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弓と剣  作者: 淳A
揺籃
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超越  マッギニスの従者、モンティックの話

 世間にはオキ・マッギニス様の従者として知られているが、オキ様と私の間に主従関係はない。 マッギニス侯爵が主だからという意味ではなく、私は独立採算性の諜報機関、ゴーダルジから派遣された諜報員なのだ。 つまりオキ様は私の客という事になる。 但し、最初の一年間料金を払っていたのはマッギニス侯爵で、オキ様が払い始めたのは御結婚なさってからだ。


 貴族ならゴーダルジの名をどこかで聞いていると思う。 ただ「皇国の耳」程の知名度はない。 皇国の耳なら首領であるヴィジャヤン準公爵の采配によって動いており、上司も同僚もいるからだろう。 ゴーダルジの諜報員と知られると、上司は誰だ、同僚には誰がいる、と聞かれたりする。 だがゴーダルジの諜報員に上司や同僚はいない。

 人事部と呼ばれる部署ならある。 人を雇ったり、入金、支払い等の事務処理をしていて、そこなら上司も同僚もいるが、派遣された諜報員は仮に同じ客に雇われていたとしてもお互いが何をしているのか、客が教えない限り知る事はない。 客と諜報員は一対一の関係なのだ。

 因みに人事は仕事の内容に一切関与しない。 諜報員が持つ技術や経験、料金を客に見せ、誰がいいかを選ばせる。 料金は先払いだから現在誰がどの客の仕事をしているかは把握しているが、時には書面だけのやり取りで終わるので人事でさえ客の実名を知らない事もある。 複数の諜報員がチームとして雇われたのなら諜報員同士の連携を取る事もあるが、その場合でも客が誰なのか知らされない事の方が多い。


 用心に用心を重ねたやり方なのは顧客の機密保持が何より大切だからだけではない。 上級貴族なら誰でも隠したい秘密の一つや二つはあるもの。 当然その秘密を買いたい人がいる。 客となった為に秘密が漏れては踏んだり蹴ったり。

 とは言え、満足出来ない結果に終わった時、上級貴族が泣き寝入りする事はまずないと思った方がよい。 だから命と金とどちらが大切か、よく考えてから行動する者しか諜報員として雇われない。

 請け負う側としても諜報員の怪我や死亡を想定し、料金を設定しているから外部機関を使うのは高くつく。 しかしもし子飼いの誰かにやらせて失敗し、血縁や奉公人が関与していたと知られたら面倒な事になる。 訴訟となったら握り潰すのにも大金がかかるが、その点ゴーダルジなら後腐れがない。


 大手の諜報機関は他にもあるが、依頼人の名を完全に秘匿出来るのはゴーダルジだけだ。 諜報員が殺された場合でも所定の料金を払えば終わり。 客が契約を更新したいなら入金を継続する。 気に入らないなら入金しなければよい。 そこで契約終了となる。 諜報員側が更新したくないなら金を受け取らない。

 仕事に無関係の事故で諜報員が死亡した等、客に落ち度がない場合を除き返金には応じていないが、顧客と揉めた事は一度もないから諜報員にとっても組織に所属する事によるメリットは大きい。 上前は撥ねられるが、仕事を全部一人でやろうとしたら依頼された仕事の他に客との交渉や集金もやらねばならないし、未払いや仕事の出来に不満な客との対応があったりすると体がいくつあっても足りない。

 また、ゴーダルジでは諜報員が死んだ時、遺族に年金又は一時金が払われる事になっているから家族がいる者にとっては心強い。 危険な仕事だと予め伝えていても求人にはいつも面接しきれない程の応募がある事を見ても分かるだろう。

 生まれは上級貴族であっても諸般の事情で家と絶縁し、仕事を探している者はそこそこいる。 私のように。 自分一人なら給金が安い仕事でも構わなかったが、母と妹を養うには普通の奉公人の給金では到底足りなかったのだ。


 危険な仕事ではあるが、コツさえ飲み込めば楽と言えない事もない。 人は何かを隠そうとする場合、必ず普段とは違う事をする。 何が日常であるかさえ知っていれば何が非日常かを知る事はそう難しくない。 ただ平民が突然上級貴族に奉公してもその区別をつける事は難しいし、上級貴族出身であっても家によってしきたりに大きな違いがある。 偶々ゴーダルジで私のような出自の諜報員を募集していた。 入社して諜報員の訓練を受け、諜報員として働き始めたという訳だ。

 儀礼に関して新しく学ばねばならない事はなかったが、教官から訓練終了証書を貰わない内は仕事を回して貰えないと言われたし、金庫開けや暗号の使用法まで知っていた訳ではない。 どの授業も真面目に出席し、優秀な成績を修めた。


 何年か経ち、ベテランと呼ばれるようになったある日、私はマッギニス侯爵からの依頼を担当する事になった。 北軍兵士である次男、オキ・マッギニス様の従者となって欲しいとの事。 それで私を面接したマッギニス侯爵の執事に質問した。

「御子息の身辺調査が目的という事でしょうか?」

「違います。 オキ様直属の諜報員としてオキ様の指令に従って下さい。 こちらからの指示はありません。 オキ様もあなたがゴーダルジから派遣されている事を御存知です。 また、オキ様の命の是非をこちらに確認する必要はなく、報告もオキ様から実家へ報告せよとのお言葉がない限り、する必要はありません」


 こちらとしては指令が一カ所から発せられる方が単純明快で助かるが、それでは単なる従者ではないか。 勘当した息子の身辺調査をしろという依頼なら分かるし、諜報員を雇う意味もあるだろうが。 北軍の上級兵に高額な諜報員を付ける必要があるのだろうか?

 確かに勘当された子弟の従者をやりたがる者は少なかろう。 しかし仮にもマッギニス侯爵家正嫡子。 オキ様なら北軍入隊前は次期近衛将軍の呼び声が高かった。 気鋭の知将として軍事関係に関心の薄い私でさえお名前を知っていたし、たとえ勘当されたままだとしても上級兵で終わるはずがない。 北軍将軍は無理だとしても、いずれ大隊長に昇進する事は確実。 そうなれば執事や家令との連絡もするようになるだろうし、職名は従者であろうと主にとってなくてはならない奉公人だから家内に従者のなり手がいないとは思えないのだが。


 そもそも上級貴族出身の兵が碌にいない北軍に、なぜ上級貴族出身の諜報員? 仕事が色事関係とか? だが上級貴族を陥落する専門の男女は他にいるし、私にそちら関係の経験はない。 場所が危険で家内の者を犠牲にしたくないという事も考えられるが、捨て駒にするならもっと料金が安い諜報員にするだろう。

 依頼人に依頼の理由を聞いた事はない。 聞かなくても大凡の見当がつけられたから。 だがこの件に関しては全く見当がつかなかった。 警戒しながら着任したら、オキ様から命じられたのはヴィジャヤン小隊長の身辺調査だった。


 諜報活動では調査対象が無名の一般人である方が手間も時間もかかる。 誰も注目していない人だと全ての情報を自力で手に入れねばならないから。 その点、六頭殺しの若のような有名人なら簡単だ。 いつでもどこでも誰かが注目しているので聞き込みしただけで大概の情報が手に入るし、その情報の精度を確認するのも面倒がない。

 ヴィジャヤン大隊長は新兵当時からやる事なす事、全てにおいて目立っていた。 逸話があり過ぎると報告の時取捨選択せねばならず、それもまた面倒なのだが、あの御方の逸話は入隊前日から今日まで即座に伝記として出版可能なくらい整理整頓されている。


 何しろ稽古や兵士としての任務は勿論、いつ誰とどこで食事をした、どんな遊びをしたという毎日の出来事が一目で分かるように古参兵の休憩所の壁に貼ってあるのだ。 予定、その変更、未定ながらあり得る行事も含めて記載されている。

 最初の頃は記載事実に誤りがないか一々裏を取っていたが、一度も間違いを発見出来なかったから今は特に確認していない。 加えて「ともびと」という会誌もある。

 事件があってその場の雰囲気が知りたいのなら、それを見ていた者に聞けばよい。 みんな喜んで見た事を洗いざらい話してくれる。 本人にしか分からない事なら本人に聞けばよい。 答えてくれなかった事は一度もない。 ただ解釈を間違えてしまうような答えが返って来る事が往々にしてあるから注意が必要だが。


 例えばヴィジャヤン大隊長が新兵だった時、ケイザベイ小隊長と美人の女将がいる事で有名な料亭に行った事がある。 女とも遊べる店だが、当時の記録には召し上がった料理の名が書いてあるだけだ。 私が北に来る前の出来事だし、色事に関して何も記載がないのは自己検閲しているからという可能性もある。 それで女と遊んだかどうか、ヴィジャヤン大隊長に直接お伺いしてみた。 するとこういうお返事を下さった。

「すごくもて遊んじゃった。 もう、お腹いっぱい」

 もて遊んだ?

 六頭殺しの若に関して浮いた噂を聞いた覚えはないし、女をもて遊んだ事を得意気におっしゃるようなお人柄にも見えなかったから内心非常に驚いた。

 それにしてもお腹いっぱい、とは?

 誰をどのようにもて遊んだのか聞いてみると、お代わりし放題だし、珍しいきのこをただで食べさせてもらったとおっしゃる。 全然話が通じない。

 よくよく聞いてみると、女の方から近寄って来る事がもてる、一緒に食事をすれば女と遊んだ、つまりもて遊ぶを「もてる+遊ぶ」と勘違いしていらしたのだ。

 このお年でもて遊ぶの意味が分からないのはまずいだろう? 老婆心で本当の意味を教えてあげたら真っ赤になっていた。 間違っているなら間違っていると教えてくれたっていいのに、と呟いていらした所を見ると、どうやら私以外にもこの誤用を聞いた人がいるようだ。


 ヴィジャヤン大隊長は今でも一本抜けているとしか言いようのない御方だが、彼の執事であるウィルマーは従者であった時から一分の隙もない男として注目していた。 とにかく切れる。 初対面の時、既に私が単なる従者でない事を知っていたのではないか? だが余計な事は一切言わない。

 伯爵家執事どころか準大公家執事を名乗っても恥ずかしくない威厳に満ち溢れているが、ゴーダルジの情報網を駆使しても彼の出自に関する詳細を探り出す事は出来なかった。 訳ありである事は間違いない。

 しかしなぜあの主? 私が知る限り、ウィルマーは伯爵家執事の地位を捨て、三男の従者になる事を志願した。 当時の主であるヴィジャヤン伯爵から慰留されたにも拘らず。

 誰かに何か弱みを握られてした転職には見えない。 その証拠にヴィジャヤン小隊長がウィルマーに叱られている所を見た事もある。 今だから言うが、その時叱られていた原因は私だ。


 ある日、ヴィジャヤン小隊長の隣室にある覗き穴から見ていると、御自分で洗濯をし始めた。 ウィルマーが不在だったとは言え、貴族が自ら洗濯するだなんて聞いた事がない。 この目で見たのでなかったら信じられなかっただろう。 それでこの洗濯には何か深い理由でもあるのか、とウィルマーに聞いたのだ。 告げ口するつもりで聞いたのではないのだが、結果的に告げ口した事になったという訳だ。

 私が告げ口した事はウィルマーから聞いているだろうに、なぜか全然責められなかったのは不思議だが。 普段周囲の人間からよく叱られているので大して気にならなかったのかもしれない。


 叱られてもめげない性格である事は兵士としてプラスと言えるが、あの気さくな態度は伯爵家正嫡子とは到底思えない。 あれはどちらかと言えばマイナスではないのか? 好かれはしても尊敬はされまい。 おそらく昇進も難しかろう。 奉公人から見れば扱いやすい主だが。

 あまりに貴族らしくないし、兄二人とは全く違うお育ちと聞いたから、念の為独自のルートを使ってヴィジャヤン小隊長の出自を探らせた事もある。 しかし出生の秘密らしき事実は何も出て来なかった。

 ただ子供の頃からヴィジャヤン大隊長の周辺では普通ならあり得ない事がよく起こったようで。 オークを射殺したと聞いても実家で驚いた人はいなかったらしい。 ウィルマーが従者になった事には皆驚いていた、と報告されていたが。

 それにしても平民ならともかく、ヴィジャヤン伯爵夫妻には貴族の常識がおありになる。 なぜ三男に関してだけは特別扱いなさったのか? どうでもよい事ではあったが気になった。


 御覧の通り、私は今もヴィジャヤン大隊長の身辺調査をやらされている。 昼寝をしながら出来る仕事だが不満はない。 ある意味、珍しい動物を観察しているようで、娯楽と言ってもいい。

 ただこれをベテラン諜報員にやらせるのはサラブレッドに荷馬車を引かせているようなもの。 どの家にも世間体や思惑がある。 最初は勘当した息子の従者を家内から出す訳にはいかないという理由だったのかもしれないが、結婚式以来、マッギニス侯爵は息子と交流しているし、それを世間に隠してはいない。 なぜ未だに私との契約を更新しているのか?


 唯一考えられる理由は、マッギニス侯爵家の奉公人なら私と同じものを見たとしても私と同じ報告はしないだろうという事だ。 ヴィジャヤン小隊長が洗濯している姿を見ても、家格が下がるとこれだからと思ったか、これがヴィジャヤン伯爵家の家風と考え、報告するまでもない事と思った可能性が高い。

 私にしてもこんな事まで報告すべきかどうか迷ったが、ヴィジャヤン小隊長は変人です、では子供の使いだ。 何がどう変わっているのかを説明しないと。 それには他家の日常を知っている必要がある。

 それに私がマッギニス侯爵家の奉公人だったら主はマッギニス侯爵であってオキ様ではない。 オキ様に従うようにと主から命じられている内は従うが、従うなと言われたら従わない。 主から別の仕事が来て、こちらを優先しろと言われたら、オキ様の命は二の次、三の次となる。

 分家している訳でもないオキ様が自分の命のみで動く者を雇うのは経済的に難しい。 それで外部の諜報員を派遣するよう、実家にお願いなさったのかもしれない。


 いずれにしても私は言われた仕事をするだけだ。 客がどんな無駄遣いしようと心配してあげる必要はない。 事件は次々と起こっているから全くの無駄遣いという訳でもなかったが、次の更新はないと予想していた。 更新どころか途中解約も覚悟していたのだが、未だに更新されている。 しかも始めは三ヶ月更新だったのに、次は六ヶ月更新となり、現在では年更新だ。

 ヴィジャヤン大隊長が準大公になった今となって見れば、上級貴族出身の諜報員が必要である事は私にも分かる。 しかし三年前、あの当時既にオキ様はヴィジャヤン大隊長の今日を予測していらしたという訳か? 一体何を根拠に?

 オキ様の先見の明にはいつも驚かされているが、あのヴィジャヤン大隊長のどこを見たらそういう結論に達するのか、私には皆目見当がつかない。

 昨日の酩酊事件にしてもそうだ。 今思い返してみても、どうしてああなると予想出来たのか分からないが、オキ様が意図して起こした事件である事は間違いない。


 私はオキ様から書類を届けるよう命じられ、ヴィジャヤン大隊長の執務室へ伺った。 そこで机の上にマリング酒が置いてあるのに気付いた。

 普通は長が付けば執務室に酒を置いてある。 酒があっても不思議ではない。 しかし今までヴィジャヤン大隊長の執務室に酒が置いてある所を見た事はなかった。 しかもマリング酒だ。 甘口の酒で、こんなに甘い酒を短気な客人に出したら、子供扱いする気か、と怒られる。 誰にお出しするおつもりか、気になった。

「ヴィジャヤン大隊長。 つかぬ事をお伺い致しますが、こちらはどなたがお飲みになるのでしょう?」

「俺。 お神酒を飲む練習はこれでやろうと思って」

 何が出されるか分からないとは言え、神酒の儀に甘口の酒が出たとは聞いた事がない。

「しかしながら神酒の儀で使われるのは普通、辛口の酒でございます。 練習なさるのでしたら辛口のものをお使いになっては如何でしょうか? 本番でいきなり辛口の酒をお飲みになっては、思わず顔を顰めたりしないとも限りません。 吹き出したりなさっては不敬の誹りを免れないと存じます」

「そうなんだ。 うーん、困ったな。 辛口の酒って苦手でさ。 俺だけじゃなく家内の誰も飲まないから家にも置いてないんだ。 アラウジョに買いに行ってもらわなきゃ」

「当家にでしたら辛口の酒が何本もございます。 これから主の元へ戻りますので、伝えておきます」


 私が戻ってこれを報告すると、オキ様がおっしゃった。

「辛口の酒を四本持って行け。 その内の一本はメイリャンにして、中身をルゲラに詰め替えておく事。 練習ではまずそれを飲むよう、大隊長にお勧めしろ」

 メイリャンはアルコール度八度。 ルゲラは四十三度だ。 そこまで度数が違えばいくら辛口の酒をお飲みになった事がないヴィジャヤン大隊長でもすぐ気が付いて、なぜこんな事をするとお怒りになるのではないだろうか?

 だが最初に度数を教えたら、その高さに恐れをなして飲まないとおっしゃるかもしれない。 練習に使う杯はお猪口サイズだし、陛下から頂戴する酒はルゲラか、それに似た酒だと思われる。

 飲み慣れていないのにがぶ飲みするのはまずいが、貴族の子弟なら十四、五になれば酒を飲む練習を始め、毎日少しづつ量を増やし、酒への耐性をあげていく。 酒席での失敗はお家断絶に繋がる事もあるから、この練習を蔑ろにする貴族はいない。 いくら酒が苦手なヴィジャヤン大隊長でも大丈夫だろう。 そう思って命じられた通りに酒を届けた。

 

 ところがヴィジャヤン大隊長は最初の一杯を盛大に噴き出した。

「げっ、げほっ、うっ。

 あ、ご、ごめん、つ、次。 次、は、大丈夫っ」

 失敗を挽回せねばとでも思ったか、むせながら二杯目、三杯目を立て続けにお飲みになった。 小さい杯で大した量でもなかったが、みるみるうちにお顔が真っ赤になる。 貴族の常識から外れた御方とは知っていたが、まさかこれ程簡単に酔うとは。

 体が火照ったらしく、暑い暑いとおっしゃりながらお召し物を次々と脱ぎ始め、下着一枚の格好になられた。

「えへへ。 うすぎ、しちゃったあ。

 みんなにー、ちゃんとお、みてもらわなきゃー」

 そしてふらふらと廊下に出て行こうとなさる。

「お待ち下さいっ! お見せになる必要はございません」

「えー? みなきゃ、しんじて、もらえなーい

 ひゃっぷんはー、いっぷんよりー、ながいのー」

 一瞬理解が遅れたが、百聞は一見に如かずとおっしゃりたいのだろう。

「おれはー、さむがり、なんかじゃ、ないー

 わはは、みよー、きたの、くまー」

 ブラダンコリエ殿と一緒にお止めしたが、相手は酩酊していようと鍛えあげられた軍人だ。 力では敵わない。 あっさり振り切られた。


 ヴィジャヤン大隊長は廊下で出会い頭にレサレート小隊長にぶつかり、酒を飲んだ事を説明し始めた。 人通りが多い廊下だし、酔っ払ったヴィジャヤン大隊長など滅多にお目にかかれるものではない。 皆立ち止まる。

 するとそこで突然くるっと鋭く一回転なさり、ヒャラの決めポーズをお見せになった。 どっと歓声が上がる。 それに気を良くなされたか、お囃子もないのにヒャラを踊り始めた。 それが酔いの回りを更に早めたのだろう。 次の回転の後、ぱたっとお倒れになった。

 あんな少量の酒で急性アルコール中毒になるとは思えないが、平民なら慣れない酒を一気飲みして死ぬ事はよくある。 廊下にいた人達はヴィジャヤン大隊長が飲んだ酒の量を見ていないから大騒ぎになった。

 怒号と悲鳴の中、バリトーキ軍曹が医者を探しに走った。 レサレート小隊長が将軍の元へと急ぎ、やれ担架だ、馬車を用意しろ、と人が駆けずり回る。 兵士でもない私が落ち着けと声を嗄らした所で誰も聞いてはいない。

 騒ぎを聞きつけ野次馬がどんどん集まって来た。 その中には皇王庁職員、ゴーダルジの諜報員、公侯爵縁の兵士の顔も見える。


「医者だ! 通してくれ!」

 バリトーキ軍曹の叫びで人垣がさっと分かれると、息遣いも荒く、メイレが現れた。 跪いてヴィジャヤン大隊長の脈を取りながら私に聞いた。

「どれくらい飲んだんですか?」

 中身がほとんど減っていないメイリャンの酒瓶と猪口を見せて言った。

「これで三杯」

 辺りに沈黙が舞い降りる。

「……医者だって暇じゃないんですけど」

 メイレがそっとつぶやいて立ち去った。


 御自宅で私の報告を受け取られたオキ様は微かに頷かれた。

「次の練習からはメイリャンを使うように。 水で薄めてもよい」

「ルゲラに慣れておかなくてもよろしいのでしょうか?」

「問題ない。 神酒の儀では水同然の酒が出されるだろう」

 そうだろうか?

 この一部始終が陛下のお耳に届く事は確実だが。 当日どの酒が出されるかは陛下のお気持ち次第。 ヴィジャヤン大隊長は皇寵を戴いていらっしゃる。 とは言え、過去には神酒の儀で毒を飲まされ、死んだ者もいるのだ。 生涯続く恩恵だから大丈夫とは言い切れない。 いつ何時生涯を短くしてやれと思われるか分かったものではない、と私なら疑うが。


 オキ様の予測が外れた事はない。 おそらく酒を詰め替えさせたのもこうなると予想していらしたのだろう。 一体何を根拠にこんな結果を予測したのかは分からないが。

 ヴィジャヤン大隊長が酒をたしなみ程度にしか飲まない事は広く知られている。 けれどこれ程弱いとは何年も身近に観察している私でさえ知らなかった。

 ともかくこれで神酒の儀を乗り切る目処が立った訳だ。 貴族にとって酒に弱いとは褒められる事ではないから、こちらから陛下に知らせるような真似は出来ない。 知らせた所で弱い酒が出される保証がどこにある。 高級美酒は円やかな口当たりだが度数が高い。 普段美味い酒を飲んでいないようだからと善意で強い酒が出されないとも限らないが、これ程弱い事が世間に知られていれば強い酒を出すのは悪意以外の何ものでもなくなる。 陛下が皇国の英雄に対してそのような悪意をお見せになるとは思えない。


 ふと、オキ様の結婚式に参列した時の事を思い出した。 ヴィジャヤン大隊長に関してはマッギニス侯爵もどう読むべきかお迷いになったようで。 ヴィジャヤン大隊長をどう評する、とオキ様にお尋ねになった。 それに対し、こうお答えになったのだ。

「愚もあそこまで超越すれば知略に優ると申せましょう」

 そのお答えを聞き、知略を超越しているのはヴィジャヤン大隊長でも、それを可能にしているのはオキ様ではないのか、と思わずにはいられなかった。


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