代弁 ある石工の話
「そこのお前、来い」
五年前の事だ。 皇王城で石を動かしていたらいきなり近衛兵に呼ばれた。
誰かの気に障るような真似をした覚えはない。 その日は昨日と同じように壁の修理をしていただけだ。 周りには俺と同じ仕事をしている石工が十人以上いた。 なぜ俺だけ呼ばれたのか、皆目見当がつかなかったが、相手が相手だ。 逆らえば殺される。
おとなしく付いて行ったが、ちらっと女房の顔が思い浮かんだ。 泣きそうな顔で。
「だから言ったじゃない」
しょうがないだろ。 長い不況で俺が住んでいる町には碌な仕事がなかったんだから。 俺の専門は橋の石組みだ。 景気が良くなきゃそんな仕事はない。 でも皇王城なら橋でなくたって石が絡む仕事がいくらでもあるだろ。 と思ったんで遥々皇王城まで出稼ぎに来た。 女房は出発間際まで愚痴っていたが。
「なにもそんな危ない所まで行かなくたっていいじゃないの」
心配する気持ちは分かる。 貴族の家に庭石を運んでいた時、目の前で相棒のイズが殺された事があった。 家宝の石がどうとかごちゃごちゃ言ってたが、要するに虫の居所が悪かった、て事らしい。 イズは殺され損て訳さ。
皇王城内にいるのは雲の上の御方か、その人達に仕える奉公人だ。 生まれてこの方、皇王族に会った事なんて一度もないが、貴族より質が悪いに決まっている。 俺みたいな職人なんて下手な真似をしたら、いや、下手な真似なんか何もしなくたって首が飛びそうだ。 俺だって出来ればそんな所に行きたくない。
「だけどよ、ここで座って待っていたって仕事が空から降って来るか? 心配すんな。 城内には俺みたいな職人や下働きがごやごやいるって話だ。 金が貯まったらすぐ帰る」
女房を安心させるためにそう言ったものの内心おっかなびっくりで、城の中ではお偉いさんに目を付けられないよう、いつも辺りに気を付けていた。 何をまずったんだか必死に考えたが、思い当たる事は何もない。
乗せられた馬車の窓は開けられないようになっていたし、かなり長い時間あっちだこっちだ方向を変えて走っていた。 城の外へ出たと言ってもいいくらいの時間だが、城に出入りするには検問を通る。 馬車だったら家紋付きでもない限り必ず止められて検問している兵士に乗客の顔を覗かれるはずだ。 一度も止まらなかった、て事は城の外へは出ていないと思うが。 じゃあ、どこに向かっているのか。 全く見当がつかなかった。
馬車から降りたらそこは深い森の中だった。 城の随分奥まった所にも石を運んだ事があるが、こんな森があるだなんて全然気付かなかった。 まあ、城と言っても皇王城は国の一つや二つ、すっぽり入るんじゃないかというぐらい広い。 森があったって驚く事はないのかもしれないが。
きれいな小川が流れていて、その畔に小さな家が建っている。 手入れがされている外観で木造だから家の修理の為に俺を呼んだんじゃないだろう。 かと言って辺りを見回しても何かを建てている様子はない。 一から始めるつもりなら俺一人じゃ手が足りないし、そもそも石工として呼んだのなら道具を持たせずに連れて来るのはおかしい。
訳が分からないまま近衛兵に背中を押され、家に入った。 そこに下男らしき身なりの男がいて、そいつに髪を切られた。 髭も剃られ、風呂に入れられ、小さい鋏で爪を切られ、とまあ至れり尽くせり。 長風呂から上がると髪を結わえられ、宮仕えしている役人が着るみたいな立派な着物を着せられた。
どうやら今すぐ殺されるって訳じゃなさそうだが。 世話をしてくれた男は何も言わないし、なんでこんな事になっているのか分からないから気味が悪くて仕方がない。
と言うのも風呂に入っている時窓から煙が入って来たので見下ろしたら、下男が俺の着ていた服を火に焼べているのが見えたんだ。 そりゃ二束三文のぼろい作業着さ。 でも出稼ぎに行く俺の為に女房が一生懸命縫ってくれたのに。
くそったれ、何をしやがる、と悪態をついてやりたかったが、俺が何を言おうと服が戻って来る訳でもない。 それよりなぜ服を燃やしたのか気になった。
汚いという理由なら捨てりゃいいだろ。 それに雑巾にもならない程ぼろだった訳でもない。 汗を吸っていたからだろう。 わざわざ細切れにして燃やしていた。 そこまでする必要がどこにある? 俺が石工だって事を隠したい? なぜ? 石工なんてどこにでもいるし、別に恥ずかしい仕事でもないだろ。
逃げられないように、じゃないよな? 刀をぶら下げた奴がそこにいるんだし。
ただ理由は分からないが、二度と家には帰れないような悪い予感がした。
着替えが済むと、また馬車に乗せられた。 今度は立派な内装の馬車で皇王家の家紋が付いている。 普通ならこの家紋が付いていりゃ百人力。 何があろうと大丈夫と思う所だが、かえって俺の不安を煽った。 皇王家が俺に一体何の用だ?
逃げられるもんなら逃げているが、俺の隣にはおっかない兵士がぴったりくっついている。 逃げようとしたらすぐ捕まえられ、下手をしたらその場で斬り殺されて終わりだろう。
しばらく馬車に揺られ、豪勢な宮殿の前で降ろされた。 宮殿の西側に付いている通用門らしき所から入り、磨き上げられた広い廊下をかなり歩いた。 俺が一度も見た事のないような見事な模様入りの御影石が太い柱に磨き上げられ、これでもかというくらい使われている。 壁の装飾は一枚が幅三メートル、高さ五メートルというサイズだ。 ここまで運ぶのにどれだけの人力を費やしたんだか、想像しただけで震えが来る。 ここまで贅沢だと皇王陛下か皇太子殿下がお住まいになっている所だろう。
ある部屋に辿り着いたらそこには貴人が座っていて、俺をここまで案内して来た近衛兵が部屋の外へ下がった。
「其方、字は読めるか?」
「はい」
「ではこれを読みなさい」
「大儀であった」
「もっと声を大きく」
ゆっくり言え、こう直せ、と二十回くらい同じセリフを言わされた。
「付いて来るように」
連れて行かれたのは見事な天井の大広間だった。 壇上に皇王陛下の玉座が置いてある。 玉座なんて生まれてこの方一度も見た事はないが、椅子に嵌め込まれている宝石の大きさと数が半端じゃない。 独り立ちする前に宝石の研磨も見ておけと親方に言われ、研磨所で一年間修業した事があったが、その一年間で見た宝石全部をかき集めたって、この椅子の足一本に嵌められている宝石の数には敵わない。
俺は玉座の後ろに立たされた。
「よいか。 私がこのように合図したら練習した通りに言うのだぞ」
そう言って俺の腰帯に付けられた飾り紐を引っ張った。
俺が立っている所からは何も見えなかったが、しばらくして広間に人が集まった気配がした。 陛下らしき人が玉座に座る。 すると、皇王陛下におかれましては、なんたらかんたらと言っている声が遠くから聞こえた。
この状況で大儀であったと言う? つまり皇王陛下の代弁? 失敗したら? それを考えただけで冷や汗が流れたが、合図が来た。 言うしかない。
「大儀であった」
自分ではいい出来だったのかどうか分からない。 でもそれ以来城の一角に住み、時々呼び出されては陛下の代弁をしている。
俺の練習を見てくれた人は皇王陛下の侍従長の補佐役だったようで、表向きは俺も似たような身分らしい。 侍従長付き侍従の侍従って言うか。
食うには困っていない。 ちょっと見には楽してうまい飯を食っているように見えるかもな。 だが俺に言わせりゃ石を転がしていた方がよっぽど楽だ。 しかも毎日会うのは石も同然の侍従だけ。 面白くもおかしくもない。
今までやってた仕事だって石相手だろう、て? そりゃそうだが、橋や城壁は使う石が大きいだけに簡単な修理でも一人でやるって事はまずない。 中には気難しい奴や虫の好かない奴もいるが、一服する時や昼飯の時にはどこで修業した、こういう石を見た、あの仕事はやばかったとかの世間話の一つや二つはするもんだ。
だけどここに俺の話し相手なんて一人もいない。 練習が終わればすぐ部屋に戻され、部屋には外から鍵を掛けられる。 もっとも鍵がなくたって誰とも話すつもりはないが。 連れて来られたその日にがっつり脅されたからな。
「命じられた時以外に声を出したら其方の腕を切り落とす」
腕がなくても声は出せるしな、と言わんばかり。 ぞっとしたぜ。
それにしても何の因果で皇王陛下の代弁なんてやらされているんだか。 こんな話、女房に言ったって信じてもらえやしない。 俺にしたって自分で実際にやってるのに信じられないくらいだ。
とにかく信じようと信じまいと向こうに俺を帰す気はないようで。 せめて今まで稼いだ金だけでも女房へ送ってやりたかったが、それもだめと言われた。
金が送れない帰れないじゃ女房にとって俺は死んだも同然だ。 まあ、俺の女房は中々気が利くし、働き者だから次の亭主を見つけるのに苦労はしないだろう。 さばさばしてるから俺が近衛兵にしょっぴかれたと聞いたらさっさと次の亭主を見つけるかもな。
それはいいが、新しい亭主が俺の娘までかわいがってくれるか? 五つじゃ人買いに売り払われるかも。 と思うと気は揉めたが、どんなに気を揉んだって娘の助けになりゃしない。 たとえこの宮殿から抜け出せたって徒歩じゃ門まで辿り着くだけで何日もかかる。 馬を盗めたとしても検問破りなんて俺に出来る訳がない。
逃げるのは諦めたが、それでも生きていればいつか娘に会える日が来るんじゃないかという希望だけは捨てられなかった。 その前にへまをして殺されたくはない。 だから言えと命令されたセリフはどれも真面目に練習した。
段々コツをのみ込んで、言われた通りに代弁出来るようになったが、セリフがどんどん長くなっていくのには参った。 つまづいたり、つまづかなくてもダメ出し食らったり。 毎晩徹夜で石運びするより疲れる。
なぜか嫌になるくらい練習させられたセリフでも本番があるとは限らない。 どうして言わないセリフまで練習させるんだ? 無駄な事をさせられているようで嫌だったが、練習か本番がなけりゃ部屋から出してもらえない。 部屋に窓は付いているが、鉄格子付きで嵌め込み窓で、こちらからは開けられないようになっている。 布団や椅子は立派でも、つまりは監獄。 そこに一人で座っている方がもっと面白くないから我慢した。
ある日、今まで練習した事のない長さのセリフを手渡された。
「怒りを込めるように」
怒りを込める?
いつも抑揚を付けないようにと注意されているから珍しい事を言われてまごついたが、ここに来る前はとんまな見習を毎日のように叱りつけていた。 怒る事には慣れている。 その調子で読んだらそれでよかったらしく、すぐ広間に連れて行かれて玉座の後ろに立たされた。
誰かが入って来た気配があり、それから陛下がいらっしゃった。 向こう側から父王陛下と呼ぶ声が聞こえたから皇王子殿下だ。 それなら俺の出番はない。 俺が代弁するのは臣下が大勢いて、大きな声を出さなきゃいけない時だから。 安心していたら、陛下と殿下のやり取りがあった後で侍従からセリフを言えという合図が来た。
「よいか、二度はない。 ただ此度だけ、其方に間違いを正す機会をくれてやろう。 悠長な事は言っておられぬ。 其方の皇王位継承権がかかっているのだ。 早急に対処せよ。 そして胆に銘ずるがよい。 上に立つものはな、傍に肝心な事を伝える者がおらねば無能な役立たずである、とな」
おいおい、ほんとに言ってよかったんだろうな? 皇王位継承権って。 なら相手は皇太子殿下だろ。
もしかしたらあちらは影武者で、全部が茶番というか、何かの予行演習?
それにしては陛下の声が俺とそっくりだった。 と言う事は、少なくとも陛下の方は本物だ。 陛下の影武者は三人いるが、どれも声が全然違う。 だから影武者が代わりを務める時は必ず俺が最初から最後まで代弁している。
するとどちらも本物? だって陛下が影武者であちらが本物ならあるだろうが、その逆をやるのはまずいだろ。 だけどそれなら実の親子じゃないか。 息子を叱るのまで代弁させるって、なんで?
いくら皇王族のやる事は普通と違うと言っても何か理由がなきゃおかしいだろ。 皇王陛下が病気で声が出なくなった、とか?
うーん。 しかし皇王陛下って神様の子供って言うか、要するに神様なんだよな。 俺みたいな平民が病気になるならともかく、天子様が病気になるって。 それも変だろう?
詳しい事は分からないが、やばい事になっているのは確かだ。 もっとやばい事になる前に逃げなきゃと思うが、そんな隙なんてどこにもありゃしない。 この宮殿の俺がいる一角でさえ広過ぎて一度も行った事がない場所がある。 どっちに逃げたら外へ出られるのか見当がつかない。 言われるまま引っ張り回されている内に月日が流れていった。
会議なんて何を言われているのかちんぷんかんぷんだし、世間で何が起こっているかなんて分からずに暮らしていたが、ロックを見る事は出来た。 誰だか知らないが、ロックにぶら下がりながらにこにこ笑って空から手を振っているんだものな。 あれには魂消た。
もっとも俺にとっては侍従や周りにいた貴族のびっくりした顔の方が忘れられないが。 何しろそれまではどいつもこいつも人形みたいに無表情だったから。
ところがその日以来、表情が動いている人を見掛けるようになった。 表情が動いていると言っても、何を考えているのかまでは分からないが、とにかく無表情じゃない。
そうこうしている内に陛下は位を譲られ、離宮に住む事になったようで。 数え切れない程いた侍従はほとんど当代様の世話をする事になったらしく、一緒に付いて来た侍従は百人ちょっとになった。 随分減ったが、兵士や下働きが数百人は働いているし、貴族や役人も先代様によく会いに来ているから辺りに人がいなくなった訳じゃない。
ここに移ってから窓の鉄格子がなくなった。 それだけは嬉しい。 わざとなのか忙しくて忘れられているのかは分からないが、外から鍵を掛けられる事もなくなった。 離宮も高い壁に囲まれているが、工夫次第で乗り越えられる高さだから皇王城よりずっと逃げやすいのに。 逃げるなら逃げろ、と言ってるみたいだ。
本気で逃げる事も考えたが、金も着替えもないのに外に出たって逃げ切れるとは思えない。 金の縁取りがしてある小皿や花瓶とか、金目の物ならいくらでもその辺に置いてある。 だがどれも上級貴族でさえ持っていないような代物だ。 平民の俺が売ろうとしたら盗品と思われ、すぐに捕まるだろう。 かと言ってここで現金なんて見た事がない。
どうしたらいいか迷っていると、先代様が船で外国へ遊びに行くという噂が聞こえて来た。 旅先で逃げたら何とかなるんじゃないか?
旅の予定がどうなったか教えてくれる人はいないから詳しい事は知らないが、まずマーシュに向けて出発し、そこから船旅になるようだ。 船に乗る侍従はたったの二十名らしい。 なんでそんなに少ないんだ?
それだけじゃない。 用意している先代様の衣装箱がたったの三つなんだ。
陛下は毎晩仕立て下ろしの寝間着を着て寝る。 位を譲られてからもその習慣に変わりはない。 衣装箱三つなんて一ヶ月分の寝間着を詰めただけで一杯になる。 どこまで行く気か知らないが、船旅ならさっと行ってぱっと帰るという訳にはいかないだろ。 外国まで行くなら季節だって変わるし。 そっちこっちの港にだって停まるはずだ。 その時その時に合わせた着替えが必要なんじゃないのか?
しかも身軽なのは先代様だけじゃない。 付いて行く侍従達も一週間かそこらで帰って来るみたいな軽装だ。 旅先で買うから? 侍従の服ならそれでもいいかもしれないが、先代様の服はどれも家紋入りだ。 家紋入りの服が旅先で簡単に手に入るのか? もしかしたら先代様の先が長くない?
まさか。 先代様って、確か五十かそこらだろ。
でももしそうだったら俺はどうなる? 城内で見た事や聞いた事を誰にも言うつもりはない。 そう誓った所で信じてもらえるか? 信じてもらえなかったら? そもそもこの旅に付いていく侍従は全員殉死する予定、て事なんじゃ?
目の前が真っ暗になった。 ぐずぐずしてはいられない。 とは思うが、逃げ道なら今までだって必死に探していた。 それでも見つけられなかったじゃないか。
明るい気分にはなれなかったが、気に病んだ所でなるようにしかならない。 取りあえずマーシュには生きて到着した。 離宮では先に到着していた侍従達が走り回っている。 準大公がどうしたこうしたと言ってたから、人手不足のせいじゃなさそうだ。
あの空飛ぶ人ときたら。 また何かやらかしたのか。 どうせ大した事じゃないんだろうが。 何しろサリ様が犬と散歩した事まで一々報告が来るんだ。 譲位したんだから細かい報告の必要はないと何回も言ってるのに。
案の定、今回も漁船に乗せたとか川に飛び込んだとか。 そんなのどうだっていいだろ。 八十人も助けたのなら、よくやったと褒めたっていいくらいじゃないか。
先代様だってここまで煩わされたらたまったもんじゃない。 そりゃ影武者が代役を務めている時もあるが、本物だって随分忙しい。 どうやら影武者が代役を務めている時も本人は遊んでいる、て訳じゃないんだ。 ほとんど分刻みであれだこれだをやらされているらしい。
皇王様稼業も蓋を開けてみれば楽じゃない。 代弁が欲しくなる気持ちも分かる。
空飛ぶ人だってそこそこ偉くなったんだ。 助けるのは部下にやらせるとか、自分で何でもしようとしなけりゃいいのに。 じっと座ってられないタイプなんだろうな。 一つ一つは大した事なくても塵も積もれば何とやら、だ。 今回は年貢の納め時かも。
まあ、俺も人の心配なんかしている場合じゃないが。
天気が良ければ明後日出発する。 その夜、部屋の窓を開けて雲一つない夜空を見上げていたら、いつもの侍従が入って来た。
「何をしている」
質問された場合は声を出してもいいと言われているが、声を出さない習慣が身に付いている。 俺はただ空を指差した。 皇王城内には常夜灯がそちこちに置かれていて辺りを照らしているから明るい星なら見えるが、故郷の夜空のような満天の星は見えない。 窓を閉めろと言われるのかと思ったら、意外な事を聞かれた。
「娘に送金したいか?」
五年間ほとんど毎日顔を合わせていたとは言え、この侍従とセリフの練習以外の話をした事はない。 俺に娘がいる事を話した覚えはないのに、なぜ知っているんだ?
不思議だったが、俺はただ首を横に振った。 今年十歳になる娘に金だけ送ったって厄介事の種になるだけだろう。 娘の役に立つどころか、その金のせいで殺されるかもしれない。
金はいらないから逃がして欲しい。 でもそんな事をこの人に頼んだって無駄だ。 旅に出てしまえば俺の声は要らないはずだが、俺を逃がして陛下の代弁をしていた事が世間に広まったら嫌だろう。
先代様が位を譲る前はそれこそ何千人もの侍従が仕えていた。 その中から残された二十人ならよっぽどのお気に入りなんだろうし、そんな人に先代様の得にならないような事を頼んだって聞いてもらえるとは思えない。
「妻には? 手紙を出してもよいぞ」
それにも首を横に振った。 女房に金を送ったって今の亭主に巻き上げられるだけだ。 ここで使っている紙はどれも上等だから白紙で送れば高く売れるが、高級過ぎて、どうやってこの紙を手に入れた、と売る時に面倒事に巻き込まれるような気がする。
五年前に死んだはずの亭主から手紙をもらったせいで今の亭主に殴られたらかわいそうだ。 第一、何を書く? 実は今まで生きていたが、これからほんとに死にます、てか。
そんな事をこの人に説明したって分かる訳がないから黙っていた。 すると侍従が明日の予定を言った。
「オスティガード皇王子殿下婚約者、サリ様がお見えになったら東雲の間にお通しする。 そこで控えているように」
瑞兆様か。 お顔を見ただけで御利益がありそうだが、なにせ赤ん坊だからなあ。 空飛ぶ人なら頼めば助けてくれるような気がするが。 どうやらあの人の方こそ危ないらしい。 俺を助けている暇なんてあるもんか。
次の日、サリ様を連れた空飛ぶ人が先代様に会いに来た。 かちんこちんに緊張しているのが丸わかりだ。 ま、無事に終わったと言っていいんだろうな。 たぶん。 しょっぴけという命令はなかったから。 それにしてもあれはまずかったんじゃないのか?
「本日はお日柄もよく、なだらかな海への御出発、誠におめでとうございます」て。
今日出発する訳でもない先代様に、今すぐ出発しろと言わんばかりだろ。 たとえむっとしたとしても先代様はそれを顔に出すような御方じゃないが。
顔には出さなくたっていい気はしなかっただろうに、先代様は侍従に、愛すべしとか、挫くべからずという伝言を頼んでいた。 それってつまり、空飛ぶ人のやった事を責めるなという意味だよな?
そりゃ人助けをしたのに叱られるなんて俺から見れば理不尽だ。 それでも侍従達が言う事を聞いていると、皇王族にとってはすごくまずい事をしたという事が分かる。 先代様が庇ってやらなきゃいくら空飛ぶ人だって牢屋にぶち込まれるだろう。
ただ俺が知る限り、先代様が誰かを庇った事なんて五年間の内に一度もなかった。 庇うどころか間違いには容赦のない御方で、実子がピンチの時だってそれがどうした、て感じだったのに。
先代様が実子でもない空飛ぶ人を庇った事は意外だったが、それよりもっと驚いたのは俺がその言葉を伝える伝令に選ばれた、て事だ。
「明日、お見送りの式が終わり次第、そなたはヴィジャヤン準公爵と共に皇都へ行き、テイソーザ皇王庁長官とケイフェンフェイム大審院最高審問官に先代様のお言葉を伝えるように」
それじゃ先代様と一緒に行かなくてもいい? すると、助かった? かもしれないが、殺そうと思えばいつでも殺せるから、という事のような気もする。 ぬか喜びは禁物だ。 取りあえず船に乗らずに済んだ事に胸を撫で下ろしたが。
それにヴィジャヤン準公爵なら空飛ぶ人の実父だ。 なら面白い人なんじゃないのか、と期待したが、偉そうで優雅な、どこにでもいそうな貴族だった。 親子と言ってもあんまり、いや、全然似てない。 こちらから話し掛けられるような雰囲気じゃなかったから逃がしてくれなんて頼めなかった。
頼み事はしなくても、もうちょっと普通の人だったら世間話の一つもしたんだが。 余計な事は言わないに限る。 貴族相手に何を話したら喜んでもらえるのか分からない。 先代様に会った時、息子がどんなぽかをしたかなんて教えられたって有り難いと思えないだろ。 聞かれたら答えたと思うが。 何も聞かれなかったから道中ずっと黙っていた。
皇都に着いて先代様の言葉を伝え終わると、ヴィジャヤン準公爵に聞かれた。
「そなたの故郷はどこか?」
「ラコンベという町です」
「部下に送らせよう」
途中で殺されるのかと思ったが、ほんとにラコンベまで送ってもらった。 まさか生きて帰れるとは思ってなかったから誰にも帰る事を知らせていない。 女房がまだあの家に住んでいるか誰に聞こうかと迷っていると、町境に着いた途端、道端で野菜を売っていた娘のカルに見つかった。
「とうちゃん! とうちゃんだ! とうちゃんだああ! わああ、とうちゃ、とうちゃあああ」
あんまり大きくなっていたもんだから俺はすぐに分からなかったのに。 わんわん泣くカルの涙と鼻水でぐしょぐしょにされた。 その泣き声が近くの屋台で物売りをしていた女房にまで聞こえたようで、駆けつけた女房に思いっきり怒鳴られた。
「あんたってば! 五年間なしのつぶてで。 帰って来るなら帰って来るって、なんで手紙の一本も寄越さないのよっ!」
「うん、まあ、その。 びっくりさせたくて、さ」
俺の帰りを待ってるとは思わなくて、とはさすがに言えなかった。
それもこれも瑞兆様の御利益だろって? そうかもな。 俺を送ってくれた人が別れ際に、預かっていた給金と言って五百万ルークくれたし。
運がよかったの一言では済まされない、何かが俺を助けてくれたと思っている。 だけどそれは瑞兆様のおかげと言うより、空飛ぶ人のおかげのような。
だって俺が助かったのは煎じ詰めれば先代様があの最後のお言葉を伝える気になってくれたからだろ。 なぜ伝言する気になったのかは分からないが。 ただの気まぐれだったにしても、あれは空飛ぶ人だったからこそ起こせた気まぐれ、て気がするんだ。