童歌 神学生、メリ・テーリオの話
「天の気はいずれこの者へと譲りたく存じます」
スティバル祭祀長は落ち着き払って陛下へ奏上なさった。 まるで今日のお天気の話であるかのように。 私の聞き間違いとは思わない。 確かに「天の気」とおっしゃった。
しかし「この者へ」とは? 陛下は侍従と書記は勿論の事、警備兵さえお人払いなさった。 今この執務室には陛下とスティバル祭祀長、そして私の三人しかいない。
つまり私がスティバル祭祀長の跡を継ぐ? 神官どころか神官見習でもない、ただの神学生で、なぜこの部屋に呼ばれたのかさえ分からずにいる私が?
恐れと衝撃で我れ知らず体が震えた。 必死で抑えたが、袂が微かに揺れている。 玉座まで十歩もないし、スティバル祭祀長は私の右手、斜め前にお立ちになっているから背後に隠れる事は出来ない。 御不興を買うのでは、と気が気ではなかったが、陛下のお応えにお咎めらしき響きはなく。
「ほう。 遂にそなたの後継が現れたか。 それは目出度い。 慶事とは続くものよ」
覇気が漲ったお声でいらっしゃる。 陛下の御年を考えれば男盛り。 驚く方が間違っているのかもしれないが、去年の祭祀庁新年式ではこのような力強さは全く感じられなかった。 感情の籠らない平坦なお声で、お加減が優れないのでは、と気遣った程。 ただ先代陛下のお声もそうであったから、自らの喜怒哀楽を臣下に悟らせまいと故意になさっているのだろうと思っていた。
今日のお声からは覇気とお喜びが感じられる。 お喜びは私の希望的な観察と思うが、お気に染まない指名なら慶事とはおっしゃるまい。 だがお言葉を額面通りに受け取ってもよいのか?
仮に御本心からお喜びなのだとしてもこの指名は周囲の皆様から相当な反感を買うに違いない。 高貴の生まれでもなければ星読みの能力がある訳でもない者がなぜ選ばれた、と。 自分でもそう思うくらいなのだから。
神学生としてさえ可もなく不可もなく。 学績優秀な訳でも、過去に賞を戴いたとか、このような晴れがましい指名に繋がるような何かをした覚えもない。 陛下とスティバル祭祀長に直々のお目通りをしたのは今日が初めてだ。
二十数年前に北へ赴任されて以来、滅多に皇都へお戻りにならなかった祭祀長と、神域から一歩も出た事のない神学生との間に接点などあろうはずもなく、お手紙を頂戴した事さえ一度もない。 又、私は父によく似ているから、止ん事無き筋の隠し子でもないだろう。
陛下にとって祭祀長は分身。 分身の選択に異議を唱えないのは当然としても、分からないのはスティバル祭祀長が私を選んだ理由だ。 どこの馬の骨とも知れぬ者に天の気を譲るだなんて正気の沙汰ではない。
もしや私を傀儡としてお使いになりたい? 本物の祭祀長を表舞台に出したくない事情があり、影武者が必要とか? それなら側付きとして飼い殺しにしておけばよいだけの事では? 儀式の際、定められた席に定められた服を着た私が座っていれば体裁はつく。 このような奏上をする必要などないと思うのだが。
無益な自問自答を繰り返すよりスティバル祭祀長にお伺いしたい。 せめてお顔を窺えたら何らかの手掛かりが見つかるのではと思うが、平伏している状態では無理な話だ。 それに私のような粗忽者ではお顔を拝見した所でお気持ちを忖度出来るかどうか。
現に、つい一時間前、手が届く距離でスティバル祭祀長のお顔を拝見している。 その時次に何が待ち受けているかを暗示するものは何も浮かんでいなかった。 お召しがあり、出向いたら付いて来るようにと命じられ、どちらへ向かわれているのかも知らず付いて来た結果がこれだ。
この予知能力のなさ。 我ながら情けない。 これでも歴史に名を残した星読み、メタ・テーリオの直系子孫なのに。 十年後の未来を的確に予測したと伝えられる御先祖様のようになりたいとまでは言わない。 今日、何が起こるのかだけでいいから知りたかった。
時々意味の分からない白昼夢を見た事ならある。 それが現実となってくれたら予知能力の片鱗があった事になるが、今の所一度も実現した事はない。 もっとも予知能力がなかろうと、スティバル祭祀長からのお召しがあった時点で何かとんでもない事が起こると予想すべきだった。
校長先生や下級神官ならまだしも、中級神官、上級神官、副祭祀を飛び越え、祭祀長直々のお呼び出しだなんて。 神学校創立以来、初めての天変地異と言ってもよい。 それを変とも思わず付いて行くだなんて予知能力のあるなし以前の問題だろう。 ここで自らの愚鈍を嘆いても始まらないが、アト・ジェリンの賢さが羨ましい。
ジェリンは私が好きな推理小説の主人公だ。 普段は神学生で一見不可解な事件を見事な推理で次々と解決する。 約四十年前に出版された推理小説だが、当時はシリーズになる程人気があり、版を重ねた。 神学生が華やかな存在だった時代に出版された小説だからかもしれない。
それも今は昔。 大きな声では言えないが、今では神学生と厄介者は同義語。 貴族の訳ありや殺すのは外聞が悪い子弟を厄介払いする為、神学校に入学させている。
そう思われても仕方がない。 最後に神官の採用が行われたのは二十五年前。 私が生まれる前の話なのだから。
今でも神学校に入学は出来るが、卒業した所で神官の新規採用がない以上、神官以外の職を探さねばならない。 職が見つからなければ生涯無職。 それは外聞が悪い為、ほとんどは研究生という名の神学生のまま居座る。
一定の年数が経てば神学校に教員として採用される道があるし、何年か学んだ後、実家に帰る、又は他家に奉公する、或いは祭祀庁に仕官する道もあるが、いずれも低給で妻子を養える程ではなく、まともな親なら娘の結婚相手に神学生を選んだりはしない。
祭祀庁は天への祈りを捧げたくて集まった者達が雨の日にも礼拝出来るよう建物を建てたのがその始まりなのだとか。 当初は衣食住こそ保証されていたが、神官及び職員は給金と呼ばれるものを頂戴していなかった。 昔の娯楽小説や風刺画には豪遊する神官や数多の愛人を囲う祭祀庁職員がよく登場するが、それは喜捨があったからだ。 別名、賄賂。 袖の下とも言う。
祭祀庁の最盛期、神官は一存で誰でも処罰出来る程の権威があった。 たとえ相手が上級貴族であろうと。 儀式中の不手際を天への冒涜と咎められ、一族連座で処刑された貴族もいたし、その当時儀式は小規模のものも含めるなら毎日のようにあり、連日貴族からの心づけが届いたようだ。
今では宝くじに当たったのでもない限り神官の豪遊などあり得ないが、私自身はそれを残念と思ってはいない。 清貧の中で暮らす神官こそ神官の本分だろう。 私の考えを聞きに来る物好きなどいないから誰にも話していないが。 それに貧乏が気にならないのは私の実家が裕福だからだ。 他人の懐具合を知っている訳でもないのに綺麗事を並べようとは思わない。
因みに私は子爵家の正嫡子で、両親が私の始末に困ったとか厄介払いしたかったから入学したのではない。 文官、武官、いずれの道にも興味がなく、本好きだったから神学校付属図書館の蔵書数に惹かれて入学したのだ。 訳ありではない正嫡子が神学生になる事は非常に珍しい。 そのうえ本好きとなると更に少ないから変わり者として皆から敬遠されている。
狭い世間しか知らない同級生に変わり者と呼ばれた所で気にはならない。 準大公を見るがいい。 変わり者とはあのような御方の事を言うのだ。 準大公と一度でも言葉を交わした事がある人なら私など常識の塊に見えるだろう。 これは又聞きや噂ではない。 自分の体験を元に言っている。
三日前の事だ。 私は図書館前のベンチに座って乗り合い馬車が来るのを待っていた。 すると準大公御一家がお通りになった。 その時準大公が薮から棒に、我が家の奉公人になってくれないか、とおっしゃったのだ。
改めて言うまでもないが、準大公と私は初対面。 血縁、姻戚、友人、知人、実家が近所のいずれでもない。 空を飛んでいらっしゃる所を見たという意味ではお目に掛かった事があるが、私と一緒に空を見上げていた神学生は辺りに何十人もいた。 私のように空を見上げた群衆なら私以外に何十万人といたであろう。 準大公がその一人一人を覚えていらっしゃるはずはない。
それでなくても準大公家なら奉公したい者がごまんといるはず。 奉公させてくれと応募した訳でもない通りすがりを、なぜいきなり雇おうとなさるのか? 気まぐれにも程があるだろう?
お誘い自体は宝くじに当たったも同然の幸運だから、人をバカにしているのですか、と文句を言ったりはしなかったが。 仮に気まぐれ、冗談でのお誘いだったとしても、準大公からお言葉を頂戴したと言うだけで、六頭殺しファンの私の両親は小躍りして喜び、神学校入学を阻止しなくて良かったと思うのではないか。 親戚は言うに及ばず、先生や同級生も初めて、私と知り合いでよかったと思うに違いない。
熱心に何度もお誘い下さったから冗談には見えなかったし、うんと言ってしまおうかと迷わなかった訳ではないが、高貴な御方には御自分の思い通りにならない事がよくある。
例えば陛下から神学生を雇うのは止めろと言われたら? それでも、いえ、雇います、と言い返せるか? そこまではいかないにしてもサリ様と同じ家に住む事になるのだから、子爵子弟では身分が低過ぎると皇王庁から待ったがかかる可能性もある。 準大公家執事は平民らしいが、ここで準大公が八歳の時から寝食を共にした子飼いを引き合いに出してもしょうがない。
何が原因で奉公の話が取り消されるか分からないが、何らかの妨害が入る事は予知能力のない私でも予想出来る。 準大公家に奉公すると親や世間に報告した後でなかった事にされたら、私が恥をかいただけで済むとは思えない。 かと言って子爵家が準大公家に抗議出来るものではないし、そんな事をした所で親戚諸共蹴散らされて終わりだ。
特に準大公には後先を考えないという嫌な噂がある。 全ての噂を鵜呑みにするつもりはないが、深謀熟慮の人がロックと空を飛んだり、海坊主の隣で泳いだりするか?
いずれにしても一族の命運が懸かっているのに下手な博打を打つような真似は出来ない。 そう思ったからお断りしたのだ。 ただ断るにはあまりにも勿体ないお話で、なぜ断ったとか、断り方が不適切とか、そういう類の叱責が後から来る事を覚悟していた。 それで祭祀長のお召しがあった時、てっきりその件と思い込んでしまった。
スティバル祭祀長が陛下に深々とお辞儀なさったらしく、衣擦れの音がした。
「長らく宸慮を煩わせたのは我が身の不徳の致す所。 お詫びの申し上げようもございません」
「其方が後継指名を躊躇したのも無理はない。 青い御方の出現は予想外の慶事。 湧き上る活力を感じながら、これもいつか醒める夢ではないのかという不安を消せぬ」
「蓋し、好事魔多しとやら。 過去の艱難を忘れて未来の安寧は築けぬもの。 慶事ばかりが続くはずもなく。 用心は当然のお気遣いと申せましょう。
さりながらこの指名は慶事があった故ではないのです。 この者の隠されていた能力を見出したのは準大公ですので間接的な関係がないとは申しませんが」
どうやら準大公繋がりという私の予想は一部ながら当たっていたようだ。 能力を見出された故とは思わなかったが。 隠されていた能力だなんて。 そんなものが私にあったか? 本人にも知られず存在する能力があるとしたら何だろう? 想像もつかない。
ともかく準大公は私が奉公を断ったのにも拘らず、祭祀長へ御推薦なさったようだ。 私が天の気を預かれば準大公の得になる事でもあるのだろうか?
ふと不安が過った。 準大公はよく名前を間違えたり、人違いなさるのだとか。 もしや誰かと人違いなさった? そうとは知らず、スティバル祭祀長が私を御指名なさったとしたら?
全身から血の気が引いて行くような気がした。 しかし陛下の御前で人違いでございます、と口に出す勇気はない。 たとえその間違いが自分のせいではないとしても。
私の懸念など陛下が知る由もなく。
「面を上げよ。 直答を許す。 其方の名は?」
「メリ・テーリオと申します」
「テーリオ? メタ・テーリオの末裔か?」
「不肖の末裔にて、星読みの能力はございません」
「それはあらまほしきものなれど、なくては人を導けぬという事でもなかろう。 良き師がそこにいる。 よく学び、励むように」
「勿体なきお言葉。 未熟ながら尊き御期待に添うべく、身命を尽くすでありましょう」
全力を振り絞り、何とか言葉を口から引きずり出した。 声の震えは隠せなかったが。
拙い奏上にも拘らず、陛下は満足気に頷かれた。 呼び鈴で外に待機していた侍従をお呼びになる。
「次に会える日を楽しみにしようぞ」
そして御退席になった。 お見送り申し上げた後で長いため息が漏れる。 漏らした後で、まだ祭祀長の御前であると気付き、慌てて謝った。
「も、申し訳ございません。 不調法をお許し下さい」
「よい。 突然の指名に動転するのも無理はない。 そこにお掛け」
促されたので椅子に座り、テーブルに用意されてあった水を頂戴した。
「天の気を預かっているのは誰か、知っていたか?」
「はい。 正式な発表ではございませんが。 それは私に限った事でもないかと存じます」
微かに頷かれたが、それだけで何もおっしゃらない。
私から質問してもよいのだろうか? 神学生がお許しもないのに祭祀長に質問するとは放校されても仕方がない無礼だ。 遠慮なく質問せよとのお言葉があったとしても、それをおっしゃったのがネイゲフラン祭祀長だったら質問する気にはなれない。 毒薬の実験をするのに神学生を使っているというのは、先輩が後輩を怖がらせる為の作り話だと思うが。 ネイゲフラン祭祀長が毎日通っていらっしゃる実験室のある森は一匹の動物も見掛けない為、死の森と呼ばれている。
その点、スティバル祭祀長に関する暗い噂を耳にした事はない。 ほとんどの神学生が一度も拝見した事のない御方だが、物柔らかなお人柄と聞いているし、今日初めてお会いした私もそう感じた。
スティバル祭祀長を師と仰げるのなら有り難い。 だからと言って何を聞いても許されるという訳ではないだろう。 それにもしこの指名が人違いなら何も聞く必要はない。 人違いではないなら聞きたい事は山程あるが。
天の気とは、そも何か? その継承にはどのような意味があり、継承者は何をどう準備すべきなのか? 学ぶとしたら何を? 励むとしたらどこを?
それに陛下がおっしゃった「青い御方」とは誰の事だ?
五月蝿いと叱責される可能性はある。 その一方で、今聞いておかなければ一生後悔しそうな気もした。 北へお供する事になるのだろうが、いつでも質問が許されるとは限るまい。 私は覚悟を決めた。
「猊下。 なぜ私が選ばれたのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なぜ選ばれるはずがないと思うのか、まずそれを聞かせて欲しい」
「私は天の気の何たるかを知らず、それを継承する為に何が必要なのかを知りません」
「私以外にそれを知る者はいないのだから、その点に関してそなたとそなた以外の者の間に違いはない」
「祭祀長が采配せねばならない儀式は戴冠式を始めとして、皇太子殿下の立太子式、御成婚式等、数多ございます。 どれも介添えさえした事のない私が采配するのはあまりに畏れ多い。 今から修行した所で習得可能でしょうか?」
「儀式の詳細はこれから教える。 覚えておくに越した事はないが、段取りは副祭祀が中心となって遂行するので祭祀長が手順を覚えていなければ進行が滞る訳ではない。 この点に関しても其方と其方以外の者の間に大きな違いはないと言える」
「天の気を預かる祭祀長は全神官を指揮する御方。 年々減少しているとは言え、長年修行なさった神官の方々が三千人いらっしゃいます。 今年二十歳になったばかりの若輩者がこうせよと言った所で素直に従って下さるでしょうか?」
「若いからこそ可能な事もある。 他の祭祀長は私より年上故、其方が祭祀長に就任する前に全員退職する。 彼らを継ぐのは其方と同年代の者となろう。
私の直属神官は現在二十名いるが、皆其方が祭祀長となる前に退職する。 其方の直属は年下を選んで共に学ぶか、年上を選んで教えを乞うか。 其方が自由に選べばよい」
「有り難きお言葉ではございますが、若いという理由で私が選ばれたとも思えないのですが? 祭祀長となる者は十歳前後で選ばれ、祭祀長の下で二十年間修行する慣らいと聞き及んでおります。 猊下は神童の誉れ高く、八歳の時グリマヴィーン中央祭祀長よりお召しがあったとか。
恥ずかしながら私は学績優秀とは申せません。 神学校には私より若く優秀な神学生がいくらでもおります。 それでなくても中級と下級神官の中には猊下より年下で長年神事を司っている御方が何人もいらっしゃる。 その方々を差し置いて選ばれる程の何かが私にあるのでしょうか?
先ほど準大公に見出されたとおっしゃいましたが。 もしやどなたかと人違いなさっていらっしゃるのでは?」
「三日前、散歩中の準大公一家に会ったのは其方ではないのか?」
「確かに三日前、準大公御一家にお目に掛かっておりますが。 私以外にも誰かお目に掛かっているのではございませんか?」
「その時準大公の愛犬を抱き上げた?」
「はい。 大変人懐こい犬で。 私の膝の上に飛び乗ってきたのです」
「準大公の愛犬が獰猛であるという噂を聞いた事はなかったか?」
「ございます。 真に人の噂とは当てにならぬもの。 実際は非常に礼儀正しい、きちんと躾けられた犬でした。 私にまずお辞儀をし、初めまして、膝に乗ってもいいですか、と訊ねるかのように吠えたのです。 乗り合い馬車が中々現れず、凍えていたのですが、ケルパのおかげで体が芯まで温まり、風邪を引かずに済みました。 こちらからお礼を申し上げたい程ですのに、愛犬が私の膝に乗っているのを御覧になった準大公が大変恐縮なさいまして。 膝は大丈夫かと何度もお訊ねになるのです。
それでケルパを抱き上げ、辺りを歩いて大丈夫である事をお見せしました。 他には何もしておりません。 一体私のどこがよくて御推薦下さったのか、皆目見当が付かないのですが。 準大公は何とおっしゃったのでしょう?」
「準大公はな、せっかくケルパのお気に入りが見つかったのに奉公を断られた、と残念がっていた」
何と、犬に気に入られたのが理由?! 呆然としていると祭祀長がお訊ねになる。
「其方が断った理由は何か?」
この質問への答えは既に用意していた。
「学ぶべき事が多々ある身。 このまま出仕致しましては主家に迷惑を掛ける事にもなりましょう。 又、奉公すれば主に仕える事が第一となり、主より勉強を優先する事は許されません。 有り難きお言葉ではございましたが、不勉強のまま生涯を終えては悔いが残ると思いました」
窓の外から微かに歌声が聞こえて来た。 スティバル祭祀長が窓を少しお開けになる。 あの美声は準大公夫人に違いない。 窓から見下ろすと、準大公御一家が庭園の芝生に敷物を敷き、お座りになっている。 いいお天気に誘われたか。
空っぽの籠がいくつも置いてある所を見ると、外でお食事を召し上がったのだろう。 ケルパと猫又と噂される猫が思い思いに寝そべっていた。
この建物には陛下の執務室があるから敷地内にはお召しがあった者しか入れない。 と言う事は、陛下のお召しがあったのだろう。 皆様軽装で、礼服をお召しでないのは変だが。
辺りに控えているのが侍従、侍女、乳母らしき者と警備兵数名というのもおかしい。 準大公御夫妻だけならともかく、サリ様がいらっしゃるのに、あまりに手薄。 それともあの赤子はサリ様の影武者? それなら尚の事、本物らしく数十人の護衛兵を付けるべきでは?
準大公が何かおっしゃった。 すると警護の一人が準大公の頭をぺしっと叩いた。 ぎょっとしてよく見ると、北の猛虎だ。
「義兄とは言いながら、準大公の頭を叩くのは、少々、その、穏当を欠くのでは?」
「戯れているのだよ」
戯れている? 頭を叩く事が? スティバル祭祀長は少しも驚いていらっしゃらない。
もしや、北の風習? 何となくそう質問する事は憚れた。
それにしてもあの手薄な警備は不用心だろう? 北の猛虎なら一騎当千の強者で、ここなら大人数の警備は不要かもしれないが。 辺りに停めてある馬車は一台もないからこの一角は安全としても、神域にあるお住居まで徒歩だと二時間近く掛かるはず。 不用心が許される距離ではないと思うのだが。
準大公と猛虎は北にある神域の中で襲撃された事があったとか。 城内だから安全、神域だから大丈夫と言えない事は、私に言われるまでもなく御存知だろうに。
準大公に促されたか、夫人が再び歌い始めた。
手毬つきましょ 遊びましょ
ひい、ふう、みい
お嬢さんと、どじょうさん
よう、いい、むう
外して、ぽん ごめんで、ぽん
なな、やっ、こ、とう
明日も会いましょ そうしましょ
童歌に合わせ、サリ様が両手を動かし、踊り始めた。 御夫妻が拍手なさる。 思わず口に出してしまった。
「この光景をどこかで見たような?」
「然様か」
突拍子もない事を申し上げたにも拘らず、スティバル祭祀長は静かに頷かれた。 どういう意味かと聞かれてもいないのに説明するのも変だから黙っていたが、以前この情景を白昼夢で垣間見た事があった。
貴族が実父母に育てられる事は滅多にない。 それでこれが準大公御夫妻の子育ての一コマであると気付かなかった。 準大公に気付いたとしても踊る女の子がサリ様とは分からなかっただろう。 皇王族が実父母に養育されるはずはないと思っていたから。
その慣らいは遥か昔、陛下が実母を処刑せねばならぬ事になり、その時の懊悩が原因で崩御されたという故事から始まったのだとか。 いつ始まったしきたりなのか正確な年代は知らないが、数百年は続いているだろう。 それ程長く続いた慣例を皇王庁が変える事はまずない。
サリ様の乳母の勤続が決まったという噂を聞いたから、これからは古い慣習でも変えられる事があるのかもしれないが。 他は変えられたとしても、この慣らいだけは簡単に変えられないような気がする。 準大公と雖も臣下である事に変わりはない。 愛着の情を抱いている者を罰せねばならない時が来たら、処刑する方の苦しみはいかばかりか。
そのような事態にはならない事を祈るが、なるかもしれないと皇王庁が憂慮したとしても間違いとは言えまい。 それでも準大公が養育権を手放そうとなさらなかったら、陛下の安寧を脅かす、引いては皇王庁への挑戦と受け取られるのではないか?
「実父母の元での養育は許されていないと存じますが。 よろしいのでしょうか?」
「前例なき事ではある。 しかしそれを禁じている法はない。 私は実父母から養育権を剥奪するのは望ましくないと考えている」
「陛下も同じお考えなのでしょうか?」
「うむ」
「理由をお伺いしてもよろしいですか?」
突然調子外れの童歌が聞こえて来た。
あーそびましょ あそびましょ
ひっ ふっ みっ
どじょうさんと、どじょうさん
よっ いっ むっ
ごめんで、ぽぽん、ぽんぽん
なっ やっ とっ
あっちゃいましょましょ あっちゃっちゃっ
準大公だ。 踊りながら歌っていらっしゃるせいか、曲が合っていない。 歌詞も微妙に違う。 どうやらそれがお気に召さなかったようで。 サリ様が敷物の上に転がり、手足をバタバタさせておむずかりになる。
「だぁだぁ! ちゃうっ! ちゃうのぉ! わぁぁっ! うわぁーんっ!!」
あの小さなお体から発せられたとは思えない大きな泣き声だ。 庭に面した窓が次々と開いていく。
部屋の外から警備兵が廊下を走る音がした。 この建物の中で走る事は厳禁のはずだが。 火事と革命を除いては。
廊下の騒ぎがお耳に届いていないはずはないのに、スティバル祭祀長は近衛兵をお召しになるでもなく、微笑んでいらっしゃる。
「さすがは名立たる歌姫の愛娘よの。 城外にも届けと言わんばかり」
夫人がサリ様をお抱きになり、あやされる。
ねーん ねんねん ねんころり
雪が降る降る 雪が降る
こりすも うさぎも ねんねなの
くーくー くーくー おねむなの
ねーん ねんねん ねんころり
すぐに泣き声がやんだ。 そそくさと荷物を纏められ、準大公御一家がお帰りになる。 目を見張るような早足で。 他の皆様はともかく、夫人は身籠っていらっしゃるのではなかったか?
一足遅れで庭に駆けつけた兵士が追跡を諦め、静寂が戻った。
御一家の立ち去られた方角を眺めながらスティバル祭祀長が愛くしむかのように呟く。
「あれこそ『北の聖家族』」
聖家族とは建国の英雄、ダー・トムジックの家族を指す。 トムジック自身が玉座につく事はなかったが、彼の娘が初代皇王に嫁ぎ、第二代皇王を養育し、建国を影から支えたと言い伝えられる。
トムジック家が聖家族として奉られるようになったのは祭祀庁御宣託によるものではない。 トムジック家を描いた絵画や彫刻の前で人々が感謝と祈りの言葉を捧げるようになり、いつしか聖家族と呼び慣らわされるようになったのだ。
聖家族は我が国の礎にして繁栄の始まり。 その再来とは天が我らを見捨ててはいないという啓示。 スティバル祭祀長のお言葉に、思わず目を閉じ、感謝と祈りの言葉を天に捧げた。
すると脳裏に前後の脈絡のない光景がいくつも現れては消えていった。 束の間の煌めきで意味は掴めなかったものの、その中に準大公御夫妻と二人のお子様がいらした。
サリ様と、弟君?
「猊下。 情景が、今」
消え去る前に慌てて説明しようとしたら、スティバル祭祀長が人差し指をお口元に立て、言葉は不要とお示しになった。
その一週間後、スティバル祭祀長は北へ戻られた。 荷造りしたいのなら後から来ればよいと言われたが、ここに残ったらネイゲフラン祭祀長に何をされるか分かったものではない。 本に未練はあったが、あちらで調達する道を探す事にして一緒に出発させて戴いた。
後二、三日で第一駐屯地という所まで来ると突然準大公がおっしゃる。
「あの、もうすぐ吹雪になるので、それじゃ凍えてしまいますよ。 俺のお古でもいいならあげますから」
押し付けるように、コート、ブーツ、帽子、手袋、首巻き、シャツ、ズボン、下履きから靴下の果てまで下さった。 皇都の冬なら凌げる程度の防寒着しか身に付けていなかったから、それらがなかったら凍死していたに違いない。 このような細やかなお心遣いが出来る御方だったとは。
それになぜ吹雪になると分かったのか? 随行していた北軍兵士に聞いてみた所、準大公程正確にお天気が予測出来る人は他にいらっしゃらないのだとか。 弓の名手で変人としか思っていなかったが、どうやら私はこの御方のほんの一部分しか見ていなかったようだ。
忙しさは容赦なく日々を奪い去る。 そして春を迎え、夏が過ぎ。
私が見た情景は記憶に埋もれ、次第に輪郭を失っていった。 あどけないお声でサリ様が弟君に歌っていらした童歌の一節を除いて。
明日も会いましょ そうしましょ
「揺籃」の章、終わります。