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弓と剣  作者: 淳A
揺籃
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養女

「余裕ですね、ヴィジャヤン大隊長」

 そんな訳あるか、バカ野郎、と言えるものなら言ったさ。 相手がマッギニス補佐でなかったらな。

 まあ、相手がマッギニス補佐でなくてもそんな言葉、心の中でしか言わなかったと思うけど。 俺の周りには俺より賢い人しかいないから。

 それでなくとも今、俺は氷で簀巻きにされ、執務室の床に転がされている。 この体勢で強気に出るのはかなり厳しい。 たとえ俺が賢い上官だったとしても。

 氷の冷たさが背筋を這い上ってくる。 ううっ。 絶体絶命のど真ん中。 早く、早く何とかしなきゃ。

 絶体絶命は、お決まりね、とつまらなそうにつぶやいただけで消えた。


 つまり絶体絶命じゃないからだろ、て? 違うね。 あいつ最近、俺の危機に飽きちゃってるんだ。 あんまり何度も呼び出されたせいで。

 そんな事はどうでもいい。 問題はマッギニス補佐だ。 相変わらず何を考えているのか読めない顔をしている。 怒っているかいないのかさえはっきりしないが、氷の厚さが前人未到の域に達している以上、楽観は出来ない。 俺を殺すと決めた訳じゃないと思うけど、殺されないならどういう目にあってもいいって訳でもないし。


 余裕ですね、だって皮肉なのか、それともマッギニス補佐の目には本当にそう見えたのか。 微妙な所だ。 なにせあっと言う間に簀巻きにされ、慌てている暇さえなかった。 おまけに両手両足が氷で固められている。 これでどうやって暴れろって? どんなに弓がうまかろうとこれじゃ何の助けにもならない。 ええ、ええ、内心ちゃーんと慌てていますとも。

 ただ無駄な抵抗はしなかった。 それで余裕があるように見えたのかもしれない。 俺の執務室は二階の東の端にあって、隣はマッギニス補佐の部屋だ。 冬だから窓が閉まっている。 大声で叫んでも無駄だったと思うが、廊下を歩いている人だっているし、呼び鈴に手が届かなくても控え室にはアラウジョか他の誰かがいるだろう。 なのに助けを呼ばなかった。 そんな事をして余計マッギニス補佐を怒らせたくなかったから。

 あの目を見ろ。 本気と書いてマジと読む、てやつだ。


 マッギニス補佐ならいつだってマジだろ、て? 素人には違いが分からないかもな。 俺のような苦労人でなきゃ。 あれは俺が恐怖の大魔王と名付けているマジモードだ。

 但し、何が切っ掛けで恐怖の大魔王になっちゃうのか、それは俺にも分からない。


 上官なんだから、さっさとこの氷を壊せと怒鳴ればいいだろ、て? 上官だから何。 俺が頼りない上官だからじゃない。 他の誰を呼んだってこうなったマッギニス補佐を止められるとは思えない。 もしかしたら将軍にだって止められないかも。 マッギニス補佐が尊敬している師範なら止められるかもしれないが、怒られている原因が猫又じゃ、ここに師範がいたって自業自得と言われてお仕舞いだ。 それに俺にだって上官としての見栄がある。 下手に人を呼んで騒ぎを大きくしたくない。


 マッギニス補佐がここまで怒ったのは出張疲れもあるんだろう。 海坊主関係のごたごたを丸く収めるのに苦労している、て話はタマラ中隊長補佐から聞いていた。 最初は一週間程度で戻るはずの出張が、また一週間、もう一週間とどんどん延び、十一月も中旬を過ぎてようやく戻ってきた。 やれやれと思う間もなく猫又だ。 温厚な性格の人だって怒りたくなるよな。

 俺だって悪かったとは思っている。 謝れって言うなら謝るさ。 でも慶事の先触れというお言葉をスティバル祭祀長から頂戴した以上、ノノミーアを殺す訳にはいかないし、誰かにくれてやる事も出来ない。 謝る以外にどうすればいいの?


 はい? 泣き落としを使え?

 そんな子供だましがマッギニス補佐に通用するもんか。 試した事はないけど、こんな生きるか死ぬかの場面で試す気にはなれない。

 猫又への偏見は上級貴族になればなる程強い。 そして軍人も階級が上になればなる程偏見が強くなっていく。 上級貴族出身で上級将校のマッギニス補佐からは将軍と比べものにならないくらい怒られる、と最初から覚悟していた。

 何しろ普段はほわほわした遠慮の塊のヨネ義姉上が真っ青な顔で俺の家に駆けつけ、りんご狩りの当日に気が付かなかった事を何度も謝り、この不始末は自分のせいだから死んでお詫び申し上げます、と言ったんだぜ。

 冗談じゃないっつーの。 ヨネ義姉上に死なれたら俺が師範に殺されるだろ。 もう、宥めるのに一苦労。 スティバル祭祀長のお言葉を伝えたらようやく落ち着いてくれたけど。


 神のお告げも同然な祭祀長からのお言葉があってさえ、俺は将軍からがっつり釘を刺された。

「決して油断するなよ」

 はい、とは答えたが、慶事って良い事だろ。 油断するなって、何を? そう言えば、良い事があった時程悪い事が起こったりするとか、諺があったような。

 俺の顔を見て、将軍がでっかいため息を零した。

「ヴィジャヤン大隊長。 お前は慶事が何を指すか分かっているのか?」

 何って、昇進だろ。 何をしたってこれより俺の爵位が上がるはずなんてない。 昇進だって何もしてないのに昇進するはずはないけど、これから何かをして、そのおかげで昇進する、て事ならあり得る。

 俺にとっては昇進なんて慶事じゃないけどさ。 俺が副将軍? 止めてくれって感じ。 だけど昇進の理由になりそうな何かをした訳でもないのに、ここで昇進だと思いますと言ったら厚かましいよな。 どう答えたらいいのか迷っていると、将軍が更に深いため息をついた。


「最もあり得るのがリネ様の懐妊だ」

 かいにん? 解任、のはずはないか。 リネの事なんだから。

 かいにん、かいにん、と。 あ、懐妊?

「ええっ! 懐妊、ですかっ」

「それがどういう意味を持つのか、今お前に理解してもらおうとは思わん。 だが将来、皇王陛下の血縁の叔父か叔母となられる御方だ。 爵位は伯爵でも普通の伯爵とは格が違う。 女性なら皇王族、または他国の王族からの求婚もあるだろう。

 同時にサリ様に対しては臣下であり、頑是無き幼児であってもその立場は弁えさせねばならん。 一つ屋根の下で暮らしている兄弟だからと一緒に遊ばせては大きな問題になる。 その点は肝に銘じておくように」

「分かりました」


 そう返事はしたものの、具体的にどうしたら正解なのか分かっている訳じゃない。 将軍に聞いたって知らないだろう。 そもそも子育てに詳しい軍人なんていないだろ。 何人もの子育てを終えた女性に聞いたっていいが、どう育てるのが正解なのかを知っている人はいないと思う。 準が付くとは言え、皇王族の子供が臣下の家で育てられた例なんて今まで一つもないんだから。

 俺がこんなに偉くなる前は、子供の将来や結婚相手なんて大きくなってから自分で決めればいいと思っていた。 第一、将来何になるかなんてサリの場合はもう決まっているんだし、親としては元気に育ってくれさえすればいい。

 差をつけろ、と言うならつけるさ。 どういう差をつければいいのか教えてくれるならな。 俺と兄上達みたいに普通の兄弟だって差がつけられて育ったりするから差をつける事自体は簡単だ。 そもそも生まれて来る子が男の子なら同じ物を着るはずはないし、遊びや習い事、勉強だって同じはずはない。

 でもそれ以外、どこに差をつければいいの? 同じ事をやってもサリは叱らず、弟は叱るとか? それともサリなら叱って弟だったら叱らない?


 はああ。 頭が痛い。

 でもそんなずっと先の事よりこの簀巻きだ。 今日こんな目にあうと分かっていたら、もっと厚着して来たのに。

 あ、そう言えばいつだったか。 こうなってる姿が目に浮かんだ事があったな。

 遅っ。 ほんと、俺の予知能力って何の役にも立たない。 解決方法を教えてくれとは言わないが、今日ですよ、みたいなお知らせがあったっていいのに。 でなきゃ対策とか。 例えば、猫又の件は明日まで待ってから言えば少しはましですよ、とかさ。


 実は、リネのスカートにノノミーアを潜り込ませて儀礼の稽古をしてみた。 そしたら最後まできちんとリネの動きに合わせ、少しも邪魔をしなかった。 ブラダンコリエ先生が気付かない振りをしてくれたのかもしれないが、俺が注意深く見たってノノミーアみたいなでかい猫が隠れているようには見えなかった。 踊りの練習をした時も大丈夫だったし。 第一、伯爵夫人にスカートの裾を上げて見せろなんて言う人はいないだろ。

 ノノミーアが外をうろついたとしても、ちょっと見には尻尾が太いただの猫だ。 抱き上げれば分かるが、あの大きさなら男でなければ抱き上げようとはしないだろう。 それに護衛に限らず、男は両手が塞がる事を嫌う。 この猫を抱き上げて下さいと誰かに頼まれたのでもない限り進んで抱き上げようとする人はいないはずだ。 それに城内で見掛ける動物は皇王族が飼っている可能性もある。 美猫だろうと誘拐する人はいないと思う。 それなら新年の御挨拶にノノミーアを連れて行っても何とかなる。


 て事は、マッギニス補佐に急いで報告する必要はない。 とは言ってもマッギニス補佐にはモンティックという、人の隠したい事ほどすぐに見つけちゃう怖い奴が側にいる。 あいつがいる限り、飼い始めたのが普通の猫だったとしても隠せないだろう。

 ナジューラ義兄上が早速呪術師を派遣したのを見ても分かる。 俺からは誰にも何も言ってない。 将軍や師範を始め、俺の奉公人もみんな口の堅い人ばかりだ。 それでもナジューラ義兄上は俺が家に猫又を連れ込んだ事を知っていた。 おかげで我が家に呪術師が奉公してくれる事になったのは助かったけど。

 とにかくどこから何がばれるか分からない怖い世の中だ。 とっくにばれているんだとしたら黙っているのはまずい。 後でもっと困った事になる。 そう思ってマッギニス補佐が出張から帰って来たその日に自分から言ったんだ。 猫又という欠点はあってもそれ以外は美点だらけの猫なんだから、多少のお目こぼしがあるかも、と期待して。 そしたら沢山ある美点を一つも言わない内に氷の簀巻きだもんな。


 俺を見下ろすマッギニス補佐の目付きが一層冷たい。 八百屋の店先で大根とかを品定めをしている奥さんの目付きに似ているかも。 俺をどう料理するか迷っている? いや、おそらく料理は決まっている。 それより今日全部使い切るか、取りあえず半分だけ使って明日残りを始末するかを迷っているっぽい。

 じゃあそろそろ始めるか、みたいな感じでマッギニス補佐が言う。

「ヴィジャヤン大隊長。 猫又は皇王族にとって天敵とも言うべき害獣である事は御存知でしょうか?」

「み、見つけた時は知り、らなかった」

「すると今では御存知」

「は、はい」

「そのような害獣を皇王族に近づけた、或いは近づけようとしただけで死罪となる事も?」

 それは今知りました、なんて言える訳がない。 マッギニス補佐は俺のお粗末な返事なんて聞くまでもないと言わんばかり。 ぷるぷる震えて答えられない俺に次の質問をする。

「私がこの場でヴィジャヤン大隊長を殺害したとしても何のお咎めもない、という事は?」

 ひーっ。 これはやばいなんてもんじゃない。 マッギニス補佐が静かに続けた。

「勿論、お咎めがないからと言って皇国の英雄を殺めては何かと不都合」

 かくかく首を縦に振る。 それって殺しはしないが凍死してもらいます、て事じゃないよな? 寒さと恐怖で歯をかちかち言わせながら俺は精一杯ノノミーアの美点を並べた。

「あ、あのな、見ているだけで、い、癒される猫なんだ。 と、とっても賢いし。 ケルパと比べたって負けない位。 なのに、すごく、あ、愛想が良くてさ。 ケルパなんか、俺に向かってさえ、ふん、主だからどうした、て態度なのに」


 マッギニス補佐は俺の言葉を遮り、一見猫又と何の関係もなさそうな話を始めた。

「ヴィジャヤン大隊長は宮廷内派閥に関する詳細は御存知ないとは存じますが。 ヴィジャヤン準公爵は現在最大派閥の首領でいらっしゃいます。 とは申しましても、それ以外の派閥が無力という訳ではございません。 特にブリアネク宰相は宮廷の事実上の指揮者。 実務采配の決定権がおありなので、その影響力には侮れないものがございます。 ある意味、ヴィジャヤン派閥の台頭で一番被害を被った派閥とも申せましょう」

 今度は俺の方が、そんなの俺に何の関係もないだろと言いそうになったが、そこでトビが教えてくれた事を思い出した。 陛下以外に俺を有罪にするか無罪放免とするか、胸先三寸で決められる人が一人だけいる。 それがブリアネク宰相なんだって。


「あちらと致しましてもヴィジャヤン派閥と正面衝突するのは失うものが大きいだけに避けたい事。 とは申しましても権力とは使えば使う程相手を恐れさせる事が出来るものでもあり。 慎重な御方であるだけに無用な実力行使はなさいませんが、使う時と場所を承知している策士でなければ長年に渡り宰相職を務められるものではございません。

 お見送りの際の一連の行動に関しましては、大隊長が新年に大審院へ赴き、質疑応答なさる事で収まりがつきました。 ブリアネク宰相にとっては痛い黒星。 ですが大隊長は何かと物議を醸される御方。 座して待つだけで次がある、と予想した故の譲歩でしょう。

 そこに猫又。 あちらにすればこちらを叩く絶好の機会で、大隊長を救いたいのならあれをしろこれもしろと様々な要求を出してくると思われます。

 今回も揉み消しに成功したとしても、その次、そしてその次がある事を考慮致しますと、ここで抜本的な対策を講じなければ、いずれブリアネク派との抗争に発展するのは必定。 戦略的にはあちらとこちらの利害が一致するのが最善な訳ですが。 大隊長及び御兄弟の皆様は既に正妻を迎えていらっしゃる。 姻戚関係がある派閥内の誰かと姻戚関係を結んだところで同床異夢。 強固な同盟にはならないと推察致します」


 な、なに? 正妻がどうかした? 何だかごちゃごちゃしてよく分かんない。 これってつまり、俺に愛人を作れとか、そういう話?

 寒さがきつくなってきた。 もうどうでもいい。 瞼が重くて目を開けていられない。 何でも言う通りにするから、この氷を何とかして。

 そう言おうとしたら、俺の頬をぴしっと叩いてマッギニス補佐が言った。

「この状況を打開するには、サリ様をブリアネク侯爵家の養女とする事が最善の策となりましょう」

 養女? 頭がぼーっとして、思わずはいと言いそうになった。

 でも養女って。 そしたらもう一緒に住めないよな?

 そ、そんな。 ブリアネク家の領地がどこにあるんだか知らないけど、北にない事は確かだ。 そんな遠くに行っちゃったらサリは俺の事なんてきれいさっぱり忘れるだろ。 父上と呼んでもらう事だって出来ない。


「サ、サリ、様と、会えなくなる、のは、い、嫌」

「あちらは北に別邸を建てると約束しております」

 なーにが別邸だ。 御心配には及びませんみたいに言ってるけど、俺が実家に住んでいた時、隣に住んでいる人と会って話をした事なんて一度もなかった。 今は当主だからお隣さんや御近所のみなさんとも付き合いがあるが、貴族は隣だろうと親戚だろうと理由がなければ会ったりしない。 ただ会いたい、というのは理由にならないんだ。

 俺が会いたい時には会わせてあげる、と約束していたとしても、毎日会いたいなんて希望が叶えられる訳がない。 養子に出したら実父だって他人で、しかも臣下だ。 隣に住んでいようと養父がうんと言わなきゃ会わせてもらえないし、それに文句を言う権利なんかない。 北に別邸があったってサリは本邸で育てると養父に決められたらそれっきりじゃないか。


「い、嫌だ。 いーやーだあああ」

 自分では大声で叫んだつもりだが、口だけ動いて肝心の声が聞こえない。 もっと大きく声を出さなきゃ。 でも口を動かすのもおっくう。 段々気が遠くなっていく。

「強情な御方だ」

 マッギニス補佐の囁きが聞こえたような気がする。 妙だけど、その言い方が全然冷たくない。 それどころか、愛おしげ?

 俺ってば、何をバカな事、言ってるんだか。 ここが天国でもあるまいし。


 ……俺、もう死んでるんじゃ、ないよな?


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