解呪 8
「老師! 準大公がっ! ラーザンタ人の、帽子をっ! 射抜いたんですとっ!」
北館へ施術に行ったはずのロクが、息遣いも荒く父の書斎に駆け込んで来た。
御用船の無断乗り換え。 しかも乗り換え先が単なる民間漁船。
乗ったら乗ったで救助活動。 別れ際にサリ様のお姿を川岸の平民にお見せするという前代未聞の椿事付き。
そのうえサリ様をお連れしての外洋出航。 なんと護衛艦なし。
戻って来たかと思えば海坊主と御一緒。 行きがけの駄賃と言わんばかりの大波だ。
一ヶ月も経たない内にこれ程次々事件を起こしていながら次があるとは。 自分が変人である事を自覚している私から見ても呆れた話でしかない。 こんなむちゃくちゃを次々としでかしたら以前は準大公ファンだったとしても、二つ目か三つ目を聞いた辺りでファンを止めている。 そこまではしなくとも眉を顰めるくらいはすべきではないのか?
だが私の目の前に座っているファンの常識は既に変人の領域からさえ大きくかけ離れているようで。 呆れる所か、もっとやれと言わんばかり。 嬉しそうに目を輝かせ、最新情報に身を乗り出す。
「ほう、それで?」
身を乗り出して聞く方も聞く方だが、話を持って来たロクに内心舌打ちした。 いつ起こった事か知らないが、公式発表なら私も聞いている。 そのような公式発表は何もなかった。 つまりこれは誰かから聞いて来た噂なのだ。
座って待っていたら噂が向こうから歩いて来る訳でもない。 公式より早く知る為に自分から探しに行ったのだろう。 どこへかは知らないが。
施術中に人の話を聞いている暇などないし、今日の施術は少なくとも四時間はかかるはず。 ロクが北館へ行って二時間も経っていない。 という事は、まだ始めてもいないのだ。 これでは準大公の情報収集が本業で呪術師助手は副業。
ロクには北館地下で危うい所を助けてもらった。 その恩は忘れていないし、生涯忘れるつもりもないが、こう毎日仕事をなおざりにされてはたまったものではない。
「ロク、その噂を仕入れるためにどこで油を売っていた? 勿論、施術を終えた後で聞いた話なのだな? お前も随分手早く施術が出来るようになったもの。 噂を聞き回っている暇もあるようだし、仕事を増やさないといかんな」
「あ。 その、えーと。 老師、続きはお昼の時にでも」
そそくさと走り去る。 今から施術を始めたら昼までに終わる訳がない。 それを知っている父は未練がましくロクの背を目で追っていたが、さすがに引き止めたりはしなかった。 今下手に長話して私を怒らせたら後々面倒な事になると判断したのだろう。
私が使い物にならなかった間、父は一人で激務をこなした。 少々(実際は多々だが)の無駄話に目くじらを立てなくとも、と思わないでもない。 しかしお抱え呪術師が何人いようと筆頭呪術師にしか出来ない仕事があるのだ。
例えば紅赤石に関する記録。 これは秘中の秘で、筆頭呪術師以外の者が記入出来ないように術が掛かっている。 改変防止術も掛かっているから一度書き入れたら単なる誤字であろうと修正出来ない。 何十年、何百年と読み継がれる記録だ。 私だったら解呪をするより緊張する。 服を後ろ前に着ている父にその緊張感があるようには見えない。 筆頭の仕事に集中出来るよう、それ以外の仕事は私が一手に引き受けているのに。 父がやっている事と言えば準大公の噂話、事件の感想、現在の状況分析、及び次に何が起こるかの予想。 これでは呪術師と言うより楽隠居だ。
私の仕事量に関して文句を言いたいのではない。 寝る間も惜しんで仕事をしている私を見て、すまないと思ってほしい訳でもない。 いつもの時間に起き、やるべき事をしてくれるだけでいいのだ。
なのに放って置けば起きて来るのは朝と言うより昼。 父の部屋の鍵を持っているのは私だけだから仕方なく起こしに行くと、枕元に本が散らばっている。
「愛を矢に込めて 六頭殺しの若、その純情と求婚」
「若便り総集編 第一巻 入隊から結婚まで」
「今更聞けない 北方伯に関する百の質問」
これで腹を立てずにいられるか? 本を隠してやろうかと思ったが、そこまでやったらどちらが親か分かりはしない。 それに読むなと言いたいのでもない。 父は園芸を諦めてから趣味らしい事は何もしていなかった。 これからは花も育つだろうし、読書も好きなだけ楽しめばよい。 仕事が終わった後で。
何かと言えば父の肩を持つロクが宥め顔で言った。
「まあまあ、そうカリカリなさらなくても。 本が自由に買えるようになったのはつい最近の事ですし。 今は夢中でもその内落ち着きますよ」
私だって父の気持ちは分からないでもない。 呪術関係なら父の一存で買えたが、個人所有の書籍は全て執事補佐が発注する決まりで、購入許可がないと自腹であっても買えなかったのだ。 許可が下りるのは公式発行所が出版した書籍だけ。 公式発行所は当家かその系列、または皇王庁、準大公家、ヴィジャヤン伯爵家、北軍に限られていた。 しかしここで甘い顔を見せたら結果が見えている。
「読めない本はあっても読める本がなかった訳ではないだろう? 準大公家が発行した書籍はないが。 ヴィジャヤン伯爵家は商売上手で息子の勇名にあやかった結構な数の書籍を出版していると言ってたじゃないか」
「でも許可なしはその何倍もありますから。 『若便り総集編』なんて発行所は非公式でも準大公が出版許可を出していらっしゃるし。 本邸だけで千人以上の奉公人が嘆願書に署名したのに、それでもだめなんですから」
「若便り総集編」はグゲン侯爵家から出版された。 穀物や製粉関係の専門書で知られている発行所がなぜ、と思うような異色の出版だが、随分売れたらしい。 無許可の書籍は見つかったら没収される。 それで没収書籍用の倉庫が建てられた程だ。
「準大公の出版許可がなけりゃ禁書です。 『愛を矢に込めて』のどこに濡れ場があるって言うんですか?」
「そんな事、読んでいない私に聞かれても困る。 それに『今更聞けない』も禁書だったのだろう?」
「だけど禁書って、元々は濡れ場のある本限定だったんですよ。 準大公に関する本だけ公式発行所以外はだめ、て変じゃないですか。 『北方伯デイリー』、『豪弓ウィークリー』、『弓と剣ダイジェスト』、『月刊瑞兆』、『季刊北軍の四季 六頭殺しの若特集号』。 娘と一緒に見たって恥ずかしくない雑誌まで禁書だなんて。 何か裏があるに決まってます」
「裏? 例えば、どんな?」
「そ、それは、分かりませんけど」
被害妄想だと言いそうになったが、禁書を二冊も取り上げられた経験のあるロクにそんな事を言って逆ギレされたらますます仕事が遅れる。 何も言わないでおいた。
因みに禁書だと没収だけでは済まない。 その月の給金取り上げとなる。 三十日以内に二冊目が見つかったら翌月の給金も消え、三冊目は問答無用で懲戒免職だ。
「貴婦人の友」は発行所であるラティネン伯爵家にロジューラ様が増資なさったという背景があったから問題なく買えたが。 その時ロクに貸した金はまだ返されていない。 禁書が多ければ多い程何も買わずに済み、自分の貯金が増える、と考えれば禁書だらけはそう悪い事でもないだろうに。 準大公ファンに私の理屈は通用しないようだ。
「老師は生真面目ですしねえ。 伝手ならあるって言っても、うんとおっしゃらないし」
「陰でそんな事を唆していたのか。 お前という奴は。 貸した金をすぐに返せ」
「そ、そんな、殺生な。 そそのかした、て。 お伺いしただけで」
「やれと言われた事はやらないが、やるなと言われた事ならやる度胸があるという訳か。 せっかくの度胸だ。 無駄にする事はない。 解呪に挑戦しろ」
蛙が踏み潰されたような呻き声を出していたが、ロクも呪術師になれば少しは落ち着くだろう。 とっくに結婚して娘が二人もいるのにこの調子だから、それは単なる希望的観測で終わるような気もするが。
それにあれが出た、これが出るという情報はロク以外からも届く。 父のような隠れファンだと買えない事を嘆く訳にもいかず、我慢に我慢を重ねていたのかもしれない。 今その鬱屈を一気に発散させている、とか? 或いは、この自由化がいつまで続くか分からないと焦っている? そんな心配、無用だと思うが。
呪いの消滅以来、邸内の雰囲気が格段に明るい。 それが書籍購入という些細な事にも表れているような気がする。 ただどんなに明るくなろうと間もなく二十五歳のお誕生日を迎えるナジューラ様の助けにはならない。 はっきり言って風前の灯と言うしかない状況だ。 聡明な御方だから周囲に悟られずに起死回生の策を練っていらっしゃるとは思うが。
普段から感情の動きらしきものをお見せになった事がない御方だし、本邸にお戻りになるナジューラ様を出迎えた奉公人はいつもの無表情を予想していた。
「ナジューラ様。 御無事の御帰還、何よりでございます」
「トリステラ。 大儀」
執事の出迎えにお応えになったナジューラ様は実に堂々としたもの。 お声に張りがあり、気迫が感じられる。
「旦那様へ御挨拶なさいますか?」
「いや、別用がある。 父上の御都合は後ほど側近筆頭のセバロスに伺わせよう。 私への連絡があればセバロスを通すように」
「畏まりました」
ナジューラ様の馬車に同乗していた者が執事に向かって深く一礼した。
「セバロス伯爵家正嫡次男、ソガと申します。 この度ナジューラ様の側近筆頭に就役致しました。 未熟者ではございますが、何卒御協力御鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます」
セバロス伯爵家? 誰の側近になるかは側近自身は勿論、側近の実家の命運も左右する。 今までナジューラ様の側近になりたがる者などいなかったのに。
何台もの馬車が次々と到着し、下りて来た方々が全員ナジューラ様側近の某と名乗った。 伯爵家や子爵家出身がかなりいる錚々たる顔ぶれ。 呪いが霧散し、正嫡子でも爵位を継げるようになったが、それを知っているのは旦那様、執事、父と私だけで、ナジューラ様でさえ御存知ないはずだが。
それに蓄財能力によって次代が決められるのはしきたりだ。 呪いは消えようとしきたりまで消えた訳ではない。 しきたりは当主の一存で変更出来るらしいが。 私が奉公して以来変更された例なんて一つもないのだから変更される事を期待して側近になったのではないだろう。
ナジューラ様の資産は子弟の中で最下位に近い。 言わば沈む運命の船。 そんな船に乗船する物好きが一人二人ならともかく、何十人もいるのはなぜなのか?
準大公が紅赤石を取り出した事は聞いている。 以前の状態なら一ルークの価値もないが、解呪されているのなら金銭的な価値が生まれたと見てよい。 とは言え、所詮は実家の資産。 いくらになろうと船を沈没させたナジューラ様に旦那様が礼金をはずむとも思えない。
ナジューラ様御一行が通り過ぎ、施術室へ戻ろうとしたら側近のセバロスに声を掛けられた。
「ワジルカ老師、若先生。 ナジューラ様がお召しです。 どうぞこちらへ」
すると私達が「別用」だった訳か。 旦那様に会うより先に呪術師に会う?
何もなかったのなら分かるが、大事件があったのに。 書面での御報告はお済みだとしても旦那様にまず御挨拶なさるべきではないのか?
そのお召しを疑問に思いながら、セバロスに従ってナジューラ様の書斎へ向かった。 既にお人払いなさったようで、ナジューラ様以外誰もいない。 セバロスは入室せず、書斎の扉を閉めた。
書斎机の上には宝石皿が置かれ、二つの紅赤石が目映く辺りを照らしている。 なんと美しい。
呪術の波動は感じられない。 やはり解呪されていたか。
「ワジルカ。 検分せよ」
「畏まりました」
宝石商なら大きさ、硬度、色、カットを重要視するが、呪術師は装飾として使う訳ではない。 大きさと硬度は呪術の媒体にする時にも重要だが、それより重要なのは純度だ。
純度は零から十まであり、零は既に何らかの呪術が掛かっていて全く使い物にならない状態。 十なら無傷でどんな呪術でも掛けられる。
一度でも施術されたら完璧な解呪であっても純度が落ち、八以上になる事は滅多にない。 五以下だと宝飾品にはなっても呪術の媒体としては使えないから純度が高ければ高い程値が張る。 安くあげようとして低純度の石を使う者もいるが、暴走して安物買いの銭失いとなるのが落ちだ。
父が検分を済ませ、私にも検分するよう促した。 進み出て石を手に取り、耳を澄ます。
星の愛し子が呪いを消してくれたという囁きと笑い声が聞こえた。 これは幸せな石だ。
そっと宝石皿の上に戻し、ナジューラ様に申し上げた。
「どちらも純度十と査定致します」
ナジューラ様が満足気に頷かれる。 父が査定書に今日の日付と十の数字を書き入れ、署名押印した。
「ワジルカ。 危急の際にも拘らず、準大公は沈着冷静にして勇猛果敢。 船首から紅赤石を取り外した鮮やかな手際は後世に語り継がれるべきものである。 家宝が救われたその仔細、家伝にしかと記録するのだぞ」
そのお言葉に驚愕を隠せない。 恩義を家伝に記録したら、それが返せる日まで代々受け継がれる。 返す前に準大公がお亡くなりになれば北方伯家へ。 もし北方伯家を継ぐ者がいなければサリ様、つまり皇王室へ返さねばならない。 そうなったら億どころではない出費となり得る。 ナジューラ様もそれは御存知のはず。
南へ御出発なさる前のナジューラ様は御自分の命を二千万ルークと算定なさっていた。 という事は、助けてもらった事への謝礼は二千万にしかならない。 それにダンホフの流儀に従うなら、ブレベッサ号への乗船拒否は損害賠償を請求して当然の行いだ。 救助への礼金はそれと相殺か、礼金の減額を交渉なさったと思う。 だが、そんな交渉があったとは聞いていない。
父は全く驚きを見せず、申し上げた。
「ナジューラ様。 こちらはナジューラ様個人の所有物であり、家宝ではございません。 呪術が掛けられている訳でもないので、呪術師が家伝に記録する事は不適切かと存じます」
「私の物? これを指して、代々伝わる血涙と呼ばれる石、と申したのはそなたではないか」
「確かに、数百年の長きに渡り当家に伝わる石でございました。 元はと申せばある呪術師が持ち込んだ物。 当家が購入した物でもなければ当家への贈り物でもないのです」
「持ち込んだ? つまり、遺失物?」
「故意に置き去りにされた物ですので遺失物とおっしゃっては誤解を招きましょう」
「では元の持ち主は勿論の事、その者の相続人へ返却する必要もない?」
「そもそも持ち込んだのが誰なのか、分かっておりません。 仮に分かったとしても現在に至るまで返却を要求していないのです。 持ち込んだ者の相続人が名乗り出た所で所有権が認められる事はないと存じます」
「盗品で、持ち主が盗人を知らずにいるという可能性は?」
「この大きさで、しかも二つ。 盗品だとしたら盗まれた者が探さないはずはございません。 なのに探している者がいる訳でもなく、盗まれたという噂がある訳でもない。 盗品の可能性はないと推察致します」
「入手の経緯はともかく、結局当家の所有物ではないか」
「当家に保管されたままでしたらそうなりますが、旦那様はブレベッサ号へと移されました」
「ならば母上の物では? あれは父上から母上への贈り物として建造された船だ」
「船舶登記簿を御覧下さい。 ブレベッサ号の所有者はナジューラ様となっております。 この石は船首の一部。 ですからナジューラ様の物です」
余計な口出しをするつもりはない。 お抱え呪術師とは主が呪術を必要とした時施術するだけの者。 誰が公爵だろうと無関係だし、資産や爵位継承に関して意見が聞かれる事などない職務だ。 船舶所有権にしてもその決定に父が関与していたとは思えない。
船首の飾りが船主の所有物である事に疑問を挟む余地はなく、船主がナジューラ様ならこの石はナジューラ様の物だが。 もし父が何も言わず石を受け取り、家伝に記録していたら、所有権はダンホフ公爵家へ移っていただろう。 後で船主が御自分である事を知り、そうとは知らずに手放した、とナジューラ様が返還を求めた所で認められまい。 名誉船長であろうと船長。 船長が船主の名を知らないはずはないのだから。
「……そなたなら、この石にいか程の値を付ける?」
「宝石商でしたら一個五千万から六千万辺りかと。 ですが呪術師にとっては全財産を擲つ価値がございます。 この大きさだけでも貴重なのに純度十。 未来永劫続く呪術の媒体になり得るので。 二つ同時に競りに出せば、二億を越える値が付いたとしても驚きません」
「父上が沈没させる予定の船に二億の石を移しただと?」
沈没させる予定? 思わず父へと視線を走らせた。 父の瞳に驚きはない。 すると父も知っていた?
「私は移せという旦那様の御命令に従ったのみ。 船をどうなさるおつもりだったのか、伺ってはおりません」
「移した理由は?」
「おっしゃいませんでした。 一言付け加えさせて戴くなら、その時点でこの石の純度は零。 解呪不能という鑑定付きでしたので、将来価値が生まれる可能性もなかったのです」
「捨て石、という訳か。 成る程」
ナジューラ様の瞳には驚きもなければ怒りもない。 強いて言うなら、納得? 呪われた石を沈めるのは当主として当然とでも思っていらっしゃる? たとえ我が子が共に沈もうとも。
「ワジルカ。 解呪不能の鑑定にも拘らず解呪されるとは、よくある事なのか?」
父が私に向かって視線を流した。 破呪でしょう、と私が目顔で応える。 そっとため息を吐き、父が申し上げた。
「私が知る限りでは呪術史上初の出来事であり、よくある事とは申せません。 また、自然消失した呪術であろうと石に傷を残すもの。 初めてこの石を拝見した呪術師なら過去に呪術を掛けられた事がない石と思った事でしょう。 それ程完璧な解呪がなされているのです」
「完璧な解呪? 準大公が? 解呪どころか呪術の存在さえ御存知のようには。
い、いや。 これぞ見掛けで人を判断すべからずという戒め」
「失礼を承知でお伺いする事をお許し下さい。 準大公とナジューラ様以外にもこの石に触れた御方がいたのではございませんか?」
「私は触れておらぬ。 其方が、これは触れた者に悲運を呼び寄せる石、と申したではないか。 その警告がなくとも触れなかったであろうが。 以前の禍々しさは容易に忘れられるものではない。 私に早く死ねと叫んでいるかのような。
ブラースタッドで下船した時点では禍々しさに変わりはなかった。 船首から船首像突端まで三メートル以上ある。 誤って触れる場所ではない。 船首像へ伝って行こうとする者がいれば誰かが気付く。 多くの船員が甲板で前を行く御用船を注視していたのだから」
「すると準大公が船首からお戻りになった時には禍々しさは消えていた?」
「うむ。 それには気付いたが、袋から取り出して見る気にはなれず、この袋を誰かに預けた事もない。 今皿に取り出した時も袋の口を開けて転がした。 この石には準大公以外誰も触れていない」
「準大公が石を取り外した時の様子を詳しく教えて戴けないでしょうか?」
「船首から船首像へ伝い、石をくり抜かれ、下りていらした。 正味一分少々という所か」
「石をくり抜くには何をお使いになったのでしょう?」
「これだ」
それは家紋入りの小刀で、旦那様の御子息は全員同じ物を一振りづつ持っていらっしゃる。 呪具ではないし、呪術が掛けられている気配もない。
「すると石を素手で掴んで下りていらした?」
「この石二つと小刀を掴んで船首像にぶら下がるなど、いかな準大公といえども出来るものか。 石はお口に含んだのだ」
「「えっ?!」」
私に言わせれば、狂ったように叫び続ける紅赤石を口に入れる方が余程不可能だが。 想像しただけで胃液が逆流しそうだ。 叫びは私にしか聞こえなくとも、あれ程禍々しければ普通の石ではないと準大公もお気付きになっただろう? お口に放り込む前に。
「そ、それは。 間違い、ございませんか?」
「準大公の両頬が、こう、膨れていた」
ナジューラ様が両頬をぷっと膨らしてお見せになった。
「石を吐き出し、袋に入れた所も見ておる」
まさか、口に入れたから呪いが溶けた? そんな。 飴でもあるまいし。
しかし現に呪いは消えている。
「ところで、解呪には何時間も掛かると聞いていたが。 即座に終了する事もあるのか?」
「一分少々で終わる事はございません。 解呪でしたら。
解呪ではない何か。 破呪、であれば。 一瞬の内に終わる事があるのかもしれません」
「破呪とは何か?」
「それは一握りの呪術師の間で口伝されるもの。 私は詳細を存じません。 ルガでしたらタイマーザ師に聞く資格がありますが」
「では、ルガ。 タイマーザ師を当家に招待せよ」
「畏まりました。 しかしながらお答え下さるかどうかはタイマーザ師次第である事を御承知おき下さいますよう」
ナジューラ様が頷かれ、私達は書斎を辞した。
紅赤石の所有者は確定した。 変えられない事を今更質問しても仕方がないが、父に聞かずにはいられなかった。
「紅赤石をひとまず受け取り、旦那様にお伺いしなくてもよかったのでしょうか?」
「良いか悪いかで言えば、悪い。 自分はこんな事をしておいて、お前にこう言うのは気が引けるが。 爵位継承はお抱え呪術師が口を挟むべき事ではない。 だからと言って、もし私が何も言わずに石を受け取っていたらどうなった? 旦那様はあげた物を返せとおっしゃる御方ではないが、貰った物をお返しになる御方でもないぞ。 たとえ相手が間違って手放したのだとしてもな。
宝石の値段なら私以上に詳しい御方だ。 すぐさま価値にお気付きになり、元々当家の所有物、とおっしゃったかもしれん。 それはつまり私がナジューラ様の継承を阻んだ、という事ではないのか?」
「するとナジューラ様が爵位を継承なさる?」
「そうなるだろう。 資産が八千万を越える御子息はいないと聞いている。 他に何もなかろうと、あの石二つ、底値で一億だ」
「旦那様にはいつ御報告なさいます?」
「私から報告するつもりはない。 船に移された時点であれは当家の所有を離れた。 旦那様から御質問があれば見たままを答えるが」
「きっとナジューラ様が御報告なさいますよね」
「それは、どうかな。 私に黙っていろとはおっしゃらなかったが。 お誕生会まで旦那様は勿論、誰にも何もおっしゃらないような気がする」
「以前のナジューラ様でしたら旦那様や奥様の御意見をよく伺っていらっしゃいましたが」
「そうだったな。 だが今日のナジューラ様は眼光といい、風格といい、まるで別人だ。 悪い事とは思わん。 ダンホフの舵取りをなさる御方が一々先代の顔色を窺っているようでは呪いは消えようとお先真っ暗だ」
「旦那様はお喜びになるでしょうか?」
「さあ。 迂闊に喜怒哀楽を見せたりしない御方だし。 財産が増やせるなら次代は誰でもいいとお考えかもしれん。 だとすればナジューラ様では御不満だろう。 お世辞にも金儲けが上手いとは言えない御方だ」
「以前、旦那様がおっしゃいました。 蓄財の秘訣は運を逃さぬ事。 愚か者も運に出会うが、掴むのは賢き者のみ、と。 それでしたら紅赤石を手に入れた事はナジューラ様がいかに賢いかを証明しているのでは?」
「ふむ。 そうなる、か。 準大公が破呪して下さらなかったら無価値な石だったが」
「あの呪いは邸内の空気を澱ませておりました。 いずれ当家を滅亡へと導いた事でしょう。 当家にとっても準大公は幸運を齎して下さった大恩人ですね」
「私達にとっても、な。 代々の呪術師が命を懸けて解呪に挑戦し、皆失敗した。 次は私。 そしてお前だ。
お前が北館地下で気を失った時、ダンホフお抱えになった事をどんなに後悔したか。 奉公を引き受けた時は、成功して歴史に名を残すという功名心しかなかったのだ。 私が失敗したとしても私以上の呪術師であるお前にならやれる、と。
お前の手にも負えない代物と分かった時には遅かった。 謝った所で取り返しがつく事でもないから何も言わなかったが。
準大公にしてみれば私達を救おうとしてなさった事ではない。 だが我が子の命を救って下さった事への感謝は言葉に尽くせん」
父から「我が子」と呼ばれた事など今まで一度もなかったし、父がそう思っていると感じた事もなかった。 ましてや私を自分以上の呪術師と評価していただなんて。
もしや、それでナジューラ様に船舶所有権の事を教えたのか?
ダンホフ公爵家の家訓は「金は血なり」。 当代様を始め、御子息の皆様は金を出す事を自分の血を流すよりも嫌っていらっしゃる。 ナジューラ様も例外ではなかったが、先ほどの準大公へのお言葉には明らかに恩義と感謝が込められていた。
「庶子のどなたかが次代様になっていたら、正嫡子が爵位を継げない呪いが消えたと聞いても準大公を恩人とは思わなかったでしょうね」
「ロジューラ様だったとしてもな。 正妻を娶るおつもりがないという噂を聞いていたし。 その点、ナジューラ様なら既に準大公に大恩を感じていらっしゃる」
「家伝に記録せよ、とおっしゃったからですか?」
「うむ。 御自分が次代と分かる前に、だ。 準大公との間に何があったのかはしらんが。 金では勘定しきれない何かであったのだろう」
ダンホフ直系に採算を度外視させるとは。 弓がうまいだけの御方ではないという事か? そう言えば、紅赤石はあの御方を「星の愛し子」と呼んでいた。
「お父さん、『今更聞けない』を貸して下さいませんか? すぐお返ししますので」
「ああ、いいぞ。 お前がルデへの手紙を書き終わったらな」
むっとして言い返そうかと思ったが、手紙くらいすぐ書き終わると思い、止めておいた。
しかしそれは甘かった。 まず出だしを「親愛なる」か「敬愛する」か、それともただの「タイマーザ先生」にするかでつまずいた。
父はシェベール先生の弟子だから私は孫弟子。 タイマーザ先生とは同門で、住所が同じだった時もある。 いくら直接話した事はなくても「タイマーザ先生へ」ではあまりに無愛想で、ヴァルの息子が喧嘩を売りに来たと思われる。 かと言って「親愛なる」では馴れ馴れし過ぎるし、呪具を間違える事で有名な先生に「敬愛する」では嘘くさい。
結局「謹啓」で誤摩化す事にしたが、本文も招待の言葉だけではぶっきらぼうだ。 しかしもし正直に破呪について聞きたいと書き、知らん、と断られたら困る。 実父と知ったから会いたいと言えば来てくれる確率は上がるが。 自分に子供がいる事を知らない人へ手紙で実子の名乗りを上げるのは唐突だし、やりたくない。 リスナーだと書くべきかどうかも迷った。 父はそうだと言っているが、それはリスナーではない父が決める事ではないだろう。
何度も書き直ししている間にタイマーザ先生から呪術師組合長として問い合わせが届いた。 破呪とは書いていないが、「準大公によって起こされた超常現象に関して」とあり、他の組合員にも詳しい事情を聞く機会を与えてほしいとある。
どこであろうと出向くとタイマーザ先生の方から言われてほっとしたのも束の間、父がこの機会に私のリスナー能力を組合員全員にお披露目したいと言い出した。 その準備に追われ、本を読んでいる心の余裕がなかったのだ。
次に来るのが猫又と知っていたら、父の手から奪ってでも読んでおいたのだが。
追記
ルガ・ワジルカ
呪術師。 後に解呪師を名乗る。 以来、解呪師が職業名として通用するようになった。 五種の基本解呪手順を考案し、「解呪の父」と呼ばれる。
呪術師となるまで実父のヴァル・ワジルカに師事し、共にお抱え呪術師としてダンホフ公爵家に仕えた。 リスナーとなってからはサダ・ヴィジャヤン準大公に仕えたリスナー、ルデ・タイマーザに師事したが、準大公お抱えにはなっていない。
タイマーザは解呪しかしない呪術師として知られ、ルガ・ワジルカに多大な影響を残したと思われるが、解呪教本の献辞は父と母方祖父のタム・シャノッドへ捧げられている。
(「リスナー列伝」より抜粋。)
「解呪」、そして「零れ話 V」の章、終わります。