慶事
無事に第一駐屯地へ戻った事を報告しにモンドー将軍の執務室へ行ったら、それはそれは渋いお顔で睨みつけられた。
「聞きたくない事でも聞かねばならぬとは。 これも将軍を拝命した身の因果と言うべきか」
吐き出すようにおっしゃる。 普段の将軍は御機嫌が悪い時でもそれを部下に悟らせたりしない。 こんな風にあからさまな不機嫌をぶつけるなんてよっぽどの事だ。 先行きは暗い。 それはいくらにぶにぶの俺にだって予想出来る。 俺の予想なんてまともに当たったためしはないけど、今日はしっかり当たりそう。
いやいやいや、諦めるのはまだ早い。 そりゃ行き先も告げず、いきなり四日間もいなくなったんだ。 叱られて当然、て事は言われなくとも分かる。 けど、飛竜の操縦なんてろくにやった事がない素人が誰の助けも借りずにマリジョー山脈まで飛び、生きて帰って来れたんだぜ。 よくやったと泣いて喜べとは言わないまでも、死ななくてよかった、生きてさえいてくれたらそれでいい、みたいな雰囲気が、ちょっとはあってもいいんじゃないの?
はい? 少しばかり人気が出たからって思い上がるな?
少しじゃないでしょ、少しじゃ。 いーっぱい人気が出ているんですよ、こう見えても。 自分でも信じられないくらい。
なーんてね、いくらおばかな俺だってこんな場面で言う訳ないだろ。 弓以外に大した才能もない身で、これからも地道に子育てと世渡りをしていかなきゃならないんだから。
それでなくたってここは軍隊。 上官に嫌われたらそこから先の人生は真っ暗闇と言っていい。 それにモンドー将軍は懐の広い御方として知られている。 そんな御方の御機嫌を損ねて蹴り出されたら余程の事をしたに違いない、と噂に付かなくてもいい尾鰭が付いて広まるだろう。 それだけは避けたい。
最悪の場合除隊になったとしても領主の仕事があるけど、俺の領地ときたら北軍の助けなしには箸にも棒にもかからないような土地だし。 俺がしでかした不始末のせいで北軍に助けてもらえなくなったら、俺は勿論、俺の子や孫の代になっても苦労する事確実だ。 先々の事は悩んだってどうしようもないが、サリとサナに大変な迷惑が掛かる事になったら子孫にだって顔向け出来ない。
そこで、と言ってはなんだが、俺が帰った途端、問答無用で叱られるかも、とラガクイスト将軍が御心配下さり、古卵が孵化した一部始終をモンドー将軍宛に書いて持たせて下さった。 失踪は褒められた事じゃないにしても慶事であったと分かれば罰せられる事はないはず。
ただそれを報告しようにも、まず将軍のお許しが要る。 聞きたくないと言われたらそれまでだ。 カルア補佐に始末書を提出するしかない。 それを書き上げるだけで日が暮れるだろう。 予定をすっぽかした人へのお詫びや溜まっている仕事もなんとかしなきゃ。 となると今日も家に帰れない。 そうなったら師範の怒りが誰に向けられるか。
どうか、どうか、何があったか聞いて下さい、と縋るような視線で将軍を見つめていると、ようやくため息と共にお訊ね下さった。
「聞かずに済む話でもないか。 一体どこに行っていた」
「飛竜はマリジョー山脈を目指しておりました。 そこで青竜に出会いまして。 西軍駐屯地へと連れて行かれ、古卵の孵化に立ち会いました」
「な、何だと?!」
将軍はそうおっしゃって椅子から飛び上がった。 驚かれる事は予想していたが、なんだか喜ばれてはいないような気がする。 ラガクイスト将軍はあんなに喜んで下さったのに。 俺の気のせいか? いずれにしても手紙を読めば喜んで下さるよな?
「詳しい事はこちらに。 ラガクイスト将軍からモンドー将軍へのお手紙です」
そう言って手紙を差し出すと、すぐにお読み下さった。 やれやれ、これで御機嫌が直ると思っていたら、読み終わったのに直った様子が見えない。 それどころか眉を顰め、唇を噛み締めていらっしゃる。
読む前より不機嫌になったと言うか、苦悩が深まった感じ。 どうして? まさかお手紙に嘘が書いてあった? 嘘じゃないまでも俺にとって何か都合が悪い事が書いてあったとか?
将軍がパンパンとお手を叩く。 すると将軍執務室に隣接している補佐室のドアが開いた。
「カルア、マッギニス、ポクソン。 入れ」
お呼びに応えて入室した三人に、将軍は目顔でラガクイスト将軍のお手紙を読むよう促す。 俺と師範も読ませて戴いた。
そこには俺が青竜に乗って西軍駐屯地へ飛んで来た事。 そこで選んだ古卵が孵化し、青竜の赤ちゃんが生まれた事。 俺が赤ちゃんを巣に戻すと言った事が書いてあった。 飯をたらふく食った上に弁当まで持ち帰ったとか、余計な事は何も書いていない。 青竜の騎士が無事に帰還する事を天に祈り、併せて竜鈴明響の慶事に出会えた僥倖を深く天に感謝するものなり、と締め括られている。
嘘も誇張もない手紙だ。 これのどこがまずい訳? 僥倖、て思いがけない幸運とか、いい意味だろ。 初めてレイ義兄上に言われた時は意味を知らなかったが、後でトビに聞いたんだ。 その時ついでに字も習ったから、なんと今では書けるんだぜ。 こんなに難しい字を。 自慢していると思われるのが嫌だから誰にも言ってないが。
そんな事よりラガクイスト将軍のお手紙だ。 ここに書いてある事でまずい事があるとすれば青竜の赤ちゃんを巣に戻したという事しかない。 古卵とは言え、所有者がいる。 拾ったと言ってたから、拾った兵士、つまりオムザールの物だ。 青竜の赤ちゃんを巣に戻すとか、所有者でもない俺が勝手に決めていい事じゃない。 という事には青竜が飛び去った後で気付いたから手遅れなんだけど。
でもやっちゃいけない事ならどうしてあの場でラガクイスト将軍が俺を止めなかったの? 一介の兵士であるオムザールが言い出せなかったのは無理もないが、西軍将軍が北軍大隊長の俺に向かって言い出せなかった、てあり得る? いくら俺が竜鈴を持っていたって、将軍なら陛下本人をお諫めする事さえ許されているはず。 あの時もし将軍に止められていたら、それを無視してまで青竜を巣へ返そうとはしなかったような気がする。
ただこのどんよりとした執務室の雰囲気は青竜を巣に戻したせいでもないような? もしそれが問題なら俺が自腹でオムザールへ金を払えば済む事じゃないの?
理由は分からないけど取りあえず謝っておく? それが無難のような気はするが、何をどう謝ればいい? 今更謝ったところで一旦巣に戻しちゃった飛竜を巣から取り戻す事なんて出来ない。 俺一人で行けば巣に近寄っても青竜に攻撃される事はないと思うが、卵ならともかく、もう空が飛べる飛竜を捕まえて持ち帰るなんて、俺一人じゃ無理。 だけど何人もの兵士と一緒に行ったら俺以外の兵士は青竜から攻撃されるだろう。
重い空気が更に重くなっていく。 俺には理由が分からなくても他のみんなには何がどうまずいのか、よく分かっているようだ。 辺りの顔色を窺って視線をウロウロさせていると、将軍がカルア補佐に向かっておっしゃった。
「ラガクイスト自身が一部始終を目撃したのでは誤摩化しようがない。 知らせは既に陛下のお耳に届いているか、近日中に届くであろう。 さて、どうしたものか」
するとマッギニス補佐が俺に訊ねた。
「発言をお許し戴けますか」
俺が頷くと同時に将軍がマッギニス補佐にお訊ねになった。
「妙案でもあるのか」
「即刻スティバル祭祀長に御報告申し上げる事が肝要かと存じます。 更に問題を複雑にするかもしれませんが、ヴィジャヤン大隊長のお気持ちを直接祭祀長に伝える事で最悪の事態が防げる可能性がございます」
「陛下への報告を先にせねば穏当を欠くのでは?」
「全てはスティバル祭祀長より頂戴した竜鈴が発端。 この場合に限っては先に報告しても問題視される事はないでしょう。 それより急ぎませんと陛下の御内意がこちらに届いてしまうかもしれません。 この慶事はラガクイスト将軍御自身が飛竜を使って登城し、御報告なさるはず。
北軍所有の飛竜はありません。 ダンホフの飛竜はまだおりますが、皇王城内への着陸許可を頂戴してはいないので皇都のダンホフ別邸に着陸する事になります。 そこから登城するのは手続き及び警備上の問題があるだけでなく、飛竜が飼えない環境である事が北軍の弱点として攻撃される原因にもなるかと。
さればと言って早馬では只今すぐ出したとしても陛下のお手元に届く前に陛下のお気持ちが固まってしまう恐れがあり、勅令が下されてしまえば誰が何を奏上しようと遅きに失する事となります」
カルア補佐がマッギニス補佐に向かっておっしゃる。
「スティバル祭祀長への報告を先にするとしても、祭祀長が陛下の御意を変えるような真似をなさるとは思えないのだが」
「陛下と祭祀長は言わば本人とその分身。 臣下ではないので陛下の御下問がなくとも意見の奏上が許されているお立場です。 決定事項が公表された後でしたら変更は不可能でしょうが、公表前でしたらお気持ちを動かせる可能性がございます。 それにこれ程の慶事。 陛下がスティバル祭祀長の御意見を伺わずに御決断なさるとは思えません」
俺は恐る恐るマッギニス補佐に訊ねた。
「最悪の事態って、例えば何?」
「筋書きは無限と申し上げてもよい程ございますが、一番無難なもので、年内にヴィジャヤン大隊長を第一へ。 ジンヤ副将軍が退官後、次期副将軍として昇進。 その御内意を賜る、でしょうか」
「えええっ?! それが一番無難?」
因みに驚きの声を上げたのは俺だけで、誰も驚いていない。
「他の可能性に比べれば遥かに無難と申せます。 結局の所、北軍内での昇進に過ぎないのですから。 残念ながらこれは一番可能性の低い筋書きでもあります。 それよりあり得るのがヴィジャヤン大隊長を西軍副将軍に、或いは青竜の騎士として西軍へ移籍せよ、との御内意を賜る事です」
「せ、西軍副将軍?! 西軍の事なんて何も知らないのに?」
俺がそう言ったら師範が薄笑いを浮かべて言う。
「ほう。 北軍の事なら知っているとでも言うつもりか? だから大隊長に昇進したのか? それは知らずに失礼した。 参考までに北軍の何を知っているのか聞いてもいいか?」
「そ、それは、えーと、」
お前は黙っていろと言わんばかりにマッギニス補佐が俺を遮る。
「西、と決まったものでもございません。 東と南も飛竜を所有しているのですから。 勿論、近衛も。 いずれからも強力な引き合いがある事でしょう。 風向き次第では一定の期間、各軍の副将軍を務め、最終的にどこへ移籍するかを決める可能性もございます。 その場合、最終勤務地はおそらく近衛。 つまりヴィジャヤン大隊長をいずれ近衛将軍に、という筋書き。 これが一番起こり得る可能性かと存じます」
「そ、そんな、陛下からのお誘いは」
もう断った、と言おうとして、面会の詳細は内密にしろとボルチョック先生から口止めされていた事を思い出した。 そう言われたからモンドー将軍にも報告していない。 将軍が眉を吊り上げた。
「陛下からのお誘い? いつの話だ? 聞いてないぞ。 なぜ言わん」
「あ、あの、陛下とのお目通りであった事は全て内密、上官にも言うなとボルチョック先生から言われまして」
うろたえてそう答えたらマッギニス補佐が言う。
「あった事を話すのは許されないとしても、なかった事なら構いませんでしょう」
「なかった事?」
「陛下より近衛に来ないかとのお誘いがあったとします。 大隊長はお受けする、又はすぐにではなくとも将来お受けすると御返答なさいましたか?」
「いや。 してない」
「私が拝見する限り陛下は大変御機嫌麗しく、ヴィジャヤン大隊長に対する御厚情は我々が皇都を出発するまでお変わりございませんでした。 ですが内々に陛下、或いはお側に仕える者から、お断りした事に対する御不興を伝えられた事がございましたか?」
「いや。 一度もない」
将軍とカルア補佐が目顔で言葉を交わし、空気が微妙に変わった。 もっと暗くなった訳じゃないが、明るくなったとも言えない。 何なの?
将軍がマッギニス補佐に聞いた。
「ヴィジャヤンの処遇に関し、このまま北で。 昇進に関する御内意は来ない、という可能性は万に一つもないか?」
「現時点でその可能性はゼロと申し上げねばなりません。 たとえ陛下が以前はヴィジャヤン大隊長を北に留め置くおつもりだったとしても、青竜の騎士の再来と古卵の孵化は瑞鳥飛来に勝るとも劣らない、皇太子殿下が戴冠する理由になり得る程の慶事。 当代陛下に譲位のおつもりはなく、皇太子殿下に戴冠の御希望はないと推察致しますが、陛下と殿下が望んでいらっしゃらないから周囲がこの慶事を放置するか否かは別問題とお考え下さい。 この慶事を祝う為の盛大な祝祭が挙行される事は確実。 どちらの祭祀長がどこで開催なさるかは討議の余地もございますが」
するとカルア補佐が発言なさった。
「国庫の負担となる程の規模の祝祭には宰相が反対するのでは?」
「他の理由でしたら反対もなさるでしょうが。 青竜が飛来したのです。 貴族からの拠出が大いに期待出来るだけでなく、民の熱狂も無視出来ません」
「民の熱狂? どういう意味?」
俺がそう聞いたら、マッギニス補佐は何を今更みたいな顔をした。
「青竜の背に乗ったヴィジャヤン大隊長を見た者は西軍駐屯地内の兵士に限らないはず」
「そりゃ他にもいたけど」
「数え切れない程いたのでは?」
「数え切れるよ。 民間の操縦士なら五人だ」
「とおっしゃいますと?」
「マリジョーから青竜が飛んで来た時、すごい数の飛竜がその後ろに続いていたんだ。 ほとんどは野生の飛竜か、操縦席を背中に括り付けていても誰も乗っていない飛竜だったけど、操縦士が乗っているやつが五頭いた。
でも遠く離れて飛んでいたし、俺は誰にも声をかけていない。 師範が待っている所へ戻った時も、すぐスパーキーに乗り換えて出発したから俺だって分かったかどうか」
俺がそう言ったら師範が投げやりな口調で口を挟んだ。
「分かったからお前を待っている間、俺に挑戦する奴らが次々現れたんだろ」
「挑戦?」
「お前を待っている間、あそこで俺が昼寝していたとでも思っていたか? 空を埋め尽くす数の飛竜が一点を目指して飛んでいるんだ。 誰だって何事だ、と思うだろ。 野次馬が集まったって不思議はないだろうが」
「だけどその人達は師範の顔を見て、北の猛虎だと分かったから挑戦したんじゃないんですか?」
「あんな西の山奥に俺の顔を見知っている奴がいるものか。 それに地面からでも青竜の背に人が乗っているのは見えたぞ。 青竜に乗れるのは青竜の騎士だけなんだろ。 西じゃ六頭殺しこそ青竜の騎士、て噂を知らない奴はいないんだってな。 だから名乗ってもいないのに俺が誰か分かったんだろう。 六頭殺しの金魚の糞なら北の猛虎に決まっている」
将軍が師範にお訊ねになった。
「挑戦者の中に名のある剣士はいたか?」
「いたのかもしれませんが、誰も名乗りを上げませんでしたし、寝ている者を起こして名前を聞いてやる程の関心もなかったもので」
マッギニス補佐が訊ねる。
「合計何人のお相手をなさいました?」
「直接手合わせしたのは二十かそこらだ。 見物していただけの奴らも勘定に入れるなら二、三百人はいたと思う」
ひえーっ。 二十人も? 考えてみれば師範は毎日道場で二十人近くの剣士をぶちのめしている。 百剣ともなれば鍛えられているから担ぎ出されたりしていないだけで。
もしかしたら倒された剣士の中に貴族か、貴族のお抱え剣士がいたりして? そっちの方が古卵の孵化より大事なんじゃない? で、俺がやった事はなんとなーく忘れられちゃったり、しないかな。 と一瞬期待したが、将軍は師範が二十人ぶちのめしたからどうした、て感じ。 何もお訊ねにならなかった。 ちぇっ。
どうやら死人は出なかったようだし、なら出稽古に行ったようなものか。 第一、北の猛虎に負けたからって騒ぐ人なんている訳ない。 勝ったら大騒ぎしただろうけど。
ああ、だから師範はあの時あんなに短気だったのか。 空きっ腹の師範て短気が五割増しになるんだよな。 元々短気な人なだけに区別がつけられる人はそんなにいないみたいだけど。
いや、もちろん誰にも言ったりしませんよ、そんな事。 こう見えても口は堅いんだ。 リネには教えておいたが。 実兄とは言っても師範の性格を案外知らないみたいだったから知っていた方がいいと思って。
あ。 部下がいる所で愚痴った事があったかも? ま、あいつらの口も堅いから大丈夫だろ。
マッギニス補佐が続けて言う。
「マリジョー山脈に住む民は税こそラガクイスト侯爵家へ納めておりますが、天を崇めると言うより飛竜王を崇めております。 我々でしたら皇王陛下の御為に青竜の騎士が青竜を従え、外敵を駆逐した、と学びますが、彼らは青竜が青竜の騎士を召し出し、竜卵を盗みに来た者共を蹴散らした、と言い伝えているのだとか。
青竜は飛竜王の現し身。 彼らが見た天駆ける青竜とその騎士の姿は、飛竜王を信じない者達にさえ大きな感動を齎したはず。 噂は野火より素早く広まる事でしょう。 それによって引き起こされる民の熱狂は想像するに余りあるもの。 ヴィジャヤン大隊長が西に移籍なさらない場合、マリジョーの全住民が北へ移住する事さえあり得ます。 ラガクイスト侯爵家にとって税収の激減となる事は確実。 これがヴィジャヤン大隊長移籍に熱心な理由とは申しませんが。
人の流れを変え得る一大慶事であるだけに、ヴィジャヤン大隊長を欲するのは軍に限らないはず。 皇太子殿下、宰相、大審院のいずれか、或いは皆様が談合なさり、陛下に陳情、或いは推挽するという形で口出しする事も考えられます」
そこで師範がマッギニス補佐に聞いた。
「本人が移籍を嫌がっていると言っても無駄か?」
「この場合、本人の意思は断る理由となり得ません。 失礼を承知で申し上げるならモンドー将軍が反対なさったとしても効果はないでしょう。 諸方を黙らせるには移籍はないという陛下からの確言が必要です。 それがない限り実力行使を含む泥仕合に発展すると予想されます」
将軍がマッギニス補佐におっしゃった。
「弓と剣がサリ様の御成長を見守るように、とのお言葉は既に頂戴している」
「それでしたらお二人共に移籍すればよい、となるのでは? 北の猛虎は北の守り、に続いてのお言葉だった為、場所は当然北、と思ったのはこちらの解釈。 陛下はサリ様を見守るのは北でなければならないとおっしゃった訳ではございません」
「ううむ。 そう言われればそうだが。 ヴィジャヤンを北に留め置く為の言質が欲しいと陳情したら、副将軍昇進はいつになる、と御下問があるのではないか?」
「それに対する御返答をどうなさるか、お決めになっておく必要はあるでしょう」
「いずれは、では逃げ切れない?」
「ジンヤ副将軍の退官が二年後である以上、その御返答ではヴィジャヤン大隊長は次期副将軍にあらずと奏上なさったも同然かと存じます」
将軍が天を仰ぐ。 だがお気持ちを切り替えたか、すぐにいつものお顔でおっしゃる。
「ヴィジャヤン。 これからすぐ祭祀長へ報告に行け。 移籍したくない事は今日中に伝えておかねばならん。 祭祀長から色よいお返事が戴ければ、こちらの手間はないも同然。 副将軍に関しては、やりたくないと言った所で遠慮と解釈されると思うが、言うだけ言ってみろ」
「承知致しました」
「タケオ。 同行しろ。 ヴィジャヤンはいつでも祭祀長にお目通りが叶う言祝ぎを戴いたが、突然神域を訪問するのに一個小隊を付けては神官と揉めるかもしれん。 だが警備が一人や二人では不安だ。 お前が付いているなら他にもう一人いれば充分だろう」
「了解」
「ところで、タケオ。 ヴィジャヤンを待っている間、手合わせしながら十頭もの飛竜の面倒を見たのか? 飛竜は操縦士以外の命令に従わないと聞いているが。 お前の命令も聞いたのだな?」
「いいえ。 ダンホフの飛竜達は青竜が飛び去ると、その後に続いたのです。 青竜が戻る少し前に戻って来たので、私は何も命じておりません」
師範はそれしか言わなかったから俺が一言付け加えておいた。
「命じなくても飛竜には師範が特別な人だと分かっていたみたいですよ。 俺とほとんど同時に飛び乗ったのにスパーキーは嫌がらなかったでしょう?」
師範から余計な事を言うなという視線が送られて来たのでそれ以上何も言わなかったが、飛竜に乗る時、客は操縦士が操縦席に着いた後じゃないと乗れないのが普通なんだ。 青竜が師範を見た時も、こいつの顔は覚えておこう、と言ってるみたいな目をしていた。 他の誰を見ても、西軍将軍を見た時だって全然目を留めていなかったのに。
祭祀長のお住まいへの道すがら師範に聞いた。
「青竜に乗ってみたいと思いませんか?」
「思わん」
「うーん。 師範が乗りたいと言えば乗せてくれるような気がするんですよね。 師範に乗る気がないんじゃ証明出来ないですけど。 師範も乗れたら青竜の騎士は俺だけじゃない、て分かってもらえるのにな」
「しらっとした顔をして、お前も言う事がえぐいな」
「えぐい? て、どこがですか?」
「食らわせた拳骨の数だけ恨まれている事は知っていたが。 青竜に振り落とされて死んで来いと言われるとは思わなかったぜ」
「そ、そんな事、ひとっことも言ってないじゃありませんか」
「言ってる中身はそういう事だろ」
「ひどいっ! 師範たら、ひどいよな?」
同意してもらいたくて俺達の後ろを歩いているシナバガーを振り返ったら、シナバガーは後ろを見ながら歩いていた。 背後を守るのが私の役目です、と言うかのように。 因みにその辺りはとても見晴らしがよく、遠くに見える曲がり角には神域の警備兵が立っているから後ろを振り返る必要なんて全くない所だ。
なんだよー。 俺達の話、聞こえていただろ。 師範と俺なら師範に付く、て訳? 公平な審判なんてやれません、てか? いずれは軍対の北軍大将と期待される剣士のくせに。 それってちょっと問題あるんじゃないの?
改めて聞くかどうか迷ったが、止めておいた。 答えづらい質問をしつこく聞いて嫌われたくない。 気軽に護衛を頼める人って貴重なんだから。 そりゃ強くて信頼出来る剣士は何人もいるが、百剣に平の兵士はいない。 みんなそこそこの年で役付だ。 シナバガーのように軍対抗戦の出場選手だから役付の仕事を免除されて身軽という人は他にいないんだ。 俺の質問がストレスだから護衛をやりたくないと言われたらとっても困る。
まあ、師範がいかにひどい人かなんて誰かに聞くまでの事でもないよな。 今日はいつもよりもっと嫌みったらしいが。 たぶん俺が戻るまで空きっ腹で長々待たされた事を根に持っているんだろう。 待たされたと言ってもその間稽古相手が沢山いたなら退屈はしなかっただろ。 そもそも稽古中に師範が何かを食べた事ってないじゃないか。
とは言え、ようやく帰って来たのに愛しい妻子の顔を見る暇もないんだ。 御機嫌斜めになる気持ちは分かるけど、俺だって同じ目にあっているんだぜ。 それに副将軍なんて絶対やりたくないが、もし本当にやらされる事になったら俺が上官、て事になる。 少しは嫌みに遠慮があったってよさそうなもんだ。
もっとも俺が副将軍になっちゃったらかなりやばい。 使えない副将軍として歴史に名を残したりして。 いや、名が残る前に殺されるんじゃない?
ううう。 師範にやってもらえないかな。 俺より年上なんだし、師範なら簡単に殺されないだろ。 なんだかんだ文句をたれながらも将軍に昇進し、後世に名を残す名将軍になると思う。 俺が断ったせいで将軍をやる羽目になったら、すごーく恨まれるような気はするが。
あ、でも美味しいお茶菓子を毎日持って行ったら結構誤摩化されてくれたりして? ただその時持って行く菓子に気を付けないとな。 トアローラが作るような気合いの入ったやつじゃだめっぽい。 師範に喜ばれるのは俺の実家が作っているような素朴なやつだ。 かと言って若饅頭じゃ面白みに欠けると言うか、飽きるだろ。 味だって六種類しかないし。 一週間の内に同じ味を二回食べる事になっちゃう。
はい? 質実剛健の北の猛虎がそんな事を気にするか、て?
するんですよ、これが。 信じてもらえないかもしれないけど、師範は一週間前どころか一ヶ月前に食べたお菓子だってちゃんと覚えている人なんだ。 俺なんか昨日のおやつだって何を食べたか覚えていないのに。
師範じゃなくてもお菓子が好きな人って結構いるよな。 そう考えると贈り物にお菓子、というのは割といいアイデアかもしれない。 スティバル祭祀長にも喜んで戴けたりして?
お願い事をするのに手土産なしじゃまずいが、副将軍をやりたいというお願いならともかく、やりたくないというお願いに金や宝石を贈ったって遠慮されておしまいだ。 その点、お菓子なら気軽に受け取ってもらえるだろう。
俺の領地からは塩が取れるし、副業で魚が獲れるようになったから、それを贈ってもいいが、どちらも簡単に買える品物だ。 全然珍しくない物を贈ったって喜ばれないだろ。
いっその事、北方伯家特製のお菓子を作る? 俺は作った事がないからその道の専門家に聞かないと出来るかどうか分からないが、師範に喜んでもらえるお菓子なら万人に喜んでもらえるような気がする。 儲かるくらい売れたら一石二鳥、いや、三鳥じゃない? 家に帰ったらトビに相談してみるとするか。
美味しいお菓子を沢山食べたら師範の短気が直ったりして。 ぷぷぷ。
そんな奇跡が起こったら古卵の孵化より慶事だぜ。