か不手際があった場合、旦那様でしたら叱責か養育権の取り上げで済むでしょうが、タケオ大隊長でしたら叱責程度では済まないでしょう。 死罪となる事さえ考えられます。 ですがタケオ大隊長にお願いなさるのでしたら尚の事、大凡であっても旦那様が葬儀の流れをお決めになっておかれませんと」
「おじい様の葬儀、おばあ様の時も父上のお側で見ていたけど、父上は弔問客に挨拶していただけで何も決めたりしていなかったよ」
「旦那様の御実家は何十代も続いた伯爵家。 葬儀に関するしきたりは全て決められております。 悪天候の際はどこに弔問客を案内するかまで。 その理由も、執事は勿論、下男に至る奉公人全員が承知しておりました。
何分当家は新興貴族。 今の所何も決められておりません。 しかもこの葬儀は北方伯家が出す訳でも、準大公家として出す訳でもない、成人前の準皇王族が喪主という前例がない葬儀。 決めねばならない事だらけと申しても過言ではないのです」
正直言って葬儀の「そ」の字も聞きたくない。 でもトビの目が、お決めにならない内は逃しません、と言っている。 その気持ちは分かるんだ。 間際にならないと、時には間際になっても決められない俺の性格をトビはよーく知っている。 今決めなかったらおそらくいつまで待った所で俺が決める事はない、と。
「決めねばならない、て。 例えば何?」
「まず葬儀場。 旦那様はケルパ神社の筆頭檀家でいらっしゃいます。 旦那様が喪主でしたらそこで葬式を行っても文句は付けられなかったと思いますが。 喪主の実家がその神社の檀家だからという理由で葬儀場が決まった例はなく、申請しても却下され、葬儀の開始が遅れる恐れがございます。 何分夏。 かと言って埋葬を葬儀より先にする訳にもまいりません」
「どういう理由ならいいの?」
「どのような理由があったとしてもケルパ神社で葬儀を行う事は難しいでしょう。 旦那様はお気になさっていらっしゃいませんが、ランティーニ大僧は平民出身。 僧は俗世の身分を捨てるのが建前、とは申しましても世間は、そして何より皇王庁は、僧の出自を気にします。
それに葬儀場がケルパ神社と知った者の中には、こちらに直接言うよりケルパ神社へ手を回そうとする者がいるのではないでしょうか。 ケルパ神社が養っている孤児達を誘拐して大僧を脅そうとする者さえいないとは言い切れません。 別格神社と指定されたとは申しましても僧兵に守られている訳でもなく、境内には平民だろうと許可なく入れる神社です。 御迷惑をお掛けする事は確実で、あちらから辞退を申し出る事が予想されます。
加えてあの境内では入れたとしてもせいぜい二千人でしょう。 万の弔問客が押し寄せたら境内に入れない弔問客が溢れて道を塞ぎ、誰も通れなくなります。 我先に通ろうとする弔問客同士で争い、乱闘事件に発展しないものでもございません。
どうしてもケルパ神社で、とごり押し出来ない事もないでしょうが。 その結果事件が起これば旦那様の責任を問われる事は必至。 テイソーザ長官とスティバル祭祀長はお庇い下さるかもしれません。 しかし刑事事件となった場合、管轄は大審院。 被害者と加害者のどちらか、或いは両方が外国人なら宰相が担当する事になります」
俺が被害者ならともかく、刑事事件の加害者として訴えられたら養育権取り上げになるのは確実だ。 最終的には無罪になったとしても裁判の最中ずっと皇都に足止めされる。 何年も。 その間サリとは会わせてもらえないだろう。
「はああ。 なら、葬儀は神域でさせてもらえないか、スティバル祭祀長に泣きついてみるよ。 御好意に何度も甘えるのは心苦しいけど。 他に適当な場所なんてないよな?」
「葬儀場が神域と決まりましたら、次は軍式か、神式、どちらの流儀に従うかを決めねばなりません」
「軍式でいい。 そちらの方が慣れているから」
「その場合、別途決めねばならない事が数々ございます。 お棺をいつまで安置するか。 弔問客にお別れを告げる機会を与えるのか。 火葬か土葬か。 墓地はどこ。 墓石は誰が作る。 墓碑銘はどうする。 これら全てをタケオ大隊長に丸投げなさっては、かなりのお怒りとなって返って来るのではないでしょうか」
ばりばりに怒っている師範の顔がありありと目に浮かび、夏とは思えない寒気がした。
「えーと、代行は師範じゃなくても。 スティバル祭祀長にお願い出来るんだよな?」
「いえ、葬儀の主祭と喪主代行を同時にこなすのは、矢を前と後ろに同時に放てと言うようなもの。 どちらかをネイゲフラン中央祭祀長にお願いする事になります」
げっ。 あの不気味な御方にお願いする? 別な意味で涙が止まらなくなりそう。 又お会いすると考えただけで鳥肌が立った。
「そ、それは勘弁して。 あ。 喪主代行はモンドー将軍にお願いしてもいいんだろ?」
「それですと、詳細はお前が決めろと命じられてしまうのでは? 実際動くのは旦那様ならば、旦那様が喪主代行をお務めなさるのと同じ事ではないかと」
「うう。 要するに、葬式なんか知った事か、では済ませられない?」
「タケオ大隊長から何かしらお訊ねがございませんでしたか? 葬式はどうすると質問されたとしても不躾にはあたりません。 出産での死亡率を考えれば逆子でなかったとしても聞いておくべき事なのです」
「何も聞かれていないよ。 いつも通りの無口。 葬式どころかお産についても。 リネはどうしてる、もなし」
「旦那様は普段、タケオ大隊長にあれこれお話しになる。 サリ様だけでなく、奥様の御様子も。 全くお話しにならない事で、何かあった、と気付かれたのでは?」
「それは。 まあ、な。 勘が鋭い人だし。 逆子だって、もう知っていて黙っているのかも。 知らないとしても俺の様子がおかしいのは安産かどうかを心配をしているせいと思ったら、理由を聞いたりしないだろ。 しなくてもいい心配をしていると思うだけで」
これに限らず師範が何を考えているかなんて俺にはさっぱり分からない。 但し、それは俺だけじゃなく、毎日一緒に稽古している剣士の皆さんにも分からないらしい。 体調とか機嫌の善し悪しなら分かるが。 ポクソン補佐とボーザー執事には師範が読めるという噂だが、どちらに聞いたって何も教えてくれない。 なら何も知らないのと同じ事だ。
「俺にしてみれば何も聞かれないのは有り難いし」
「もし逆子の事を御存知の上で何も聞いて来ないのだとしたら、代行を断るおつもりだからでは?」
だとしたらやばい。 考えてみればリネとヨネ義姉上は仲良しで、よく行き来している。 リネが何も言わなかったとしても勘の鋭いヨネ義姉上が気付いて師範に言ったかも? とは言え、本当に何も知らないのかもしれない。 師範は剣以外の事に疎い。 ある意味、俺より世間知らずな所があるから。
例えば、ケルパ神社の魔除けのお札。 これはバカ売れしていて神社の大切な収入源になっている。 師範だって一応ケルパ神社の檀家だし、お札に付いている絵はどれもボーザーが手配した。 なのにお札が売られている事さえ知らなかったんだ。
因みに一番売れているのは猛虎の絵入り。 ロックや弓矢の絵入りもあるけど、二番は海坊主。 三番はサリ。 とはどこにも言っていないが、赤ん坊の産着に北方伯家の家紋っぽいものがぽちっと付いている。 最近青竜が売り出されて好調らしい。 だから売上順位は変わるかもしれないが、弓矢が猛虎を追い越す見込みはまずない。 なのに師範ときたら。
「お札売り上げ第一位、おめでとうございます」
「お札? 何だ。 そんなものが売られているのか? それがどうした」
「嬉しくないんですか?」
「金が俺の懐に入る訳でもないのに何が嬉しい」
「だって人気があるって証拠でしょ」
「お前の方がもっと人気があるだろ」
「じゃあ、なぜ猛虎の絵入りの方が弓矢の三倍売れているんですか?」
「そっちの方が安いんだろ」
「値段は全部同じですっ」
こうだもんな。 これでも師範は世間から下々の事情に通じていると思われている。 実際は玩具やお菓子の値段だって知らない。 下々の事情に疎いと言われている俺より疎いのに。
師範は下々だけでなく社交界の噂にだって疎い。 ナジューラ義兄上とレイ義兄上の結婚だって出席するんじゃなきゃ日取りとか、式が終わるまで知らなかっただろう。 ボーザーとヨネ義姉上がしっかりしているから師範が何も知らなくても不義理をする事にはなっていないが。
ただ何も知らないと決めつける事は出来ない。 師範だって爵位は準伯爵。 上級貴族の親戚も沢山いるし、そっちこっちから情報が集まって来ているはずだ。
父上を見ていると貴族の情報網のすごさが分かる。 一体誰から聞いたのか、トビが陛下に手紙で乳母の勤続をお強請りした事まで知っていたし。 世間の噂にはなっていなくとも父上なら逆子の事をもう御存知のような気がする。 父上が知っているから上級貴族なら誰でも知っているとは思わないが、マッギニス補佐は俺が教える前に知っていた。 いつ知ったか、誰から聞いたのかは知らないけど、たぶん実家にも教えたんじゃない?
ヨネ義姉上だってこんな重要な事を知ったら実家に黙っているか? ならグゲン侯爵も知っている訳だ。 軍も把握しているのは冠婚葬祭だけじゃない。 誰と誰が喧嘩したとか、ほとんどの人が見逃しそうな些細な事でさえカルア補佐なら見逃さない。 シュエリの暗算が誰よりも正確で早い事もカルア補佐から聞いたんだ。 するとモンドー将軍もとっくに逆子の事を御存知、という事になる。
じゃ俺は、どうせもう知っているんだろ、という態度でいい? それとも相手がせっかく知らない振りをしてくれているんだから、こちらも知らない振りをするのが礼儀? そこら辺の見極めが俺には出来ない。
散々迷った末、ともかく師範には早めに言っておく事にした。
「あの、リネの赤ちゃん、逆子らしくて。 難産だったら手術するよう、メイレに頼みました」
「そうか」
それっきり。 あっさり過ぎて拍子抜けした。 手術については勿論、葬式についても聞いて来ない。 師範に代行を断られる前提で、俺が一応の所は決めておいたから師範が決めなきゃいけない事はないんだけどさ。
そこで初めて気付いた。 師範に言うのはまだいい。 今教えたせいで後で迷惑を掛ける事になるかもしれないが、べそべそ泣いて謝れば誤摩化されてくれる。 拳骨が飛んで来たとしても後を引く事は滅多にない。 七頭目はお前がやられてから殺せばよかった、とは今でも時々愚痴られているが。 まあ、それくらいは言わせてあげないと、溜め込んで爆発されても困る。
だけどレイ義兄上の結婚式で会う沢山の上級貴族にはどうしたらいい? 泣けば誤摩化されてくれる上級貴族なんていやしない。 金、家、名誉、義理、世間体が絡んだら特に。 親戚だからどうした、て感じ。 いや、親戚だからこそ余計、拘るだろう。 俺に事前に知らされたかどうか。 そして知らされた順番。 他の親戚に比べて早いか遅いか。 その順位が末代まで尾を引く事を知っているから。 逆子の噂はいずれ広まるだろうし、俺に言われる前から知っていた人もいるだろうが、それでも。
誰にも言わないで済むなら簡単だ。 でもサジ兄上には助けてもらわなくちゃいけないから言わない訳にはいかない。 父上とサガ兄上にも。 手術が成功したとしても世間に無難な説明を広める手助けをしてもらわないと。 その三人で終わりに出来るか? レイ殿とナジューラ殿には伝えておいた方がよい、と父上から意見されたらどうする?
義兄上達はとっくに知っているような気はするけど、義姉上達は? 義姉上達には言わないで、と口止めする? しない? 義姉上達には言ってもいいけど、義姉上達の実家には言わないで、と頼む? 頼まないなら言ってもいい、て事?
誰にも言うなと奉公人に口止めした手前、逆子の事、もう御存知ですか、と俺が聞き回る訳にもいかない。 すると親戚の中に、もう知っている人、まだ知らない人、知っているけど知らないふりをしている人がいる訳だ。 皆さんに同じ態度でいいの? 悪いの?
本当は知らないのにカマをかけて来る人もいたりして? さぞかし御心配でしょう、と気遣われたら何と答える? 大丈夫です、て? 手術が成功すれば大丈夫なんだから嘘じゃないが。 隠し事が苦手な俺が平気な顔をしてそう言えるか?
言ってもいいけどさ、何度平気な顔を練習しても未だに誰からも合格点をもらえていない。 あまりにわざとらしいんだと。 わざとやっているんだから、わざとらしくていいんじゃないの?
その点、上流貴族は平気な顔のプロだ。 腹の中では俺を嫌っていようと嬉しそうに肩を抱き寄せたりする。 俺なんかちょろいから、そんな親友扱いされたら開腹手術の事までべらべらしゃべっちゃいそう。
ほんと、今更だけど。 結婚式に出席すると言った事を猛烈に後悔した。 それでなくてもお目出度い席で不景気な顔を見せる訳にはいかない。 リネの事がどんなに心配だろうと。 にこにこ笑ってヒャラを踊り、御飯を美味しそうに食べないと、何か不手際があった故の不機嫌ではとか、この結婚が気に入らないから仏頂面なんだと思われる。
いっそ欠席したいが、そんな事をしたらレイ義兄上の面子は丸潰れだ。 式と式後の舞踏会だけは何があっても出席しないと。 レイ義兄上は俺の為だけにわざわざ新しい駐竜場を何カ所も作ってくれた。 それだけじゃない。 北からヘルセス本邸まで空から見える目印を付けたんだとか。 ヘルセス領まで一度も飛んだ事のない俺が迷わないように。 それだけで一体何千万ルーク使ったんだか想像もつかない。 御祝儀を百万ルークあげたって到底追いつかない額である事だけは確か。
別に空き地に止まってもよかったのに。 とは言っても飛竜の餌と水が準備されていない所で着陸したら腹が減った飛竜は誰の物だろうとお構いなしに目に付いた穀物を食べるだろう。 いくら俺が金を払う気でいたって相手は受け取らないかもしれない。 でなけりゃヘルセス家が払おうとするとか。 どっちにしてもすごい迷惑を掛ける事に変わりはないんだ。
それに辺りに何もない所じゃないと離着陸出来ないから俺と師範はそこで野宿する事になる。 そんなの全然平気だが、世間から見ればダンホフの痒い所に手が届くもてなしとの差は明らかで。 レイ義兄上本人は気にしなくてもヘルセス家の親類縁者やキャシロさんの実家は気にすると思う。
でも金を使わせたからって逆子や手術の事を話すの? 話さないなら何を話せばいい?
俺は未だに貴族の当たり障りのない話というのがうまく出来ない。 俺に関心のある話題はどれも地雷がてんこ盛りだ。 サリの事、軍の事、領民の事。 リネのおめでたは何もなければ格好の無難な話題なんだ。 それを一生懸命避けようとしたらレイ義兄上に気付かれる。 かと言って俺が無口を決め込んだらすごく変だし。
はあ。 師範が羨ましい。 普段無口な人だから何も話さなくたって誰も変とは思わない。 用がある人以外誰も話し掛けないし。 師範がちらっと目線を投げてやっただけで女性も男性も大満足。 お目に留まった、と辺りに自慢している。
ダンホフの結婚式の時だってあれだけ沢山の人が出席していたのに、挨拶と用事以外の会話を交わしたのは父上、サガ兄上、サジ兄上、グゲン侯爵と息子のヨラ、ナジューラ義兄上、レイ義兄上、オスタドカ東軍副将軍、マッギニス侯爵とか、そんなもん。
ヘルセス本邸へ向かう旅の間も師範はずっと無口のまんま。 偶に頷いたり首を横に振ったりはしたが。 まるで無口になる薬があって、それをしこたま呑んだみたい。
なんで黙っていられるんだろ? 俺だったら沈黙が気になって黙っていられない。
「ね、師範。 無口になる秘訣を教えてもらえません?」
俺のお願いはきれいにスルーされた。 さすがは無口のプロ。
昔、昔、その昔なら、バカを言うんじゃないとか、無駄な事はするな、みたいな長めの返事があった。 それが段々短くなり、バカ、無駄、ふん。 仕舞いに、けっ、ちっ。 それでもつい最近まで一文字半以上の反応があったのに。 今やそれもなし。
ここまで来るとマッギニス補佐より上かも? マッギニス補佐の場合俺が一応上官だからかもしれないが、返事がある事はあるんだ。 例えば。
「お子さん、元気にしてる?」
「決算報告書に変更がありました」
ただこの質問に関しては答えたくない事情があった可能性はある。 フロロバによると、とても元気なお子さんらしいが、冷たい手をぴたっと人の首筋にくっつけて飛び上がらせたりするいたずらが大好きなんだって。 お友達にはなりたくないタイプかもしれない。
待てよ。 きれいにスルーすればいいだなんて。 よくよく考えてみればそれってすごく簡単、だよな? 俺にだってやろうと思えばやれるはず。 やろうと思わなかっただけで。
よし。 頭の中で練習してみよう。 相手は誰がいいかな。
母上、とか。 ちょっと難易度高め? だけど母上相手に無口を通せたら誰が相手でも何とかなりそうな気がする。 世間では最強と噂されている俺の涙目だが、それは北に母上の目力を見た人はいないからだ。 皇都の上流社会に行けば俺を最強と言う人なんか一人もいやしない。
母上のお顔を思い浮かべる。
「サダ様?」
語尾がちょっと上がっているだけでまだ何も聞かれていない。 なのに頭の中の俺は洗いざらいしゃべり始めた。 逆子の事。 開腹手術の事。 葬儀の事、するとなったら何を選ぶか。 その理由。
練習相手を選び間違えただけかもしれないが。 弓は下手でも無口が上手だったら、俺の人生、こんなに苦労しなくても済んだろうに。