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弓と剣  作者: 淳A
天駆
443/490

竜夢

 無事、皇太子殿下の舞踏会が終わった。


 あ、無事、と言ったらまずかった?

 まっ、そのー。 何もなかったとは言えないにしてもさ、無難に収まったとは言えるんじゃない? 師範なんか翌日帰ったその日に道場へ顔を出したんだぜ。 ぶちのめされたのは新入りの二人だけと聞いたから随分軽めの稽古だけど。 靴はいつものやつを履いていた。 て事は、腫れはもう引いていたんだ。

 俺の社交ダンスもノーミス。 とは言えないが(汗)。 間違いが許されない皇太子妃殿下とのダンスはしないで済んだ。 お加減がよろしくないとかで御欠席なさったから。 ふう、助かった、なんて思っても言ってません。


 舞踏会ではナジューラ義兄上の婚約者のミサ・リューネハラさん、レイ義兄上の婚約者のキャシロ・プラドナさん、二人と踊った。 どちらも評判の美人で近寄り難い雰囲気だから、どきどきしちゃった。

 ミサさんと踊った時は緊張のあまりステップを間違えて、思わず、めんごめんご、とか言っちゃって。 そんな意味不明なお詫びに騒ぎ立てるような人ではなかったからよかったが。

 そもそも踊らなきゃ間違いもしなくて済む話だ。 でも今の内に世間話が出来るくらいの関係になっておかないと、何かあった時に困る。 何しろ俺は今まで公爵家主催の結婚式に一度も出席した事がない。 しかも準主賓。 緊張のあまり何かしでかさないものでもないだろ。 いや、きっとしでかす。 誓ってもいい。 そんな時花嫁が、ほほほ、大した事でもございませんわ、と笑って許してくれるかくれないか。 それが天国と地獄を分ける。


 たとえ式では何もなくても、ナジューラ義兄上とレイ義兄上にはこれからも何かとお世話になるだろう。 その時妻に悪い顔されたらお世話にだってなりにくい。 そう思ったからダンスは苦手だけど、勇気を出して俺の方から踊って下さいと申し込んだ。 下手をすると親しくなるどころか嫌われるかもしれないのに。

 勇気の出し過ぎ? 出す場所を間違えた? と後悔しないでもなかったが。 単なる挨拶なら今まで何度もしている。 ミサさんはリューネハラ公爵の名代として先代陛下のお見送りにいらしたし、キャシロさんには去年の皇太子殿下舞踏会で、踊ってくれとアプローチされた。 その時は断ったけど。

 俺が叙爵される前、軍対抗戦を観戦した時に挨拶した事もあった。 伯爵家子弟の俺から声を掛けるなんて真似は出来ないが、父上の顔が広いからか六頭殺しの名が売れたからか、公爵からもお声を掛けて戴いて。 その中に確か、リューネハラ公爵とプラドナ公爵もいたんだ。

 実はミサさんとキャシロさんにも挨拶したかどうか、はっきり覚えてはいない。 ただそういう時は夫人、令嬢、妹、愛人、関係が何であろうと公爵のお側に立つ女性にも必ず挨拶するものだから。


 それに今年、新年舞踏会が始まる少し前に親族として正式な紹介をしてもらった。 そういう席ではしきたりで婚約者はお互いの美点を言う。 能書きと言うか、趣味や特技、身上書的なあれこれはそこで聞いた。 どこまで本当か分からないけどさ。

 因みにこれは皮肉で言ってるんじゃない。 レイ義兄上の趣味に乗馬が入ってなかったんだ。 あれが趣味や特技じゃないなら何。 乗馬のプロって言いたいの? 本業は公爵でしょ。

 そしてキャシロさんの趣味は刺繍なんだと。 噂じゃ暇さえあれば踊ってると聞いていたのに。 いくら器用な人だって踊りながら刺繍するのは難しいんじゃない?

 ナジューラ義兄上の趣味は船の設計だった。 前に建造中の船の話をした事があり、その時トップギャラントシュラウドのデザインを変えると言ってたから嘘ではないと思う。 ただ初年度の賃貸料はいくらで利益が出るのは五年後とかも言っていて、目が輝いていたのはお金の話をしている時だった。 儲けが嬉しいなら、それって趣味と言うより商売だろ。 本業より規模が小さいだけで。

 ミサさんの趣味は絵画らしい。 でも他がそういう調子だったから本人が描いている所を見るまでは信じる気になれない。 絵は見るだけで、描くのが好き、て訳じゃないかもしれないし。


 乗馬とダンスが入っていなかった事が気になって、紹介が終わった後で別室へと移る途中、他の人には聞こえないような声でサジ兄上に聞いた。

「あの、乗馬やダンスを趣味として言わなかったのはなぜだか分かります? 隠さなきゃいけない理由でもあるんですか?」

「非常に好きであった場合、公表を憚る事があるのだよ」

「じゃ、一番好きな趣味は公表しない?」

「順番より程度が問題なのだと思う。 毎日する程好きなら度を超している。 上級貴族にそんな暇はないはずだから。 週に一度、三十分程度嗜む趣味なら一番好きでも公表されるのではないかな」

 それで思い出した。 レイ義兄上が北軍に入隊した時のびっしり詰まった日程表を。 確か、あの中に乗馬の時間はなかったが、普通なら歩いて行く距離でもレイ義兄上は必ず馬に乗っていた。 それを見た俺は歩くのが億劫だから馬に乗っているのだと思い、これだから上級貴族って奴は、と内心バカにしていたが。 きっと少しでも馬に乗りたかったんだな。 今更だけど、バカにした事を心の中で謝っておいた。


「毎日やりたい程好きな事や大っ嫌いなものがあるなら、それこそ知っておきたい事なのにな。 これから親戚になるんだし」

「上級貴族は自分にとって大切であればある程、世間に知られる事を嫌がる。 好きという気持ちを利用される事を恐れているのかもしれない」

「はあ。 だからなんですか? 二人の馴れ初めと言うか、どういう経緯でこんなにすぐ話が纏まったのか、ちらっとも出ませんでしたよね。 てっきりこの席で公式バージョンが発表されると思っていたのに」

「おや、噂を聞いていないのかい?」

「それは聞いていますが」


 レイ義兄上はレイエース殿下の舞踏会でヒャラを踊るキャシロさんに魅了された。 ナジューラ義兄上はミサさんの慎ましやかな態度に惹かれ、以前から求婚していたが、次代となる事が確定せず、うんと言ってもらえなかった。 次代となる事が決まり、晴れて婚約が調った。


「どちらの義兄上も、魅了されたとか惹かれたという言葉とは無縁のような気がして」

「取りあえず最新の噂を公式バージョンと思っていれば間違いはない。 それが嫌なら打ち消す噂が流されるから」

「そうなんだ。 まあ、婚約の楽屋裏とか、別に俺が知らなくてもいいんですけど」

「知っておくべき噂はトビが教えるだろう。 その時、高が噂と侮らないように。 事実ではなくとも当事者の本音が表れる事もある。 世間からこう思われたい、という本音がね」


 それって、今流れている噂が事実じゃないと遠回しに言ってる? そこまでは聞けなかったが。

 そもそもなぜその人を選んだのかなんて本人に聞かなきゃ分からないよな。 ナジューラ義兄上、レイ義兄上と御飯を食べる時にでも聞こうと思っていたら、結局一緒に御飯を食べる機会は一度もなかった。 今年は俺にとって叙爵後初の新年の御挨拶だから普通ならない行事が沢山あったし、今まで色々やらかしたせいで偉い人達に弁明をさせられて。 頼りになる親戚や優秀な部下が根回ししてくれたおかげで猫又や海坊主の件は何とかうやむやにしてもらえたが。

 おまけに滞在したのは神域だ。 出入りや面会手続きがとても複雑だから、親戚に会いたいなら俺の方から会いに行くしかない。 でも宰相官邸やら大審院への出頭続きで結局誰ともゆっくり話せなくてさ。


 と言っても、ミサさん、キャシロさんと立ち話する機会さえなかった訳じゃない。 俺から声を掛けても問題ない身分になっているし。 だけど迂闊に女性に話し掛けたら未婚既婚に拘らず、噂の元になる事には変わりがない。 たとえそれがいいお天気ですね程度の立ち話だったとしても。 何か世間の人が納得する理由がないと。

 因みに間もなく義姉になる人だから、は納得する理由にならない。 義姉にならないかもしれないのに声を掛けるのは変、と思われるんだって。 実際ナジューラ義兄上には婚約破棄の経験があるし。 理由もなく声を掛けるなんて儀礼上あり得ないから、誰かがもっともらしい理由を考え出す。 時にはもっともらしくない方が面白おかしい噂となって広まったりする。

 俺が陛下の御前でヒャラを踊った、とかもそう。 いくら俺だってそんな事をしたら爵位取り上げになるだろ。 勿論踊っている所を見た人だっていない。 なのに十二月二十九日は「ヒャラの日」だ。 俺が初めて陛下の御前でヒャラを踊った日を記念して。


 怖いよ。 世間の人って一体何を考えているの? 師範より怖いか、と聞かれたら返事に迷うけど。

 まあ、噂なんてどれもこんなもんだよな。 噂に振り回される事ほど馬鹿馬鹿しい事はない。 と、俺でさえ知っているんだ。 賢い世間の皆さんならとっくに御存知だろう。 

 とは言え、噂の種になるような行動は控えている。 何がどうひん曲がってリネの耳に届かないものでもないから。 俺が気が付かないでいると勝手にいじけちゃったりしてさ。 それがカナやエナに伝わって責められたり説教されたり。 やましい事なんか何もしてないのに。 ほんと、勘弁して。


 危険がいっぱいの社交界でもダンスは例外。 貴重な安全マーク付きの機会だ。 それはいいんだけど、社交ダンスを踊りながら高貴な女性とおしゃべり? その内の一つをやるだけでも難しいのに、二つ同時にやれと言われてもね。

 飛竜に乗りながら的に当てられるくせにダンスの何が難しいと言われるかもしれないが、俺にとって弓は簡単だ。 的に当てながら部下とおしゃべりなら出来る。 泳ぎながら弓を引いた事もあるんだぜ。 そ、水中で。 ちゃんと狙った所に当たっていた。

 会議が長引いてお昼を食べ損なった時、食べながら射った事もある。 大きな声では言えないけど、受け狙いでヒャラを踊りながら射った事もあった。 的にはちゃんと当たっていたのに全然受けなかったから二度とやる気はないが。 どうも辺りにかなり怖い思いをさせたみたいでさ。


 とまあ、俺も探せば器用な一面があるって言えばある。 不器用な面の方が多い、てだけで。 今年の皇太子殿下の舞踏会では踊りながら歌う寸劇が披露され、喝采を浴びていたが、あれをやった歌手と言うか、ダンサーはすごいよ。 尊敬しちゃう。 俺には出来ない。

 だからミサさん、キャシロさんとはそれぞれ踊り終わった後で少し話した。 それだけで性格が分かったと言う気はないが、二人の違いが印象に残った。 どちらも公爵令嬢として生まれ育ったから共通点がない訳じゃない。 上品で、賢そうな所も似ている。 何かを知っているから賢いと言うより、知ってて何も言わない賢さ、と言ったらいいのかな。

 でも一番の違いは性格。 と言うか、生き方?

 ミサさんは流れに従う。 キャシロさんは流れに逆らう。


 ミサさんにとってこの結婚は二度目だ。 最初の結婚は子供が出来なくて離婚になったから、子供の話はしない方がいいとトビに注意されていた。 だけどサリや妊娠しているリネの事が話せないなら何を話せばいいの? 軍の事や任務はどれも話しちゃまずいし、親戚の噂はどこに地雷が潜んでいるか分からない。 弓なんて面白い話でもないし、俺の領地の話はもっと退屈だろ。 すると俺が話せる事って何もない。

 リネによると女性にとって無難な話題は髪飾りなんだって。 それで髪飾りを褒める練習をしておいた。 ところが当日ミサさんが付けていたのは宝石が縫い込まれ、レースをあしらった帽子と言うか、髪覆いだった。 ミサさんにとても似合っていたが、どう見ても髪飾りじゃない。 帽子、でもなさそう。 ヘア何とか、じゃなかったっけ?

 ヘアパット、ヘアネット、ヘアパック? ヘア、らっぷ?

 うーん、どれも自信がない。 ど、どうしよう?


 ミサさんは俺が言葉に詰まっている事を察したみたい。

「サリ様の御成長、さぞかし目覚ましい事でございましょう。 御機嫌は如何か、伺ってもよろしいかしら?」

 聞かれて嬉しい質問だったから俺は一も二もなく飛びついた。

「はいっ。 とてもお元気です。 いつも賑やかで。 お静かな時は何かに夢中になっていらっしゃる証拠なんですよ。 妙に静かだなと思ったら、壁一面に落書きなさってい」

 調子に乗ってぺらぺらしゃべり出してから、しまった、これって子供の話じゃないか、と気付いて慌てたが、もう遅い。 俺って考えている事がまるっと顔に出るとみんなから言われている。 それに話の途中で口を噤んだ。 聡いミサさんに気付かれなかったはずはない。 なのに彼女はにこやかな態度を少しも変えなかった。

「お茶目でいらっしゃるのですね。 お健やかな御成長、御両親の慈しみに満ちた日常が目に浮かぶような。 僭越ながら我が事のように嬉しゅうございます」

 能面で本音を隠しているとかじゃなく、本当にサリがやんちゃで元気な事を喜んでいるようにしか見えなかった。 そうでなかったとしてもそれを悟られる事はないだろう。 誰にも。 俺だけじゃなく、鋭く人の心を読む人にも。


 キャシロさんは社交界で知られた踊りの名手だ。 ヒャラを踊った時は礼儀に五月蝿い人達から顰蹙を買ったが、レイ兄上を射止めた事で若い女性からは羨望と尊敬の眼差しで見られるようになったんだとか。

 俺としてはヒャラを踊ってくれた事が嬉しくて、それを話題にした。

「去年の舞踏会では、次回会う時までにヒャラを稽古しておくとおっしゃいましたが、まさか本当に稽古なさっていたとは。 聞いて驚きました」

「ヒャラとは申しましても殿方の動きをそのまま真似する事は出来ませんわ。 ですからこういう動きにしましたの」

 腕を波がうねるみたいに動かし、ピッと止め、ふにゃっとさせたかと思うと、さっと鋭角に曲げて俺が足でよくやるヒャラの動きを腕でやって見せた。

「お見事! とてもお体が柔らかいんですね。 私には真似出来ないです」

「お褒めに与りまして光栄ですわ。 元祖からのお墨付き、と受け取ってもよろしいのかしら?」

「はい」


 そういう他愛もない事を話したくらいでキャシロさんは他の人と踊りに行った。 俺と話したくて順番待ちしている人達が話せるように。 俺より年下なのにきちんとした気遣いが出来る人だ。

 と俺は好感を抱いたんだが、キャシロさんの実父、プラドナ公爵はそう思わなかったみたい。 後で、なぜ青竜の騎士のお側から離れた、とキャシロさんを叱っていた。 キャシロさんは、次から気を付けますと謝っていたが、次もさっさと踊りに行くんじゃないかな。 彼女の瞳にはどこか自由で、反骨とさえ言える輝きがあった。

 結婚すれば実父より夫の言葉に従う方が大切になる。 レイ義兄上ならどうしろこうしろとは言わないだろうが、キャシロさんならたとえ夫から言われても自分の好きなように振る舞うような気がした。 夫は苦労するかも? レイ義兄上なら反骨を楽しむ心の余裕があるから大丈夫と思うが。


 舞踏会にはサガ兄上も出席していて、俺の時間を独り占めしないよう、家族や領地の様子を要領よくまとめて教えてくれた。 ライ義姉上はサミちゃん(女の子)を出産したばかりだから今回は欠席している。

「ライ義姉上、安産でした?」

「ああ。 あの様子なら七月の結婚式には出席出来るだろう」

「では、産後の肥立ちは順調なんですね?」

「順調と言えば順調なのだが。 サミへの求婚が引きも切らずでな。 今のところ全てお断りしているが。 その対応に追われて充分な休養を取っている暇がないという有り様だ」

「その内断り切れないやつが来そう」

「その時は青竜を呼び出し、追い払ってくれ」

「ははは。 分かりました」


 父上はこの舞踏会が終わったら、レカ兄上が住むアイデリエデンに向かって出発するんだって。

「今回は飛竜を使うつもりでいる。 ここからなら外国便がいくつか出ているし、陸路だと七月の結婚式までに帰れないのでね」

「いいですねえ。 俺もレカ兄上と会いたいなあ。 お元気なんですか?」

「うむ。 どうやら結婚を考えているようだ」

「おお。 俺からもおめでとうと伝えて下さい。 じゃ、お嫁さんを連れて帰って来るのかな?」

「どうだろう。 新婚旅行がてら帰国するかもしれないが」

「えーと、ところで、父上。 その、俺、色々やらかしたりして。 父上のお立場を難しくしちゃったりしていませんか?」

「大丈夫だ」

 父上だけじゃなく、母上も微笑みを返して下さった。 父上の本音が読めた事はないんだけど、母上の瞳なら読める。 大丈夫よ、という微笑みだったのでほっとした。


 舞踏会なんてこれからも好きになれそうにないが、こういう機会でもなきゃ親兄弟とおしゃべりする機会なんてない。 今年は結婚式があるから顔を見る機会ならあるけど、結婚式ってそれでなくても順番とかしきたりだらけだ。 七月にあるのは公爵家次代の結婚式で、花嫁の実家も公爵家だから婚家に侮られないよう気合いの入れ方だって半端じゃないだろう。 そんな気合いの火花が飛び交っている最中に準主賓が物陰に隠れて世間話する訳にもいかない。

 取りあえず今回の舞踏会任務は完了した。 俺は普段仕事なんか少しもしていない暇人と誤解されているからな。 ここらでびしっと決めとかないと。


 はい? 暇人のどこが誤解だ?

 ほらほらほら、これだ。 冷え冷えとした世間の風! 夏に吹いても全然嬉しくないやつ。

 見れば分かるじゃない。 毎日一生懸命仕事しているでしょ。 こんな働き者の、一体どこが暇?

 俺って仕事していても遊んでるように見える顔なのかな。 よく羨ましそうに言われるんだ。 今日だって言われた。

「いいですね。 大隊長はいつもお暇で」

 誰に、とあえて名指しはしないが。 ま、しなくても察しのいい人なら分かっちゃうかもな。

 因みに、その時俺は山のように積み重ねられた書類に向かって次々判を押しては署名していた。

 そりゃ汗を流してはいないさ。 でもそんな事言ったらマッギニス補佐が汗を流している所を見た人、ているの? 生まれてから一度も汗を流した事がない人でも仕事が出来ると尊敬されるなら、仕事と汗の間には何の関係もないだろ。

 そもそも書類の決裁が仕事じゃないなら何? 一生懸命に見えないならどこをどうすれば一生懸命に見える訳?


 え? 机の上にあるお菓子は何だ?

 ごほっ。 これは。 お菓子、じゃありません。 落花生と干し芋とくるみです。 漬物もあるか。 干したクランベリーとかぼちゃの種も。

 とにかくっ! どれもお菓子と呼べる程の物じゃない。 食べながら誰かとおしゃべりしていたとか、沢山食べたせいで寝ちゃったなら責められてもしょうがないけど。 判をペタペタ押してるだけじゃ飽きるし、時々何か摘んだりすればいい眠気ざましにもなる。 干し芋をかじったくらいで暇人扱いされたらたまったもんじゃない。 いくら美味しいと評判のマジダの干し芋とは言っても。

 三時に買いに行ったって売り切れてるというすぐれ物だから羨ましい気持ちは分かるが。 確実に買いたいならお昼前に行く事。 理想は十時半。 十時の混雑が収まり、でもまだ自分が買いたい分くらいは売れ残ってる。

 俺は日頃の行いがいいから二時に行った時でも買えたが、世の中日頃の行いがいい人ばかりでもないからな。 どっちにしてもここに干し芋がある事と暇には何の関係もない。 無実の干し芋を責めないで。


 摘み食いしてるから仕事が遅いんだ、というのも誤解です。 食べながら判をついた事はありません。 だらだら食べちゃだめ、と躾けられたんだ。 三食と十時と三時のおやつ。 泣いても笑ってもそれっきり。 きちんとしたもんさ。

 今ならどこで何を食べようとお尻を叩かれる事はないが、トビの目、てのがあるし。 正確に言えば世間の目か。 外で買い食いなんかしようもんなら、どこで何を食べたか世間の皆さんに筒抜けだ。 俺的にはそれがどうしただけど、俺が食べた食べないが売り上げに響くらしい。 売り上げが上がるだけならいいが、毎日同じ店で同じ物を食べる訳にはいかない。 俺が食べなくなったり行かなくなったりすると、売り上げが落ちるんだって。 相変わらず美味しいのに。


 幸いマジダの干し芋はケルパ神社境内の売店でも売られるようになった。 参拝のついでに買えるから、とても嬉しい。 俺より忙しい部下に干し芋を買って来てくれなんて頼めないし。 それに世間には参拝が目的と思われている。 しばらく行けない時があっても干し芋の売り上げが下がったりはしていない。

 ただ、干し芋をにまにま笑いながら買っていたという噂が流れた。 俺は気にしてなかったが、一つ一つは大した噂じゃなくても塵も積もれば、で損をしていると言うか、誤解されているのかもしれない。 にまにま笑っていた覚えはないのに。 笑うどころかいつも真剣な顔で買っている。

 だってお店の人がお金を受け取ろうとしないから、代金は自分で計算して渡しているんだ。 引き算している時に俺が笑顔を見せる訳ないだろ。 計算し終わってつい笑顔が零れた可能性はあるが。


 噂はともかく、干し芋の山はどんどん減っていくのに書類の山は全然減らない。 これじゃ仕事が遅いと言われても仕方がないよな。 精一杯頑張っているけど、もっと早く片付けなきゃ山の高さは増すばかりだ。

 分かってはいるが、遅い遅いといじめられなきゃならない程遅いのか? すごく早い人達と比べるから俺が遅く見える、て事もあるんじゃない? 比べる事さえ止めれば、それ程遅くはなかったりして?

 暗算がとろいと責められるのだって側にシュエリ係長がいるからじゃないの? 生きている人でシュエリ係長より暗算が早い人なんていないのに。 仕事だってマッギニス補佐みたいな超人と比べたら俺でなくたって亀の歩みに見えるだろ。


 まあ、判を押すより書類を作る方が時間がかかるに決まっているけど。 仕事量を見れば部下の誰と比べても俺が一番忙しくない事は確かだ。 とろい上官に不平を言いたくなる気持ちもよーく分かる。

 だけどさ、一番忙しくない=暇? 違うよな?

 バンバン仕事をこなす部下と比べたら忙しくなくても他の大隊長並み、いや、それ以上の仕事をこなしていると言えるだろ。 部下の数が少ないからその点は楽しているが、大隊長で稽古と呼べる鍛錬をしている人は師範と俺だけだ。 それに爵位を譲って先代になった人はいるが、現役の領主は俺以外にいない。

 頭だって全然使ってないと思われているけど、ちゃんと使っているんですよ。 書類を見る時だけじゃなく。 登城すると、あれこれ質問されるから。 大抵師範が側にいるけど、俺はこいつの護衛だ話し掛けるな、て雰囲気でさ。 師範が質問される事はあまりない。 その滅多にない質問だって、はいかいいえで答えれば終わり。 さあ? もあるが、要するに俺に答えろと丸投げしている訳。

 それだけじゃない。 昨日なんか結婚式で読み上げる祝辞を自分で考えたんだぜ。


 そんなに驚かないでっ! んもー。 吹き出したの、ちゃんと拭いといてよ。 辺りの皆さんに白い目で見られるでしょ。

 それくらいで驚いていたら次はもっと驚くぜ。 なんとっ! 本文だけで二十行だっ!!

 一行以上の作文を書いた事なんてなかったこの俺が。 しかもその長さの祝辞が二つ! 全然中身の違うものが、ふ、た、つ!

 こんなに長い文を書いたのは生まれて初めてだから自分でも驚いている。 俺の手書きでなかったら誰も信じないだろう。 俺自身も含めて。 俺の頭の中に何かあったとしても全部絞り出し尽くした感じ。 大河小説を書き終えた時って、こんな気分になるのかも。


 結婚式の主賓になったのはこれが初めてじゃないが、前の時は思いついた事をしゃべっただけ。 こんな風に事前の準備はしなかった。 なのになぜ突然こんな無謀な真似をしたのか?

 自分の限界に挑戦したくなったとか、そういう訳じゃない。 ナジューラ義兄上とレイ義兄上には今まで散々お世話になったから、という恩返しの気持ちだけでもない。 あの二人には幸せになってもらいたいんだ。 今までが不幸せだったと思っている訳じゃないが。

 二人共公爵家継嗣として生まれ育った。 それだけ見れば充分恵まれた人生と言えるだろう。 だけど側から見ると幸せな人生とは言えないような。 自分の命さえ粗末に扱っているみたいな? そんな感じがしてさ。 自分の命を粗末に扱う人が他人の命を大事に扱うって難しいんじゃない?

 これからは側に寄り添う妻がいる。 つらい事があっても二人で、力を合わせて乗り切って。 家族と、二人を支える沢山の人達と、みんなで一緒に幸せになれる道を探して欲しい。

 あ、年下のくせに偉そうだった? てれっ。


 結婚式の祝辞には定番というか、お手本がある。 名前の所だけ変えれば普通の祝辞になるから、そっちの方が無難なんだけどね。 ありきたりの祝辞を読み上げたって俺の気持ちなんか伝えられないだろ。 自分で一から考えたら言い方がまずくて誤解される危険はあるが。

 ナジューラ義兄上とレイ義兄上は俺と出会ってからの少しの間を見ただけでも波乱の人生だった。 そしてこの先、今まで以上の波乱が待ち受けている。 陛下からの御期待という重荷を担いで、何万人も雇う家業を盛り立て、うまく舵取りしていかなきゃならない。 そこに、がんばってね、君ならやれる、だけじゃさ。

 かと言って俺が知ってるあの二人のドラマチックなエピソードは、いざという時自分の命を捨てる覚悟をしたとか、俺がまずい事をやらかした時にうまく誤摩化してくれたとか、お祝いの席でばらすのは相応しくないものばかりだ。

 それでこの機会に、幸せになってという俺の願いを伝えておこうと思った訳。 約束して、という言葉で。 自分を深く愛し、大切にするという事を。

 後でトビにチェックしてもらうが、慣れない事をしたせいかすごく疲れた。 北進の速射を百回やったってこんなに疲れない。


 言い忘れたけど、俺は大隊長と領主と稽古をしているだけじゃない。 飛行特務もしている。 なんでも竜騎士が死んだり怪我したりで誰も乗れない飛竜がいて、それをあちこちの離宮飛行場へ配達する手助けが必要なんだって。

 荷物が大きいだけで単なる配達夫と言えない事もないが、痩せても枯れても青竜の騎士。 俺以外には出来ないと見込まれての特殊任務だ。 自軍以外の仕事を引き受けている大隊長は俺だけなんだぜ。 飛竜に乗るくらい、西軍の大隊長ならみんなやってる、て事はこの際忘れて欲しい。

 それと、俺だけやってるとか、師範の前では言わないでね。 後で俺が師範に怒鳴られるから。 実は俺の護衛として師範も乗っているんだ。

 で、でもさ、乗客にとっては乗れば放って置いてもいつか目的地に着くが、操縦士は結構頭を使っている。 飛竜はあっちに行きたい、こっちも面白そうと目移りする生き物だから、自分の頭の中に地図を入れてきちんと指示を出さないと好きな所に飛んで行っちゃう。

 マリジョーの時なんか飛竜の気持ちの方が勝って、俺がいくら駐屯地に帰るように手綱を絞っても全然言う事を聞いてもらえなかったし。 あの時は俺が操縦したと言うより飛竜に操縦されていた、て感じ。


 ただ青竜の騎士という肩書きは大層でも長距離飛行の経験はマリジョー、皇都、皇太子殿下の離宮だけ。 はっきり言って俺が西軍の竜騎士だったら新米もいいとこだ。 先輩の先導がなきゃ一度も行った事がない所に飛ぶのは危ないんだが。 まあ、任務だし。

 たぶんその辺りを心配されたんだろう。 それに少なくとももう一頭いないと配達が終わった後、陸路で帰る事になってしまう。 それで前と後ろに護衛の飛竜が飛んでくれる事になった。 配達先がダンホフの飛竜も行った事がない場所だったら西軍の飛竜が伴走と言うか、伴飛してくれる。


 この任務のおかげと言うか、思いがけない余禄もあった。 一人になれるという。

 俺の後ろに師範が座っているが、飛竜に乗っている時は風がすごいから短い受け答えしか出来ないし、師範は元々長話をする人じゃない。 他の飛竜はどんなに近くを飛んでいても声なんて届かないから無言の世界だ。

 いつも人に囲まれていると気疲れするんだよな。 特に初対面の人って俺の事を英雄と思っているせいか、すごく緊張していてさ。 それがびしばし伝わるだけに何と言ってあげればいいのか。 あれかなこれかな、言った方がいいのか言わない方がましなのか。 ぐるぐるしちゃって。 だから何も考えず、ぼーっとなれるのがとても嬉しい。

 飛ぶ事は師範にとっても癒しになっているような気がする。 地上にいたらいつ誰に襲われるか分からない。 そんな緊張感があるんだと思う。 たとえ沢山の信頼出来る人達に囲まれていても。 家に帰っても。 寝ていても。

 飛んでいる最中だって襲われる危険はあるが、それは俺の弓矢で退治するから師範の出番はない。 無防備でいられる時間は師範にとっても貴重なんだろう。 飛竜に乗る事自体は快適って訳でもないのに、俺と一緒に飛ぶ任務を命じられた時に不機嫌な顔を見せた事はない。


 それと、これは信じてもらえないかもしれないが、飛んでいると飛竜の夢が見れる。 夢と言っても寝ている訳じゃないから白昼夢? よく分からないけど、一度も見た事がない景色が目に浮かぶ。 俺が見ているんじゃない。 飛竜が見せてくれるんだ。

 なぜそれが分かるかと言うと、ね、ね、見えてる? と飛竜が訊ねるから。 そして現れた情景に合わせた飛び方をしてみせる。 そういう所では私ならこう飛びます、と説明するかのように。

 不思議なのは、そこはその飛竜が一度も行った事がないはずの場所なんだ。 例えばスパーキーに乗った時、海に浮かぶ島の夢が現れた。

 スパーキーはダンホフ本邸で生まれ育った。 俺はまだ行った事はないが、東のど真ん中だから近くに海はない。 西のマリジョーまで飛んだのが初めての超遠距離飛行で南に行った事はまだないと聞いている。 なのに波が煌めき、島の岩肌を砕く。 ありありと。 まるで何度も行った懐かしい場所であるかのように。


 他の飛竜に乗っている時にも見せられた。 大峡谷っぽい風景や明らかに外国と分かる不思議な町並み。 飛竜によっては、行こう、早く行こう、と急かすかのように鳴いたり。 そして俺が飛竜を配達場所に置いて帰る時、もう一度念を押される。 忘れないでよ、一緒に連れて行ってよ、と。

 違う飛竜が同じ場所を見せた事はないが、俺が夜寝ている時、夢にその場所が出てきた事があった。 もしかしたらいつか俺はそこに行くのかも。 そんな気がして仕方がない。

 だとしたら、それはどこ? 俺は一人で行くの? 帰って来れるの?


 この夢は客として乗っている時に見せられた事はないんだけど、一応師範に聞いてみた。

「師範。 飛竜に夢を見せられた事、あります?」

「夢を見せられる? どういう意味だ?」

「飛竜に乗っている時、今まで見た事がない景色が目に浮かんだり、とか」

「妙にぼーっとしていると思ったら。 飛んでる最中に寝ていやがったのか。 ふざけやがって。 真面目に操縦しやがれ。 お前の昼寝に付き合わされるこっちの身にもなれってんだ。 昼寝の騎士と呼んでやろうか」

 ない、と一言答えりゃ済む質問だろ、とは思ったけど。 こう見えても俺は苦労人だ。 口答えなんかするもんか。 聞く人を間違えたのは自分なんだし。

 まあ、飛竜の夢と言われたって見えない人には昼寝しているようにしか聞こえないよな。



 追記

 青竜の騎士生誕二百年記念行事の一つとして「竜夢」という題の絵画が国立美術館で公開された。

 言い伝えによれば、青竜の騎士に騎乗された飛竜達は行きたい場所を白昼夢の形で騎士に見せており、騎士はいつかそこへ連れて行ってあげると約束していた。 ところがその約束を果たす前に死んだ飛竜がいて、騎士は深く悲しまれたのだとか。 騎士の涙を見た義姉、ミサ・ダンホフが、その悲しみを癒す為、約束の島を飛ぶ飛竜を描いたという。

「竜夢」の背景はオーロフスキ島の景観と非常によく似ており、オーロフスキ島は次第に竜夢島と呼ばれるようになった。 現在ではそれが正式島名になっている。 だが残された記録によれば騎士とミサ・ダンホフ、どちらも生前竜夢島を訪れた事はない。


「天駆」の章、終わります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 2回目の感想で失礼いたします。 読者の皆さんにはそれぞれご自分の好きなトップテンのお話しがあると思います。 どの章にも好きなストーリーがあって 正直 まだトップテンに入るのがどのお話しな…
[良い点] 「天駆」の章 もまた素晴らし章でした。 >その約束を果たす前に死んだ飛竜がいた。 やはりスパーキーの事ですよね? 夢の中ではいつも大好きな若と竜夢島の大空を一緒に飛んでいたらいいな… …
[良い点] ひゃら踊りしながら弓を撃つって、バットクルクル走りをやったあとに弓を撃つって感じかな?危ない奴だなwww 最後の竜夢はミサさんにも飛竜が夢をみせたのかな?サダの言葉では上手く説明できないと…
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