白湯 1 ダンホフ公爵家次代代行、ナナシの話
準大公に初めてお会いしたのは三年前、大審院に証人喚問されてダンホフ別邸に滞在なさった時だ。 瑞鳥飛来の大功をあげて叙爵される前、北軍特務大隊長であらせられた時の話とは言え、北の猛虎と六頭殺しの若が氷の知将を従えての御訪問。 奉公人は御一行到着の一ヶ月前から寄ると触るとその話で持ちきりだった。
ダンホフ公爵家の奉公人ともあろう者がお客様に対して迂闊な真似は出来ない。 だが、この機会にお近づきになっておきたいのが本音。 単なる好奇心からではなく、ユレイア様がタケオ大隊長とマッギニス補佐、どちらをお射止めになるか。 どちらかである事は間違いないにしても、これが主家の命運を左右する御縁談である事は確かで、その御方が将来ダンホフ軍の参謀総長になると考えられるから。
侍従達にとって参謀総長のお側を務められるか否かには自分の一族の栄枯盛衰がかかっている。 覚え目出度く、となれば本邸へ栄転か、参謀総長付筆頭侍従となり、本邸侍従長の次に大きな権力を持つ事も可能なのだから。 思わぬ御不興を買い、首が飛ぶ恐れもないではないが。
ともかく、いつ誰が何を担当するかは死活問題。 連日連夜、水面下の駆け引きが行われていた。 けれどしがない下級侍従で独身、天涯孤独、平民の私にとっては無縁の話。 私は代々ダンホフ公爵家に仕える奉公人の家の出でもなく、秀でて賢いとか弓や剣の才がある訳でもない。 準大公の御学友だったとかの意外なプラスでもあれば別だが、いくらダンホフは能力主義と言っても出自やコネによる差別はある。 皇都のダンホフ別邸は本邸程ではないが別邸の中では一番大きく、侍従だけで五十数名。 侍女は八十数名いるし、お客様は侍従より侍女に世話される事を望まれるかもしれない。 いずれにしても私に出番が回って来る事は万に一つもないと思っていた。
ではなぜ一ヶ月もの間、私一人でお側を務める事になったのか。 それは準大公が御指名下さったからだが、ではなぜ私を御指名下さったのか? その理由は誰も知らない。 皆驚いている。 私自身も含め。
但し、邸内で噂されているような、私が準大公にお強請りしたサインがきっかけ、という事実はない。 これは私の推測に過ぎないが、私に順番が回って来たのは私が何かをしたからと言うより、私が何もしなかったからではないか。 と言うか、私以外の侍従侍女がやり過ぎたのだと思う。
ユレイア様のお心がどちらに傾いているかと言えばタケオ大隊長というのが衆目の一致する所。 周囲はそのお膳立てに奔走していた。 ところが必ず皆様御一緒に行動なさる。 証人と随行人は片時も離れるべきではないのだからお二人が御一緒なのは当然としても、二組四人で一緒に行動する必要はない。 それに随行人の視界から証人の姿が消えなければよいのだ。 マッギニス補佐が準大公のお稽古を読書室の窓から眺めるとか、タケオ大隊長とポクソン補佐なら交代で稽古なさるとか、いくらでもやりようがあるだろう。 その気があれば。
知将として知られるマッギニス補佐の事。 こちらの思惑を読んでいないはずはない。 タケオ大隊長にとって悪い話ではないのだし、ダンホフに恩を売る機会でもある。 猛虎がダンホフの婿となられては困ると言う人がいるとしたらモンドー北軍将軍くらいではないか。
マッギニス補佐は今は北軍に在籍していらっしゃるが、いずれは御実家の伝手を使って近衛へ移籍なさるだろう。 ユレイア様を狙っている様子はなかったし、ならばこの縁談を妨害する義理はない。 少しはこちらに協力して下さってもよさそうなもの。
なのに朝起きてから夜寝る時まで常に四人で行動なさる。 そのため侍従達が練りに練った分担表が全く役に立たなかった。 さればと言ってお客様に離れろと命じる訳にもいかない。 あれならどうだ、これなら喜んで戴けるのでは、と食べ物着物、武器や宝石。 手を替え品を替え、貢物を持って行ったが、そのどれにも全く興味を示して下さらなかったようで。
様子窺いにいらした当代様の焦りは家令、そして上級侍従、中級、下級へと伝わった。 誰もが焦燥感に駆られ、呼ばれもしないのに御用伺いに行ったり、給仕や掃除をしに行く。 それで、お前はもう二度と来るな、と追い払われる。 最後に残ったのが私、という訳。
英雄と呼ばれるだけあって中々気難しいのだろう。 きっと私も蹴り出されると覚悟していた。
準大公とタケオ大隊長、ポクソン補佐は朝六時に起床なさった後、軽いお稽古をなさる。 それが終わった後、御朝食を召し上がり、又お稽古。 これが一日の中で一番厳しく長い。 終わった時は滝のような汗だ。
ダンホフではお客様に水を差し上げる時、侍従は一リットル入る水差し、お客様の数のコップ、そして小皿にレモンを六等分にしたものを持って行く。 給仕する時は水をコップに注ぎ、レモンを絞るかをお客様一人一人にお伺いし、水差しが空になったら次をお持ちする事になっている。 二リットル入る水指しもあるが、パーティーや会議用だ。 それにあの汗では二リットルでも足りないだろう。 私が何度も行き来する間、お客様をお待たせする事になる。
当家では上役の許可なく手順を変える事は許されていない。 私の上役は奉公以来一度も手順を変えた事がない事を誇りにしているような人だから聞くだけ無駄だ。 かと言って追い払われた侍従は全員私より格上。 おまけにお客様の追い返し方が相当きつかったようで。 一緒に来てくれと頼んでも、うんと言ってくれない。
仕方なく一人で二リットル入る水筒を四本持って行った。 普通の貴族へ土方が使うような水筒を差し出したら侮られたと怒るだろう。 お客様を怒らせた事が上役に伝われば折檻か解雇だ。 それにマッギニス補佐は蔑視を看過なさる御方には見えない。 お客様をお待たせしたくないだけ、と分かって戴けるだろうか? 不安はあったが、準大公なら沢山の水を素直に喜んで下さるような気がした。
幸い皆様喉が乾いていらしたようで、追い返される事はなかった。 それでも水筒、コップ、レモン、レモン絞り器、塩の粒、茹で卵をテーブルの上に置いたら給仕はせずに下がるつもりでいた。
水筒から直接お飲みになりたいかもしれない。 自分の侍従なら側にいようと空気のようなものだから平気で直飲みなさるだろうが、他家の奉公人がいる前でそんなお行儀の悪い真似はしづらい。 たとえその者に告げ口する気はなかろうと。 私がいる所為でお気を遣わせては申し訳ないと思ったのだ。
すると準大公に呼び止められた。
「ねえ、あなたの名前、なんて言うの?」
もう来るな、を名前入りで言いたいから聞いて来たのだろう。 言われなくても出て行くつもりでいたのに。 だがお客様に名前を聞かれたら答えない訳にはいかない。
「モウ・ナナシと申します」
「名字がナナシ? へー、おもしろーい。
ね、師範、この人の名前、モウ・ナナシなんですって。 面白いと思いません? 名前があるのにナナシとはこれいかに、なんちゃって。 ひゃひゃひゃ」
奇人変人なら世の中いくらでもいるし、英雄が変人でも珍しくはない。 いや、英雄が普通の人だったらそれこそ珍しいと言うべきだろう。 と思っていた私でさえ内心かなり引いた。 まるで大隊長の着ぐるみの中に学齢前の子供が入っているような。 しかもそれで終わりではなかった。
「この名字、師範は聞いた事あります? ないでしょ? 少なくとも北にはないですよね?」
しつこくお聞きになる。 タケオ大隊長は無言で汗をぬぐいながら着替え始め、一生懸命話し掛けていらっしゃる準大公の方へ振り向きもしない。 明らかに話し掛けるなという態度だ。 それくらい今日初めてお会いした私でも分かる。 毎日寝食を共にしていらっしゃる準大公になぜ分からないのか。 まさかわざと? には見えないが。
まるで猫じゃらしを持って虎に近づいて行くような。 そんな人がいるか? と聞かれたら、いると答えたとは思わない。 だがここにお一人、いらした。
いくら六頭殺しで勇気があり過ぎ、その使い道に困っている御方だとしても、使いどころを間違えているだろう? とは思ったが、他家の奉公人が出過ぎた真似をする訳にもいかない。 第一ここには私よりずっとお止め役に相応しい人がいる。 ポクソン補佐だ。 一度剣を握らせたら鬼神という噂だが、奉公人の間では文字通り蹴り出されようとした侍従の尻を救ったという美談で知られている。 ただ残念な事に次の間から爪を切っている音がした。 マッギニス補佐ならすぐそこで読書をしていらっしゃるが、本から顔を上げようともしない。 お手元のノートに一行、さらさらとお書きになる。
「馬鹿者から死ぬのは世の慣らい」
日付と時刻も付け加えていらしたから私に見せようとして書いたのではないと思うが。
ページをめくる微かな音がやけにはっきり耳朶を打つ。 何か起こる。 そんな予感がした。 逃げるなら今。
失礼にならない早さで後ずさり始めた、その途端。 準大公が私の方を振り向かれ、誰にも笑ってもらえなかった事を決まり悪く思われたか、私に同意をお求めになる。
「面白い、よね? 面白い、てよく言われない?」
「はい」
よく言われるどころか名前を聞かれた事さえ今まで一度もない。 つまり嘘をついた事になるが、あどけない瞳でじっと見つめて餌を強請る愛玩動物に空っぽの餌箱を振って見せられるか? たとえ飼い主ではなかろうと。 愛玩動物と準大公を同列に語っては不敬の誹りを免れないにしても。
「やっぱり? だよね。 えーと、ほら、なんだっけ。 ゆにーく、て言うの? ま、師範は自分がすっごくゆにーくだからさ、ちょっとゆにーくなくらいじゃ、ゆにーくとは思わ、いでえっ!」
ゴンと鈍い音がしたと同時に準大公が頭を抱えて踞る。 タケオ大隊長の拳が準大公の後頭部に決まったようだ。 閃光のような一瞬の出来事で、タケオ大隊長が準大公の方に振り向いた事さえ私の目では捉えられなかった。 後ろ向きのままでの一撃だったのかもしれない。 さすがは皇国の頂点に立つ名剣士と言うべきか。
と、感心している場合ではない。 大急ぎで脳内にある侍従マニュアルの、お客様同士(双方男性、社会的階級同等)で殴り合いになった場合を反芻した。
一、即座に近くの警備兵を呼び、止めに入らせる。 決して自ら止めようとはしない事。
二、怪我が軽傷なら救急箱を取りに走り、当直医を呼ぶ。 重傷でなくとも医者の所見を得る事。
三、上役に報告の後、重要度に従って報告書を作成する。 客人による家具や物品の損傷に関しては第十二章八節を参照。
「んもー。 師範たら。 稽古で面白くない事でもあったんですか」
準大公が涙目でおっしゃる。
手順その一が必要ない事は明らかだが、私以外の侍従だったら救急箱を取りに走ったと思う。 でも私は動かなかった。 どれ程痛もうと、たんこぶ程度で大げさに気遣われる事を喜ぶ軍人はいない。 特に原因を言いたくない場合、周囲に悟られたくはないだろう。 せっかく目立たない所を殴られたのだし。 後でこっそりドーナツ型の枕を寝室に置くくらいはするつもりだが。
準大公が拳骨を食らうのはおそらくこれが初めてではない。 これで最後、にも見えなかった。 その証拠に、上官が殴られたというのにマッギニス補佐は本から顔を上げようともしない。 爪を切り終わったポクソン補佐は踞っている準大公の横を声も掛けずに通りすぎ、茹で卵を食べながら水筒にレモンを絞り始める。
少し迷ったが、私は何も言わずに退出し、上役には水を給仕し終えた事だけを報告した。
「二度と来るなと言われなかったのか?」
「言われておりません」
追い返されなかった奉公人は私が初めてだ。 なぜ追い返されなかったのか聞きたそうな顔をしていたが、それを私に聞いた所でお客様の本心が分かるはずもない。 水筒にした事がよかった訳でも、ましてや私の変わった名前のおかげでもないだろうし。
因みにモウ・ナナシは新しく戸籍を作った時、自分で適当に選んだ。 こんなふざけた名前にしたせいで準大公にたんこぶ。 そう思うと若さ故の愚かな選択を悔いずにはいられなかったが、明日には本邸からの増員が到着する。 これは私の生涯ただ一度の邂逅となろう。 それがこれ程忘れ難いものになった事を嬉しく思う気持ちもなかったとは言えない。
ところがそれ以来、他の侍従が顔を出すと、ナナシを呼んで、とお声がかかるようになった。 当家では既に控えている侍従がいると、お客様から呼ばれない限り他の侍従は顔を出せない。 その決まりにお気付きになったようで。 もっともそれだけなら私以外の誰でもよいはずだ。 別邸にも軍人は沢山いるから軍人専属の侍従もいる。 軍人のお世話をし慣れている者がいない訳ではない。
私のどこを気に入って戴けたのか直接伺った事はないが、命じられない限り何もしない所ではないか。 当家の皆様はお忙しく、軍人でも分刻みのスケジュールで面会、訪問、会議、出張。 その合間に複数のお稽古事をなさる。 やる事と言えば一種類の稽古だけという御方は珍しいと言うか、いないのだ。
当然奉公人も多忙に慣れた気が利く者ばかり。 命じられなくても先を読んで準備するのが常。 彼らにとって無為は苦痛でしかない。 何もせずに済むならそれに越した事はないと思う侍従はあまりいないと言うか、たぶん私だけだろう。 勿論私とてお客様があれこれして欲しい時に何もしない訳ではない。 ただあの四名様に関しては、何もするなは遠慮でも慎みでもなく、本音なのだ。
準大公始め、どなたも身支度は御自分でなさった。 お酒を嗜まず、女を御所望になるでもなく。 宴会、賭博、演芸娯楽、一切無用。 毎日なさる事と言えば準大公は弓、タケオ大隊長とポクソン補佐は剣のお稽古。 マッギニス補佐は読書。
お側を務めたと言ってもお食事やお着替えを届ける程度で、さしたる用事を頼まれた事はない。 お声が届く所で控えている。 それだけ。 私が料理したり洗濯する訳ではないから仕事など何もしていないも同然だ。 それでも退屈はしなかったが。
遥か上空を通り過ぎる鴨や水鳥を射落とす準大公。 読書と思索に耽るマッギニス補佐の瞳に映る理知の輝き。 そしてタケオ大隊長とポクソン補佐の剣が散らす火花。 側で眺めているだけで飽きなかった。
何より面白いのが準大公とタケオ大隊長のやりとりだ。 最初は準大公が叱責される所ばかり見ていたからタケオ大隊長が準大公を手下扱いしているように見えた。 こう言ってはなんだが、準大公にタケオ大隊長やマッギニス補佐のオーラはない。 地味なポクソン補佐と比べても影が薄かったように思う。
だが日が経つにつれ、そうとは言い切れないと思うようになった。 なにしろ世間の常識から外れた事をなさるのはいつも準大公で、周囲の方々はただ黙々とその尻拭いをしていらっしゃる。
私の名前の件でも分かるように普通なら芸名のような名を聞いただけで訳ありと察し、面白がったり詮索したりはしない。 殴って黙らせるのは穏当を欠くにしても、あの拳骨がなかったら準大公は私に名前の由来をお聞きになっただろう。
私にとって遥か遠い過去の瑕瑾で今更何の痛みもない。 だがそれを言わずに済んだのはタケオ大隊長の思いやりではないかとさえ思う。 私に対するだけでなく、それを聞いた準大公が同情なさり、私の為に何かしてあげたいと思わないように。
それでなくとも準大公の質問は下手に答えると、なんで、どうして。 察しろと答えると、察するって何を、と来る。 なぜか部下であるマッギニス補佐を質問攻めにしている所を見た事はないし、ポクソン補佐にもなさらない。 なのにタケオ大隊長にだけはどこまでも付き纏って質問攻めになさるのだ。 タケオ大隊長の忍耐力は中々のものと言えよう。
私にとって準大公は是非再びお会いしたい御方だが、その御滞在の二年後、当家の姻戚となられた。 別邸にお迎えする機会があったとしても下級侍従に主筋のお側を務める機会など巡って来る訳がない。 そう思っていたら、次代様のお呼び出しがあった。
「ナナシ。 私の結婚式では其方が準大公のお側を務めよ」
何とも唐突。 不可思議な御命令ではある。 これ程晴れがましいお役目を頂戴するような何かをした覚えは一つもなかった。
当代様や次代様のお側に行く機会がなかった訳ではない。 御予定にないお手紙をお書きになる時便箋を取りに行くとか、急な雨の時の傘持ちとか。 いずれも上役の指示に従って動いただけで直々に命じられたのではない。 御身の周りは誰が何をするか細かく決められており、別邸侍従が先走る事は許されていないのだ。 次代様が私の名を御存知だった事も今日初めて知った。
お役目に不満があると言いたいのではない。 我らが英雄のお側を務めるとは願ったところで叶わぬ夢。 もし私が天涯孤独の身でなかったら親兄弟や親族に小躍りされたであろう。 妬まれて殺されるかもしれないが、そのリスクを冒しても志願したい者がいくらでもいる。 私の同僚や上役に志願した者はいないが、それは当代様の執事か侍従長、又は次代様の側近筆頭、でなければ次代様の御兄弟のどなたかが務めるべきお役目、と遠慮しているからに過ぎない。
もし何か粗相があれば私だけが原因の不始末であったとしても主まで処罰される恐れもある。 それ程重要なお役目を、なぜ下級侍従に? 次代様側近筆頭セバロス様の御都合が悪かった? しかし彼の他に何十人もの側近がいらっしゃるではないか。
それにダンホフ公爵家では次代への指名が事実上の爵位継承だ。 その時点で次代様は当代様より上のお立場となる。 執事、本邸侍従長とその部下を含めた千人以上いる侍従の中から誰を御指名になってもよい。 次代様の御兄弟、親戚も含めるなら選択肢は更に増える。
いくら準大公は平民を御贔屓になさる事で有名な御方ではあっても準主賓としての御出席なのだ。 お側が下級侍従一人ではあまりにお粗末。 噂では当代様は次代様に大変御満足なさっていると聞いているが。 この御決定に関しては当代様だけでなく、各方面からお諫めがあるのでは?
それとも私が辞退する事を予想しての御指名? だがそんな余計な手間を掛ける必要がどこにある。 或いはこのお役目を巡って上の皆様が争い、収拾がつかなくなった? それならあり得るが。 ならば出来るだけ多くの人にお役目が行き渡るようにすればいい。 一時間交代制にするとか。 お部屋、式場、舞踏会のように場所を分けるとか。 当代様には本邸だけで四十数名のお側役がいる。 準大公に百人のお側役が付こうと過分とは言えない。 もしかすると私はお側役のお側役?
「沢山いらっしゃるお側役の補佐を務めるという事でしょうか?」
「いいや。 お側役はそなた一人。 他の者を指名するつもりはない。 私がお側を務めたい所だが、主賓がいらっしゃる以上、準主賓のお側に張り付いている訳にはいかないし、それをしては準大公が恐縮なさる。
言うなればそなたは私の代行。 ダンホフ公爵家次代として準大公に仕えるのだ。 次代なのだから奉公人は勿論、私の兄弟親族、誰に使い走りを命じてもよい。 父が口出しする事はないと思うが、されたとしても無視する事を許す。
準大公に関する出費に上限はない。 御満足戴く事だけに専心せよ。 人払いされた時は拍手が届く範囲で待機する事。 対応に迷う事があっても一々私の采配を仰がず、何が準大公の御心に添うか、自分で考え、行動するのだ」
そして豪華な宝石箱から美しい宝石がいくつも使われているペンダントを取り出し、私の首にかけて下さった。 ペンダントトップがダンホフ公爵家の家紋になっている。
「これは其方が私の代行である証。 常に身に付けているように。 そなたが病気や事故で動けない場合はロジューラに代行を務めてもらうが、そうならない事を祈る。 ロジューラでは準大公が恐縮なさって何も頼まないだろうし、深読みし過ぎて準大公に喜んで戴けるもてなしは難しかろう」
「恐れながら。 私なら出来ると思われた理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ダンホフで準大公のお側を務めた経験があるのは其方だけだ。 準大公は其方の事を覚えていらしたぞ。 三年前、ナナシに大変世話になった、と」
「確かに証人喚問の際、お世話致しましたが、大した事をした訳ではございません」
次代様に過去の経緯を説明し、この人選をお考え直し下さるようお願いした。
「準大公は気難しい御方ではいらっしゃいません。 食べ物や着る物に関する御不満をおっしゃった事は一度もなく、御不満があったとしても慶事にケチが付くような真似はなさらないでしょう。 出過ぎず、先走らず。 そのコツを理解していれば私以外の侍従でも充分お側が務まるかと存じます」
「そのコツを教えられた所で準大公の御要望に臨機応変の対応が出来るとは限らない。 準大公にお仕えする奉公人の数が極端に少ない事を見ても分かる。 簡単なように見えて誰にでも出来る事ではないのだ。
それに文句がなければ又の御来臨があると解釈するのは早計。 今回にしても準大公が出席に付随する御面倒を全く御理解なさっていなかった故に実現した。 自己満足のもてなしでは又の御来臨は望めない。 こちらが金を使えば使う程、迷惑をかけたと申し訳なく思うような御方だから金を使いさえすればよい訳でもない。 使うなら準大公に悟らせないようにせねば。 そなたなら私の言う意味が分かるな?」
「しかしながら現在は無爵の伯爵家三男ではいらっしゃいません。 皇王族姻戚で皇寵もおありになる。 又、それがあればこそ尚の事、慎重な振る舞いを要求される御身分となられました。 その御身分に相応しい歓待をしない訳には参らないかと存じます」
自分で言って今更気付いたが、そういう意味ではこれ程フォローが難しいお役目はない。 準大公はそうでもないが、タケオ大隊長に至っては衣服の乱れを直される事さえ嫌がった。 それに準大公とタケオ大隊長、どちらも儀礼に関して大変疎くていらっしゃる。 陛下の御名代が御臨席になる公の場で衣服の乱れがあったら理由が何であろうと大きな問題となるはず。 かと言って、あれこれ構い過ぎては御機嫌を損ねるだろう。
「その難しさを理解しているとは心強い。 加えて当家に準大公をお迎えするのは前例なき事。 盛大な挙式も初めての試みである。 こうすべき、これが最善と分かっている者は誰もいない。 であればこそ、お側役を務めた経験のある其方に賭ける事にした」
「けれど次代様の代行とは。 一介の侍従には重過ぎる御期待」
「先代ホルタン伯爵を凌ぐ剛胆と噂される其方に重過ぎる期待などあろうか」
私はホルタン伯爵家正嫡次男として生まれた。 ホルタン伯爵家はダンホフ公爵家の系列。 何かと便宜を計ってもらえる関係で、その縁故で侍従として雇われ、奉公し始めた。 だが私が二十二歳の時、若さ故の短慮で見合いを断り、父を激怒させ、絶縁されている。 新しく戸籍を作ったのは実家の戸籍から抹消されたからだ。
十四の時から出仕し、二十歳で上級侍従へ昇進していたから実家の名などなくても生きていけると思っていたが、現実は厳しい。 絶縁と同時に私は下男へ降格された。 それなら他家に、と伝手を使って奉公先を探したが、ホルタン伯爵を怒らせてまで私を雇おうとする物好きはどこにもおらず。 文官として出仕しようにも平民だと貴族の推薦状が三通要る。 仕官の道を閉ざされ、手に職がある訳でも商才がある訳でもない。
見合いを断ったのは言い交わした女性がいたからだが、私が下男になった途端、何度手紙を出してもなしのつぶて。 半年後、彼女が嫁いだ事を噂で聞いた。 父への詫び状、母や兄へ取りなしを願う手紙、いずれにも返事は来なかった。
「先代ホルタン伯爵はともかく、私が剛胆とは。 その評価を下さったのはどなたでしょう?」
「ユレイアだ」
何とも意外なお名前ではある。 ただ剛胆と呼べるかどうかは別として、普通の奉公人ならやらない事をした自覚はあった。 お側を務めた際、ユレイア様の手助けをするよりタケオ大隊長の邪魔をするなという御希望を優先したのだから。 そのせいでタケオ大隊長を逃したとは言えないにしても、てっきりユレイア様の御不興を買ったと思っていた。 叱責や報復はなかったが、それはお忙しさに紛れての事かと。
「証人喚問の際、父の内意は別邸家令以下、奉公人全員が承知していたのだろう? 其方も知っていたはず。 タケオ大隊長は大切な客ではあっても一ヶ月でいなくなる。 ユレイアは後に良縁に恵まれ、そなたに感謝こそすれ恨んではいないが、一歩間違えれば解雇や折檻、暗殺もあり得た。 それは考えなかったのか?」
「根が楽観的な性格なもので」
「結果的に丸く収まったのは其方の強運。 だが下男に降格された時も絶望しなかったようだな」
「貴族の人生と下男の人生。 全く異なる二つの人生が経験出来るなら二つ目は儲けたようなものと考えまして。 掃除の順番を間違え、一週間水だけで働かされた時は己の呑気を呪いましたが」
「そこから侍従見習に取り立てられ、侍従に昇進した。 運だけではなかろう」
「何事も慣れ、ではないでしょうか」
「其方なら代行にもすぐに慣れよう。 仕える側と仕えられる側、どちらの経験もある侍従は珍しい。 とは言え、経歴の珍しさだけで抜擢されたのではない。 それはいずれ他の者にも知れよう。 其方の心ばえ。 運の強さもな」
運が強いとしてもそれは準大公のお目に留まった事で使い果たしたのではないか。 広い世間には無限の運をお持ちの御方もいるようだが。 準大公のように。
「就いては明日、本邸に向けて出発し、そこで挙式に関する詳細を学ぶ事。 取りあえず準大公の御身の周りと式次第、お泊まりに関する担当者と警備の詳細を把握しておくように。 準大公のスケジュールが決まらない内は難しいが、いずれにしても御滞在は短期となろう。 二日か三日がせいぜいだ。 出席者に関する情報にも目を通しておけ。 それは時間があれば、でよいが。
以上をメモにしておいた。 本邸に着いたらトリステラ執事にも見せよ。 尚、春になり次第、一度北へ出張してもらう。 其方が以前お世話をした時から準大公のお好みやお嫌いな物に変化があるかもしれない。 準大公の部下や奉公人から最新の情報を聞いておく事。 モンドー北軍将軍、準大公家執事ウィルマー、タケオ家執事ボーザーには私が紹介状を書いておく。
ところで、少々寒いが飛竜を用意させた。 明日はそれに乗って行くように。 準大公は飛竜で往復なさるだろう。 自分で体験していないと何を喜んで戴けるか分からない事もある」
「承知致しました」
飛竜に乗った事はないし、乗りたいと思った事もない。 断れるものなら断ったが、断れない命である事は明らかだ。
室内に控えていた護衛兵二人の内の一人に向かい、次代様がお命じになる。
「レートラッド。 ナナシの警護を命じる」
「御意」
兵士は私に向かって額ずき、職務に忠実である事を誓う。
「ダンホフ公爵家次代代行ナナシ様に、我が身命を盾とする事を誓います」
それを聞いてぎょっとした。 通常は忠誠を誓うだけだ。 「我が身命を盾とする」という言葉は入っていない。 それが入っているものは盾の誓いと呼ばれ、守るべき人を守り切れなかった場合、殉死するという意味がある。
私の父は生涯ただ一度、この誓いを捧げられた事があると言っていた。 その兵の命を惜しみ、受け取らなかったが。
それにしても捧げるのが次代様なら分かる。 代行の私に捧げるとは。 次代様も私も強制してはいないのに。 果たして素直に受けてもよいのか?
改めて考えれば次代様と同じ権限を持つとは、次代様と同じように命を狙われたり、誘拐される危険もある事になる。 それでなくともこのペンダント。 家紋に付いている宝石をばら売りするだけで億の金になりそうな。
護衛に身命を捧げる忠誠心がなければ私の命は一日と保つまい。 私を、と言うより次代様を安心させる為にこの誓いを捧げてくれたのではないか。 レートラッドが次代様に身命を捧げている証。 その恩恵を受けるのが私でもよいのだろうか。
一瞬どころではなく迷った。 懐疑と恐れが胸を過る。 その時、別れ際にお見せになった準大公の笑顔が思い浮かんだ。
「いろいろありがとっ! また会えたら嬉しいなあ」
あの裏のない笑顔。 私は準大公にお目にかかるまで、あのような心からの笑顔を見た事はなかった。 子供の頃でさえ。 そこそこ優秀で聞き分けもよく、父母や奉公人を困らせた覚えはない。 なのに私はいつも部外者で、誰かからの借り物であるかのような目で見られていた。 ダンホフへ出発する日、父母が見せたのはこれでようやく厄介者が自分の手から離れるという安堵の眼差し。
準大公の笑顔を再び拝見する機会。 これを掴まずにいられるか。
私は代行証をレートラッドに差し出して触らせ、彼の誓いを祝福した。
「勇ある献身に天の御加護がありますよう」
家紋中央のダイヤが一際美しく煌めく。 私の祝福に頷くかのように。
次代様が満足げにおっしゃる。
「善き前兆。 頼もしき代行を得、私の肩の荷が軽くなった心地がする」
自分の肩へ移された荷の重みを感じつつ、私は翌日ダンホフ本邸へと旅立った。