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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 V
426/490

解呪 7

 地下へと続く扉は北館一階にあり、外見はいくつもある他の扉と変わらない。 正面入り口から奥に向かって左、十一番目の扉だ。 開けると黒く塗られた壁のような空間が現れる。

 父が仕事をする時はどこであろうと私を連れて行ったが、本邸北館地下にだけは付いて来るようにと言った事は一度もなかった。 父自身でさえ私が知る限り二度しか行ってない。 一度目は父がお抱えとして着任してすぐ、渡された鍵が開くかどうかを確認しに行った。 二度目は四年前、紅赤石を動かせるかどうか試したと聞いている。


 今日で僅か三度目。 好んで行きたくなる場所でない事は父から鼻に栓をするように言われる前から覚悟していた。 代々のお抱え呪術師はどう解呪するか、それだけに集中し、換気など二の次、三の次だったらしく、何百年も換気していないという。 呪いが拡散する事を嫌ったのだろうが、換気をしなくとも拡散しているのだ。 さっさと換気すればよいのに。

 では自分なら換気するかと言うと、しない。 北館廊下を始め、そちこちをヴィジャヤン殿にきれいにしてもらったばかり。 換気で再び呪いまみれにするのは気が引ける。 このように皆夫々それなりの理由があったから結局いつまで経っても換気されないままなのだろう。


 地下の空気には毒素も堆積している。 三十分以上滞在したら気絶するらしい。 それ程長居するつもりはなかったが、父によると往復するだけでそれくらいの時間がかかるのだとか。 それで空気を作る石を用意した。

 因みに、この空気作成術は何代か前の公爵の趣味が熱帯魚で、南から魚を運ぶ為に発明された。 人間にも使えると発見したのは私だが。 口に含んで風呂に潜り、一時間保つ事を確認してある。 どれだけ保つかは試さなかったが、見たらすぐ戻るのだから一時間あれば充分だ。


 記録によれば北館地下の天井の高さは約十メートル。 死後の世界へ誘うかのような螺旋階段が付いている。 各段はパイを十等分した二等辺三角形のような石で、有効幅が一メートル近くあるから小さいと文句を言う程ではないが、なぜか外側に手すりが付いていないのだ。 一歩間違えれば、という恐れがどうしても脳裏を掠める。


 行くぞ、と父が目顔で合図した。 それに頷き返す。

 急な階段を上り下りする時でも手すりを使った事はない。 いざとなれば中央の支柱に掴まれば、いや、そもそも転ばなければよいだけの話。 そう自分に言い聞かせながら父に続き、扉を閉めた。

 ランタンは持ってきたが、足元とその一段下を照らすのがせいぜい。 どこまで続いているのか全く見えない。 もっともこの場合、下が見えたらかえって恐怖が増しただろう。 見えなくて幸いと言える。 とは言え、手すりがない事から来る不安は拭い難い。


 実の所、階段を下りる前から逃げ出したかった。 紅赤石を見たい一心で我慢したが。 今朝、落とした訳でもないのに祖父からもらった櫛が二つに割れていたのだ。 迷信深い性質ではないし、それくらいの事でとは思ったが、悪い予感が拭えない。 日を改めたかったが、いつ見せてくれるのかと散々催促しておきながら、いざ出発となって別の日にしてくれとは言いづらい。 それに父が私の前を進んでいる。 後ろに続くだけなのに尻込みするのはさすがに恥ずかしい。


 暫くして呪いに覆われ、次の段が見えない所に来た。 父が構わず足を踏み入れる。 嫌々ながら私も続いた。 すぐに廊下となってほっとしたものの呪いが膝まで届き、泥沼を歩くより難儀だ。 ランタンの灯が激しく揺れ始める。

 風か? 地下へ下りる扉は私達が通ったあれ一つのはずだが。

 父の肩を叩き、ランタンを掲げて灯を指差すと、父がランタンを廊下に置いて見せた。 灯が上に伸びたかと思うと下に潰されたり、前後左右に激しく揺れ始める。 風にしてはあまりに滅茶苦茶な動きだ。 呪術で石を発火させたランタンだから周囲の呪いに反応しているという事か。


 思ったより時間が掛かったが、何とか保管庫が置いてある廊下の突き当たりの部屋に辿り着いた。 中が相当広いようで、扉を開けても部屋の奥まで灯火が届かず、何も見えない。 父が扉のすぐ隣に取り付けられていたランプに火を灯した。 この部屋には同じようなランプが合計二十付いている。

 父が右回りに火を灯し始めたので、私は左に回った。 緑と赤の覆いを付けているランプが二つづつあり、緑を繋ぐ線と赤を繋ぐ線が交差した所に保管庫が置いてある。

 目算を付けて進むと闇の中に保管庫が浮かび上がった。 四角柱に見えるが、本体は約一メートルの正六面体で四本の足が付いている。


 保管庫の扉を開けると真っ赤に燃える二つの瞳が私を睨んだ。

 禍々しい。 なのに美しい。 灯火を全部消したとしても闇の中で輝き続けるのではないか?

 ただ、耳を澄ましても何も聞こえない。 紅赤石は外へ面した方が硝子張りの石の箱に収められている。 保管庫を開けただけで紅赤石が見れるようになっているから、囁きも聞こえるのではと期待していたが。 やはり紅赤石を収めている中箱の蓋を開けないとだめなようだ。


 蓋を開けようとして手を伸ばすと、父が私の腕を強く掴んで引き戻した。 戻ろうと合図している。 慌てて口から石を取り出した。

「蓋を開けてはいけませんか? 紅赤石の囁きを聞きたいのです」

 父も石を取り出し、早口にしゃべった。

「止めておけ。 この箱が呪いの流出を防止する目的で作られた事を忘れたか」

 忘れてはいない。 マニオン先生の記録は何度も読んでいる。 流出防止に失敗したので箱をハンマーで叩き、壊そうとしたが割れなかったという。 失敗した呪具ならその時点で自壊するか、息を吹きかけただけで消滅するはずなのに。

 それに保管庫の足にはローラーが付いている。 保管庫には何の術も掛けられていないから紅赤石を入れる前は簡単に動かせた。 ところが石の箱を入れた途端、動かせなくなった。 試しに私も保管庫を押してみたが、びくともしない。

「単なる失敗よりもっとまずい事になっている。 中箱に触るのは危険だ。 自壊するまで待て」

「しかしそれはいつの事になるか」

「いつだっていいじゃないか。 何百年も解呪出来なかった代物だ。 お前が出来なくても誰も責めはせん」

「でも代々のお抱えの中にリスナーはいませんでした」

「まあな。 だからシェベール先生を呼んだのだろう。 しかし何かが聞こえたとは日記のどこにも書いてないぞ。 石を箱に入れる前に見たのに」

「直接触れはしません。 蓋を少し開けるだけでいいのです」

 私は用意していた手袋をはめて見せた。 二重になっていて間に防御術を掛けた石を入れてある。

「直に触らないと誓えるか?」

「誓います」

 それでも父は迷っていたようだが、ここで言い争って時間を無駄にするよりは、と思ったか。 私に蓋を開けるよう促した。 蓋を開けたと同時に強烈な叫び声が耳を劈き、私はその場で気を失った。


 激しい頭痛で目が覚めた。

「う、ううう、」 

「目が覚めたか?」

 父の声だ。 何とか目を開ける。 私はサジ・ヴィジャヤン殿が泊まった貴賓室の寝台で横になっていた。

「あ、あ、あ」

 頭が痛いと言おうとしたが、言葉にならない。

「頭が痛むのか?」

 私が瞼を瞬かせると、父は私の頭を支え、吸い飲みを口元にあてがってくれた。 冷たい水が渇いた喉を潤す。 けれど頭痛は治まらない。 自業自得だが。 父の忠告を振り切ったばかりに、この始末。

 あの後一体どうしたのだろう? 父が私を地下から運び出してくれた? それ以外考えられないが、父は中肉中背。 特に体を鍛えている訳でもない。 私は父より頭一つ高く、体格もよい。 廊下を引きずる位はやれたとしても、あの階段を私を背負って上るのはどう頑張っても無理だ。

 地下への鍵を持っているのは代々のダンホフ公爵とお抱え呪術師だけ。 まさか旦那様が私を運ぶ手伝いをしてくれたとも思えないし。 すると旦那様に黙って手伝う者を入れた? だとしても場所が場所なだけにかなりの苦労をしたはず。

 父に謝りたいが、口からは意味のない音しか出て来ない。 筆談をしようとして紙と書くものを目で探したが何もなかった。

「少し眠れ」

 吸い飲みに薬でも入っていたのか? 瞼が重い。 そして再び闇の中に落ちて行った。


 次に目覚めた時、身じろぎすると父の声がした。

「起きたか?」

「はい」

 自分の声とは思えないようなしゃがれ声だったが、取りあえず言葉が出た事にほっとした。 まだ貴賓室に寝ている。 体中が痛み、寝返りを打つだけで辛かったが、いつまでもここに寝ていていいはずがない。 急いで寝台から下りて立とうとしたら、その場に崩れ落ちた。

「無理をするな。 三日間寝たきりだったんだ。 膝が立つまい」

 三日間?

 父は私を助け起こし、寝台脇の椅子に座らせた。

「体が弱っている。 まず何か食べろ」

 近くのテーブルに様々な果物が置いてある。 父がりんごをすり下ろし、ハチミツをかけてくれた。

 甲斐甲斐しいというか。 祖母に面倒を見てもらった子供の時から今まで、このような看護をされた事はない。 せっかくだから口に入れたが、味がしなかった。 無理をして飲み込んだら激しくむせた。 熱湯を飲んだかのように喉が痛む。 急いで水を飲んだが暫くひどい咳が続き、父が背中をさすってくれた。

「す、すみ、ま」

「病人が謝るな」

「でも。 あの、地下、から。 ロクが?」

「お前を引き上げるには荷物の上げ下ろし用昇降口を使った。 北館からここまではビシワスに手伝わせたが。

 念のため言っておくが、あの階段は曰く付きでな。 解呪出来ない者が下りようとすると途中で足を踏み外すと言い伝えられている。 まあ、実際に助手で試した事がある訳でもないが」


 父は私を寝台に戻し、部屋から出て行った。 それにしても私はなぜここに?

 そこでここが本邸内で唯一、呪いが完全に消えている部屋である事を思い出した。 だからと言ってお抱え呪術師が無断で貴賓室に泊まれる訳がない。 毎日掃除されている部屋だ。 三日も寝ていたなら無許可ではないのだろうが。 旦那様から許可を貰ったのか? 何と言って?

 聞きたい事はいくらでもあったが喉が痛い。 細切れの音を出すのがやっとだ。 それでなくても忙しい父を引き止め、あれこれ聞くのは憚られる。

 大変な迷惑をかけた事は間違いない。 とにかく早く回復しなければ。 と気ばかり焦ったが、体が思い通りに動かなかった。 次の日になっても食欲は戻らず、寝台から洗面所へ歩いただけで息があがり、一歩歩いては立ち止まる。 やっとの思いで寝台に戻り、横になっても眠れない。 目を瞑ると紅赤石が現れる。 焼ゴテで瞼の裏に焼き付けたかのように。 それが私に向かって大声で叫ぶのだ。


 なぜ閉じ込めたっ。

 出せっ! 出せっ! 出せえええっ!


 私がやったんじゃない! 第一あなたはもう出ているだろう?

 そんな口答えした所で叫びが止む訳でもない。 聞きたくないが、昼も夜もなく同じ呪詛が延々と繰り返される。 私の頭の中の声だから耳を塞いだ所で役に立たない。

 横になっているだけなのに激しい運動をしたかのような汗をかく。 気が狂いそうだ。 或いはもう狂っているのか? どうしたら逃れられる? いっその事、頭を切り落としてしまいたい。

 死ねるなら手段には拘らないが、貴賓室で自殺する訳にはいかない。 そんな事をしたら私の死後、父が旦那様からどんな目に遭わされるか。 どんなに苦しかろうと、そんな恩知らずな真似だけは出来ない。 それで自室に戻らせてくれるよう、父に頼んだ。


「貴賓室では落ち着いて寝れません」

「だめだ」

「しかし、」

「だめだと言ったらだめだ」

 普段私がどこで寝ようと気にした事などない父だ。 簡単に頷くと思ったら、頑として首を縦に振らない。 死にたいと匂わせた訳でもないのに。

 ここでは病気か事故で死ぬしかない。 だが事故死に見せられないか試そうとすると、なぜか父が現れる。 夜中だろうと昼間だろうと。 そして私の側で本を読み始める。

 無言で読んでいるだけだ。 勿論そんな事で叫びが止んだりしない。 ただページをめくる音には叫びを和らげる不思議な効果があった。 叫びの突端に柔らかい米粒が付いたような? 自分でも訳が分からない比喩だと思うが。


 二週間後、ようやく床上げした。 叫びはまだ聞こえるが、飛竜の赤ん坊の鳴き声程度まで音量が下がったから最初の頃に比べたら余程ましだ。 自分でページをめくって気を紛らわせていたが、途中で寝落ちしたらその途端、叫びで起こされる。 これにはいらついてしょうがなく、ページをめくる音を出す石を作る事にした。

 音の出る石を作るのは簡単だ。 八分もあれば終わる。 死ぬつもりでやったのではないが、どうも施術の途中で気を失ったらしく、目を開けたら朝。 貴賓室の寝台で横になっていた。


 何があったのか聞きたかったが辺りには誰もいない。 施術室に行けば誰かいるだろう。 ところが施術室の鍵がなくなっていた。 鍵は上着の内ポケットに細い鎖で繋いでいる。 鎖はそのままだったから落としたのではない。 父に取り上げられたようだ。

 仕方なく施術室に行って扉を叩いたら入り口にロクが立ちはだかった。 明らかに機嫌が悪い。 しかも相当。 今まで見た事がないくらい。

「若先生、お加減は?」

「あ、ああ。 大丈夫だ」

「よかったですね」

 そう言ってロクが扉を閉めようとする。

「ま、待て。 入れてくれ」

「鍵はどうしました?」

「落とした。 すぐに合鍵を作る。 今日の所は入れてくれ」

「老師から若先生が来ても入れるなと言われておりまして」

「施術はしない。 昨日の呪術、暴走したのだろう? 掃除を手伝うから」

「間に合ってます」

「老師は今、お忙しい。 後で必ず私から報告しておく。 ロク、お前と私の仲じゃないか」

「ええ、若先生と私の仲ですもんね。 命を助けてあげた事へのお礼なんて要りませんよ。 そんな水臭い。 昨日の暴走なんて北館地下に比べたらかわいいもんです」

 扉は閉められ、御丁寧に内鍵を掛ける音がした。


 やはりロクも地下に下りていたか。 助手だと階段から落ちるだなんて。 ロクは地下に下りていないと私に思わせる為、そんな作り話をでっちあげたのだろう。 或いは荷物用の昇降口を使ったか。 階段を使うよりましな方法のはずはない。 それなら私達だって荷物用の昇降口を使って下りたはずだ。

 地下で迷惑を掛けたのはすまないと思う。 施術室の後始末はロクの責任だ。 ここを死に場所に選べば更に迷惑を掛ける。 それは申し訳ないが、施術室なら死亡事故があっても誰も変とは思わない。 なぜ今まで思いつかなかったのか。

 ようやくいい死に場所を見つけたと思ったら、これだ。 残念ながら今の私では鍵がなくては入れない。 以前の私なら鍵などなくても、たとえ内鍵を掛けられていようと扉を開けるくらい造作もなかったが。


 別に今日死ななければまずいという訳ではない。 けれどあの日以来、石の囁きが全く聞こえなくなった。 それはもう父に言ってある。 ところが父はただ一言、そうか、と言っただけだ。 そうかで済む話ではないだろうに。

 リスナーの過去帳にはリスナーが早世した時、三十年経たずに次のリスナーが現れた例が記載されている。 私が死ねば五、六年で次が現れるだろう。 でも死ななかったら次は三十年後だ。 次が現れても私では指導出来ないし、その時までタイマーザ先生が生きているとは思えない。 呪術師全体の事を考えたら父こそ私に死んでもらいたいはずではないか。


 リスナーである事は急いで公表する必要はなかったかもしれないが、能力の喪失についてはすぐ公表しないのは無責任だろう。 私が発表してもいいが、私の能力を実際に見た事があるのは父だけだ。 以前はリスナーだったと言った所で信じてもらえるかどうか。

 この状態で呪術師組合の新年会に出席するなんて気が重い。 組合に加入して初めての新年会だから欠席する訳にはいかないが。 どうやら父は私の能力がいつか戻ると信じているらしい。 私がリスナーであった事、そしてその能力が失われた事を公表するつもりはないと言う。

 皇都への旅は父が寝台車にしてくれた。 思ったより疲れずに済んだが、五分も話せば息が切れる。 幸い私は以前から無口として知られているし、誰とも親しい訳ではない。 兄弟子とも最後に会ったのはダンホフお抱えになる前、九年前の話だ。 フィズボン先生とはダンホフに来てからも何度か会っているが、病み上がりと言えば誤摩化せるだろう。


 会場に到着すると受付の側にフィズボン先生がいて、父に手を振った。

「よお、ヴァル、おめでとう。 今年もよろしく」

 そう言って父にあみだくじを差し出した。

「おめでとう。 こちらこそ、よろしく」

 あみだを受け取った父は自分の名前を消してタイマーザ先生の名前を書き、組合長が当たるように線を入れた。

「去年もやらせたのに?」

「だから? どうせ来ないんだろ。 文句を言う奴でもいるのか? いたらそいつにやらせろ」

 フィズボン先生はちょっと肩を竦め、あみだを受付に座っていた人に渡した。

「ま、そういう事で」

「承知しました」

 受付の人は満面の笑顔であみだを受け取った。


 タイマーザ先生はおそらく来ないと父から言われていたが、ほっとしたのか失望したのか、自分でも分からない。 会いたいと事前に手紙を書いておくべきだったか?

「フィズボン先生、明けましておめでとうございます。 本年も何卒よろしく御指導の程、お願い申し上げます」

「おめでとう、若先生。 これからの活躍、大いに期待しているぞ。 新人の顔合わせは暁の間だ。 みんなもう集まっているだろう。 楽しんで来い」

 顔色の悪さは隠せていないと思うが、本人が自覚している事をわざわざ口にするような人ではない。 フィズボン先生に礼を言って父と分かれた。


 顔合わせの後、懇親会となったが、旅行中に食あたりしたと言い訳し、乾杯だけで退席させてもらった。 先にダンホフ別邸へ戻る事を父に伝えに行くと、父はベランダでフィズボン先生と酒を飲んでいた。 フィズボン先生の声が聞こえる。

「もう時効だろう?」

「事情を知って、アチを恨んだらどうする。 指輪を外したって今更どうなるものでもない」

 指輪? 父は指輪を着けていない。

「そりゃそうかもしれんが。 弟子にするのはいいのか?」

「リスナーの事はリスナーにしか教えられんからな」

 もしかしたらタイマーザ先生が付けている指輪? だとしてもなぜ恨むのか。 それは分からなかったが、フィズボン先生は私の実父母に関する事情を知っているように感じた。

 そう言えば、私が父の実子と紹介されてもフィズボン先生は少しも驚いていなかった。 当たり前と言えば当たり前だが、父と私は全く似ていない。 長年一緒に暮らしていたのに今日初めて子供がいたと知らされたら、普通はもっと驚くと思うのだが。

 それにどうやら私がリスナーだった事まで御存知の様子。 フィズボン先生になら言っていいのか? 口が堅い御方ではあるが。


 私の体は回復しつつある。 それでも石の囁きは聞こえない。 このまま一生聞こえないかもしれないのに。 それとも父には私の能力がいつか戻ると信じる理由でもあるのだろうか?

 血縁関係に限らず、人間関係一般に関して大体無頓着な父だが、これに対しては身贔屓があるような。 やはりタイマーザ先生と話すべきか?

 ただ父にはリスナーに関して特別の思い入れというか、こだわりがある。 私が父に内緒で、いや、内緒でなくてもタイマーザ先生に連絡したら父の気持ちを傷つけるような気がした。

 ではフィズボン先生に橋渡しを頼む? シェベール先生の死後、父とタイマーザ先生は絶縁し、手紙のやり取りさえしていないが、フィズボン先生ならどちらとも交流がある。 但し、フィズボン先生は三年前にリューネハラ公爵家のお抱えになった。 南に住んでいるから新年会以外で会う事は滅多にない。

 頼めば橋渡しをしてくれるとは思うが、どう言えばいいのか考えるのが面倒で。 結局何も頼まず、別邸へ戻った。


「ここには呪いの蓄積がない。 当分こちらで暮らすといい」

 父が本邸へと戻る日、そう言われた。 足手まといにしかならない私には頷くしかない。 新年になる前から本邸ではユレイア様の結婚式に向かって全員が駆けずり回っていた。 父はその全員の忙しさを合わせたぐらい忙しくなる。

 式にはサリ様が御臨席なさるので呪術師は出席出来ないが、呪術がサリ様のお体に触れたりしては一大事だ。 準大公御一家が宿泊なさる予定の別邸は勿論、式場もかなり広いだろう。 それに兵士はお守りとして呪具を身に付けている。 当家の者ではなくても他家の者が何かを持ち込むかもしれない。 加えて瑞兆の誘拐を狙う国もある。 呪術を使った陰謀もないとは言えない。

 公爵軍の兵士は目に見える警備を担うが、父は目に見えない警備を担う。 町一つを完璧に解呪するようなものだ。 たった一人で。

 私が使いものになればよいのだが、叫びは小さくなったものの消えてはいない。 人の話を聞く時も集中出来ないから聞き落としたりしている。 いつ失神するか分からないので呪具の掃除さえ危なくてやれない。


 三歩進めば二歩下がるような回復が歯がゆい。 本や雑誌をやたらに読んだおかげで呪術以外の雑学にも詳しくなったが、他に何をするでもない日々を過ごしていた。

 ユレイア様の結婚式は無事に終わったらしい。 世間には他人の結婚式に興味がある人が結構いるようで、雑誌が沢山出た。 式に関してはそんなものを読む時間のない父より詳しいかもしれない。

 式から二ヶ月経った頃、父が私に会いに来た。 疲労の色が濃い。

「紅赤石を移した」

「えっ。 動かせたのですか?」

「ああ。 中箱は蓋を開けた日に壊れたからな。 保管庫も動かせるようになった」

 箱は壊れるべくして壊れたのかもしれないが、紅赤石は何百年もの間、北館地下から一度も動かされなかった。 動かしたくても正嫡男子でなくては動かせなかったからと聞いている。 なのに動かした?

「どこへ移したのでしょう?」

「ブレベッサ号だ。 秋に進水する。 紅赤石は船首を飾る瑞鳥の目になる」

「船に、搭載する?」

 父が頷く。 そんな事をしたら沈没するだろう? と口には出さなかった。 百も承知でやった事なのだろうし。

 だが紅赤石の意味というか、何をどう呪っているのかは代々のダンホフ公爵、執事とお抱え呪術師しか知らない。 つまり何も知らないナジューラ様を人身御供にする? ロジューラ様の分家は決まったも同然だから、ナジューラ様の運命を少々早めただけと言えるのかもしれないが。 最後の最後まで子を諦めないのが親ではないのか?

「それは、何故?」

「旦那様がお決めになった事だ。 理由は知らん」

 本当だろうか?

 もし本当でないとしたら? まさか石を本邸から動かすよう、父が旦那様へ進言した? 私が本邸に戻れるように。

 その可能性は口にするのも恐ろしい。 しかしあり得ない話ではない。 呪術師は奉公人より主への忠誠心が薄い。 当主に心酔したとか、恩義があるとかでお抱えになる呪術師なんてまずいないだろう。 普通はその家が所有する呪術や呪具、或いは書物への関心があるからお抱えになるのだ。 父もおそらく例外ではない。 何十人もいる公爵家子弟より、一人しかいないリスナーの方が大切と考えたのでは?

 いずれにしても既に移されているのならその知らせを黙って聞く以外、私に出来る事はないのだが。


 ブレベッサ号の進水式には父だけ出席した。 その帰りに皇都へ立ち寄った父と一緒に本邸へ戻った。

 久しぶりに見る本邸は相変わらずと言えば相変わらずだが、地面を覆う呪いが薄くなったような気がした。

「薄くなりましたか?」

「新婚旅行の帰りにヴィジャヤン殿が本邸を訪問して下さった」

 なんと、私の部屋の呪いが一掃されている。

「ここにまでヴィジャヤン殿がお立ち寄り下さった?」

「この部屋からは白フクロウの巣が見えるからな」

 白フクロウの巣? 私の部屋の窓から見えるのは石だけだった。 白フクロウだろうと何だろうと鳥の巣なんてある訳がない。 窓の外を見たら、石の彫刻の穴の一つから白フクロウが顔を出している。


 施術室に立ち寄って皆に挨拶した後、北館の様子を見に行こうとしたら父に止められた。

「北館は立ち入り禁止だ。 来年建て替えられる」

「建物を壊した所で蓄積した呪いは消えないでしょう? ヴィジャヤン殿が触れない限り」

「だろうな」

 ではなぜそんな無駄な事をするのか。 父からの説明はなかった。

 無駄と言えば、紅赤石を船に移した事だって無駄だ。 船が沈没しようと呪いが解消する事はない。 いずれ呪うべき対象の元へ戻って来る。 更に強力になって。 そうなったら私には対抗出来ないし、父でも無理だと思う。


 ところが小春日和のある日、ぼんやり外を眺めていると、柔らかな風に吹かれて地面を覆う呪いが散り始めているのが見えた。 これは一体どうした事だ?

 急いで施術室にいる父へ知らせに走った。 そう、走れるのだ。 この私が。

 あの叫びが聞こえない。 どこからも。 私は走りながら笑い出していた。

「お父さん!」

 私は未だに施術室の鍵を持たされていない。 術を使って解錠した。 顔を真っ赤にして笑いながら飛び込んで来た私に父が目を見張る。

「北館を見て来る」

 父はそうロクに言うと、コートも羽織らず外へ飛び出した。 何が起こったか私が説明するまでもなかったようだ。 私が後に続いたのを見て父が顔を顰めたが、付いて来るなとは言わなかった。


 北館一階廊下はヴィジャヤン殿にきれいにしてもらったはずだが、まるで地下の呪いを全て一階廊下に運び入れたかのような有様だった。 私を地下から救い出す為、荷物上げ下ろし用の昇降口を全開したからだろう。

 父と私は構わず次々と窓を開けた。 風が入り、呪いを吹き飛ばして行く。 私が着ていたコートを脱ぎ、振り回したら煙のように掻き消えた。


 何が起こったか。 紅赤石が解呪されたのだ。

 誰が? どのようにして?

 だが私にとって一番重要な変化は叫びが消えたという事。

 そして囁き。 石の囁きが聞こえる。


 その日から五日後、早馬がブレベッサ号沈没の知らせを齎した。 父も私もそれには驚かなかった。

 ナジューラ様御無事の知らせには驚いたが。


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