逆子
「逆子なんです」
リネの診察を終えたばかりのメイレが、それはそれは不景気な顔で言った。
逆子?
それは葬式や弔問、でなければ故人の思い出を話したりする時に囁かれる言葉だ。 確か、バーグルンド南軍将軍夫人が亡くなった理由も、それ。
身分が高かろうと出産が命がけである事に変わりはない。 貴族の正妻が何人も子供を産んだりしないのは、それが理由の一つらしい。 俺の母上のように第一子が男なのに三人も産むのは珍しいと聞いた事がある。 幸い俺の実家で逆子で死んだ人はいないけど、それは代々正妻しか娶らないので出産の数が少ないからだと思う。 俺の父方祖母は俺の父、つまり一人しか産まなかった。
貴族は妻より子を救う事を優先する。 だから逆子は貴族の女性にとって死の宣告も同然だ。
え? て事は、リネが死ぬ? 風邪さえ引かないリネが? まさか。
そりゃ健康だから逆子にならないとは限らないし、逆子を治す薬がある訳でもない。 出産で死ぬ女性なら毎年、いや、毎月、沢山いる。 それでも何となく信じていた。 リネなら大丈夫、と。
ただいくら呑気な俺でも心のどこかに恐れる気持ちはあって。 だから二人目を授かったと分かった時、リネに出産を諦める気はないか、聞いたんだ。
「あのさ、リネには元気でいつまでも俺の側に居てほしい。 その方が子供の数が増えるより嬉しいんだ。 元々俺は一生独身のつもりで子供を持つ気なんてなかった。 そりゃサリが生まれたのは嬉しいよ。 でも一人生まれただけで充分と言うか。 どんなにかわいくても子供は面倒事と抱き合わせと言うか。
瑞兆だからだけじゃなく、子供を育てるって色々大変だろ。 俺はともかく、お前が。 何もなくたって大変なのに、そのうえ第一子が瑞兆だ。 二人目も瑞兆となるとは思えないけど、サリの弟か妹というだけで面倒事に巻き込まれるよな?
俺が死んでもお前が準大公夫人なのは変わらないし、伯爵位は返上しても構わないと思っている。 それにその、中絶する薬ならあるから」
リネは目をまん丸にして何も言わず、しばらくもじもじしていたが、俺に顔を覗き込まれて遠慮がちに呟いた。
「あの、産むのは、だめなんでしょうか?」
「いや、だめって事はないけどさ。 リネは本当にそれでいいの? 前回は安産だって毎回安産と決まってはいないだろ。 難産だったら痛い目を見るのはお前なんだぜ」
「でも子供が一人だけなのは。 それにサリ様がお輿入れなさったら滅多に会えないんですよね?」
「ま、そう、なるだろな。 子供が側にいないと寂しい?」
「それは、その、」
はっきり寂しいと言うのは気が引けるみたいで、リネが口ごもる。 寂しいなんて準大公夫人が言うもんじゃない、と誰かに言われたのかも。
誰にも言われなくともリネは空気が読める。 いい意味で準大公夫人らしくないと言われている時もあるが、そうじゃない時もある事は感じているだろう。 空気が読めない俺にだって分かるくらいだ。
俺は自分が何と言われようと、はいはい、すみませんね、で流しているけどさ。 準大公らしくない、青竜の騎士らしくない、ギラムシオらしくない、英雄らしくない、大隊長らしくない、領主らしくない、英雄らしくない。 ええ、ええ、どういう意味で言われているかくらい分かっていますとも。
だから何。 それ、どれも俺がなりたくてなった訳じゃないし。 爵位を取り上げられたって、べっつにー。 親子三人食うに困らないくらいの金はある。 それに他はともかく、俺の部下でもない人から大隊長らしくないだの、俺の領民でもない人から領主らしくないと文句を言われたくない。
世間なんて勝手なもんさ。 俺がどんなにがんばろうと必ず誰かは何か文句を言う。 俺がわざと変わった事をしているみたいに。
まあ、親子で川の字になって寝たのはまずかったと思うが。 リネが子供の頃そうしていたと聞いて、俺もやってみたくなったんだ。 まさかこれが世間に顔向け出来ないような恥ずべき事だったとは。 夜中にサリを見に来たエナに叩き起こされ大泣きされた挙げ句、トビとカナとベイダー先生それぞれからがっつり油を絞られた。 たかいたかいもオベルテ執務官の前でやったのはまずかったみたいだし。
叩けば埃が出る体、とモンドー将軍から呆れられた前科もある俺だ。 その他にも色々やっている。 奉公人の中に告げ口するような人はいないから知られていないだけで。
養育権は今の所取り上げられずに済んでいるが、教育方針の件ではオベルテ執務官を怒らせた。 いつ取り上げられても不思議じゃない。 取り上げられなかったとしてもサリはお嫁にいくまでの「お預かり」だ。 実子だろうと自分の好きなようには育てられない。 それを子供好きのリネが寂しいと思わないはずはないんだ。
リネが俺に愚痴らしい愚痴をこぼした事はないけど、準大公夫人として暮らすのだってきついだろう。 俺と同じく人付き合いや舞踏会が苦手なタイプだし。 外出の類はほとんどお断りしているらしいが、それでも予定が入っていない日はない。 貴族のしきたりや儀礼の勉強、剣の稽古に歌の練習もしている。 在宅で仕事をしているようなもんだ。
毎日忙しいから自分の親とだって気軽に会えない。 リネが最後に親の顔を見たのは二年前の師範の結婚式。 こちらから何度も招待はしているが、向こうが平民である事を気にしているみたい。
おまけにリネは真面目な質だ。 時々俺が突然家に帰ったりしてもリネがまったり昼寝している姿なんて見た事は一度もない。 奉公人がきちんとしているのに女主の私がだらっとしていたら恥ずかしいです、とか言ってさ。 奉公人がきちんとしているから主がだらっと出来るのに。
俺が居れば、一緒にだらだらしてくれなきゃ嫌だ、とか言って休ませてあげられるが。 何もしていないように見える俺でも結構忙しい。 そんな機会は半年に一回あるかないか。 あっちに行け、こっちに出席しろと命令されたら行かない訳にはいかないし、領地にも顔を出している。 出張に妻を同伴は出来ないし、今回の親戚の結婚式のように私用でもこちらの都合で同伴出来なかったり。 で、家を留守にするのはしょっちゅう。 竜鈴の時のように命令されていなくても突然どこかに飛んで行って何日も戻らなかったり、余計な心配ならいくらでも掛けている。
どれにもちゃんとした理由があるとは言え、結局リネには毎日寂しい思いをさせている事には変わりない。 それを知っているから、ついノノミーアを拾っちゃったんだ。 ケルパは番犬で愛想を振りまくタイプの犬じゃないし、猫なら気を遣わなくてもいい。 リネの寂しさを紛らわせてくれるだろ。 その猫が猫又だったせいでベイダー先生、タイマーザ先生を始め、ナジューラ義兄上や親戚の皆さんを奔走させる事になったのは申し訳なかったが、リネに新婚の頃のような明るさが戻った。 とは言っても猫だけじゃ埋められないものもあるよな。
普通の貴族の夫なら妻に正嫡子を二人産めと言う。 義務として。 世間の言う事なんか気にするな、と俺が言ったってリネが気にしないはずはない。 だから余計、二人目を授かってすごく喜んでいるリネに産むなとは言えなかった。
母上だって三人産んだし、もう一人くらい何とかなるんじゃない? そんな安易な考えで出産に同意した事を今更だけど後悔した。 今まで誰それの奥さんが出産の時に亡くなったという噂を聞いても、気の毒に、と思っただけだが今度は自分の番。
リネがいない朝とリネがいない夜。 それが毎日続く。 そう考えた途端、地面がパカッと口を開け、地の奥へと吸い込まれて行くような感じがした。
リネ リネ リネ
逞しい腕で俺を安心させてくれるリネ。 ここはリネがいるから我が家なんだ。 いないなら寝泊まり出来る宿と変わらない。 我が家がこの世から消える? そんな日が来るだなんて夢にも考えなかった。
毎日のように師範を怒らせて。 今生きているのだって不思議なんだ。 俺の方が先に死ぬんじゃなきゃ絶対おかしいだろ。
単なる聞き間違いだよな? ほら、俺ってしょっちゃう聞き間違いする人だし。
あ、さかごと呼ばれる籠? そんなのあり? ま、俺が物知らずなのは今に始まった事でもない。
「さ、さ、」
言葉がすんなり出て来ない。
「さ、逆さ籠? て、何だっけ?」
メイレが困った顔をした。
「予定日まで余裕はありますが、何分臨月。 大隊長がお留守の間に奥様が産気づくかもしれません。 それでヘルセス領へ御出発なさる前に治療方針に関する御希望を伺っておきたいのです」
「治療方針?」
「大きく分けて二つ考えられるので。 まずそれから説明させて下さい」
そう言ってメイレが一枚の紙を取り出した。
「ちょっと待って。 ここにトビを呼んで」
逆子だなんて俺の聞き間違いに決まっているが、じゃ何の事を言っているのか? 俺には分からない。 でもトビならちゃんと分かるはずだ。
「奥様もお呼びしますか?」
「う。 えーと、いや、今はいい」
執務室に入って来たトビはいつも通り。 メイレから逆子と聞いても全く驚いていない。 やっぱり俺が大袈裟だった? ところがメイレが差し出した紙の一番上には「開腹手術」と書いてある。
げぇっ。 これって。 お腹を切るって事だよな?
「難産になった場合、開腹手術によって子供を取り上げる方法があります」
「そんな事をしたらリネが死んじゃう!」
「いえ、母子共に助かります。 手術が成功すれば、ですが」
「えっ! ほ、ほんと? でも。 痛い、よな?」
「眠り薬を使えば痛みを感じる事はほとんどないです。 私の父は開腹手術によって逆子を二十人、取り上げました。 私も一度その手術をした事があります。 後援部隊の女性兵士が難産で。 母子共に助かりました」
「おお」
助かる可能性があると分かっただけでも嬉しい。 メイレならたとえ一回もやった事がない手術だって、きっと成功させてくれる。 とは思うが念の為、トビに聞いた。
「なら、手術するべきだよな?」
「それをお決めになる前に、ベイダー先生の御意見を伺う必要があるかと存じます」
トビがベイダー先生を呼び、メイレの診断と開腹手術を伝えて質問した。
「奥様はサリ様の一親等でいらっしゃる。 準皇王族の一親等に傷を付ける者がいたら、その傷がたとえ命に関わるものではなくても傷を付けた者は死罪になると聞いているが。 傷を付けた者が医者で、救命が目的の治療行為なら問題にはならないと思うか?」
「奥様は準皇王族の一親等ではいらっしゃいましても臣下。 ですので医師から治療を受ける前に皇王庁からお許しを得る必要はありません。 しかしその手術が失敗した場合、どう申し開きをするかについては考えておかねばならないでしょう。
理由が逆子でしたら奥様がお亡くなりになっても不思議はなく、お子様が助かっていれば深刻な事態にはならないと思いますが。 お子様も助からなかった場合、微妙な所です」
「微妙って。 何がどう微妙なの?」
「逆子であっても自然分娩で生まれる場合がございます。 産まれて来るお子様はサリ様の弟君か妹君。 準皇王族の二親等なので、死亡した場合その理由を大審院が審問するはずです。 医療行為に不備、或いは医師に殺意はなかったか」
「メイレは人参を一ミリ正方形に切れる腕なんだぜ。 不備なんてある訳ないし。 殺意って。 冗談じゃない」
「旦那様の御信頼を大審院が共有して下さるかどうかは分かりません。 噂では後宮でも開腹手術が行われた前例があるようですが、いずれも子供のみ救われた手術。 母子共、又は母のみが救われた手術の前例を知っている者がいないのです。
前例がないとすると、その手術をして子供が助からなかった場合、大審院がその結果をどのように受け止めるか。 奥様は不問にされたとしても医師は準皇王族の二親等に対する傷害致死罪と判断されるかもしれません。 その場合メイレの死罪が確定します。 その手術を許可なさった旦那様の責任も追及されるでしょう」
せっかく見つけた希望の光を吹き消されたような気がした。 こんな事を言われ、メイレにやる気をなくされたら困る。 恐る恐るメイレの顔を窺うと平気な顔をしていたからほっとしたが。
死神というあだ名が災いし、メイレを我が家の専属医師として雇う事に許可が下りなかった。 だからメイレは住み込みだけど北軍兵士で俺の奉公人じゃない。 軍から死罪を宣告されたらそれまで。 直属上官だろうと止められない。
俺だって青竜の騎士に叙されて陛下直属の武人となった。 でも大審院の判決は陛下からの命令と同じ。 従わなくちゃならない。 モンドー将軍は庇って下さると思うが、覆せないだろう。 皇寵を使って陛下にお強請りすれば覆せるかもしれないが。 俺は教育方針だってまともに答えられず、執務官を追い返したばかり。 普段の行いが悪いだけに陛下でさえ庇い切れないかも。 はっきり言って出たとこ勝負だ。 開腹手術をしなけりゃ母子共に死んだってメイレが責任を問われる心配はないのに。
開腹手術の下に自然分娩と書いてある。 分娩の娩を何と読むのか分からなかったが、トビがさりげなく「ぶんべん」とふりがなを付けてくれた。
「メイレ。 自然分娩、て。 つまり手術をしなくてもどっちも助かる可能性がある、て事?」
「あります。 逆子でも両足を揃えて出て来たら大丈夫でしょう。 但し、出て来る子供の姿勢は様々で。 足から出て来ると決まってはおりません。 お尻からとか。 膝からの時もあるし。 片足だけ伸びている事もありました。 どこがどう引っかかって安産で済むか難産になるか、出産が始まるまで分からないのです。 奇跡が起こると信じて待ち続けていたら手遅れになるかもしれません。
タケオ家の侍女、ミンは二度、逆子の出産に立ち会った経験があり、一組は母子共に助からず、一組は子供だけ助かったと言っておりました」
「それって。 どちらも母親は助からなかった、て事じゃん」
「逆子の場合、母親が助かる事は珍しいのです」
ベイダー先生がメイレに質問した。
「私が調べた限りでは、開腹手術で母親が助かった例はありませんでした。 なぜないのか、理由を推測出来ますか」
「母親が死んでから子供を取り出したか、母体が失血に耐えられなかったのだと思います。 逆子を取り出す切り口をなるべく小さくし、取り出した後で傷口を素早く縫い合わせれば助かるのですが、母子共に死ぬのが当たり前、子供を助けただけで上々と思っていたら、どうせ死ぬ母親の傷の大きさなんて気にしないでしょう。 縫うのは無駄な手間でしかありません」
「すると縫合すれば手術しても母親が死亡する事はない、と?」
「父の患者の中には死んだ母親もいました。 私が覚えている限りでは二人」
「つまり十人に一人は助からなかった」
「はい。 だから絶対大丈夫とは言えません。 手術をすれば母子共に助かる可能性が高い、とは言えますが」
俺はトビとベイダー先生に向かって縋るように言った。
「可能性は高い方がいいに決まっているよな? な?」
どちらもうんと言わない。 簡単にうんと言う性格じゃない事は知っているが、この二人にさえうんと言ってもらえなかったらお先真っ暗。 俺は目にありったけの力を込めた。
うんと言って。 言って、言って、言って。 言ってくれなきゃ泣いちゃうかも。
これは結構効く。 ただトビとベイダー先生に試した事はない。 効かないとしたら、効かなかった人の名前が三人に増える。 因みに残りの一人は俺の母上。
二人は目顔で会話し、トビがベイダー先生に返答するよう促したようだ。
「旦那様。 はいと申し上げる事は容易ですが、これは手術の成功率が高いか低いかが問題なのではございません。 仮に手術は成功し、奥様が助かったとしても、お子様に問題があった場合、開腹手術をした事が原因とされるはずです。 そうなればメイレと旦那様の投獄は必至。 旦那様はともかく、メイレの死罪は免れないでしょう」
「成功したのに責められる? なっ、なんで? 子供に問題があったって手術の所為とは限らないだろ」
「しかし何分前例のない手術。 後宮では手術自体、滅多に行われないのです。 怪我、病気、理由が何であれ。 この点に関し、サジ・ヴィジャヤン殿の御意見を頂戴しては如何でしょうか」
「じゃ、サジ兄上がいいって言えば手術してもいいんだな?」
「そう簡単には。 御典医が開腹手術を正当な治療行為と認めたとしても大審院がその認識を採用するとは限りません。 大審院がこれは傷害事件であり、治療行為ではないと判断した場合、御典医の意見は無視される事も考えられます」
「でも、でもさ、この手術に成功したらいい前例になるよな? 後宮で逆子が産まれても命を救えるようになるだろ」
ベイダー先生は少し考えてから首を横に振った。
「たとえ奥様の手術が成功したとしても、それが後宮でも許されるかどうか、予測する事は難しいと申せます。 御典医の殺意を事前に察知する事は難しく、手術をしなければ暗殺の機会もない。 そう考えた者を説得するのは非常に困難です。 実際過去には御典医の振りをして暗殺を企てた者、本物の御典医であっても故意に手術を失敗した者がいたのですから。
手術を許可し、その手術が失敗した場合、その失敗をどう判断するか。 しきたりでは御典医だろうと誰だろうと皇王族を死なせた者は死罪。 その御典医を推挙した者も連座で処罰されます。 手術が許される事になれば御典医を推挙する者は一人もいなくなるでしょう。
又、逆子の手術を許すなら、なぜ他の手術は許されないのか、という議論に発展する可能性もございます。 前例がない事を許可する時はそれ以外にも考慮せねばならない事が多過ぎ、臨月でいらっしゃる奥様の出産に間に合うよう、皇王庁が最終決定を下せるとは考えられません。
旦那様でしたら陛下から直接お許しを戴く事が可能ですが、何分出産に関わる事。 皇王妃陛下のお許しも戴きませんと。 お許しがないのに強行した場合、大きな反発がありましょう。 将来、サリ様のお立場を非常に難しくする恐れもございます。 仮に両陛下からお許しを戴けたとしても、建国以来何百人もの皇王族女性が命を落とそうと変えられなかったしきたり。 それを変えるには乳母の年期を変えるよりも数倍複雑な手続きを踏む事になるかと存じます」
ベイダー先生は現実をありのままに告げているだけだ。 ベイダー先生が悪い訳じゃない。 じゃあ、手術を諦める? そしてリネが助からなかったら?
胸がロックの爪でぎゅっと掴まれたみたいに痛む。 俺のズボンの上に落ちる涙がしみを広げていく。
誰も何も言わない。 言えないよな。
リネを助けたいならメイレの手術が唯一の頼みの綱。 とは言っても手術したら死罪と聞かされて手術する気になれるか? いくら俺が許可したって。 失敗しても責めないと約束したって。 手術を許可した罪で俺も牢屋にぶち込まれたら俺の約束なんか何の助けにもならない。 手術しろと命じるのは上官である事を利用した公私混同だ。 いくら俺の家族の健康を守る事も任務に含まれていると言っても、自分の命を犠牲にしてまで上官の妻の命を救わなきゃいけない義理も義務もないんだから。
するとベイダー先生が言った。
「サジ・ヴィジャヤン殿が手術の立会人をなさり、必要かつ問題のない治療行為であったと証言して下されば、結果がどうあれ、その証言が採用されるかもしれません。 皇王族の兄弟の出産には御典医が立ち会うか、出産直後に確認するしきたりですので。 ただ早急に関係各方面へ根回しする必要がございます」
俺の薄ぼんやりした頭でも分かる。 この根回しが成功する確率はメイレの手術が成功する確率よりずっと低い。
俺は決心し、立ち上がってメイレに頭を下げた。
「頼む。 開腹手術をしてくれ。 この頼みはお前にとって迷惑でしかない事は分かっているが、お前に迷惑が掛からないよう、全力を尽くす」
「了解」
なんと。 あっさり引き受けてくれた。 ほんとに、と聞き返す勇気はない。 余計な質問をして気を変えられたら困る。
「ありがとう! ありがとう!
トビ、ベイダー先生。 根回しはしないで。 手術の事は誰にも言うな。 リネにも」
「大隊長。 あの、リスメイヤーには言ってもいいですか? 眠り薬を調合して貰わなくてはならないので」
「ああ、それは構わない。 住み込みの連中はどうせもう知っているんだろ」
ベイダー先生が今までにないくらい真剣な顔で言う。
「旦那様。 事前に根回しを致しませんと、何かあった時旦那様の責任問題となってしまいます」
「もしばれたら全部俺の責任でいい。 子供よりリネの命を助けたいのは俺のわがままだ。 そんな手術をしてもいいですか、と聞いたって相手を困らせるだけで誰もうんとは言わないよ。 リネに聞いたって。 子供を優先して下さい、とか言いそう。 そんな答え、聞きたくない」
ベイダー先生が不安げに言う。
「隠し切れるでしょうか。 サジ殿は筆頭御典医見習になられました。 筆頭御典医は本来陛下しか診ないしきたり。 ですので、出産確認にいらっしゃる御典医はサジ殿ではありません」
「それ、断ったらだめ?」
「皇王族の御兄弟の出生届は御典医が書いたもの以外、受け付けられません」
そこでトビがベイダー先生に向かって言う。
「サジ殿はサリ様の主治医になるはずだった御方。 サジ殿の代わりはまだ決まっていない。 出産確認なさる予定ではなかったとしても旦那様がお願いすればいらして下さるだろう」
「大丈夫。 サジ兄上なら俺が頼めばきっと来てくれる」
「それでしたら他の御典医も立ち会ったとしても身分は筆頭御典医見習の部下。 サジ殿の指示に従うと思いますが」
「ところで、メイレ。 逆子ってリネはもう知っているの?」
「私からはお子様の成長は順調とだけ申し上げています。 ですが、おそらくお気付きでしょう。 赤ちゃんがお腹を蹴るし。 時々ぽこんとお腹の一部が膨れるので頭の位置も分かります」
あのでっぱりは頭か。 だから奉公人はみんなもう知っていたんだ。
ほんと、俺ってば。 毎晩リネのお腹を触っているのに全然気付かなかった。 蹴りがこんなに低い所から来るのは変、て。
明日ヘルセス領に向けて出発する。 その夜、リネはいつもと変らず、にこにこしながら言った。
「親戚の皆様に何卒よろしくお伝え下さいませ」
「うん。 長居をする気はないから、どの人にもこんにちはさようならになると思うけど。
あ、忘れない内に言っておく。 たぶん、サジ兄上が我が家に来る」
「あら。 こちらに御用事でもおありですか」
「サリの兄弟が生まれた事を確認するのは御典医じゃなきゃだめなんだってさ」
「では飛竜で御一緒にお戻りになるのですね?」
「それは、どうだろ。 予定日まで間があるから、サジ兄上に聞いてみるよ。 陸路とどっちがいいか」
「お土産は何がよろしいでしょう?」
「土産? んなもんい、や、そうだな。 大峡谷の塩とか。 日持ちするからいいんじゃない」
「塩? わざわざ遠くからいらして下さるのに。 ユレイアお義姉様からも何かとお心遣い戴いてますし、それだけでは申し訳ないです」
「任せる。 適当でいい、適当で」
「適当、て」
くすくす笑うリネをそっと抱きしめる。 そしたら、とんとんとん、と赤ん坊の蹴りが入った。
「ぬうう。 これは。 うざいよ、父上。 母上から離れて、と言っている。 きっと男の子だ」
「まあ。 旦那様ったら」
「悪いな、サナ。 お前の母は俺の全てだ。 離すもんか」
リネのお腹に向かってそう語りかけたらリネの頬がほんのりと染まった。
朝、出発前にケルパ神社に参拝した。
どうか。 どうかリネをお守り下さい。