解呪 6
「お父さん、あれを、あれを御覧下さい!」
私の声に尋常ならぬ驚愕が含まれている事を感じたのだろう。 父は読んでいた書類をすぐに置き、私が立っている窓際に歩み寄った。
父の書斎の窓から主賓室のドアに繋がっている内庭が見える。 主賓室の方角から来た若い男女の一組が、私達の立っている窓の外を通り過ぎて行った。
先頭を歩いている男性の腕に手を預けた女性はユレイア様。 ならば男性はお見合い相手のサジ・ヴィジャヤン殿であろう。 ユレイア様のお召し物がお見合いとは思えない程質素だが、格下のヴィジャヤン殿をみすぼらしく見せない為のお気遣いなのかもしれない。 侍女二人、侍従一人と護衛四人がお邪魔にならない距離を保ってお二人の後ろに続いている。
ヴィジャヤン殿がユレイア様のお耳に何かを囁いた。 冗談でもおっしゃったのか、ユレイア様がお笑いになる。 人形のような作られた微笑みなら見た事があるが、あのように自然な笑いを見たのは初めてだ。
「なんと仲睦ま」
父の言葉が途切れた。 目を大きく見開いている。
御一行が視界から消え、暫くしてから父が言葉を絞り出した。
「澱みが、消えている?」
私達が赴任したばかりの頃、澱みは感じられても目に見えるものではなかった。 けれど半年くらい前からうっすらと煙のようなものが地面を覆っているのが見える様になった。 と言っても、それが見えるのは父と私だけだが。
長年の蓄積か、或いは呪いの強度が上がったのか。 原因は分からないが、誰が歩こうと煙が消えた事はなかった。 なのに今、ヴィジャヤン殿の歩んだ後ろは初めから何もなかったかのよう。
呪いの消滅は代々のダンホフお抱え呪術師の悲願であり、何百年もの間、手を変え品を変え、時には命を懸けて解決する道を探したが、誰一人として成功に至らなかった現象だ。 それが今、何の前触れもなく消え、ヴィジャヤン殿が歩んだ足元から後ろはきれいな細い道となっている。
父が大きく唸って腕を組んだ。 どうやら父にも説明がつかないらしい。
「もしや、ヴィジャヤン殿には呪術の心得がおありになるのでしょうか?」
「まさか。 独立した呪術師や助手にとって伯爵は一番旨味のある客だ。 侯爵以上にはお抱えがいるからな。 伯爵家次男が呪術を習いたいとか興味があると言えば誰が先生になるかで競争になる。 組合で噂にならないはずがない。 秘密裏に習ったのだとしても六頭殺しの実兄だ。 そんな特技があったら弟が有名になった時点で世間の口の端に上るだろう」
「それを六頭殺しファンのお父さんが御存知ないはずはありませんよね」
ちらっと壁の六頭殺しのポスターに視線を投げてそう言ったら、父が珍しく声を荒らげる。
「誰が六頭殺しファンだっ! あれはビシワスがいらないと言うから貰ってやっただけだ。 壁の染み隠しになるし。 下らん理由で人を決めつけるな」
別に決めつけたつもりはないのだが。 ただ、あれが貰い物でない事は知っている。 なぜかというと、あれは「貴婦人の友」の付録だ。 何でも一人一冊しか注文出来ないらしく、自分用を買いたいロクが私の名前を使わせてくれと頼みに来たのだ。 そう言えば、その時ロクに念を押されていた。
「あ、先生の注文は見ざる聞かざる言わざる、て事で、よろしく。 ファンだって知られるの、すごく嫌みたいだから」
「ファンというのはな、ビシワスのような奴の事を言うのであって」
父が脱線しそうに見えたので、急いで話を元に戻した。
「ヴィジャヤン殿が独学で習得なさったという可能性はありませんか?」
「独学だと? どうやって? 普通の書店に行った所で呪術の本など売ってないぞ。 専門書店に行こうと無駄足だ。 呪術師以外に呪術関係の本を売るのは禁じられている。 ダンホフの蔵書がこれ程充実しているのは代々の呪術師が買っていたからだ。 金さえあれば誰にでも買えるというものじゃない」
「でも闇で売買されている本がありますよね。 本を持っている人から直接譲り受ける事も出来るでしょうし。 書店経由ではなく入手したのでは?」
「そりゃ本を手に入れる事くらいは出来るかもしれんが。 素人が読んだところで理解出来るか? 本を読んだだけで呪術師になれるのなら誰も苦労はせん。 特に解呪に関する本は解呪した事がない者が読んだって意味不明だ。 少なくとも施術に成功した事がある者でなければ解呪など出来るはずがない。
初心者向けの呪術の本でさえ手順こそ書いてあるが、なぜそうすべきなのか、そうしなかったらどうなるのかまでは書いていない。 自己流で施術したらやっている最中に死ぬのが落ちだ。
まぐれでうまくいったとしても一度でも施術したら体の中の呪気が増える。 呪気まみれの体で御典医になれる訳がない。 皇王城内へ入る事さえ許されないだろう。 神官だってバカじゃない。 呪気を察知する石くらい、どの検問所にも置いてある」
「検問所を通過出来るかどうか、実際試した人がいる訳でもないのでしょう?」
「そもそも私やお前がいくらあれを踏んだって消えた事などないじゃないか。 つまり呪術師であるか否かはこの消失に関係ないという事だろう? 他にもっとましな原因は考えられんのか」
「呪術師である事とは無関係かもしれませんが、呪術に無関係とは言い切れないのでは? シェベール先生が紅赤石を鑑定なさった時、日記に書き留めていらっしゃいました。 破呪なら解消の可能性なきにしもあらず、と。 例えばヴィジャヤン殿が破呪が出来る石を持っていらっしゃるとか」
父が、ふふん、と皮肉な笑いを漏らした。
「破呪だと? そりゃあすごい。 呪術を消す呪術、なんだよな? で、その破呪とやらは自分で自分を消したりしないのか?」
わざわざ二枚の紙に矛と盾の絵を描き、矛で盾を突いて見せた。 呪術の中には一見理屈に合わないものもある。 下手な絵を描いて揶揄するまでの事ではないと思うが。
シェベール先生の名前を出すと、父の反応にはいつもこのような諧謔が混じる。 とは言え、破呪に関しては私も実在するとは思っていない。 取りあえず思い付いたから言ってみただけだ。
では、他に何があるだろう?
「例えば、ですが。 誰かが自動的に解呪を行える石を発明していたとは考えられませんか? 理論的には可能という論文を読んだ事があります。 その石に解呪されたから消えたのかも」
「私が知らないんだからない、とは言わん。 だがそのような世紀の大発明がされていたのなら売りに出ていてもよさそうなもの。 いくらするのか知らんが、呪術師を雇うより高くつこうと買いたい奴がごまんといるだろう。 唯一信頼出来る呪術師は死んだ呪術師と言われているくらいだ。 少なくとも石ならペラペラ客の秘密を喋る真似はせん」
「手順を盗まれる事を恐れ、発明した者が秘密にしているとか?」
「だとすると、それを発明した奴は誰にも売る気がないという事になる。 お抱え呪術師がいる訳でもないヴィジャヤン殿が、どうやってその石を手に入れた? 誰も知らない、売りに出ている訳でもない石を」
「それは、御本人に聞いてみなくては分かりません。 今晩こちらにお泊まりになるのですよね。 少々お時間を戴けないでしょうか?」
途端に父が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「ううむ。 執事に話してみるが。 会わせてもらえるとは思えんな」
「お二人の様子を拝見する限り、うまく纏まりそうではありませんか」
「だからどうした。 ヴィジャヤン殿がダンホフに婿入りする訳ではない。 ユレイア様がヴィジャヤン夫人になるんだぞ。 ダンホフお抱え呪術師が挨拶に出向く必要がどこにある。
会えたとしても、石を身に付けていますかとか、どこでその石を手に入れたのでしょう、と聞けるか? 身に付けている石が一つとは限らんし、一つだとしてもその石の効用を知らずに身に付けている事も考えられる。
呪いは当家の秘中の秘。 代々のダンホフ公爵と執事、そしてお抱え呪術師しか知らない事を部外者に説明する事は出来ん。 なのに根掘り葉掘り呪術に関する質問をしたら、なぜそんな事を聞く、と疑念を抱かせるだろう。 最悪の場合、伯爵家だと思ってバカにしているのかと誤解され、せっかく纏まりそうな話をぶち壊す事になるかもしれん」
「花に水をやっている下男が、ヴィジャヤン殿にお声を掛けて戴いた、と感動しておりました。 どうやら他にもお声を掛けて戴いた者がいる様子。 大変気さくな御方のようです」
「いくら当人は気さくでも、実父は宮廷内派閥の首領。 息子がダンホフのお抱え呪術師に妙な質問されたと知ったら黙っているものか。 姻戚にはヘルセス公爵やグゲン侯爵もいる。 ダンホフが理由もなくそんな質問をする訳がない事くらい、百も承知の御方ばかりだ。
六頭殺しは、その、ちょっと、あれだが。 執事はやり手で儀礼に関しても明るいらしいし、彼の部下にはマッギニスもいる。 なによりダンホフの呪術師がヴィジャヤンに難癖を付けた、と曲解されて皇王陛下のお耳に届いたら? 破談どころか私達の首が飛ぶ。 しかもそれだけでは済まないかもしれん。
旦那様とてヴィジャヤン殿御本人がユレイア様をどう思うかより、彼の周辺がダンホフとの縁組みをどう思うかの方をお気に掛けていらっしゃる。 だから格下の見合い相手を貴賓室にお泊めするのだろう。 普通の客室でも、部屋がお粗末だとか、ああだこうだの文句など言いそうもない御方なのに。
警備だって厳重だ。 物々しくならないよう、剣士を侍従や下男の中に潜り込ませているから目立たないが。 旦那様のお許しがない限り、そう簡単には近づけん」
「それなら侍従の中に潜り込ませて戴けないでしょうか? 邸内を御案内する役目とか。 掃除夫でもお風呂の湯担ぎでも構いません。
長く滞在なさるのならともかく、明日にはもうお帰りの御予定なのでしょう? 御結婚が決まったとしても式場はこちらの本邸ではないでしょうし。 後宮に出仕されてしまえば皇都のダンホフ別邸を訪れるくらいで、本邸を訪問なさる機会がそうあるとは思えません」
「確かに」
父と私は急いでトリステラ執事の元へ駆けつけ、事の次第を説明した。
「過去、同様な現象が記録された事はないのか?」
「口伝、文書、いずれもありません」
「マ二オンからの申し渡しの中にも?」
「それらしきものは。 当家に限定しなければ何か見つかる可能性は否定致しませんが。 それをどうやって見つけるか。 藁の山に落ちた針一本を探すようなものと申せましょう。 今、目前に現れた好機を逃しては大きな悔いを残す事になると存じます」
トリステラ執事はすぐさま旦那様の執務室へ向かい、いくらも経たずに戻って来た。
「旦那様がお会いになる」
執務室へ通されると同時に旦那様がお訊ねになった。
「呪いが消えたとは真か」
「間違いございません。 ヴィジャヤン殿に触れた呪いは消滅しております」
「では、ヴィジャヤンが邸内を歩き回れば全て消滅する?」
「残念ながら現在呪いは敷地内に充満しておりまして。 廊下を浄化するのでさえ何度も往復して戴かなくてはなりません。 一ヶ月や二ヶ月で歩き終わる距離ではないと存じます。 それに大元の紅赤石がそのままなので、仮に邸内を隈なく歩いて戴いたとしても呪いは再び蓄積されるでしょう」
旦那様が眉間に皺を寄せて立ち上がり、執務室の中を歩き回り始めた。
「私が見る限り、到着後ヴィジャヤンの様子に変化はない。 それで間違いないか?」
「はい。 お疲れだとしても、それは呪いの消滅とは無関係かと存じます」
「たとえ一時しのぎであろうと邸内を歩いてもらいたいが。 常ならぬ頼み事をして疑惑を招き、家の恥を晒す事態は避けねばならん。 ヴィジャヤンに無関係な呪いとは言え、呪われた家から嫁を貰いたい男などいる訳がない。 これが破談になったら、あの世で御先祖様にどれだけ恨まれる事か。 先代に嫌みを言われる場面を想像しただけで身の毛がよだつ。
それにしても単なる瑞兆の血縁と思っていたら、このような異能を持つ男だったとは。 危うく三男で犯した同じ間違いを繰り返す所であった。 リューネハラに攫われてはならん。
トリステラ。 挙式は一年後とする。 いや、半年後だ。 ダンホフの総力をあげ、実現させるのだ。 よいな」
「御意」
「ワジルカ、この件に関する調査は式が終わるまで待て」
すると父が珍しく食い下がった。
「旦那様の御懸念は御尤もながら、なぜ消えたのか、僅かでも解明への手掛かりが欲しいのです。 直接お伺いする事は無理としても、侍従の一人としてヴィジャヤン殿を観察させて戴けないでしょうか?」
旦那様は時に非情な御方として知られている。 特に言う事を聞かない奉公人には。 呪術師であろうと例外ではない。 普段の父らしからぬ無謀とも言える振る舞いに、内心恐れおののいた。 旦那様の御勘気を被るのではないか?
「トリステラ。 ヴィジャヤンの世話をする侍従は何人用意した?」
「三十名用意致しましたが、ヴィジャヤン殿はお連れになった侍従二人で間に合うと御遠慮なさいまして。 お手伝いしようにもお荷物は小さな旅行鞄一つ。 なんでもお着替えを御自分でなさるのだとか。 お呼びがあれば即座に対応が可能なように常時五名を廊下で待機させておりますが。 今の所お声が掛かった者はおりません」
「遠慮したかに見えるが、こちらに探られるのが嫌で断ったのだろう。 どれ程人が良さそうに見えた所で、忌々しい程先見の明がある男の息子なのだからな。 尤もそれを言ったら六頭殺しもあやつの息子な訳だが。
ふん、嫌なものを思い出してしまった。 あの、サダでーす、が今やこのダンホフの格上とは。 中身がバカな者ならいくらでもいるが、外見を取り繕う位はするもの。 それさえしない。 中身と外見に一ミリのずれもない正真正銘のバカ。 と侮っていたら、この様だ。
トリステラ。 バカ程恐ろしいものはない、と家訓に付け加えておけ」
「畏まりました」
「ともかく、そういう事なら晩餐の予定を変更する。 家族を食堂に呼んで紹介したら邸内を歩き回る理由に困る。 皆を東西南の館に散らばって待たせておけ。 家族を紹介するという名目で邸内を案内するのだ。 客を何時間も歩き回らせる訳にはいかんが、一時間程度なら許容範囲であろう。
ルガ。 トリステラに侍従として同行する事を許す。 但し、余計な事は一切聞くな。
ワジルカは顔を出してはならん。 ヴィジャヤンは侍従を二人連れて来た。 一人はチョアテといって、表向きは医者だが腕利きの諜報員だ。 ダンホフ奉公人全員の顔を知っているとは思わんが、お抱え呪術師の顔なら知っていよう」
そこで父が進言した。
「呪いが一番強く蓄積しているのは紅赤石を格納している北館地下です。 お客様を地下へ連れて行く訳にはまいりませんが、限られた時間でより多くの呪いを消滅するには北館を歩いて戴くのが最善かと存じます」
「む。 あそこは普段誰も住んでいない。 誰がどこに住んでいるかは知られていなくても誰も住んでいない一角である事は知られているのではないか? そんな所になぜわざわざ連れて行く、と思われるだろう」
するとトリステラ執事がおっしゃる。
「旦那様。 ユレイア様の肖像画を北館の一階廊下に飾っては如何でございましょう? 油絵でしたら合計六十二枚。 その他スケッチや彫刻もございます。 生後三ヶ月からユレイア様の御成長の軌跡を御覧になりませんかとお誘いすれば、是非とおっしゃって戴けるのではないでしょうか。 また、本日不在の御家族の肖像画を二階に、ユレイア様の母方親族の肖像画を三階に飾れば、御案内する理由になるかと存じます」
「おお。 それは妙案」
「ではそのように。 お夕食は旦那様、奥様、ヴィジャヤン殿、ユレイア様の四名様という事でよろしいですか?」
「夜はヴィジャヤンとユレイアの二人だけにしろ。 その方が気楽で羽目を外し易かろう。 美酒を好きなだけ飲ませるのだ。 ところで、食事中の余興はどうした?」
「歌手二名、舞姫十名、楽師三十名に舞楽を提供させる予定でおります」
「眉目良き女を揃えよ。 気に入った女がいれば誰でも夜伽に呼んでよいとヴィジャヤンに耳打ちしろ。 愛人もダンホフから選んでくれたら有り難い。 まあ、代々堅物揃いで知られた家だ。 大した成果は期待出来んが。 どの家にも変わり種の一人や二人、いるもの。
呼ばれたのがユレイアであっても断るな。 式を早める良い口実となる。 気取っている場合ではない事はユレイアの侍女、いや、奉公人全員に伝達しておけ」
娘を愛する父親の言葉とは思えない。 こうなったのも私があの消滅を知らせたせいだと思うとユレイア様に申し訳なかった。 だが呪術師の役目は主家を呪いの攻撃から守る事。 あれを見ておきながら見なかった振りをする事は出来ない。 呪いを根絶する千載一遇の機会かもしれないのだから。
ただ個人的には、あの呪いがあったからダンホフ家は金融界を牛耳る事になったのでは、と思わないでもない。 代々最も金儲けの才ある者が正嫡子長男とは限らないだろう。 そうではない確率の方が高いのではないか? とは言え、正嫡子長男が最も金儲けの才ある者であった場合、この呪いのせいで爵位を継げない。 それが問題だ。
現に旦那様の御子息の中で一番金儲けの才があるのはお亡くなりになった正妻がお産みになった御長男、ロジューラ様と噂されている。 この呪いが消えない限り庶子の誰かに殺される運命だったが、なぜか分家を御希望なさり、爵位競争から早々に脱落なさったおかげでその悲運は次の正嫡子、現在の正妻がお産みになったナジューラ様へと移ったが。
分家が自らの命を救う選択であるとロジューラ様が御存知だったはずはない。 もしかしたらロジューラ様の命を救う為、旦那様が裏工作なさった? 表向きはどなたも平等に扱っていらっしゃるが。 御贔屓はあり、それはロジューラ様、という噂なら聞いた事がある。 次男のナジューラ様は金儲けより船に興味がおありなのだとか。 或いは金儲けの才を比較し、次男を長男の身代わりにしたのか?
そうだとしたらその冷血な御判断にぞっとしないでもないが、旦那様のお胸の内など私に計れる訳もない。 私の仕事は呪いの消滅。 そのためには目前の謎を解明する事だ。
ヴィジャヤン殿が付けた小道を歩くと、足元の軽さに我知らず胸が高鳴る。 厄災の終焉を夢見る程楽観的にはなれなくても、これが嘗てなかった前進である事には変わりない。 当家にとってヴィジャヤン殿こそ瑞兆。
全ての事情を説明し、御協力戴けたら早期解決に繋がるとは思うが、今の段階でこちらの手の内を明かしたくない旦那様のお気持ちも分かる。 いくら娘の夫になる人であろうと、こちらの思いのままになるとは限らない。
ダンホフを跪かせるに足る異能が自分にあると知ったら、どんなお人好しでも無条件で協力などしないだろう。 あらゆる条件を呑む覚悟がこちらにあろうとも、この世には金で購えぬものもある。 それを所望されたらどうにも出来ない。
今回、皇王族並の歓待を受けている事は既にお気付きのはず。 果たしてヴィジャヤン殿はこの歓待を逆手に取り、無理難題を吹っかけて来るような御方だろうか?
今の所傲慢な振る舞いがあったとは聞いていないが、臆した様子も見せていらっしゃらない。 有名人である弟や実力者である父をことさら誇る訳でもなく。 無爵の医師である自らを卑下する訳でもなく。 ナジューラ様を始めとする公爵家の皆様に端麗な儀礼と温かい微笑みで御挨拶なさり、ユレイア様の御幼少の絵画を熱心に御覧になっていらした。
夕食の席では妖艶な美女が扇情的な衣装で舞い歌った。 執事から耳打ちされているのだし、全員は呼ばないまでも一人か二人にはお声を掛けるかと思ったが、舞楽が終わると全員を微笑みで労い、下がらせた。
酒は食前酒を一杯。 空になったグラスを満たそうとした給仕をお止めになり、他の酒を勧められてもお断りになる。 客として当然の礼節ではあるが、上級貴族であっても美酒や美女の誘惑に負ける御方は多い。 最初は節度ある御方でも、御遠慮なくと耳打ちされれば、これ幸いとばかりに狼藉に及ぶ事もない話ではない。 狙いはユレイア様お一人か、と気遣われたが、それに類する事は一切無く、胸を撫で下ろした。
お二人の会話を漏れ聞く限り、ヴィジャヤン殿は雄弁な御方ではない。 だが寡黙な訳でもなく、ユレイア様の趣味等をお訊ねになり、御自分に趣味と言えるものは特にないが散策を好まれる事等をお話しになっていらした。
女慣れしていそうには見えなかったが、美女の流し目に囲まれても硬くなっている様子はない。 お食事の後、ユレイア様をお部屋までお見送りになられ、別れ際にユレイア様の手の甲へ口付けなさった。
「次にお会いする機会が待ち遠しい」
短くも熱い。 そのお言葉に込められた情熱を感じ取られたか、ユレイア様が頬を染められる。 しかしさすがは皇国の名花と言うべきか。
「お待ちになる必要がございまして?」
今まさに綻ばんとする微笑み。 ドアがゆっくりと、実にゆっくりと閉じられる。
ヴィジャヤン殿のお手が僅かに動いたが、すぐ後ろに控えていたチョアテがハンカチで口を覆い、軽く咳払いした。 ヴィジャヤン殿は何もおっしゃらず、自室へと向かわれた。
今回のお見合いが家同士の思惑の絡み合いである事は、お二人とも御承知のはず。 そうではあってもこのお二方なら愛を育む術を見出されるのではないか? それを願うのは呪いの完全消滅を願うより儚い夢なのかもしれないが。
ヴィジャヤン殿のお部屋の前でトリステラ執事が私の隣にいた侍従に目配せした。 侍従が進み出て精巧な細工の宝石箱をヴィジャヤン殿に捧げる。
「此の度は遠路遥々当家を御訪問下さいまして誠にありがとうございます。 細やかではございますが、こちらは主よりの手土産。 どうぞお気軽にお使い下さいませ」
「お心遣い、忝い。 ですが、私は普段宝石の類を身に付けません。 此の度の歓待には深く感謝しており、そのうえ高価な贈り物を頂戴しては余りに心苦しい。 どうかダンホフ公爵へよしなにお伝え下さい」
私は呪術の波動を感じる事が出来る。 ヴィジャヤン殿に近づいてもそのような波動は全く感じられなかったから、少なくとも呪術が掛かっている石や貴金属類を身に付けていらっしゃらない事は確かだ。 着替えを見る機会はなかったが、翌朝掃除夫に付いて行き、湯船から澱みが消えている事を確認した。 宝石を身に付けないというお言葉を信じるなら、この消滅は呪術が掛かった石の力によるものではない事になる。
ヴィジャヤン殿は予定通り、翌日昼前に御出発なさった。 旦那様が式の日取りや結納の御希望をお訊ねになったが、詳しくは又日を改めまして、とお返事になり、先走るような真似はなさらない。 節度と思慮のある御方と思う。 異能がなければ他の貴族と比べて抜きん出ているとは言い難いが、ユレイア様の御結婚相手として申し分ない。
それは分かったが、なぜあの御方には呪いを消滅させる事が出来るのか。 言葉を代えるなら、なぜ私を含めた他の誰にも出来ないのか。 何より一番肝心な、どうしたら出来るようになるのか。 結局分からないままだ。
まるで破呪が人となり、歩いているかのような。 そんな荒唐無稽な考えが頭の隅で蠢く。
まさか破呪とは術ではなく、それが掛けられた石でもなく。 人、なのか?
バカな。 だが私が見たのはそうとしか言えない現象だ。
シェベール先生が御存命なら何とおっしゃっただろう。 そして、タイマーザ先生なら?