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弓と剣  作者: 淳A
遠雷
454/490

大樹 2

 国交を正常化するには国交断絶を決定した人にその決定を覆してもらうのが一番の近道。 と、言うは易く。 そも、国交断絶を決定したのは誰なのか。

 普通に考えたらハレスタード皇王陛下だが、ヤジュハージュのような小国との国交に皇王陛下の御決断は必要不可欠ではない。 国交断絶から暫く経った今でさえ陛下が御存知ない事もあり得る。

 陛下以外では皇太子殿下、宰相、皇王庁長官、そして祭祀長も国交断絶指令権をお持ちだ。 それと、大きな声では言えないが、国交断絶は金さえあれば誰にでも出来る。 国境閉鎖となると大事だが、ヤジュハージュ人だけを追い返すなら国境警備兵を買収すればいい。

 今回の場合外交官が国外追放されているから国の決定である事は間違いないが。 陛下の御決断ではないとしたら誰の指示か。 それは兄に聞くつもりではいるが、事実をありのまま教えてくれるとは限らない。 兄には兄の都合というものがある。 又、もし複数の合意だとしたら結局誰が一番強く押したのかを突き止めるには時間がかかるだろう。


 ともかく公式説明を知っておかねばならない。 フレイシュハッカ離宮への道すがらエミラに聞いてみた。

「国交断絶に至った経緯を知っているか」

「知っている、と申してもよいかどうか。 何分証拠がない事で」

「噂として聞こう」

「まず公式記録である事から申しましょう。 昨秋、先代陛下が御外遊へ御出発なさった直後、準大公は皇太子殿下よりの直命を受け、とある島へと御出発なさいました。

 ここからは噂です。 ヤジュハージュのオルゲゼ公爵が、瑞兆がお乗りの御用船への襲撃を企てました」

「な、何だと?! 御用船襲撃? まさか」

「但し、瑞兆に害なす事が目的だったのではなく、一隻に襲わせ、もう一隻で御家族をその苦境から救出し、恩を売ろうとした、と推測されております」

「誰の推測だ?」

「準大公の御尊父、ヴィジャヤン準公爵です。 因みに閣僚でこの推測に異を唱える者はいないとの事」

「何を根拠に?」

「一隻には船籍を示唆するものが何もなく、交易用の積み荷もない。 だが武器や爆薬なら多数所持していた。 もう一隻はオルゲゼ公爵が貸切った船で、どちらの船も船員より剣士の数が多く、申告していた目的地と全く逆の方向へ出発した。 この点に関してはマーシュの港湾当局によって確認されております。

 二隻は出発後、御用船ギラムシオ号の背後を付かず離れずに航行。 御用船と申しましてもギラムシオ号は準大公が御出発当日突然お召しになった民間漁船でして。 ギラムシオ号を人としたら二隻は馬と言える程速い。 なのに追い越そうとしなかった事が近くを航行していた多数の船によって目撃されております。 二隻間で何やら連絡が交わされていた事も。

 準大公の目的地は土地の船夫達に危険水域として知られており、どこまで後を付けたのかを知っている者はおりませんでしたが。 ギラムシオ号が再び他船の視界に現れた時、その二隻はギラムシオ号の背後を航行しておりました。 とまあ、一つ一つはそこまで疑わずとも、と言えるような事ではありますが、塵も積もれば何とやら」

「結局未遂で終わったのであろう?」

「それは行きは他の船が、帰りは体長十メートルを越える巨魚が御用船付近を回遊し、近づけなかったからだと思われます」

「その、十メートルというのは確かか?」

「私自身、別荘のバルコニーから巨大な魚影が通り過ぎる所を見ました。 海坊主という名で準大公の泳ぎ友達でもあるのだとか」

「友達? 魚が?」

「準大公こそ海神の愛孫、ギラムシオ様と信じる者、少なからず。 ギラムシオ様なら魚が泳ぎ友達でも驚くべき事でもないかと。 次代様はギラムシオ様の八十人引きによって命を救われた者の一人。 疑い深き事海の如しの父でさえ、準大公がギラムシオ様である事を疑ってはおりません」

「巨魚と泳ぐギラムシオ様、か。 その光景を見た船員に深い感動を呼び起こしたであろう。 だから襲撃を中止したのかもしれん」

「そのような殊勝な心がけの者なら次を企てる事もないでしょうが。 急いて事をし損じただけ、次こそ、と狙っているかもしれず。 父より疑り深い皇王庁の事。 たとえ本人が金輪際準大公には近づかないと天に誓約したとしてもその言葉を信じないでしょう。 マーシュで危うく溺れかけたヤジュハージュの某ならギラムシオ様に手を出したらどういう目にあうか、少しは理解したかもしれませんが」


 空気が重くなったような。 気のせいと思いたいが、エミラの視線に非難が込められている。 この事実を知らされても謝罪しない気か、これだからヤジュハージュ人は、という。 ここがヤジュハージュ国内だったら、起こってもいない事に謝罪を求めるのか、これだから皇国人は、となるのだろうが。

 見慣れた外国人蔑視の視線。 とは言え、それを血縁の甥から向けられるとは思わなかった。 いつもなら簡単に受け流せる視線が流せない。 もっとも叔父甥と呼べるような親密な交流はエミラに限らず誰ともなかったのだが。 交流があるとしたら親戚だからではなく、将来利益が見込まれる関係だからで。


 孤立無援という言葉が思い浮かぶ。 今更ながら異国人である心細さが押し寄せた。 襲撃未遂だけでも開戦理由になるのにエミラの話には続きがありそうだ。 更に悪い話になりそうな予感が押し寄せる。

 この情報をどう受け止めるべきか。 いや、それより重要なのは、これをどこまでコンネルセ陛下に報告するか、だ。 外国人となり、外交官ではない私には公式記録であろうと真偽を確かめる術はなく、この「噂」がヤジュハージュ向けに加工されていない保証もない。

 仮に全てが事実だったとしてもコンネルセ陛下とヤジュハージュの重臣はそう思わないだろう。 全て嘘とは思わないにしても私の又聞きよりオルゲゼ公爵の弁明を信じるに違いない。 オルゲゼ公爵はこの噂をでっち上げ、或いは事実が歪曲されている、と謝罪を拒否するのではないか。 私がここで早々と皇国に謝罪したら、なぜ謝罪した、とコンネルセ陛下から責められる確率の方が高い。 八方塞がり。 動きようがない。


 私の苦境を察したか、エミラが少し肩を竦める。

「叔父上にもお立場というものがおありでしょう」

 私は無言で頷いた。 オルゲゼ公爵を庇う発言をする気はないが、ヤジュハージュを代表して謝罪するなど論外だ。 私にそのような権限はないし、皇国の為だけに尽力する約束も出来ない。 そんなこちらの事情など先刻承知だろうに、なぜこの噂を伝えたのか? おそらく話はここで終わりではなく、ここからが正念場なのだ。

 ぐっと腹に力を入れ、わざと軽い口調で聞いた。

「すると、国交回復には準公爵と交渉するのが早道?」

「準公爵は話の分かる御方。 争うより和平をお望みでしょう。 ところが陛下には意外に性急な一面がおありのようで。 即時開戦をブリアネク宰相にお命じになったのだとか」

「さすがに、それは。 宰相がお止めしたであろう?」

「普段は事なかれ主義で知られる宰相ですが。 陛下をお止めするどころか、その先陣、この老骨が承りたく、とやる気満々。 年寄りの冷や水、と発言したプラドナ公爵とあわやの乱闘。 と、父から聞いております。

 国交断絶程度で済んだ事はある意味奇跡。 事ここに至っては、準公爵が陛下に和平への道を進言なさった所で国交回復となるかどうか。 第一、準公爵は調査結果を奏上なさっただけで開戦は勿論、報復を進言なさってはおりません」

「しかし開戦はお止め下さった?」

「いえ、準公爵がお止めになったのはプラドナ公爵で。 開戦をお止めになったのは皇太子殿下です。 皇太子妃の故国が敵国であるのは兵士の戦意を削ぐ。 皇太子位を返上する故、次の皇太子が決まるまで開戦はお待ち下さい、と奏上なさいました」

「皇太子妃殿下の故国がどこであろうと皇太子殿下の愛国心に疑いを挟む余地はないであろうに」

「それだけに皇太子妃殿下が御自分さえいなければ、と早まった事をなさらないとも限りません。 そうなってはもう、お前のせい、いや、そちらのせい。 開戦不可避となりましょう」

「それで皇太子妃殿下蟄居となった訳か?」

「いいえ、それは別件。 サルジオルキ前女官長に関してはどこまでお聞き及びですか?」

「準大公の犬を粗略に扱い、皇太子殿下の御癇気に触れたと聞いている」

「その粗略に扱った理由、ですが。 準大公御夫妻が御不在の隙を狙い、サリ様とラムシオン皇王子殿下を同衾させようと企んだようで。 その時犬が吠えては邪魔、と考えたらしく」

 馬車の中で座っていたのは幸いだ。 でなければ膝から崩れ落ちていただろう。

 道理でヤジュハージュ人の女官全員が消えた。 下手をするとジェナ、ジェナの婚家のハーブスト、実家のダンホフまで側杖を食らっていたかもしれない。 たとえ皇太子妃殿下が命じた事でなくても監督不行き届きである事は明らか。 蟄居程度で済んでいるのは温情と言えよう。 陛下の御気分次第では皇太子殿下も蟄居、いや、暗殺されている。

 ジェナにも一応確認するが、おそらく事実。 だがこれをヤジュハージュに持ち帰っても果たして信じてもらえるか。


「しかもこれで終わりではありません。 その翌月、準大公が北軍神域内で襲われる事件がありました。 何者かが準大公を誘拐し、皇王城内の神域へ連れ込もうとしたようで。 誘拐犯は猛虎の返り討ちにあい、全員死亡したのですが。 彼らを神域内へと手引きした神官が、マーガタン中央祭祀長の御命令により、と申したらしく。

 どうやらサルジオルキが中央祭祀長に、準大公を皇王城内の神域へ御案内出来ないか、とお伺いし、中央祭祀長が、我も会いたいもの、とお側に漏らされ、それを真に受けたお側が指令を出したよう。 おまけに事を内密に運びたいが為、この指令を北軍将軍にではなく、北軍大隊長へ出しておりました」

「皇太子妃殿下付き女官長なら中央祭祀長にお目通りしてもおかしくはない。 準大公を御案内出来るかどうかを聞くくらい罪ではなかろう。 なぜそれが皇太子妃殿下の咎になる?」

「皇太子妃殿下はマーガタン中央祭祀長に深く帰依し、週に一度は神域へお参りなさっていたのだとか。 それ程頻繁にお会いなら、其方の女官が来てこう言った、それに対して私はこうした、という話が出ないはずはないでしょう。 なのに皇太子妃殿下はそれはお止め下さいとおっしゃらなかった。 お止めしたのに聞いては戴けなかったのならそれを皇太子殿下へお伝えすべきです。 準大公が北にお住まいなのは陛下の御決断によるもの。 その御決断に背く、或いは、背こうとする企てを知っていながら止めなかった事は重大な咎となります」

「しかし皇太子妃殿下が御存知であったと証言した者はいないのだろう?」

「サルジオルキなら死んでもそんな証言をしないでしょう。 したとしてもその記録は皇王庁によって抹消されたと思います。 いずれにしろサルジオルキは先代陛下と共に旅立ち、ヤジュハージュの女官は全員帰国しました」

「帰国? 帰国した者がいたとは聞いていないが」

「他国へ追放されたのかもしれませんね。 要するに所在不明。 なので彼女らに会って事情を聞く術はありません。 ただ誘拐犯は皇王城内神域への通行許可証を持っておりました。 それを使えば毎週お参りなさっていた皇太子妃殿下にも準大公とお会いする機会がある訳で。 皇太子妃殿下にとって不利な状況証拠となっております」


 思わず頭を抱えた。 これを聞く前はファレーハ皇太子妃殿下にコンネルセ陛下へ詳しい事情を説明したお手紙を書いて戴き、事態を収拾しようと考えていた。 最早小手先の策で打開出来るような状況ではない。

「では、レイエース殿下が次の皇太子?」

「陛下がどのように御決断なさるか、未だ公表されてはおりません。 実は、サリ様誘拐未遂事件というものもございまして。 それについては?」

「それは先代皇王妃陛下の話では?」

「どうもレイエース殿下も全くの白とは言い難いようで。 それに皇太子殿下のお名前が変わったからヤジュハージュが深く反省する、という訳でもないでしょうし」


 セジャーナ皇太子殿下は政治の駆け引きに長けた御方ではない。 返上を奏上なさったのなら本気で返上なさろうとしたのだ。

 どういうお気持ちで? 本当に兵の戦意をお気遣いになった? それとも皇太子妃殿下を大切に思われ、騒動の渦中から救い出したい故の御決断か。 殿下は内政問題でさえ聞きたくないという態度をお見せになる事があった。 単に政治に嫌気がさし、音楽三昧の隠遁を望まれた可能性もないではないが。

 そもそもヤジュハージュ王女を正妃に娶った事が原因、と後悔なさっているかもしれず。 そのお膳立てをした者を恨んでいる恐れもある。 皇太子殿下御成婚の際の正式な仲人はテイソーザ大公だが、事実上の仲人は私なのだ。

 本来ならヤジュハージュのような小国の王女がいずれ皇国皇太子となられる御方の正妃として望まれる事はない。 偶々どの国も未来の皇王陛下であるハレスタード皇太子殿下の正妃の座を巡って熾烈な争いを繰り広げており、人と金をそこにつぎ込んでいた。 競争相手が少なかったおかげとも言えるが、婚約、そして御成婚に辿り着けたのは、セジャーナ皇王子殿下付き女官として出仕していたジェナが的確な助言をしてくれた事が大きい。


 ファレーハ王女様は楽器の演奏に秀でていらした。 私自身、ベイエラと呼ばれる弦楽器を少々嗜む。 セジャーナ皇王子殿下の御前で殿下が作曲なさった小品を奏でた時、ヤジュハージュの楽器を各種お見せし、その時ファレーハ王女様が如何に音楽への造詣が深く、楽器の名手であるかを申し上げた。 それが殿下の御興味を喚起し、そのお気持ちを汲んだ皇王庁が小国の第二王女を正妃に選んだのだ。

 ヤジュハージュ国にとっては望外の大金星。 だが当時のヤジュハージュ国王レゼウラン陛下のお喜びは中の上、と言った所か。 レゼウラン陛下は第一王女であるリュージャ王女様が嫁ぐ事を望んでいらした。 リュージャ王女様は非常に聡明で大国の王妃となるに相応しい器量をお持ちでいらっしゃる。 セジャーナ殿下は皇太子になる事は確実でも戴冠は危ぶまれていた。 リュージャ王女ならその薄い可能性を確実なものに出来る、とお考えになったのだろう。

 セジャーナ殿下の戴冠が実現すればリュージャ王女は皇国陛下を支えるだけでなく、ヤジュハージュの為に御尽力下さる事は疑いない。 ただリュージャ王女に音楽に対する御関心はなく、演奏会等も御欠席なさるのが常。 政治的野心がないセジャーナ殿下にとって配偶者には選びたくない姫君だ。

 皇太子妃になりたい姫君は他にも大勢いる。 皆様聡明で美しい御方揃い。 しかも国力はヤジュハージュより遥かに上。 私がリュージャ王女様を推した所で妾妃としてならともかく、正妃としては皇王庁がうんと言うまい。

 皇王族の御結婚では常に国益が優先されるが、皇太子妃殿下は皇王妃陛下ほど厳格な審査をされる訳ではない。 皇太子殿下の強い御希望があれば国益に反しない限りそちらが考慮される。 皇王族の正妃を推挙した者は宮廷内で重用されるから国の為になり我が為にもなる。 そのような計算が働き、私はファレーハ王女様を推したのだ。


 お似合いと思った故の奔走ではなかったが、両殿下はお子様にも恵まれ、御仲睦まじく見えた。 皇太子殿下のお胸の内は窺い知るべくもないが、感謝のお言葉も頂戴している。 御婚約が調って以来、ヤジュハージュの習慣や皇国との違いについて殿下から何度も御下問があり、妾妃関係をどうすべきかについても御相談に与った。

 予想通り私の重要度は増したが、皇国内とヤジュハージュ国内、どちらでも外国人扱いされる事に変わりはなかった。 皇国籍を捨てたのは婿入りする時の条件で、自分の意志ではない。 他の縁談もあった。 生涯外国人扱いされる孤独と疎外感を知っていたらグラウプ侯爵令嬢との結婚は選ばなかったと思う。

 とは言え、ヤジュハージュ国民になった事を後悔してはいない。 ヤジュハージュは深い森に囲まれた美しい国。 規則はあっても例外を許す緩やかな国民性で、私の性には合っている。 長年暮らしている内に愛着が生まれ、母国との交流を促進したくて皇太子殿下の御成婚に尽力したのだ。


 その努力は報われ、皇国内でのヤジュハージュに対する関心は高まりを見せた。 それ以前はヤジュハージュの首都の名を知っている者さえ稀だったのだから。 しかし開戦、或いは離縁となれば今まで築いた両国関係を一夜にして崩壊させる。 もっとも国力の差を考えると開戦したら一気に片が付くだろう。 ヤジュハージュが属国となる事は残念だが、国は敗れようと大樹は残り、その下に集う人々を慰めるはず。

 ただ皇太子妃殿下は開戦前に離縁されるに違いない。 皇太子殿下は離縁をお望みではないと思いたいが、殿下は御自分のお気持ちより陛下のお気持ちを優先させる御方だ。 開戦を回避したくとも陛下のお気持ちが既に決まっているのなら殿下に陛下の御説得をお願いした所で無駄だろう。 それより準大公にお願いした方がまだ望みがある。


 準大公が北にお住まいなのは準大公の御希望で、陛下の御本心としてはお手元に置きたかったが、敢えてお許しになったのだとか。 つまり準大公なら陛下のお気持ちを変える事がお出来になるのだ。

 では準大公に会いに行った方が早道か? 北軍兵士なら毎朝でもお声を掛けて戴けると聞いた。 道で会って立ち話が出来るのなら最短距離。 のようでいて、実は長い道のりだ。 新兵でも平民ならお会いする機会がいくらでもあるようだが、貴族出身となると途端に会えなくなる。 皇王族の面会希望さえ順番待ちなのだとか。

 ダンホフの伝手を使ってもいいが、乱用して本当に必要な時に使えなくなっては困る。 だからと言って紹介状もなく会いに行った所でお目通りが叶うはずはない。 ナジューラの結婚式での親族紹介に期待するしかないが、そこで失敗したら全くの手詰まり。 まずジェナに会い、助言を仰がねば。


 いずれにしても長期戦となる事を覚悟していた。 ところがフレイシュハッカ離宮に着き、私だけ一室に案内されて待っていると皇太子殿下がお出ましになった。 驚愕、としか言いようがない。 皇太子殿下どころか侍従に会える事さえ危ぶんでいたのに。

 従っているのはシャヴィジェ筆頭侍従とジェナ、そして侍従、女官、護衛が各二名。 一瞬影武者かと疑ったが、私は殿下のお人柄やお声も親しく存じている。 遠くからの拝謁ならともかく、このような内密のお目通りに影武者など出しても私に見破られる事は御存知のはず。

「久方ぶりであるな、ヒダール」

 殿下はいつもジェナと私を姓ではなく、名でお呼びになる。

「セジャーナ皇太子殿下におかれましては御機嫌麗しく」

 型通りの挨拶を始めようとした所、殿下がお手を上げられた。

「よい。 長居は出来ぬ。 手短かに言う。 ひと肌脱いでもらいたい。

 サルジオルキが出過ぎた真似をしてな。 ファレーハは陛下から準大公とその家族への接近禁止を申し付けられた。 彼女は充分悔いているが、知らなかったでは済まされぬ。 それ程の事であった。 詳細はジェナから聞くがよい。

 離縁は我の望む所にあらず。 さりながら、その道しかなければ是非もなく。 ただ全てを諦める前に夫として出来る事をしておきたい。

 私は妻の故国であるヤジュハージュを訪れた事がない。 ファレーハもさぞや懐かしかろう。 コンネルセ陛下からの招待という形で訪問したい。 それが可能ならジェナに知らせよ。 旅程の詳細はシャヴィジェが手配する」

 皇太子殿下はそれだけおっしゃると御退室なさった。 侍女と警備兵数名が残ったが、ジェナが人払いした。


「ジェナ」

 見慣れた微笑みが浮かんでいない。 彼女の瞳が語る。

 私達が守りたい人の名は同じはず。 どこに住もうと。 国籍が何であろうと。

「引き受けて下さるわね、ヒダール」

 安易に頷く訳にはいかない。 コンネルセ陛下にどう説明すれば穏便に招待という形になるか、微妙な所だ。 ヤジュハージュ国王にとって他国に嫁いだ王女は必ずしも守らねばならない人ではない。

「最善を尽くそう。 招待状を受け取る事が重要で、殿下が実際ヤジュハージュを御訪問なさるのではないなら何とかなると思う」

 ジェナが首を横に振る。

「それでは皇太子殿下のお気持ちに添いません。 殿下はコンネルセ陛下との御会談をお望みです」

「影武者を派遣するという事でもない?」

「御自身で、とおっしゃいました」

「いくら皇太子殿下のお望みであろうと、御出国は皇王庁がうんと言うまい。 護衛を何人お連れになるおつもりか。 たとえ万の兵がお守りしようと危険である事に変わりはない。 お忍びならともかく。 皇太子殿下の公式な御出国など過去数百年間一度もなかったはず」

「ヤジュハージュとの開戦も前例などありません。 けれどこのままでは時間の問題。 テイソーザ長官は承諾なさいました。 侍従侍女各百名。 護衛兵千人がお供する予定です」

「兵数は少なかろうと、ヤジュハージュ側から見れば会談を装った出兵にしか見えない」

「出兵でしたら皇太子妃殿下をお連れになるはずがないでしょう。 皇太子殿下は相互不可侵条約締結をお望みなのです」

「相互不可侵条約? なぜ? 皇太子妃殿下との御成婚には相互不可侵条約の調印と同じ意味があったはず」

「では、なぜヤジュハージュの公爵ともあろう者が御用船を襲おうとしたのですか? ハレスタード陛下は未遂であろうとこれがヤジュハージュからの挑戦である事に変わりはないとお考えです。 相互不可侵条約はヤジュハージュによって一方的に破棄された、と」

「それを今ここで私に言われても。 コンネルセ陛下はその企てを御存知だったかどうか」

「皇太子妃殿下はサルジオルキの先走りを御存知ありませんでしたが、監督不行き届きの咎で蟄居となりました。 我が国と同じ罰則を他国に要求しているのではありません。 ただ知らなかったで済ませられる問題ではない、と申しているのです。

 事実をどう伝えるかはあなた次第。 伝えなくても、或いは伝えられた事実をヤジュハージュが否定しようと、事実に変わりはありません。 皇太子殿下は御身の危険も顧みず、条約を再締結なさろうとしていらっしゃる。 それはこちらからの最大限の譲歩。 拒むのなら開戦となりましょう」

「それにしてもなぜ皇太子殿下御自ら会談にお出ましになるのか。 確かに事の次第を皇太子殿下が直接お伝え下されば私が百万言費やすより信憑性がある。 とは言え、国力の差を考えれば否か応か最後通牒を使者に伝えさせれば済むはず。

 皇太子殿下が兵と共に乗り込んでいらっしゃれば、それをヤジュハージュへの内政干渉と見做した重臣が皇太子殿下暗殺を企てるかも知れず、皇太子殿下のお命を危険に晒すだけ。 私に言わせればこれは自殺行為」

「開戦回避が皇太子殿下のお望みではありますが、避け得ないのなら妻を無事、故国へ送り届ける。 それが夫としての務めとお考えでいらっしゃいます。 夫としての務めさえ果たせぬ者に一国の皇太子は務まらぬ、と」

「ジェナ」 

 なぜお止めしない、という言葉を飲み込んだ。 お止め出来るものならとうにお止めしているだろう。

 急いで帰国し、これをコンネルセ陛下に奏上せねば。 その時皇太子妃殿下の御様子を必ず聞かれる。 お元気そうでしたと嘘をついてもよいが、嘘はつかずに済むに越した事はない。 ばれないと分かっている嘘であっても。


「遠目でよい。 皇太子妃殿下のお姿を拝見させて戴けないか」

 ジェナは微かに頷き、私をその部屋に付いているバルコニーへと誘った。 ドアを僅かに開け、ジェナが視線を右手へ向ける。 皇太子妃殿下がバルコニーに出ていらした。 小鳥用の餌台と水の皿が置いてあり、皇太子妃殿下御自ら餌と水を皿に満たしていらっしゃる。

 御様子にお変わりがないのは幸いだ。 少なくとも小鳥を眺める瞳に哀しみの色は窺えない。 皇太子妃殿下は暫く小鳥達の姿を眺め、バルコニーに置いてあった椅子にお掛けになる。

 春の日差しに包まれていながら、お幸せそう、と言う気にはなれない。 そこだけ違う季節のような。 孤独は異国に住まう者にとって避け難い感情。 たとえ同じ国出身の女官に囲まれていたとしても。 だから不幸、とは限らないが。


 椅子の側に楽器がいくつか置いてあり、その中からベイエラをお選びになった。 妃殿下とは過去に何度もベイエラの合奏をさせて戴いた事がある。 想いを伝えるのにこれ程便利な楽器はない、おっしゃった事があった。 私にコンネルセ陛下へのメッセージを託そうとなさっていらっしゃるのだろうか?

 妃殿下はヤジュハージュの民謡、「実り歌」を奏で始めた。 遠くへ嫁いだ娘が親に伝えている。 子供が生まれたのよ、幸せになったのよ、と。 演奏は優美で豊か。 喜びに溢れ、孤独や憂愁は感じられない。

 次に演奏なさったのは皇太子殿下作詞の「新興」。 先代皇王陛下に捧げられ、御外遊の際奏でられた曲だ。 演奏を聞くのは初めてだが、譜面を読んだ事がある。

 歌詞は愛する人と再び巡り会う喜びを歌っており、「晴れやかに、活気に満ちて」と指示されていたはずだが、妃殿下の演奏にはそこはかとない哀しみが込められていた。 再び巡り会うのは今は別れているから。 再会までの日々がいかに長いか、と嘆くかのよう。

 あの歌詞にそのような哀しみが込められていたのか? 今まで気付かなかったが。 改めて考えてみれば皇太子殿下にとってあれはおそらく父王陛下との今生のお別れ。 送別の曲に込められた思いが喜びばかりのはずはない。

 優れた奏者である故のお気付きか、それとも御夫婦の情愛があればこそのお察しか。 もしや離縁をお覚悟なさり、歌に御自分を重ねられた? 離縁なされば皇太子殿下とお子様との再会は来世でしか望めまい。


 余計な解釈はすまい。 私はヤジュハージュへ帰国し、皇太子殿下のお言葉と確認した事件のあらましをコンネルセ陛下に伝えた。 陛下の腹心数名も同席し、私の報告を聞いていたが終始無言。 不信が込められた無言である事を感じた。

「陛下。 ファレーハ皇太子妃殿下の演奏をここで再現してもよろしいでしょうか」

 陛下が頷いて下さったので、私は妃殿下の演奏を再現した。 演奏した後も皆様無言だったが、視線に不信は込められていないような気がした。

 陛下が微かなため息をつかれる。 そして宰相に向かい、お命じになった。

「皇国皇太子殿下御夫妻を我が国へ招待したい。 御都合を伺うように。 御訪問の日程が決まり次第、それに合わせて大樹祭を開催する。 準備せよ」

 大樹祭は十年に一度行われる大祭だ。 今年は前回の大樹祭から四年目で開催年ではない。

「御意」


 私は招待状を皇太子殿下へお届けし、シャヴィジェ筆頭侍従、ジェナと共に旅行日程の詳細を協議し始めた。 連日連夜各省庁との連絡に追われ、両国間を行き来した為、皇太子殿下主催の舞踏会さえ欠席した。 ナジューラの結婚式に出席している暇など欠片もなかったが、私はヘルセス家の結婚式に招待されていない。 この機会を逃したら次に準大公に会えるのは来年の皇太子殿下主催の舞踏会となる。 条約調印に失敗したら舞踏会どころではないだろうし、開催されたとしても自分がその時まで生きているか。 と思うと矢も楯もたまらず、時間を作って駆けつけた。


 疲労が蓄積していたからか、肝心の準大公と何を話したか記憶にない。 けれど私にとって生涯忘れ得ぬ出会いとなった。

「疲れたら無理せず休んだ方がいいですよ」

 そうおっしゃって私の手をきゅっと握って下さった。 そのお手の温もり。 一ヶ月経ってもたった今握られたかのように私の掌を温めている。 疲れが吹き飛び、成功が危ぶまれる条約調印や国交回復も、きっと大丈夫。 そんな理由のない楽観が湧き上がり、なぜ皆が皆準大公に再びお会いしたいと願うのか、今更のように理解した。 ギラムシオ様、青竜の騎士と呼ばれる事も不思議とは思わない。

 ただ、果たしてあの御方を大樹と呼べるのか? その疑いは消せずにいる。 腰を振りまくって踊る大樹などありえん。

 そこで準大公らしきお声が私の耳元でそっと囁いたような気がした。

「あり得るんですよ、それが」



追記

 歴史上、国際協力同盟(国協)設立の発端は「大樹の誓約」調印とされる。 これは当初、皇国とヤジュハージュ国の二国間相互不可侵条約として締結された。 同様な条約が世界各国と調印されるようになり、それが国協設立に繋がった。

 因みに条約名の由来は、条約に調印した皇国皇太子セジャーナが「サダ・ヴィジャヤンは皇国の大樹にして、ヤジュハージュ国はこれを傷付けず、動かさぬ事を誓約す」という一文を条約前文に挿入した事による。


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― 新着の感想 ―
[一言] 更新ありがとうございます。 「海鳴」の章の事件の裏側はこんなことになっていたのですね。もう一度読み直してしまいました。大樹は若のことでしたか!その大樹は まさか自分に関わったことで、ヤジュ…
[一言] サダ「また他人の脳内サダが喋り出した! 濡れ衣だぜ!
[一言] 踊りまくる大樹のところで昔あったグラサンかけたヒマワリが音に反応してクネクネ踊るおもちゃを連想してしまった
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