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弓と剣  作者: 淳A
遠雷
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強気  リネの話

「明日、きちんと対応出来るかなあ。 弱気な俺に」

 オスティガード殿下御名代をお迎えする最後の練習を終えた後、それはそれは大きなため息をつきながら旦那様がおっしゃった。

 弱気って。 旦那様が? 私から見たら、いえ、誰から見たって旦那様はすごく強気な御方だと思うんだけど。 旦那様が弱気なら強気な人ってどこの誰よ?

 そう思ったのは私だけではないようで。 旦那様の呟きを聞いた奉公人達の間に微妙な空気が漂い、皆が一斉にトビに向かって視線を投げた。 これを聞き逃すおつもりですか、と問うかのように。


 それにしてもなぜ弱気だと思ったのかしら。 普通、面と向かってあなたは弱気だと言う人なんていないでしょ。 入隊なさる遥か以前から無茶を無茶とも思わない強気な一面がおありでした、とトビが言ってたから、子供の頃誰かに弱気と言われてそう思い込んだ、て訳でもないだろうし。

 新兵の頃でさえ実家のお饅頭を悪く言われた事に頭に来て、あのマッギニス補佐にびしっと言い返した事があるんだとか。 当時の旦那様は階級も出自もマッギニス補佐よりずっと下だったのに。

 みんなにびびられているリイ兄さんにも平ちゃら。 一緒にお饅頭食べたり、遊ぼうと誘ったり。 それって強気な人にだって中々出来る事じゃないと思うの。 現にリイ兄さんは、サダ以外に遊ぼうと誘われた事はない、と言っていた。

 他の人なら悪夢に魘されそうな怖い目で睨まれようと構わず、何度も護衛を頼んだり。 護衛に殺されるかも、と思わないのかしら。 ここだけの話、あのリイ兄さんでさえ私に愚痴った事があったのよ。 あいつの強気には勝てん、て。


 私がお嫁に来た頃にはもう、六頭殺しと言えば強気、強気と言えば六頭殺しだった。 将軍様にも色々お願いしたみたい。 部下をこれ以上増やさないで下さい、とか。 そんな事、弱気な人だったら上官に言える?

 旦那様がダンホフ家の結婚式に出席してお留守の間だって神域でお世話になったんだけど、なんと将軍様が泊まり込みで警護して下さったの。 それも旦那様がお願いしたんですって。

「私事での留守に、このような御迷惑をおかけして。 大変申し訳ございません」

 恐縮して謝ったら将軍様が笑っておっしゃった。

「お気に召さるな。 青竜の騎士が飛来した所には多大なる繁栄が齎されたと言い伝えられております。 今回も例外ではない様子。 ならば手を貸すのは当然の事。 それにヴィジャヤンの頼みを下手に断って泣かれ、いや、まあ、我らが瑞兆とその御家族をお守りするのは名誉であり、我が身の幸運と申すもの」


 祭祀長様のような私にとっては神様も同然な御方にだって何度もお縋りしているし。 この間なんか祭祀長様から竜鈴をお預かりしてきた。 飾りは何も付いていないけど、拝みたくなるような有り難みのある鈴でね。 私だったら持って行けと言われたって触れない。

 よくよく聞いてみたら国宝なんですって。 旦那様が、ほら、とおっしゃってポケットから取り出した時はもうびっくり。 それ程すごいお品を旦那様ったらポケットに入れて持ち歩いていらっしゃるんだから。 あれはちょっと。


「あの、旦那様。 少々、その、不用心ではありませんか」

「だって鳴らしてみてと聞く度に家まで取りに行ってたら面倒じゃないか」

「え? 旦那様以外誰にも鳴らせない鈴、なんですよね?」

「そうみたい。 でも俺だって実際鳴らしてみるまでは鳴らせるとは知らなかったんだぜ」

「祭祀長様が鳴らしてみるようにとおっしゃったのは、どの飛竜にも乗れる人なんて今までいた試しがないのに、旦那様ならどの飛竜にも乗れたからだって聞きましたが」

「ま、物は試し、て言うだろ。 リネも鳴らしてみろよ」

 こうだから。 そう言われて鳴らしてみる私も私だけど。

 ほんと、旦那様には参っちゃう。 仕方ないから鈴が落っこちたりしないよう、鈴を首に掛けられるよう飾り紐を付けておきました。 周囲の人には試し終わったようで、竜鈴を家に置いてお仕事に行くようになったけど、マリジョーまで飛んだ時はアラウジョに家まで取りに来させたし。 落としたらどうしようとか思わないのかしら。


 陛下とだって、ツーカーって言うの? そりゃお目通りからお戻りになった旦那様はいつもよりずっとお疲れで、ふー、緊張した、とおっしゃる。 だけどその後、いつもと変わらない量の御飯を召し上がるのよ。 出先で何を召し上がったか教えて下さるから何も食べられなくてお腹が空いたという訳じゃない。 お相伴に与ると知っている時でも陛下のお出ましを待っている間にお腹が鳴ったりしないよう、食べてからお出掛けになるのに。

 それに私だったらどんな御馳走が出されたって陛下の御前で食べる事なんて出来ない。 新年舞踏会の時は豪華な食べ物、おつまみ、果物、飲み物が次々運ばれて来たけど、両陛下がすぐそこにいらっしゃると思うと一つも手をつけられなかった。 どうやらつわりのせいと思って下さったみたいで。 言い訳しなくて済んだのは助かったけど、自分の部屋へ戻った途端、お腹がぐうっと鳴っちゃった。

 でも旦那様は平気で結構な量を召し上がっていた。 フェラレーゼで食べた何とかと似てるとか、これは健康にいいらしいです、と両陛下とおしゃべりを楽しみながら。 食べ続けと言ってもいいくらい。 それなのに部屋に戻って私が卵雑炊を食べていたら、うまそうだな、とおっしゃる。 で、もう一人分頼んだらぺろり。 つまりいつもの倍近くを召し上がった訳。 これは単なる食いしん坊で強気とは関係ないかもしれないけど。 弱気でもないよね?


 ただ旦那様って、よく言い間違いをなさる。 もしかしたら、それ?

 じゃないみたい。 何をおっしゃる旦那様、という視線をみんなから向けられて、むっとなさった。

 あ。 これってやばいパターン。

「なんだよー、その、強気の言い間違いだろ、と言いたげな目。 俺がいつ強気な真似をしたって? 奉公人にさえ下手に出ているじゃないか。 リネもそう思うだろ、なっ?」

 いきなり聞かれて一瞬焦ったけど、私も段々こんな場面に慣れて来た。 全てうんと言わなきゃ叱られる、て訳でもないんだし。 とは言っても、これにはうんと言わなきゃきっとすねられちゃう。

 そりゃ旦那様は奉公人に意見されて押し切られたり、文句を言われてへこんだりする時もあるけど。 じゃ、弱気か、と聞かれたら、それはやっぱり違うと思うんだよね。 その証拠にサリは今でも毎日遊んでばかりいる。

 皇王族でなくても貴族なら下級貴族でも言葉が始まったと同時にお勉強を始めるものなんですって。 旦那様はそうじゃなかったけど、それは例外中の例外なんだとか。

 サリのお勉強については奉公人どころか上官や宮廷内のお偉い方々、親戚の皆さんに会う度に意見されている。 なのに旦那様ったら。 ベイダー先生が来て下さったから大丈夫とか、時期を見て、とお返事なさるだけで、どの忠告も聞き流していらっしゃるの。

 サリを養女に出す件にしてもマッギニス補佐のような北軍の強気第一位みたいな人と正面からぶつかって、それでも嫌なものは嫌、と我を押し通した。 それって旦那様が一位か、一位でなくてもかなり強気、て事なんじゃない? 担がれてお戻りになったから無傷って訳でもないけど。


 それはともかく、ここで苦し紛れに旦那様は弱気な御方と嘘をついたってすぐにばれる。 かと言って咄嗟に無難な返事をひねり出すなんて私には無理。 だからトビに丸投げした。

「あの、奉公人にさえ下手に出ているかどうかは奉公人に聞いてみませんと。 ねえ、トビ?」

 慌てず騒がずトビが胸を張る。

「北方伯家の家訓は強気を貫く。 初代様がその家訓に相応しい御方である事に関し、疑念を差し挟む余地など欠片もございません」

 旦那様が目を丸くなさった。

「家訓? 何、それ。 そんなもの、いつ出来たの?」

「叙爵された日、旦那様が陛下に奏上なさいました」

「そ、そうだっけ?」

「はい。 正確には陛下のお言葉への御返答により出来たものですが。 僭越ながら繰り返させて戴きます。


『困難な役目を物ともせず、前人未到の地にて瑞鳥ロックと見え、皇都へ飛来す。 その強気を貫く態度こそ瑞兆を呼び寄せし原動力。 不撓不屈の心ばえ、末代まで廃れぬ事を望むものなり』

 対する旦那様のお答え。

『それこそ我が家の家訓とすべき忝きお言葉。 皇恩に深き感謝を捧げ、子々孫々忠心を尽くす所存に候』


 以上は皇王庁公式記録であり、いつでも閲覧可能です。 家伝第一巻及び執事覚え書にも『強気を貫く』を家訓として記載致しました」


 旦那様があっけに取られ、お口を少し開けていらっしゃる。 たぶん叙爵の時の応答なんて何も覚えていらっしゃらなかったんでしょ。 私も側で聞いていたけど、当日は無我夢中で。 朝起きたら何も覚えていなかった。 それでカナに陛下のお言葉を復誦してもらい、その時意味も教えてもらったの。 家訓の事は今の今、トビに言われるまで忘れていたけど。

 ようやく我に返った様子で旦那様がおっしゃる。

「家伝、て。 そんな物まであったんだ」

「有爵の家に家伝は付き物。 準大公家に家伝がなくては空の矢筒も同然です。

 慣例に従い、第一巻は叙爵当日から始まっておりますが、叙爵に至った経緯として大峡谷探検と瑞鳥飛来に関する詳細も記載致しました。

 第二巻は旦那様の御幼少の頃について。 これはヴィジャヤン伯爵家の家伝より複写させて戴きました。

 第三巻は入隊以後の軍功と昇進を軍の機密に触れない範囲で記載し、御入籍までをカバーしております。 尚、機密事項は一子相伝、或いは執事口伝になるかと存じます。

 第四巻は資産及び領地と漁業の経営に関する詳細で一杯になりましたので、現在は第五巻を執筆中です。 内容は青い人との邂逅、竜鈴をお預かりした経緯になりましょう。

 因みにサリ様の御成長記録を家伝に記載するのは畏れ多い為、別巻にしております。 御親族の慶弔に関しては取りあえず執事覚え書に記載しており、いずれ別巻とする予定です」


 どうやら家訓と家伝にびっくりなさったあまり、強気な真似をしたかしないかという質問はすっぽり忘れちゃったみたい。 旦那様は何度かお口を開けたり閉じたりした後でおっしゃった。

「じゃ、まあ、寝るとするか。 明日はいろいろあるしな」

 それでちょっと早い時間だったけど、みんな寝室に下がった。

 二人きりになった途端、旦那様がもう一度大きなため息をつく。

「ほんとに大丈夫なのかなあ」

「何がですか?」

「オベルテ執務官の事。 養育権取り上げとか、しそうな人に見えるんだ」

「大丈夫ではないでしょうか。 奉公人は誰も心配していませんし」

「リネったら。 結構強気だよな」

 旦那様程では、と言い返しそうになったけど、そこはぐっと堪えた。 夜に旦那様の御機嫌を損ねたら明日を無事に乗り切る事は出来ないもの。 夜はいつも何か明るい話題を見つけるようにしている。


「儀礼のお稽古が無事に終わってよかったですね」

「それな。 練習を見ていただろ。 なんであんなに沢山変えなきゃいけないんだか。 去年と同じでいいじゃないか。 あれを直せ、これも直せ。 ブラダンコリエ先生たら、いーっぱい直したんだぜ。 先生のお手本を見ていただけで疲れて瞼が重くなっちゃった。 そしたら、これ程簡単では確かに眠気を誘うでしょう。 難度を上げた方がよろしいですか、だと。 ほんと、嫌みったらしい。 俺だって一生懸命やっているのに」

「あの、先生もお疲れだと思うんです。 毎晩書庫に泊まり込みなさったようですし」

「疲れているなら休暇を取ればいいだろ」

「その休暇中のお稽古はどうなさるおつもりですか。 準大公の儀礼教師が務まる人は儀礼庁広しといえどもブラダンコリエ先生以外いない、てベイダー先生から聞きましたよ」

「う。 それは、まあ、そうかもだけど」

「拝受さえ終わればオベルテ執務官はオスティガード殿下御名代ではなくなります。 儀礼の間違いがあったとしても見逃してくれるでしょう、とベイダー先生が言ってました。 旦那様の方が目上になるので」

「道理で拝受の所ばっかり何度も何度も練習させられた」

「あの、それと、書庫の長椅子を暖かい毛皮で覆ってもいいでしょうか。 書庫に火は入れておりません。 春先でもかなり冷え込むと思うので」

「そりゃ構わないけどさ、なんで寝泊まりしなきゃいけないくらい手順を変更したんだろ」

「何分破格の御好意で。 去年と同じ御礼では不充分らしいです」

「破格、なの?」

「はい。 御下賜品を所有している家からは爵位を取り上げないという暗黙の了解があるんだとか。 だから婚約者に誕生日のお祝いを贈るとしても季節の果物やお菓子等の消え物で。 服のような何百年も保つ物を毎年贈った例はないんですって」

「あれ? 確か、御下賜品を誰かにあげる事は出来ないんだよな。 お輿入れの時、持って行っちゃうんじゃないの?」

「だから大して有り難くはないという態度を見せては皇王庁の心証を害するでしょう、とベイダー先生に言われました。 それに旦那様は竜鈴をお預かりしていらっしゃるから爵位保証はいらないんですが。 所有する御下賜品の数が多ければ多い程箔が付くんだとか。 それに贈り物を頂戴したら、きちんとお礼しておきませんと」

「はあ。 それでも苦手な稽古の時間を増やされたのはきつかった」

「大変でしたよね。 だけど先生は生徒より大変だったと思うんです」

「ま、準大公はあまり前例がないもんな」

「とは言っても、古式に則った手順はあって。 それに従いさえすれば誰からも文句を言われずに済むんですって。 ただ古語だから現代語に翻訳する手間があるらしく。 翻訳した所で昔の手順は今の十倍長いんだとか」

「十倍?! そんなの俺に覚えられる訳ない」

「それで覚えやすい言葉遣い、簡単にしても文句が付けられない手順にする為、泊まり込みなさったようです。 どれ程苦労して作っても旦那様以外の誰かに使われる事はないのに」

 それを聞いて旦那様はばつが悪そうなお顔をなさった。

「えーと、ブラダンコリエ先生に謝っておいた方がいい?」

「それより書庫がもう少し暖まるよう、今年増築する書庫にはオンドルを設置しては如何でしょう?」

「オンドルか。 それ、いいかもな。 トビに言っておく」


 ベイダー先生が、オベルテ執務官など拝受が終わり次第さっさと蹴り出せばよろしいのです、と言った事は旦那様には黙っていた。 ベイダー先生は法律だけじゃなく儀礼にも詳しい。 普段は温厚な人柄で、そんな乱暴な事をしろと言う人には見えないから内心びっくりした。 そうトビに言ったら、目が嬉しそうにぎらんと光ったの。

「オベルテ執務官は将来皇王庁長官になる可能性がゼロではありません。 ここは穏便に対応する方が将来への禍根を残さないでしょう。 とは申しましても旦那様は青竜の騎士。 臣下の中の最高位にして陛下の盾。 皇王位の象徴をお預かりしている事もあり、皇王庁長官より遥か上のお立場となられました。 お嬢様が瑞兆である事、皇寵を頂戴している事を抜かしたとしても執務官如きにどうこう言われる筋合いはございません。 皇王庁内でのオベルテ執務官の言動を見る限り、その辺りに対する理解が充分ではない様で。 この際どちらが目上なのか、明らかにしておくのも悪い事ではないかと存じます」

「あの、あの、穏便に、ね?」

「畏まりました、奥様」

 一応そう言ってくれたけど、トビに限らず我が家の奉公人は自分で正しいと思う事をどんどんやっちゃう人ばかりだから。 本当に穏便に済ませてくれるかどうか、その日になってみないと分からない。 私としてはオベルテ執務官が何をするかより奉公人のする事の方が心配よ。 だけど儀礼とヒャラのお直しで頭がぱんぱんになっている旦那様に余計な心配を掛けたくないから黙っていた。


 朝、オベルテ執務官が到着すると、まずサリに向かって皇王族にする正式な儀礼で拝礼した。

「サリ様におかれましては御機嫌麗しく、喜びに絶えません。 皇王庁外戚部執務官エリュ・オベルテと申します。 本日はオスティガード第一皇王子殿下御名代のお役目を授かり、まかり越しました。 何卒よろしくお見知りおき下さい」

「たいぎー」

 あら。 大儀って。 サリが今まで私達の誰かに「たいぎ」と言った事はない。

 誰が教えたの? 家で誰かがそんな言葉を使った事はないのに。

 ベイダー先生? でも礼儀作法の授業を始めたとは聞いていないし。

 今では私達夫婦に大儀と言える人は皇王族の皆様に限られる。 新年の時、両陛下がそうおっしゃった事はなかったような。 サリは他にどなたともお目通りしていない。 私がサリの側を離れたのは新年舞踏会に出席した二時間程度だけだから、それは確か。

 他に言うとしたら誰かしら。 そう言えば、祭祀長様が警備の方々にそうお声をかけた事が何度かあった。 それを覚えていたの? 言葉は増えているけど、言葉が早いとか賢いと思わせるような事は今まで一度もなかったのに。 旦那様が父上と呼んでもらいたくて、父上ですよ、と何十回繰り返しても、だーだーとしか言わないし。

 もっとも旦那様から言わせると、サリほど賢い子はいないんですって。 空気を読むのがすごく上手なんだとか。 それってただの親ばかと思っていたんだけど。


 ともかく言祝ぎの式の最中にサリが泣き出したりする事はなく、無事に終えた。 家に帰ってからいつもの時間にサリにおやつをあげ、二階に上がって遊ばせた。 拝受の儀も無事に終わった様子。 オベルテ執務官は旦那様と少し面談した後、お帰りになるはず。

 面談が終わったらしく、オベルテ執務官がサリへ挨拶しに来た。 旦那様がとても緊張したお顔でいらっしゃる。

 面談がうまくいかなかったのかしら? 気になったけど、サリは踊りを途中で止められるのを嫌がる。 泣き出されたらあやすのに時間がかかるから、旦那様と執務官には目で挨拶しただけで手拍子と童歌を続けた。


 よいやさ、よいやさ、よいよいよい

 雪もはれたし 風もなし

 今日はどこまで 行こうやら


 おいやさ、おいやさ、おいおいおい

 谷のむこうと 川のさき

 明日はどこまで 続くやら


 そこでサリがぴっと窓の外を指差し、決めポーズを見せた。 親の欲目だとは思うけど、二歳で曲と動きを合わせられるって中々のもんだよね。 こう踊れと誰かに指導された訳じゃないんだから。

「サリ様、お見事です」

 旦那様に褒められた事が嬉しかったらしく、サリが珍しく手を伸ばした。

「だーだー、だっこー」

「はいはい、だっこですね」

 いそいそとサリをだっこする。

「たかいたかい、してー」

「畏まりました」

 そしてサリをだっこしたまま歩き出した。 そりゃたかいたかいはいつも裏庭でしているんだけど。 いつも通りにやっちゃうの?

 いつも通りって、つまりサリをぽーんとお空に投げる? オベルテ執務官の前でそれをやったらまずいんじゃない?

 オベルテ執務官には二十人の警護兵が付いていた。 家が狭いからその人達は中に入る事を遠慮して裏庭で待機している。 その人達にも見られちゃうでしょ。

 止めなきゃ。 どうやって? たかいたかいを止めたらサリにぎゃん泣きされちゃう。 私が怒られるだけなら構わないけど、それが原因でサリの養育権を取り上げられたらどうすればいいの? 

 焦って辺りを見回したら奉公人はみんなしらっと落ち着いた顔をしている。 たかいたかいがどうした、て感じ。 焦っているのは私だけ。 止めなくてもいい、て事?


 旦那様がサリをお空に投げる。

「ひとぉつ」

 サリが空中にいる間、ぱんと一回拍手し、落ちて来るサリを受け止めた。 サリがにこにこしながら数える。

「ひとちゅ」

 オベルテ執務官のお顔が赤みを帯びて怒っているようにしか見えない。

「ふたぁつ」

 サリが空中にいる間、ぱんぱんと二回拍手する。

「ふたちゅ」

 そんな感じで、みっつ、よっつ、いつつ、と旦那様はどんどんサリを高くお空に投げていく。 オベルテ執務官のお顔は赤から青くなり、額に汗が滲んでいる。 今日はそんなに暑くないし、爽やかな風が吹いているのに。 オベルテ執務官に付いて来た護衛の人達の顔色も真っ青。

 旦那様の手前にいるのは普段我が家の周りを警備している北軍の皆さんで、見慣れた光景だから平気な顔をしている。 旦那様の背後に控えている皇王庁の皆さんの顔色には全然気付いていらっしゃらない。 かと言って、今旦那様に声を掛けてサリから目を離したらかなり危ない。


 たかいたかいはいつも十回で切り上げる。 それが終わるとエナが言った。

「旦那様。 サリ様の昼餉のお時間でございます」

「あ、もうそんな時間か」

 私達が家に戻る時、サリがオベルテ執務官に向かって手をひらひらさせた。

「ばいびー」

 これは南の方言で、さようならと言う意味。 ギラムシオ号で旅をした時、他の船の人達が見送りの時にそう言うのを何度も聞いて、真似するようになったんだよね。 皇王族がさようならと言ったのに長居する事は許されない。 オベルテ執務官に説明しなきゃと思ったら、私が説明する前にドアの所で立ち止まった。 私達と一緒に家に入ろうとはせず、皇王族をお見送りする時の礼をした。

 そう言えば、サリは新年の時オスティガード殿下とお別れする時もばいびーと言ったっけ。 オベルテ執務官はそれを側で聞いていた。 何か言い足りなさそうな顔はしていたけど、ここで引き下がらないのはまずいと思ったみたい。

 オベルテ執務官はサリをだっこしている旦那様に向かってもう一度深く礼をした。

「サリ様と御家族の皆様の御健勝を心よりお祈り申し上げます。 本日は過分なおもてなしを頂戴し、欣快に絶えません。 真にありがとうございました」

「道中お気を付けてお帰り下さい」


 サリとのお目通りは終わっても旦那様が引き止めようと思えば引き止められるのに、そうはなさらなかった。 オベルテ執務官が帰ってくれてほっとしたお顔をしていらっしゃる。

「ふーっ。 助かった! サリがいいタイミングでさようならを言ってくれて。

 オベルテ執務官たら、教育方針がどうのこうのと言い始めてさ。 祭祀長の有り難いお言葉にさえ言い返されて。 もう、どうしたらいいんだか。 長居されてあの調子でいじめられたら泣いちゃったかも」

 それはそれでオベルテ執務官を蹴り出せたような気がしないでもないけど。 すごい噂になるか、後々面倒な事になりそう。

「よかったですね。 穏便に帰ってもらえて」

「ほんと、サリって空気を読むのがうまいよな」

「あ、それはいつも通りにしただけなんです。 たかいたかいは外遊びの締めで。 それが終われば警護の皆さんにばいびーと手を振ってお家にお入りになるの」

「そうなんだ。 ま、理由は何でもいい。 とにかくあの人が帰ってくれたんだから」


 それにしてもいくら強請られたからってお役人がいる前でサリを空に放り投げるだなんて。 そりゃ私だってたかいたかいくらい出来るけど、落としちゃいけない、落としちゃいけない、とびくびくしながらやったら本当に落としちゃいそうでやれない。 それをさらっとやっちゃうんだから。

 さすがは旦那様。 強気が家訓の家の当主だけあるよね。 強気が家訓だと知らなくても強気なんだもの。 オベルテ執務官を追い払えたのだって旦那様が強気を貫いたからじゃない?

 私も少しは見習わなきゃ。 強気な人の妻があんまり弱気じゃ釣り合いが取れないでしょ。

 そこで昨日の夜旦那様に、結構強気と言われた事を思い出した。

 あれ? 強気な人に強気って言われた、て事は。 とっくに強気だったりする?

 ふふっ。 私ってば、何バカな事を言ってるんだか。

 旦那様でもあるまいし。


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― 新着の感想 ―
[一言] 更新ありがとうございます。 本当にお久しぶりのリネさん。前回の若の視点とは一転 弱気というよりはとても意志の強い(?)若の様子が語られていて、ニヤッとしながら何回も読ませていただきました。…
[良い点] 空気が読めるサリ様無双でした♪ [一言] 10回目のたかいたかいは10拍ですか!? どんだけ高いの! 若の腕力に狂いはないだろうけど、サリはいつでもロックと飛べるね! 面白かったです。次回…
[一言] 家訓の機密事項は一子相伝(口伝)は当代では、ちと不可能かと、執事口伝がお勧め。 主人公登場で笑いが戻ってきましたね。
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