破呪 4
準大公に手を握られた瞬間、ぴきーーんという鋭い音が脳内に響き渡った。
何だ? 何が壊れた? あまりにはっきり聞こえたので思わず辺りに視線を投げたが、あんな金属的な音を出しそうな物は何もない。 頭の中で感じた音である事は確かだ。
「おーしっ! 飛べ、スパーキー!」
ぎゅああっ、とスパーキーが答え、短い助走をしただけで飛翔し始めた。 キーホンが飛び立つ時に行った飛翔準備や前後の確認もせずに。 慌てて安全ベルトを締め、客席前に付いてある棒にしがみついた。
「いいぞっ! その調子だっ!」
地上の誰かが何かを叫んだようだが、スパーキーの元気な鳴き声に掻き消されて聞き取れない。
「まーったく、一々細かいんだから。 分かってるっつーの」
誰が何に細かいのか? 気にならないでもなかったが、スパーキーは地面に対してほとんど垂直に近い角度で上昇している。 こちらは振り落とされないように必死だ。
「スパーキー、そんなにがんばらないでもいいよー。 すぐそこだから」
呑気な準大公の声がして、ようやく飛行角度がほぼ水平になった。
取りあえず一息吐く。 自分の中を探ってみた。
なんと、呪術を掛けるのに不可欠な「気」が消えている。 全て。 きれいさっぱりと。
なぜこんな事が? あり得ないだろう?
間違いだ、と叫びたくなった。 だが叫んだ所で何になる。 ないものはない。
どうしたらいい? どうすれば取り戻せる?
気は元々誰にでもある、とシェベール先生はおっしゃった。 呪術師だからあるのではなく、修行したおかげで一般人より鋭くなっているに過ぎない、と。 全然ない人、又はなくした人がいるだなんて聞いた事がない。
疲労や加齢で鈍った気を回復させるための指南書ならいくらでもあるが、完全消失となると、例えて言えば魚がヒレを失ったようなもの。 どんなに記憶を手繰っても消失した気を回復させた事例を読んだ覚えはない。 それに気を完全消失した呪術師は死ぬ、と聞いていた。 なぜ私はまだ生きているのか?
解呪に必要な解析用の気ならまだあるからか? 確信はないが、解析が出来るなら鑑定も出来るだろう。 と言う事は、助手になる前の状態に逆戻りしたのでもない。
一体何が原因でこんな事に?
まさか。 まさか、準大公に手を握られた事が原因?
破呪? これが、破呪?
準大公が大声で叫んだ。
「スパーキー、あそこっ! あの家の裏、湖の近くっ!
よーしっ。 あっ、リネの畑! 避けてっ!」
スパーキーが突然方向転換し、どかっとものすごい音を立てて着地した。 地面を覆っていた落ち葉が宙に舞う。 キーホンの柔らかい着地と比べたら雲泥の差で、ぶ厚い防寒着を着ていなかったら安全ベルトが体に食い込み、肋骨が折れていたかもしれない。 季節が晩秋で助かった。
「ふうっ。 結構うまくいったな。 スパーキーがおりこうさんで助かった」
ぎゃっすっ、ぐわっぐわっ
「へっへっへっ。 帰りもこの調子で頼むぜ。
あれ? タイマーザ先生、顔色が悪いですよ。 あ、着地がちょっときつかったですか?」
「だい、じょうぶ、です。 ごほっ、ごほっ」
長年の研鑽が一瞬で無に帰したのだから全然大丈夫ではない。 だが呪術が出来ない呪術師だなんて物笑いの種だ。 言いふらされては困る。
こう言ってはなんだが、準大公はお口が堅い御方には見えない。 面白半分に噂を撒き散らしたりはなさらなくとも、知っている事を聞かれたら何であろうと深く考えずにお答えになるような。
ただ、破呪に関しては事実をありのままに言ったとしても誰も信じないと思うが。 実際に経験した私でさえ半信半疑なのだ。 呪術に無知な者ならともかく、呪術師なら真面目に受け取れる話ではない。 それにしても息をするのと同じくらい自然に破呪が出来るだなんて。 この御方は、一体?
六頭殺しの二つ名は伊達ではない、か。 虫も殺さぬ顔をして実は呪術師殺しとは。 解呪は出来るのだから正確に言えば助手殺しだが。 見習から助手を抜かして呪術師になる事は出来ないから、助手がいなくなったら呪術師だっていなくなる。
あの手。 あれは呪術師を目指す者にとって鬼門だ。
私の場合、これ以上減りようはないが、更に訳の分からない事が起きる可能性は捨てきれない。 二度と触られたくなくて、準大公の助けを借りず、乗客席から飛び降りた。 地面に転がってしたたか腰を打ったが、落ち葉と防寒着のおかげで怪我をせずに済んだ。
急いで立ち上がり、体に付いた落ち葉を払っていると、続いて準大公がひらりと飛び降りる。 猫のように軽やかな着地で、ふっと軽く笑って頷かれた。 その満足気な様子が気に障り、太っている割に身軽ですね、と言いそうになったが口を噤む。 そうなんです、と嬉しそうに返事をされたら余計むしゃくしゃして言わんでもよい事を口走りそうだ。
この御方を恨むのは蜂に刺されて蜂を恨むようなものだろう。 それに嫌みなんか言った所で通じないような気がする。
準大公が私の方を見て気遣わしげにお訊ねになった。
「先生、腰は痛みませんか?」
「はい」
「じゃ、スパーキー、すぐ戻るからここで水を飲んで待ってて。 水浴びして体を冷やすんじゃないぞ」
ぎゃっす、ぎゃっす
「ははは。 お前はほんと、素直でかわいいな。 俺の周りにいる人がみんなお前みたいだったら俺も苦労しないのに」
そこで私が隣にいる事に気付いたらしく、あ、しまった、というお顔をなさった。
「いや、先生の事じゃなくて。 あの、誰の事って訳でもなくて。 えーと、その、げ、玄関はあちらです」
苦労? 苦労をしているようには見えないが。 奉公人の方こそこんな主に仕えて苦労しているのではないのか?
それともタケオ大隊長の事をおっしゃっている? そう言えば、弓と剣、と噂される割にはそんなに仲が良いように見えなかった。 但し、仲が悪いとも言えないような。 どちらかと言えば、出来のいい兄が不出来な弟に舌打ちしている関係?
準大公の後ろに付いて邸へ向かった。 上から見た通り、平民の邸と言ってもいいくらい小さい。 いくら別邸でも準大公の住む家がこんなに小さくていいのか? 部屋数も二十くらいしかないし、外観だって贅を凝らしているようには見えない。
城壁や外堀に囲まれた貴族の大邸宅を見慣れているだけに内心驚いた。 いくら新興貴族で正式な爵位は伯爵とは言え、あまりに慎ましい。 大きさはともかく、瑞兆をお守りするのにこれで充分なのか? 私の家と大して変わりがないだなんて北軍大隊長の自宅としても不用心だろう。
家を建てるから援助してくれと頼んだのに、誰にもうんと言ってもらえなかったとか? ナジューラ殿の気前の良さを見た後ではそれも信じ難いが。
それにフアから聞いた所によると、準大公の義姉はヘルセス公爵令嬢だ。 準大公夫人は平民出身だが実兄の妻はグゲン侯爵令嬢。 準大公の甥はカイザー公爵令嬢と婚約しているし、準大公の実父は最大派閥の首領なのだとか。 それなら頼れる金脈はダンホフだけではないはず。
貴族が腹の中で何を考えているかなんて傍から見ただけで分かるものではないが、親戚全員と喧嘩している訳でもないだろう。 たとえ自己資金はなかろうと、瑞兆の家を建てるから出資してくれ、と一声掛けたら親戚でなくても喜んで金を差し出すと思うのだが。 それともここは本邸が建つまでの仮住居?
玄関の扉を開けると、立派な押し出しの人物が私達を出迎えてくれた。 瞳に底の知れない深みがある。 こちらが本物の準大公では、と言いたくなるような迫力だ。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま、トビ。 こちらはナジューラ義兄上から派遣された呪術師のタイマーザ先生」
トビと言うと、執事のトビ・ウィルマーか。 切れ者という噂は聞いている。 さすがは準大公家執事と言うべきか。
確かにこの人を掴まえて、素直でかわいいとは言えまい。 この執事が主を素直でかわいいと思う事はあるかもしれないが。
優雅なお辞儀と共にウィルマー執事が挨拶してくれた。
「タイマーザ師、御高名はかねがね伺っております。 ようこそ当家へお越し下さいました。 長旅でお疲れになった事でしょう。 どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい。
旦那様、奥様はお稽古の最中だった為、只今お召し替えなさっております。 少々お待ち下さい」
「うん、分かった」
「それでは旦那様、お召し替えを」
「すぐに戻るから別に脱がなくてもいいんじゃ」
準大公が執事の顔を見て、急いで付け加えた。
「あ、汗かいたらまずいよな。 タイマーザ先生、ちょっと失礼します」
そうおっしゃって手早く防寒着を脱ぎ始めた。 一枚、一枚、もう一枚。 どんどん脱いでもまだ下に着ている服があった。 顔痩せしている人かと思ったら着ぶくれしていたのか。
それにしても執事の顔色を見た途端、言う事を聞くとは。 この主従の力関係は見た目通り、従が上なのかも。
椅子を勧められ、家の中を見渡した。 玄関から入ってすぐの空間は応接間と台所、食堂が仕切られていない不思議な間取りになっている。 見るつもりがなくても竈の上のやかんが湯気を出しているのまで丸見えだ。
奉公人がお茶と焼き菓子を出してくれた。 ふわっとよい香りがする。 お茶を飲んだら地面に転がった時の痛みが和らいだ。
窓から湖の方を眺めるとスパーキーが水を飲んでいて、波紋に秋の日差しが踊っている。 それを眺めながら私は感知能力を室内に走らせた。
呪術師なら誰でも呪いを感知出来る。 だが、ほとんどは目前に置かれた石の呪いを感知出来るくらいだ。 でも私なら石が遠くにあろうと感知出来る。
公爵家のような広大な邸宅となるとさすがに全館の正確な感知は無理だが、この家の大きさなら呪われた石が金庫の中に置かれていたとしても感知出来る。 けれど何の気配も感じられない。 貴族の家には私が呼ばれた理由の他に、少なくとも一つや二つは呪術が掛かっている石があるものなのだが。
職業柄毎日呪術に囲まれて暮らしている私にとって、この静寂はかえって居心地が悪いが、この家の住人にとっては住みやすかろう。 幸せな家だ。 穏やかで温かい。
衣擦れの音がして振り向くと、二階から小柄だが鍛えられたお体の女性が侍女と共に下りていらした。 素顔で、お召し物も実に質素だが、準大公夫人だろう。 歌姫であり、剣士としても中々の腕前なのだとか。 玉の輿に乗った女性にありがちな美貌を鼻にかけた雰囲気はない。 剣のお稽古だったのか、お顔がほんのり赤い。
「旦那様、遅れまして大変申し訳ございません」
「いや、こっちがいきなりだったから気にしないで。 知らせを走らせてる時間がなくてさ。 こちらがタイマーザ先生。 ノノミーアを見てくれるって」
「初めまして。 サダ・ヴィジャヤンの妻、リネでございます。 どうぞ宜しくお願い申し上げます」
夫人の後ろから猫又が顔を出し、鳴きながらちょっとお辞儀した。 明らかによろしくと言っている。 大きさといい理知的な瞳の輝きといい普通の猫ではない。 だが長毛種だから見ただけでは尻尾が二つに分かれている事に気付く人はいないだろう。 これなら尻尾が異常に太い新種の猫と誤魔化せるか?
「準大公夫人にお目にかかれるとは身に余る光栄です。 ルガ・タイマーザと申します。 それでは早速ですが、猫に触る事をお許し下さいますか?」
「はい、どうぞ」
「ノノミーアと命名なさったのはどなたでしょう?」
私の質問に準大公がお答えになる。
「リネです」
それで準大公夫人にお訊ねした。
「命名の由来を伺ってもよろしいですか?」
「名前を何にしようか迷っている時にミーア、ミーアと鳴いたものですから。 でもなぜかサリ様はノノってお呼びになるんです。 それでノノに変えたんですけど、それだと呼んでも知らんぷりされてしまって。 結局ノノミーアになりました」
触る前からこの猫には何の呪術も掛かっていない事が感じられた。 或いは、この猫も準大公によって呪いを掛ける能力を奪われたのだろうか? 私のように。 それとも最初からなかった?
仮に能力が奪われたのだとしても、そんな能力があったら殺されて終わりだ。 準大公に拾われた事によって命が助かったと考えるなら一概にかわいそうとは言えないが。
私の腕の中でノノミーアが、旦那に触られたんでしょ、あなたもひどい目にあったわね、と私を労わるかのように鳴いた。
準大公が御質問なさった。
「大丈夫ですよね?」
「呪いが掛かっていない事は保証致します。 猫又を飼う事に関して陛下が何とおっしゃるか、それまでは保証致しかねますが」
「はあ。 やっぱり問題になりますか。 初めて会った日に散々一緒に遊び回ったんだし、心配する事なんてないと思うんですが。
乳母のエナは猫又の事を知っておりまして。 翌日尻尾が二つある事に気付いたら、もう、大騒ぎ。 その場で殺さんばかり。 何とか宥めたんですけど、今でもすごく警戒しているんです。 猫用の檻を買ったり、鈴付きの首輪を付けようとしたり。 檻に閉じ込めたって、するっと出ちゃうんだから無駄なのに。 首輪だっていつの間にか外れているし。 それが余計に不気味だって、ますます警戒しちゃって。 寄るな触るな。 俺が大丈夫と言ったって全然信じてくれないんです。
あの、出来れば先生から一言、無害だとおっしゃって戴けませんか? 皇国一の呪術師から言われた言葉なら信じると思うので」
「乳母が何らかの害を目撃した、という事ではない?」
「害どころか。 リネは元気になったし、ケルパも機嫌がいいし」
「ケルパとは、どなたでしょう?」
「飼い犬です。 これが中々気難しい犬でして。 それがノノミーアが来て以来、そんなにぴりぴりしていないんです。 まあ、俺の嘘を笑って見逃してくれる程呑気になったという訳でもないんですが」
嘘を見逃さないとはどんな犬だ? それとも単なる言葉のあや?
意味は分からなかったが、何を見逃してもらえなかったのか、ここでお伺いする訳にもいかない。 流す事にした。
「猫又の事は既に北軍将軍へ御報告なさった訳ですね?」
「はい。 スティバル祭祀長へも。 祭祀長からのお言葉があったおかげでなんとか黙認されています。 渋々みたいですけど」
「お差し支えなければ祭祀長が何とおっしゃったのか伺いたいのですが」
「慶事の先触れであろう、とおっしゃいました」
「ほう。 では?」
「はい。 リネが、おめでたで。 えへへ」
「それはそれは。 心よりお慶び申し上げます」
「ありがとうございます。 出産は来年八月になるらしくて。 まだ日にちがあるし、ナジューラ義兄上に知らせるのは新年の時にでも、と思っていました。 タイマーザ先生がお戻りになったらよろしく伝えておいて下さいませんか?」
「承知致しました。 猫に呪いが掛かっていない事も申し上げておきます。 さぞかし御安心なさる事でしょう。 大変御心配なさっていらっしゃいましたので」
「ナジューラ義兄上が安心したら陛下にも御安心戴けないでしょうか?」
「それは少々、と申しますか、かなり難しいのでは。 猫又の記録にどういったものがあるのか存じませんが、皇王族の天敵と見なされるに足る事件が過去にあったと思われます。 それがある特定の猫又が起こしたものであり、他に猫又がいたとしても何の関係もない、と証明可能なら別ですが。
全ての猫又が有害とするのは猫又に対する偏見、と申し立てた所で御理解戴くのは無理ではないかと推察致します」
「でも家人や親戚に疑いの目で見られていたら、陛下から御理解戴くなんてもっと無理ですよね?」
「ごもっともなお言葉です。 では乳母に会わせて戴けますか?」
「助かります。 サリ様がお元気な所も見て戴きたいので、二階までお越し下さいますか?」
「畏まりました」
サリ様はお部屋で一生懸命積み木遊びをなさっていた。 その近くにふてぶてしい面構えの犬が控えている。 サリ様に御挨拶申し上げると、犬がすっと立ち上がって私の足元に近寄り、ひよひよと鳴いて丁寧なお辞儀をした。 これからよろしくと挨拶するかのように。
私に犬の年は分からないが、老成した瞳をしていて、思わずこちらこそ、と挨拶したくなった。 私の助手に見習わせたいくらいきちんと躾られている。 これのどこが気難しいのだ?
「タイマーザ先生、当家の奉公人になって戴けませんか?」
いきなり準大公が思いがけない事をおっしゃる。 冗談かと思ったが、非常に真面目なお顔だ。 準大公家なら呪術師を抱えたっておかしくはないが。 陛下や祭祀長を始めとするお偉方に根回しもせず、在野の呪術師を雇おうとしたって通らないだろうに。
当然、私の身上や技能も検査されるに違いない。 呪術を掛ける能力を失った事だってすぐにばれるだろう。 何と申し上げて断ればいいか考えていると、準大公がずいっと近寄って私の両手をぎゅっと掴んだ。 さすがにぎゃっと叫びはしなかったが、思わずお手を振り払ってしまった。
準大公に対して何という無礼。 人の手をいきなり掴む方も無礼だが、準大公のお手を振り払うだなんて許される事ではない。 私は慌てて両膝をついて謝罪した。
「申し訳ございません。 しかしながら、それはなりません」
「あの、給金は大した額を出せないんですが。 先生のお仕事は今まで通り続けて下さって構いません。 そちらの報酬は先生のもので、お住まいも今まで通り、住み込みでなくてもいいんです」
「いえ、給金が問題なのではございません。 御理解戴けるかどうかは存じませんが、準大公には破呪がお出来になります」
「破呪って何ですか?」
「呪術を消し去る事です」
「はあ?」
「飛竜に乗った際、準大公に手を握られ、私は二度と呪術が掛けられなくなりました」
「そうなんですか」
「ですから私ではお役には立ちません」
「でも俺は別に呪術を掛けてもらいたい訳じゃないし」
「すると、お抱え呪術師として雇いたいのではない?」
「肩書きは何でもいいんです。 呪術師と呼ばれるのがお嫌なら解呪師でも執事補佐でも。 あ、解呪は出来るんですか?」
「それは出来ると存じます」
「鑑定も?」
「はい」
「それだけでもすごいじゃないですか。 だけど俺がお願いしたいのは世間の皆さんの説得なんです」
「説得とは、何を説得するのでしょう?」
「ノノミーアに害はない、て事です。 リネとお腹の子を守ってくれているという事まで分かってもらおうとは思いませんが、せめて無害だと思ってもらわないと。
ノノミーアはリネが登城する時にもきっと側を離れません。 ノノミーアを連れて行っちゃだめなら、リネは登城出来ないって事になります。 妊娠という理由がある内は失礼しても許されるかもしれませんが、来年は叙爵して以来初めての御挨拶です。 それは何が何でも行かないとまずいみたいで」
「無害とおっしゃいますが、その根拠と申しますか、証拠でもあるのでしょうか?」
「それはないんですけど。 ノノミーアって偉そうですよね?」
「偉そう?」
「そう思いませんか?」
そこでノノミーアが胸を反り返らせ、ぱしん、と床を尻尾で叩きながら鳴いた。 あら、何その偉そうって。 守ってあげてるんだから偉いに決まっているでしょ、と言うかのように。
「ほらね?」
「しかし、これだけでは説得のしようがないと申しますか」
「そこでタイマーザ先生のお力をお借りしたいんです。 俺がそんな事を言ったって誰も信じてくれません。 ノノミーアはリネの側を離れないので、猫だけ連れて行って見せる事も出来ないし。 でもタイマーザ先生がおっしゃったら信じてもらえると思うんです」
「けれど呪術師は皇王族にお目通りが叶いません。 呪術を掛ける能力を失ったという事は証明のしようがない事で、仮に準大公名代という肩書があったとしても私が登城を許可される事はないでしょう」
「スティバル祭祀長が陛下にお手紙を書いて下さるとおっしゃっていました。 ですからお願いしたいのは上級貴族への根回しなんです。
エナ、どう? タイマーザ先生の言葉なら信じられる?」
「はい、信じます。
ノノミーア、疑ったりしてごめんなさい」
そう言ってノノミーアに頭を下げた。 彼女は確か、庶子ではあるが、マレーカ公爵令嬢。 マレーカ公爵家にも何年か前、鑑定に行った事がある。 公爵にはお会いしなかったが、大変気位の高い一族という印象だった。 猫に頭を下げるとは、公爵令嬢でなかったとしても中々出来る事ではない。
準大公が期待を込めた目で私を見つめた。 やってくれる? お願い、と縋らんばかり。
ここで否、と言うのは心が痛む。 リスナーや呪術師組合の組合長である事を抜かしても、そこそこ顔は売れているから上級貴族への説得が仕事なら出来ない事ではない。
だが、準大公お抱え。 私は生涯誰に望まれても仕えるつもりはなかった。 仕事の依頼だったら頼まれた事をやればいいだけだが、奉公となると主が誰であっても謎解き以外のごたごたに巻き込まれる。 やれ誰が継ぐの継がないの。 そのせいで解呪一つをするにしても、しろ、いや、するな。 会う人によって違う事を命じられたり、争いのとばっちりで殺されたりする。
この家でそんなごたごたはないような気はするが、その代わり全く別のごたごたに巻き込まれるだろう。 破呪一つを取っても様々な問題がある。 もし私が他の呪術師に警告しなかったせいで呪術師の数がどんどん減ったら? 言ったら言ったで、準大公誘拐事件や国際紛争が起こったらどうする?
とにかく何から何まで常識からかけ離れた御方だ。 この先この御方が何をやらかすか、予想は出来ない。 破呪が出来ると聞いて態度に変わりがないのだって、あり得ないだろう? 宝くじに当たったも同然の異能ではないか。
破呪の意味をお分かりになっていないからなのかもしれないが。 この御方の場合たとえ理解したとしても無関心な態度に変わりはないような気がする。 破呪に無関心な破呪師だなんて。 それもまたこの御方がいかに非凡であるかの証拠だろう。
よくよく考えてみれば皇寵をお持ちなのだ。 望めばこの世の栄華は思いのままのはず。 なのに愛人に囲まれている訳でもなければ奢侈に埋もれた生活でもない。
いずれにしてもこれは破呪とは何かを知る千載一遇の機会。 たとえどのような揉め事が付随していようと捨てたら後悔しないはずがない。 ならばこの先何カ月悩んだ所で私の答えが変わる事はないだろう。
「微力ながら最善を尽くしてお仕え申し上げます」
「ありがとうございますっ!
あの、早速なんですけど、俺の頭を見てもらえますか?」
夫人の足元に纏わりついていたノノミーアが、奥さんはまともなんだけど、旦那がちょっとねえ、とため息をつくかのように鳴いた。