波動 テイソーザ皇王庁長官の話
セジャーナ皇太子殿下とレイエース皇弟殿下の実父が私であるという噂は故意に流した。 なぜそんな噂を流したかと言えば、そのような噂があれば隠したい事実を誤摩化しやすいからだ。
では隠したい事実とは何か。 それはハレスタード陛下は私と私の正妻、アミの実子であるという事。 テジャータ先代皇王妃陛下がお生みになった男子はセジャーナ皇太子殿下だけで、レイエース皇弟殿下はエスクヴェル先代陛下の庶子だ。
表沙汰にこそされていないが、新生児の交換は貴族もしている。 爵位が上がれば上がる程、第一子は必ず男子である事を見ても分かるだろう。 公爵以下なら女性も爵位を継ぐ事が許されているとは言え、領地経営や私兵の指揮を女性に任せる事を躊躇し、正嫡女子を愛人や親戚の男子と交換する親の方が多い。
ダンホフのように正嫡子と庶子に均等な機会を与える家であっても女子に継がせた例はない。 ヘルセスは第一子が女子でも交換しなかったが、それは娘を一人、サジアーナ王家へ嫁がせるという約束をしていたからだ。 カイザーでは男子を女子と交換したようだが、誕生と同時にヴィジャヤン伯爵家長男との婚約を成立させた手際を見ると、姻戚関係になりたくてした事なのだろう。
エスクヴェル先代陛下は先々代陛下唯一の正嫡男子であらせられる。 庶子に皇王位継承権はないし、後宮内の新生児死亡率を考えると、皇王子殿下が十人お生まれになったとしても多過ぎるという事はない。
テジャータ先代皇王妃陛下のお生みになったお子様が全員皇王女殿下であれば私が次の皇王となり、私に正嫡男子が生まれたらその子が皇王位を継ぐ事になる。 慣例に従えばそうなるが、継承権があれば誰が継いでも構わないというものではない。
先々代陛下の従兄弟は私の他にもいる。 国内在住というだけの理由で私が戴冠したら国外に住む従兄弟達が黙ってはいまい。 生まれる殿下が全て女性と決まった訳でもないのに第一子から交換するのは性急に見えるが、皇王子殿下御生誕は円滑な皇王位の継承を予想させ、周囲を安堵させる効果があるから早ければ早い程よい。 諸外国に内政干渉の口実を与えない為にも第一子は男子と決められていた。
アミが生んだ子も女子だったら陛下の庶子と交換するしかないが、幸い長男だった。 陛下の第一子が男子なら交換の必要はない訳だが、私の長男は陛下の第一子の三日前に生まれており、交換せねばならない時の為に女子と発表した。
同様の交換はエスクヴェル先代陛下の第二子にもするつもりでいたから次女出産と発表した。 交換する必要がなかった為、次男のエリュは私の愛人が生んだ女子と交換し、愛人の実家であるオベルテ侯爵家の養子として育てた。 アミが生んだ第三子は女子だったので、先代陛下の第三子は妾妃が生んだ男子と交換された。
真実を証言出来るのは子供を取り上げた御典医、エスクヴェル先代陛下、グリマヴィーン中央祭祀長と私だけだ。 アミに交換の詳細は知らせていない。 けれど賢い彼女の事。 真相に気付いているだろう。 それ故何も聞いて来ないのだ。 そもそも大公家に嫁ぐからには私達の子が皇王家存続の為に使われる事くらい覚悟しておいてもらわねば困る。
出生に関する疑惑は皇王位の権威の弱体化に繋がるから全力で回避せねばならない。 だからと言って出産に携わった者全員を殺したら隠すべき何かがあると叫んでいるも同然。 新生児の世話は口止めなどしなくとも迂闊に漏らさないと信頼出来る者だけにさせている。
ただ当事者は漏らさなくとも人は小さな状況証拠を繋ぎ合わせて真実を探り出すもの。 何の噂もないより、尤もらしい噂を流していた方が詮索されずに済む。 それに大公家正嫡子なら血縁で、世間は皇王族の延長と捉えている。 実際そのような交換がされていたとしても国内の貴族で問題視する者はいない。
テジャータ先代皇王妃陛下は出産直後に鎮痛剤を投薬され、お目覚めになってから皇王子殿下をお抱きになった。 交換にお気付きかどうか定かではないが、御存知であったとしても反対はなさらなかったであろう。 交換しなければ第二子が皇王子殿下であった場合、二十代で戴冠なさる事になる。 戴冠が遅ければ遅い程、瘴気の蓄積も緩やかだ。 二十代での戴冠は即ち早世を意味するのだから。
過去の記録をどれだけ掘り返そうと、瘴気が蓄積する原因、予防や治療法、有効な薬、いずれも見つかっていない。 どの陛下の在位期間も十数年で終わっているという事実だけで御納得戴くのは難しいかもしれないが、瘴気の弊害は先々代陛下にも現れていた。 いずれエスクヴェル先代陛下にも現れる。
皮肉な事に、ハレスタード陛下には御幼少の頃から皇国の未来を見据えるお心構えがあった。 対してセジャーナ皇太子殿下の御関心は主に音楽へと注がれており、政治外交、軍事増強、産業興振に興味を示された事は一度もない。 決して覚えが悪い訳ではないのだが、義務として学習なさり、授業終了を今か今かとお待ちになっていらっしゃる。 どちらが施政者として相応しいか言うまでもない。
お二人が御成長なさるにつれ、エスクヴェル先代陛下の苦悩は深まった。 ハレスタード陛下の在位が長い方が望ましい。 先代陛下はハレスタード殿下が皇太子になる前、セジャーナ殿下を先に皇太子とする方法があるかどうか、御下問になった事があった。
「残念ながら、それにはハレスタード殿下を廃嫡する以外に手段はございません」
「廃嫡された皇王族は幽閉されて一生を終えるのではなかったか?」
「幽閉を解かれた前例はないと存じます。 幽閉を解くだけでも困難が予想され、その後で皇太子に据えるとなると、内乱のような流血惨事を起こさない限り実現しないでしょう。 廃嫡された皇王族に兵力を貸す物好きがいるとは思えません」
その場合、まずセジャーナ殿下が戴冠し、レイエース殿下が皇太子殿下となる。 そしてセジャーナ陛下が早世し、レイエース殿下が次の皇王陛下となるだろう。
先代陛下が深いため息と共に呟かれる。
「レイエースか」
「温厚なお人柄でいらっしゃいます」
「あれは自分の考えというものを持っておらぬ。 誰にでもそうかと言い、その進言に従う。 つまり最後に進言した者の勝ち。 臣下の進言に耳を傾けるべきとは言っても程度問題じゃ」
そして最後に進言する者が常に筆頭侍従ソマンデパリであるのは偶然ではない。 レイエース殿下が皇太子殿下になればソマンデパリが影の執政者となるか、そうなるべくセジャーナ陛下の早期譲位を画策するだろう。
セジャーナ陛下にとって在位期間は短ければ短い程よいのだから、そのような画策は渡りに船。 陛下の御健康が続く限り在位するのは暗黙の了解というか、古来からのしきたりだが、最終的には陛下の御決断により決定されるもの。 譲位が告示されてしまえば誰にも覆せない。
レイエース殿下もまだお若い内に戴冠となった場合、御代が何年続くか。 最悪、数年での退位もあり得る。 たとえ皇王子殿下が何人いらっしゃろうと、それ以降の戴冠は御幼少の殿下ばかりとなるだろう。 そうなっては国外の遠縁を掻き集めたとしてもお血筋が絶えるのは時間の問題。 そして政治の実権を握るのは幼い陛下の侍従長、でなければ宰相か近衛将軍となろう。
どちらを選択したとしても暗澹たる未来。 いずれを選ぶべきか決めかねている内にハレスタード殿下は皇太子殿下となり、瑞鳥飛来と共に戴冠なさった。 一連の儀式を終えた先代陛下の瞳に喜びや安堵はなく、ただ深い諦念が浮かんでいた。
「テイソーザ。 皇王位は相応しき者に継がせよ。 血に拘るな。 この重荷、其方だけに負わせる事を許せ」
「先代陛下の御信頼を頂戴する事、身に余る光栄にて。 どれ程の重荷であろうと喜んで担いましょう」
自分の言葉の白々しさに内心ため息が漏れたが、このような場面で私に何が出来ましょうと奏上する訳にもいかない。 先代陛下にした所で多くを御期待なさっていた訳ではないと思うが。
当代陛下であろうと、こうしたいとおっしゃった事が簡単に実現する世界ではないのだ。 些細な変更であってもそれを変えるには関連したあれこれを変えねばならず、大事になる。 それを熟知していらっしゃるからだろう。 城内に住む皇王族子弟には総じて物事を変えようとする気力がない。 幼い頃よりやってはいけないとばかり言われて育つからか、成人する頃には自ら何かをやり遂げようとする気力を失っているのだ。
自分もそのような無気力状態に陥っていると自覚した事はなかったが。 握手をした時、一瞬青い光に包まれ、緩やかながら紛れもない波動が伝わった。 私の奥深くに眠る覇気を揺り起こすかのように。
古の詩、「青き宝玉」の一節にある。
ラセア キャルレ ラバイ (輝けよ、青き宝玉)
フクア ラッサレ ノタイ (生まれよ、永久の波動)
セレア ディアレ マヤイ (選ばれし者の命の限り)
なぜ皇王族は選ばれなかったのか。 失望はある。 けれど波動を手中にするずっと以前から準大公には数々の驚くべき能力があった。 ギラムシオとして尊崇を集めている事。 破呪。 青竜騎士の再来という噂。 これらはいずれも神にも擬せられる能力。 その中のただ一つでも持ち合わせている者は我々一族の中にはいない。
あの準大公が、と信じられない気持ちはある。 それは私に限った事でもないだろう。 普通に準大公に会って感銘を受ける人がいるとは思えない。 空から手を振られても、初対面の時の礼儀知らずという印象が強過ぎて、優秀や非凡と結びつける事は出来なかった。 外見に騙されたと言っては言い過ぎだし、本人が自慢しないせいにする訳にもいかないが、弓の名手である事さえつい忘れそうになる。
それでも彼だからこそ青き御使いに会え、宝玉が拝受出来たのだ。 これに関して議論の余地はない。
極寒の中、半裸の青い肌の小人を見たのが私だったら恐れ戦き、足が動かなかった。 そのような此の世のものとは思えぬ存在を目にして、自ら助けに行こうと考える思考形態が私には理解出来ない。 護衛兵に確認せよと命じれば済む話だろうに。
宝玉も道端に転がる石を拾うかのように手にしたらしい。 なぜ呪いがかかっているのでは、と疑わないのか? たとえ破呪の能力があろうと、それが効かない呪いがあるかも、と。
握手にしても、あれほどの気流、普通の者なら腕が千切られるような痛みを感じるはず、とボルチョックは言っていた。 なのに準大公は一瞬の躊躇もなく私と握手し、痛みを感じている様子など少しも見せなかった。
まさか、あの鈍感こそが非凡の証拠?
本人さえ知らぬ内に変革は始まっていたのかもしれない。 準大公が初めてベルドケンプ島に上陸した時、既に。
私にとってこれは全くの計算外。 傍目にはハレスタード陛下の御代が格段に延びた事を喜んでいるように見えたであろう。 しかし皇王庁長官としては少しも喜べない。
当代陛下の御代が延びる事は先代陛下もお望みではあった。 だがオスティガード殿下が成人する程延び、皇太子殿下となって、遂には皇王位を継承する事になったら、それは取りも直さず先代陛下の御実子が戴冠出来ないという事。
ハレスタード陛下とセジャーナ皇太子殿下、どちらが施政者として相応しいかと問われればハレスタード陛下と答える。 それは親の欲目などではない。 セジャーナ皇太子殿下は臣下に下る日を指折り数えていらっしゃる。 だからと言って次代を継ぐのはオスティガード殿下としてよいものか?
我が子の命が救われたと知って思わず涙を流したものの、親としてより先に皇王庁長官としての責務を遂行する覚悟はある。 先代陛下の御実子の延命の為と思えばこそ、我が子を差し出すのに躊躇はなかった。 皇王陛下として相応しい御方の継承を実現する為なら自らの命を差し出す事も厭わない。
とは言え、現時点でオスティガード殿下とラムシオン殿下の施政者としての資質を比べる事には無理がある。 では十年先、お二人の成長を待ってから判断する? その時間が私に許されているのか?
ないとすれば今すぐ行動するしかないが。 スティバル祭祀長がこの交換について御存知か否か、私は知らない。 確認自体も困難だが、もし御存知ない場合、そしてボルチョックも知らされていなかった場合、先代陛下のお血筋を正確に把握しているのは私とアミだけとなる。 証拠もないのに突然私が交換の事実を奏上し、ハレスタード陛下に譲位するよう進言した所で納得して戴く事は難しかろう。
第一、今回瘴気が払拭されたからと言って準大公が生きている限り瘴気が払拭され続ける保証はない。 青き御使いは何百年もの間瘴気を払って下さったが、準大公とて人の子。 寿命があるだけでなく、事故死や病死もあり得る。 それにこの効力が短期間しか続かない場合も考えておかねばならない。 いつの間にか力が消え去っていたら元の木阿弥。 仮に準大公が長寿を全うし、その間は効力が持続したとしても、準大公の死後、戴冠なさる皇王陛下は再び瘴気に冒される運命では?
目下の難題は解決したかに見えるが、一年か二年先送りされただけの可能性もある。 先々の事を考えるなら私が長官である内に出生の真実を奏上すべきではないのか。 しかしこれを知った陛下はどうなさる? どうすべきかと御下問があったら私は何と答えよう。
準大公と握手した日の夜遅く、眠れぬまま月明かりを眺めるともなく眺めているとアミが寝酒を持って来た。 私が準大公に会いに行った事を聞きつけたか?
彼女が準大公贔屓と聞いた事はないが、今では宮廷内で準大公贔屓ではない者を見つける事の方が難しい。 熱狂度に差はあっても嫌いという事はないだろう。 好奇心からあれこれ訊ねたいのだろうが、訊ねられぬ内に答えるつもりはない。 それに今日の事は聞かれた所で機密中の機密に属する。 たとえ大方を察している妻にであろうと打ち明けられはしない。
私は無言でグラスに注がれた酒を口に含んだ。 サトウキビの蒸留酒だ。 安物もあるが、これは円やかで深い。 五十年近くの時を経ているのではないか? そうだとしたらこの瓶一本で四人乗り馬車が買える。
彼女自身の資産があるから私の許可がなかろうと買って買えない事はないだろうが、アミは果実酒を嗜む程度で強い酒を飲まないから自分が飲む為に買ったのでない事は確かだ。 酒好きではない私の為に買ったとも思えない。
それに仕事柄、酒をよく貰う。 酒蔵には毎日宴会を開いても飲み切れない程の酒瓶が置いてある。 サトウキビの蒸留酒があるかどうかは知らないが、中にはこれに近い値段の酒もあるだろう。 もっとも贈り物だとしたらこれ程の高級酒。 誰から貰ったのか執事が私に言わないはずはないが。
私の無言の問いにアミが答える。
「母の実家であるマクハージランサ王家には病気であれ事故であれ、子が奇跡の生還を果たした時、バズラフシャン神に感謝を捧げ、父親がサトウキビの蒸留酒を飲むという習慣がございまして。 娘が生まれた時に一瓶用意し、嫁ぐ時に持たせるのです。
生前、母は実家のしきたりに構う人ではなかったと聞いておりますが。 サトウキビの蒸留酒だけは私が生まれた日、父に強請ったのだとか。 これは私が嫁ぐ時、父が持たせてくれました」
アミはそこで口を噤んだ。
私達の娘は嫁いで息災だし、次男のエリュには準大公との面会後に会ったばかり。 奇跡の生還を果たした子などいない。 我が子と呼んではならない長男を除いては。
ハレスタード陛下の瘴気が蓄積し始めた事を私からアミに伝えた事はない。 準大公がそれを払拭した事も。 アミがスティバル祭祀長、ボルチョック、サジ・ヴィジャヤンのいずれかと懇意とも思えないし、陛下のお側の誰かの口が軽い訳でもないだろう。
なぜ知っている、と聞きそうになったが止めておいた。 アミの推理能力は私を凌駕している。 私への細やかな気遣いを見れば、おそらく私の懊悩、その理由も知っているのだ。 プラドナ公爵家は戦略的な読みが浅い現当主より彼女が采配した方が余程栄えていたに違いない。
アミから教えられたバズラフシャン神への感謝の言葉を唱えた。 私が蒸留酒を飲み干すと、アミが礼を言って下がろうとしたので引き留める。
「お待ち。 今日、準大公夫妻同席でサリ様がオスティガード殿下に新年の御挨拶をなさってな。 それを話しておきたい」
「お珍しゅうございますね」
普段仕事でのあれこれをアミに話した事はない。
「エリュが箝口令を敷いたと言っていたが。 なに、明日には城内遍く知れ渡る」
「サリ様が殿下の御前でむずかったのでしょうか?」
「いや。 御機嫌大変麗しく、警備、侍従、女官、遠くに控える下働きにまで笑顔を振りまかれていらした。 準大公夫人がサリ樣のお手を離すと、しっかりした足取りでお一人で歩まれてな」
「それは実に目覚ましき御成長。 喜ばしき事ではございませんか」
「うむ。 そこまでは良かったのだが。 殿下の御前でいきなり床に仰向けになられ、さぼらせて~とおっしゃった」
「さぼらせて? それはどのような意味でございましょう?」
「俗語で横着するという意味らしい」
「まあ」
「そこで準大公が、『後で、ね? 頼むから、こんな所で俺の真似なんかしないで』と言いおった」
「ぷっ。 あら、私とした事が。 ご、ごめんあそばせ」
「笑い事ではない。 笑いながら転がるサリ様を御覧になったオスティガード殿下が、我もさぼるのじゃとおっしゃって。 御一緒に床の上をころころ転がり始めたのだぞ」
「くっ。 いえ、そ、それはそれは」
「幸い書記が手慣れた者でな。 記録としては残さずに済んだが。
そなたもエリュの気性は知っておろう。 皇王子殿下とその婚約者が御成婚式前に横になるとは前代未聞の不祥事、と怒髪天を衝く勢い。 水を頭上に置けるものなら湯が沸いていた」
「さ、然様でございますか。 こほっ、こほっ」
「御尊父の悪影響、最早見過ごし難し、と騒ぐ騒ぐ。 かくなる上は準大公と刺し違えるのみ、私を廃嫡するようオベルテ家に頼んで下さい、と滝の涙じゃ。 あの四角四面を宥めるのに私がどんな苦労をしたと思う。 いやはや。 宥められたのは最早奇跡と言うしかない。 と言う訳で、もう一杯貰えるか」
「ほほほ。 そのような奇跡もございましたか。 大変お疲れ様でございました。 ではお好きなだけどうぞ」
そう言ってグラスを満たしてくれた。
「もう遅い。 これで休むとしよう。 其方も下がるとよい」
「はい。 それではお言葉に甘えまして、お先に失礼致します。 お休みなさいませ」
下がるアミの後ろ姿がどこか嬉し気に見える。 気のせいではないだろう。 アミにとってハレスタード陛下の瘴気が払われた事。 オスティガード殿下とサリ様が仲良く御一緒に遊ばれた事。 どちらも朗報なのだ。 けれどもし先代陛下が同じ知らせをお聞きになられたら、どう思われたであろう?
月影を仰ぎ、波の彼方へと旅立たれた御方を想う。
「血に拘るな」
そのお言葉は私へのお気遣いのようでもあり、この日が来ると予想されていらしたかのようでもある。
「波間に揺蕩い、我が身の懊悩を洗い流したい」
そうおっしゃって力なく微笑まれた時、なぜもっと強くお止めしなかったのか。 僅か三ヶ月、御出発を遅らせていれば待ち望んでいた奇跡が現れるのに。
悔いが我が身を苛む。 だが遅らせていたとしても先代陛下なら準大公との握手を御遠慮なさったような気がしないでもない。 準大公に授けられた力が有限である事を恐れ、御自分の瘴気を払う事で当代陛下の分が減ってはならないとお考えになる。 そのような御気性なのだ。 お一人で辿られた道の険しきを恨むでもなく憤るでもなく。
嘆くまい。 私には生ある限り皇王位継承を見届ける責があり、それは先代陛下の御遺志でもある。
「青年の覇気愛すべし。 挫くべからず」
脳裏に最後のお言葉が蘇る。 その御伝言を受けた時は、準大公が南まで出向いた事を労い、褒美としての御配慮であろうと考えたが。 御遺言とも言うべき最後のお言葉が当代陛下や御実子に関する何かではなく、準大公の覇気愛すべしであった事は果たして偶然。
或いはこれも又、波動。