直訴
「行くぞっ!」
師範は怒り心頭という感じで、どすどす足音も荒く俺の執務室に入って来たかと思うと、俺の腕をぐいっと掴んで椅子から引っ張り上げた。
いや、別にいいんだけどさ。 書類に判子を押していただけだから。
そもそも書類に判子を押すなんて俺がやらなくたっていいだろ。 誰に押されたって判子が文句を言う訳じゃなし。 書類を見たって誰が押したんだか分かる訳でもない。 署名は自分で書かないと気付かれるかもな。 でも世間じゃ俺の署名入りという謳い文句の商品がそっちこっちで売られているんだって。 俺が聞いた事もない商品で、署名をした覚えなんか少しもないのに。 それってつまり俺の署名は真似しようと思えば簡単に出来る、て事なんじゃないの?
そうは言っても署名押印は必ず自分でやってるけどさ。 そうしないとマッギニス補佐からどんな目にあわされるか分からないし。 なぜか簀巻き事件以来、マッギニス補佐とは一度も会ってないが。 うんと言うまで毎日氷の簀巻きにされる事を覚悟してたのに、次の日もその次もマッギニス補佐は俺に会いに来なかった。 俺としては有り難いけど、拍子抜け?
だからって全て簀巻き前に戻った、と安心するのは早いと思っている。 でももしそうなら、すこーしずるしたって分からないよな。
ところがシュエリ会計官って、ほんと、見た目通りの真面目な奴で。 他の人に押しといてと頼んじゃだめ、盲判を押すのもだめ、なんだ。 全部見逃してくれとまでは言わない。 偶に目を瞑ってくれたっていいのに。 とは思っても言いませんよ。 言ったらどうなるか、先の読めない俺にだって分かるし。 それに俺が一生かかっても計算しきれないような量を毎日こなしているシュエリ会計官の姿を見ている。 なのに俺は忙しいからお前がやっといて、なんてとてもじゃないけど恥ずかしくて言えないだろ。
ともかく、目の前の師範はすごく怒っている。 もう、ばりばり。
師範の場合怒っているのがディフォルトで、怒っていなかったら師範じゃない。 と言うか、何かあったんだ。 ただ結婚した辺りから怒っているのかいないのか、顔を見ただけじゃ簡単には分からなくなった。 こんな風に誰が見ても怒っている師範を見るのは久しぶりかも。
但し、簡単には分からないと言っても素人から見ればであって、百剣ならばっちり見分けられる。 師範の怒りを計る目安まであるんだって。 さすがは百剣。
こっそりポクソン補佐から教えてもらったんだけど、稽古の時に何人ぶちのめしたかが目安なんだ。 八人前後が並、通常運転。 五人以下だったら機嫌がいいか、何か嬉しくなる事があった。 十人を越えたらやばい、逆らうなという感じ。
リヨちゃんが無事に生まれた日はゼロだったから、師範が子沢山になりますように、と願掛けしている剣士がかなりいるらしい。 因みに上限はない。
今日は何人倒して来たのか知らないが、かなり息が上がっている所を見ると十五人は越えているだろう。 こうなった師範に逆らうのは吹雪の中へ裸で駆け出して行くみたいなもんだ。 わざわざそんな死に方を選ばなくたって他にいくらでもましな死に方があるだろ。 いくら死んでしまえばみな同じ、とは言ってもさ。
もちろん俺に逆らうつもりは最初からない。 でも俺にだって予定ってものがある。 師範からはいつもヒャラを踊って遊んでいる男としか思われていないが、こういういきなりはちょっと困るんだけどな。
まあ、それも俺の周りの人達が困るんであって俺が謝りに駆けずり回る訳じゃない。 ただ事と次第によっては俺までとばっちりを喰らう時もあるからさ。
師範に無理矢理という立派な言い訳があれば俺が怒られる事にはならないかも。 だけど行き先は気になる。
「あの、行くって、どこへでしょう?」
「お茶だ」
「えっ!」
今日は師範が祭祀長に会いに行く日だ。 今日が土曜でなかったとしても師範がお茶に行くと言ったら祭祀長とのお茶以外にない。 という事は俺も連れて行ってもらえる?
「い、いいんですか?」
師範が忌々し気に俺を睨んだ。
「よくない。 だからどうした。 俺がよくないと言ったら来ないのか?」
「行きます!」
なぜ急に連れて行く気になったのか分からないけど、この際理由は何でもいい。 余計な質問をして師範の気が変わったら嫌だ。 慌てて出掛ける準備をしていると、俺の返事を聞いてアラウジョが外套掛けから俺の外套と自分の外套を取って来た。
「アラウジョ、お前は付いて来なくていい。 俺は師範の護衛として付いて行く。 護衛に護衛が付いていたらおかしいだろ」
師範の後ろにはもう一人、護衛としてシナバガーが付いているから心配する事なんて何もない。 なのにアラウジョは自分の外套をぎゅっと握りしめ、心配そうな顔をした。 それで前、神域に行った時もこの面子だった事を思い出したが、あんな襲撃がそうそう何度もある訳ない。
「師範。 これを着てもいいですか?」
俺が自分の大隊長用外套を指して聞くと、師範が頷いた。 第一駐屯地に大隊長は四人しかいない。 この外套を着ていたら矢筒を背負っていなくても俺だという事がすぐに分かってしまう。 神域に行った事が噂になってもいいのかな? ま、俺が神域に行くのは初めての事でもないし、師範がいいと言うなら俺は気にしないけど。
冬の神域は独特の静けさに包まれていた。 まるでこの世には師範と俺とシナバガーの三人しかいないかのようだ。 鳥や虫の音が聞こえないからかも。 寒いけど風のない日で、冬にしては暖かだ。
黙々と歩いている内に師範の肩の辺りから力が抜けていくのが感じられた。 怒りが少し和らいだ感じ。 だからって話しかけたりはしなかったが。
今の内に祭祀長へどう申し上げるか考えておかないと。 何しろ連れて行ってもらえるとは思っていなかったから心の準備が全然出来ていない。
養女に出す事のどこが問題なのかと聞かれたら何と答えよう?
父上と呼ばれなくなるのが嫌なんです、とか? そんな事言ったら我慢しなさいと言われて終わりだろ。
うーん、でも会えなくなるのが嫌と言ったら、会わせてあげると約束されちゃいそうだし。 そんな約束信じられないと言ったら、正直なのはいいけど、角が立つよな。
祭祀長が意地悪な質問をなさるとは思わない。 でも遅かれ早かれ宰相からそんな感じの質問をされるに違いない。 その時祭祀長への返事と違う理由を言ったら絶対後で揉めるに決まってる。
つまり最初から宰相にも納得のいく理由を言わないとまずい。 穏便に断り、しかも後腐れがないように。 だけど考えても考えても相手を怒らせる事になりそうで、あれでもないこれでもないと迷っている内に祭祀長のお住居に着いた。
出迎えた神官は俺を見ても驚いた顔を見せなかったから師範が予め連絡していたのかもしれない。 取りあえず一緒に奥に入る事を許され、ほっとした。 こんな冬に庭先でお茶を飲むはずはないけど、玄関先で待っていろと言われたら祭祀長のお顔を見る事は叶わない。 お目通りが叶っても発言が許されるかどうかは分からないが。
神官は師範の外套を受け取って玄関脇にあるクローゼットに持って行ったが、シナバガーと俺の外套は玄関先に置いてあった外套籠を指差されたので、その中に入れた。 お前は護衛なんだから籠で充分と言いたいんだろう。 穿った見方をすれば、護衛の分際でお許しもないのに発言するんじゃないぞ、と釘を刺している?
そう言いたい気持ちは分かるし、俺だって本当は何も言いたくない。 だけどこの機会を逃したら養子縁組への許可が下りてしまう。 たぶん祭祀長の方からお言葉を掛けて下さると思うけど、もし掛けて下さらなかったら俺の方から養子縁組を許可しないで下さいとお願いしないと。
あ。 でもお願いなんてしたら直訴になっちゃう? 叙爵の知らせを受けて間もなく、トビからすごく怖い顔で警告された事を思い出し、ぶるっと身震いした。
「旦那様、直訴という言葉は御存知でしょうか?」
「知らない」
「不平不満のある臣下が陛下に改善を求め、直接訴える事を直訴と申します。 陛下や皇王族の皆様には一言命ずるだけで実現する事が数多ございます。 正規の手順を踏んでいては時間がかかるので、揉め事を直訴によって一気に解決しようとする臣下が後を絶たないのは致し方のない事なのかもしれません。
しかし一見簡単なお願いでも実現するには巨額の金が掛かる場合がございます。 また臣下によってどのような優先順位を付けるか、様々な思惑が絡むもの。 臣下全員の願いを叶える事など不可能ですし、直訴した者勝ちにしては政治が乱れる元ともなりましょう。 それで直訴は厳禁となっているのです。
ここで御注意戴きたいのは、直訴によっては高額なお強請りではなくても御不興を買い、投獄される場合もあるという事です。 特に書記が言行を記録している所で直訴すると、叙爵取り消しや財産没収、最悪の場合死罪も覚悟せねばなりません。
皇王族がお一人になる場面は滅多にないとは言え、ダンスの最中やお人払いを使ってお耳にあれこれ囁く機会は作ろうと思えば作れるもの。 どうか気軽なお気持ちでお強請りなどなさいませんよう、呉々も御注意下さい」
「でもさ、皇王族と踊ったり話したりなんて伯爵じゃやりたくてもやる機会はないだろ?」
「普通の伯爵でしたらございません。 ですが旦那様はサリ様の御尊父。 婚約式が終われば舞踏会やオスティガード皇王子殿下のお誕生会など、様々な宮廷内行事への御招待があると予想されます。
お話しする機会があろうとこちらから何も願わなければよいだけの話。 とは申しましても、過去にはどうぞお召し上がり下さいと珍しい果物を献上した臣下が、召し上がれとはお願い、つまり直訴であると周囲から難癖を付けられ、爵位剥奪となった例もございました。 おそらくその者を失脚させたくてわざと曲解したのでしょうが。 直訴がそのような使われ方をする場合もあると御理解下さい」
「分かった。 まあ、俺に言っていい事と悪い事の区別はつかないから何も言わない事にする」
そう約束したものの、まさか本当に何回も皇王族にお目通りする機会があるとは予想してなかった。 結構頻繁にぽろっと余計な事言っちゃったりしてトビをひやひやさせている。 先代陛下へサリを抱いて下さいとお願いしたりとか。 それは記録している書記が側にいなかったからセーフだったが。
幸い今までは直訴なんてやらずに済んでいるけど、養子縁組を許可しないでとお願いするのは直訴以外の何物でもない。 祭祀長は陛下の代理人だから祭祀長にお願いするのは陛下にお願いするのと同じ事だ。 俺が直訴したと誰かに知られたら、たとえ書記が記録していなくても処罰されるだろう。
取り上げられるのが爵位や領地なら構わない。 でも投獄されたり、死罪になったら? サリと二度と会えなくなる事に変わりがない。 それでも養女に出すのは嫌って言う?
それに自分が処罰されるのは仕方ないとしても、罰はそれだけじゃ済まないかもしれない。 こういう事ってすぐ話がでかくなる。 他人を巻き添えにしても平気と言える程の覚悟はないんだ。
見合い話みたいに嫌と言っただけで話が立ち消えになってくれたら嬉しいけど、無理だろ。 どこまでなら妥協出来るのか、と聞かれるかな? 毎年サリを一週間お泊まりに行かせるくらいなら、なんてどう? うーん、そういう問題じゃないような気がする。
そもそも直訴、するの、しないの? それさえ決められない。 とにかく大事にはなりませんように、と祈りながら師範の後ろに続いた。
師範は茶室に入り、俺とシナバガーは廊下に座って祭祀長のお出ましを待った。 祭祀長はすぐお出ましになり、師範は時候の挨拶を申し上げる。 そこに神官がお茶とお茶菓子を運んで来た。 すると師範は出されたお菓子をあっという間に食べ、ぐいっと酒を呷るみたいにお茶を飲んだ。
ブラダンコリエ先生からお茶やお茶菓子は出されてもすぐに手をつけないようにと言われている。 相手が皇王族である場合はもちろん、俺の格下となる貴族とお茶をする時でも出されてすぐ食べるのは下品なんだって。 お茶を一気に飲み干すのもやっちゃいけないらしい。
そりゃ師範は普段儀礼の練習なんてしていないけど、前に来た時はそんな焦った食べ方をしていなかった。 一体どうしたんだろ? いくら祭祀長は儀礼に関して鷹揚な御方と言っても礼儀知らずの俺がまずいんじゃないのと思うくらいの早さだ。
内心ぎょっとしたが、祭祀長は師範をお咎めにならず、お側の神官におっしゃった。
「代わりを。 今日は冷える。 供の者達にも熱いお茶を出してあげなさい」
そして師範に向かっておっしゃった。
「甘味は疲れを癒やすもの」
神官が承って出て行くと師範は祭祀長に謝った。
「大変失礼致しました」
「無難な人払いである。 何かあったか?」
「御意見を頂戴したき事がございます。 とある馬鹿者がヒャラを踊らなくなりまして」
祭祀長がくすっとお笑いになった。
「私としましてはあんなもの、見ない方が落ち着くのですが。 あたかもこの世の終わりであるかのように、なぜ踊らなくなった、何があった、と大騒ぎする者がいるのです。 それが一人や二人ではございません」
「静寂を好む者として、タケオ大隊長の気持ちは分からぬでもないが。 花はあれば和むもの。 なくても困らず。 とは言え、夏の盛りに咲かぬ花を見れば不安に思う者がいても当然であろう。 咲かぬという現象が示唆するものがある故に。 土が枯れたか、水がないか、或いは病。 さて、ヒャラを見なくなった理由に心当たりは?」
「娘を養女に出せと言われて気落ちした事が原因かと存じます」
「そなたなら枯れた花でも再び咲かせられると見込まれたか」
「私に何が出来ましょう。 上官でもないのに踊れと命ずる訳にもまいりません」
「上官であったとしても、花に咲けと怒鳴るは詮方なき事」
茶室のドアは開け放たれている。 祭祀長は俺の方に向かってお訊ねになった。
「掌中の玉、手放したくはないか?」
しょうちゅうの玉って、サリの事だよな?
こんな御下問になるとは思っていなかったから慌てた。
「どうか、どうか、サリ、様の父である事を、お許し下さいっ」
しまった。 焦ったせいで養子縁組と関係ない事を言っちゃってる。
祭祀長は普段の政治には関わっていないと聞いた。 はっきり言わなきゃ何が言いたいんだか分かって戴けないだろう。 でも許可を出す出さないは陛下のお心一つ。 臣下の分際でどうしろとか言ったら、それだけで不敬罪になりそう。 ならどう言えばいい?
「ええと、あの、」
そしたら俺の口元に向けて師範の殺気がバシッと飛んで来た。
ぐううっ。 こんな場面でそれをする?
師範が苦々し気に言う。
「一つ屋根の下で暮らさなければ父ではないのか? 遠くから見守るだけの父でも父だろう? 生きていればサリ様の御成長を眺める機会はいくらでもある。 離れて暮らせば血縁が消える訳でもない。 諦めろ」
すると祭祀長が静かにおっしゃった。
「諦めるべき時もあれば諦めてはならぬ時もあり」
師範はため息をつきながら祭祀長に申し上げた。
「この身勝手を通させては大きな問題となります。 そうなりましたらどう対処すればよいのか。 私に妙案はございません」
「それはその時。 座して待てば天より幸いが降ると思うは傲慢なれど、民の声に耳を澄ます者には自ずと道も開けよう」
そこで神官がお代わりの茶菓子を師範に持って来て、俺達にもお茶とお菓子を振る舞ってくれた。
祭祀長と師範は新年の事を話し始め、養女については一言も触れない。 まさか神官の中に間者がいるとか?
民の声に耳を澄ます者には自ずと道も開けようってどういう意味? 分からなかったが、もし間者がいるなら俺から質問する訳にはいかない。 師範はいつも通り半時程で辞去した。
神域を出てから小声で師範に聞いた。
「あのう、結局養女の件はどうなるんでしょう?」
「なるようになる」
そりゃ、まあ、そうだろうけど。 もうちょっと、なんか、こう、ないの?
「あの、道も開けるって、あれはどういう意味なんですか?」
師範は無言だ。 俺に話し掛けるな、という雰囲気。
もしかしたら、俺、期待し過ぎていたのかな。 いつの間にか師範だったら何でも解決してくれるみたいな気になっていた。 自分が期待されるのは嫌なくせに。 だけどこれから何が起こるのか、何をしたらいいのか、不安で黙っていられない。
「ええと、俺、直訴しちゃったんですよね? お許し下さいって、養子縁組を許可しないように頼むのとはちょっと違うけど。 あの場でお咎めがなかったのは無視されたんでしょうか? それとも神官は席を外していたから大丈夫だと思います?」
師範は第二庁舎の前まで一緒に来てくれたけど、俺が何を聞いても答えず、自分の庁舎へ帰って行った。
はああ。 やっぱり処罰されるのかな。 そしたらどんなに軽い処罰だって罪人が皇王族を育てるなんてもってのほか、となるだろう。 ううう。
そして執務室に戻ってから気付いた。 師範みたいに、御意見を頂戴したい、と申し上げていたら直訴にならなかった、という事に。