破呪 2
手紙を出してから、いや、正確には北方伯が解呪してから、毎日が驚きの連続だ。
まず、ヴァルが講演する事を即座に了承した。 開催地をダンホフ公爵本邸と指定し、泊まりたい人は申し出るようにとの招待付きで。
吝嗇で知られるダンホフ公爵が、お抱え呪術師の客の面倒までただで見るとは思えない。 つまり食費、宿泊費はヴァルが払う訳だ。 話を聞く方としては金を払ってもいいくらいなのに。
紅赤石の解呪は慶事だし、世間に広めたいからだと思うが、呪術師なら皆もう知っている。 だが以前の禍々しさを知っている者はそんなにいなかったはず。 私は知っていたが。 なぜあんな石を持っていたのか、世間の好奇心を煽りたい事でもないだろう。 百人に上る呪術師を招待する意味があるのか?
選んだ会場も不可解だ。 こちらは世界の果てであろうと行くつもりだが、正直な話、あそこは死体置き場を連想させる。 死んでいるならともかく、生きているのに行きたい場所ではない。 組合付属図書館、博物館のどちらにも広い会議室があるし、皇都のダンホフ公爵別邸だってかなりの広さだ。 ヴァルが出不精で旅に出るのが面倒だから本邸にしたのかもしれないが。 ヴァルだってあの辛気臭い場所から偶には抜け出したいと思わないのだろうか?
おまけにヴァルからの返信には正門、正面玄関から入るようにと書いてある。 呪術師を呼ぶのは解呪したいか、それとも助手では掛けられないような複雑な呪術を掛けたいからだ。 今回はそのどちらでもないが、貴族は外聞を気にする。 呪術師を呼ばねばならない場合でもこっそり別邸に呼ぶか、世間に知られないよう、どこか場所を借りるのが普通だ。 本邸に呼ぶのはそこから動かせない何かがある場合に限られる。 その場合でも正門以外の門からこっそり入れ、と指示するものなのに。
新年会の時期でもないし、全呪術師が一堂に会するだなんて。 世間は一体何事かと思うだろう。
ダンホフ公爵本邸に着いたら更に驚いた。 ダンホフ公爵本邸の雰囲気が以前と明らかに変わっている。 前は敷地内に入っただけで靴底に鉛が差し込まれたみたいな感じがした。 今日はそんな重苦しさが全く感じられない。 それどころか、わくわくするような。 往生際悪く、出発直前まで行きたくないと弟子に愚痴った事が申し訳なくなった。
「フア、屋敷の雰囲気が変わったと思わないか? 建物に手が加えられたようには見えないが」
「うむ。 確かに」
「八月にヴァルと会ったんだろう? その時既にこんな感じだったのか?」
「知らん。 進水式は南でやったからな。 私が最後にここを訪れたのは二年前の春だ。 その時はお前も知っている通りの陰気な場所で、庭も常緑樹と彫刻だけ。 花なんか一本もなかった。 花好きのヴァルがこれでよく我慢出来る、と感心した程だ」
そう言われてみれば私がここを訪れた時、季節は夏だったが花を見た記憶はない。 美しい踏み石は昔のままだが、今その両脇には晩秋というのに可憐な秋の花々が咲き乱れ、彫刻や大木の周りにも鮮やかな彩りが添えられている。
それだけではない。 すれ違う門番、馬丁、取り次ぎ侍従、女中、誰の表情も明るく、さざめきや人の動きに活気がある。 前に来た時は皆目を伏せていて、私が声をかけるとびくっとしたのに。 私を見る目に恐れが垣間見えるのは私の職業のせいだろうと思っていたが、今日会った奉公人の目に恐れはない。
取り次ぎに案内されて玄関に入ると侍従ではなく、ダンホフ公爵家執事に出迎えられた。
「タイマーザ師、呪術師組合組合長を当家にお迎えするとは恐悦至極に存じます。 また、フィズボン師も遠路遥々ようこそ当家へお越し下さいました。 何卒ごゆっくりお寛ぎ下さいますように」
いつ私は公爵家執事に出迎えられる程偉くなったのか? それに執事が私の名前と役職名を知っていた事にも驚いた。
呪術師組合組合長というと偉そうだが、秋になるまで自分が組合長に選ばれた事を知らずにいたのを見ても分かる通り、実質の権限なんて何もない。 単なる名誉職で、実務は全て専任の組合職員がやっている。 新年会での挨拶と臨時会合の招集をするくらいだ。
組合職員だって組合長の部下ではない。 仕事を頼めばやってくれるだろうが、それは頼んだのが私でなくてもやってあげた事だからだ。 あみだで選ばれる事は呪術師でなければ知らないにしても、組合長を有り難がる必要がない事はヴァルから聞いているだろうに。
それにまず私に挨拶した事もおかしい。 同業者になら私はシェベール先生の弟子として知られ、尊敬されてもいる。 だがそれはフアも同じだし、そのうえ彼はリューネハラ公爵のお抱えだ。 それを考えると、彼の方が先に挨拶されるべきで、公爵家執事ともあろう者が挨拶する順番を間違えるとは思えない。
おそらくヴァルが何か指示を出していたのだろうが、遺言の件で争い、負けたのは私だ。 勝った事が申し訳なくて、こんなお為ごかしをしたのか? 申し訳ないと思うくらいなら最初から異議申し立てなんかしなけりゃいいのに。
ヴァル、フア、私の三人はいずれも独身で、若い頃に近親を全て亡くしている。 シェベール先生は沢山の弟子を持つ事を好まなかったから、十年前にヴァルとフアが独立するまでずっと四人暮らしだった。 寝食を共にしていたし、危険な仕事をする仲間でもあり、遺言争いの前はヴァルの事を家族と思っていたが、もう家族でも知り合いでもない。 私に勝った時のヴァルのセリフが、先生の御遺志が全う出来て良かった、だ。 自分が悪いと思っていたら、そんなセリフは出て来ないだろう。
元来が、生まれてこの方間違いなんて一度もした事がないと思っている、全身自信の塊のような奴だ。 この先百年の歳月が流れようと、あいつが私に謝る日が来るとは思えない。 たとえ謝られたって許す気にはなれないが。
とは言え、私は訴訟に負けて以来一度も組合の会合に出席していない。 それは我ながら大人げないと思っている。 ヴァルへの怒りは消えていなくとも同業者との繋がりは大事だ。 怒っているのはヴァルだって同じかもしれないが、私達は人前で兄弟喧嘩をする程無思慮な訳でもない。 今回の講演では質疑応答が許されるならいくつか質問するつもりでいる。
ただ私の方から個人的にヴァルに会いに行く気はなかった。 ところが案内された客室でお茶を飲んでいたら向こうの方からやってきた。
「ルデ、いるか?」
「いない」
そう答えたら、入れとも言われないのに自分でドアを開けてずかずか入って来た。 こいつはいつもこうだ。 腹は立ったが、さすがに追い出すような真似は出来ない。 理由は分からないが講演を引き受け、組合員全員を招待してくれたのだ。 組合長として一言礼を言わないと。
「今回の講演と招待に感謝する」
嫌々礼を言ったのが分かる言い方で、説教されるかと身構えたら、予想外の言葉が返って来た。
「ルデ、お前を本邸に呼んだのは他でもない。 二つの紅赤石の内、一つはまだここにある。 見るか?」
どきんと胸が高鳴り、私は反射的に頷いた。
まさか見せてもらえるとは。 呪いが掛けられているなら呪術師に見せる意味もあるが、解呪されている石は単なる宝石だ。 しかもあの大きさ。 金庫の奥深くしまわれ、見せてもらえるはずがないと思っていた。
理由を聞きそうになったが、余計な事を聞いて、見せないと気が変わられたら困る。 私は言われるままにヴァルの後ろを付いて行った。
フアも誘うのかと思ったが、ヴァルは私以外誰も誘わず、本邸の長い廊下を暫く歩き、ある部屋に入った。 普通の部屋だ。 鍵こそ掛けられていたが、ドアにも鍵にも盗難防止術は掛けられていない。 室内にも呪術の陰りは感じられなかった。
不用心とも言える部屋のテーブルの上に、美しい覆いが被せられた宝石皿が置いてある。 ヴァルがその覆いを取ると、窓から注ぐ柔らかな秋の日差しを受け、赤い煌めきが辺りに零れた。
間違いない。 あの石だ。 呪いが消えている。
ヴァルが石を手に取って私に差し出した。 ごくんと唾を飲み込み、無言で受け取った。
ふふ、と石が笑って囁いた。
(よかった)
何が?
(のろいが、きえて)
誰が消した?
(ほしのいとしご)
くすくす笑いが微かなため息となり、そして静かになった。 まるで赤子がすうっと眠りについたかのように。
その安らかな眠りを妨げる気にはなれなかったので、そっと宝石皿の上に戻した。
「何と囁いていた?」
「よかった、と。 星の愛し子が呪いを消してくれて」
「やはりな」
「お前にも聞こえたのか?」
「いいや。 石の囁きが聞ける呪術師は三十年に一人くらいの割合でしか現れない」
「先生にも聞こえていたぞ。 呪術師になると聞こえるのだと思っていた」
「先生は何度もお前に見込みがあるとか、筋が良いとおっしゃっていただろう? 万年助手と言ってもいいくらい中々呪術師になれないでいたのに。 そんな褒め言葉を頂戴したのはお前だけだ」
「お世辞じゃないのか?」
「先生が誰かにお世辞をおっしゃった事があったか? 第一、なぜそんなものをお前に言う必要がある?」
「私のような使い勝手のよい助手に逃げられたら困るだろ」
「使い勝手がよいだと? フアと私が仕上げておいた下準備をしょっちゅう滅茶苦茶にしておいて。 よくもぬけぬけと」
「しょっちゅうって、大げさな。 入門したばかりの頃、四、五回間違えただけじゃないか」
「ほう。 お前は四、五回生き返れるのか。 それは確かに使い勝手がよい。 私のような凡人は一回失敗したら死んでそれっきりだ」
「どれも自分で気付いて手遅れになる前に直しただろ」
一度も間違えないせいでお前みたいな嫌みの塊になり果てるのも残念だ、と付け加えそうになったが、こんな所で喧嘩を始めたくはない。 ぐっと堪えて話を石に戻した。
「とにかく、石の囁きが聞けるのが珍しいだなんて誰からも聞いた事はない」
「次のリスナーが現れるまで、お前には何も言うなと先生が口止めなさったんだ。 そんな事を教えたって負担になるだけだから、とな」
「リスナー?」
「石の囁きが聞ける呪術師はそう呼ばれている」
「すると次が現れた? 誰だ?」
「ルガ・ワジルカ。 お前の息子だ。 私の養子にしたから姓はワジルカを名乗っているが」
息子? 私の?
「私に息子なんていない」
「お前が知らなかっただけだ。 なんなら今ここに呼んでもいいぞ。 お前が聞いたのと全く同じ囁きをルガも聞いている」
ヴァルが誇らしげに言う。
私に息子がいるだなんて驚いたどころの話ではない。 しかも呪術師?
呆然として言葉が出なかった。 女と寝た事ならそこそこあるが、深い関係になった女は一人もいない。
「母親は誰だ?」
「名はアチ・トページという」
名前を聞いても思い出せなかった。 本当に私の息子なのかと聞こうとして、呪術師なら手を握れば血縁かどうかすぐに分かる事を思い出した。
しかし突然息子と言われても。 そして、養子にしたとは。 なぜだ?
呪術師になる才能がありそうだったから、とか?
「いつ養子にした?」
「二十三年前だ」
「先生やフアにも隠していたのか? 何も聞いてないぞ」
「先生は御存知だったが、去年ルガが呪術師になって組合に加入するまでフアにも教えていなかった。 組合に加入した時は大変な噂になったがな」
「一体どうして私に息子がいると知った?」
「ルガが五歳の時、ルガの祖母がお前の留守中に訊ねて来たんだ。 ルガの母親が病死した事を知らせに。 おそらく自分の死期も近いと悟っていたのだろう。 孫の行く末を大層心配していた。 他に身寄りは一人もいないと言う。 それで私の養子にした。 私はもう呪術師になっていたから」
するとルガは今二十八歳か。 二十三年前というと私はまだ助手だ。 先生と一緒に旅行してばかりいた時期だが、偶には家に帰っている。
「なぜ私に言わなかった?」
「言ったらお前はどうした? ルガの手を握って、お前なんか知らん、消えろ、と言えたか?」
知らんとは言わなかっただろうが。 呪術師の家はどんなに広かろうと危険物だらけだ。 子供と一緒に住んだりは出来ない。 人買いに売り渡したりはしなかったと思うが、助手の給金に余裕はないから、子供が欲しい人を探して厄介払いしようとしたのではないか?
それとも子供の為に呪術師になる夢を捨てた? 捨てられるか? 呪術以外の取り柄がある訳でもないのに。 転職しようとした所で三十を過ぎている。 まともな職なんか見つからないだろう。
「お前が呪術師になるのを諦めないならいい。 だが子供の為に諦めると言われたらどうする」
「どうするって。 私が呪術師になるのを諦めたからって誰も困らないだろ」
「困るね。 私だけではない。 全ての呪術師、いや、ひいては世の中全部が困っただろう。 普通の呪術師には自分が掛けた呪術以外の鑑定は出来ない。 それが出来るのはリスナーだけだ。 解呪不能と知らずに解呪に挑んだらどうなる? それでなくても呪術師不足で解呪が追いつかないでいるのに。 先生亡き後、お前がいなかったら今頃世の中呪術だらけとなっていた」
鑑定を頼まれる事はよくあった。 鑑定は呪術や解呪のような手間がいらない。 なのに謝礼が貰えるから先生もよくなさっていたし、私も大した事と思わずにやっていた。 それにこんな意味があったとは。
「だから私が呪術師になっても子供の事を教えなかったのか?」
「通いでもいいと先生がおっしゃったとしても、子供がいたら気軽に先生の旅のお供をする訳にはいかなくなるだろう?」
そこでふと気が付いた。
「おい、リスナーがそんなに特別なら、やっぱり先生は私にあの日記を託したかったんだろ。 なにが、先生の御遺志が全う出来て良かった、だ。 お前が遺言にケチさえ付けなければ、先生の御遺志が全う出来ていたのに」
「先生の御遺志は日記を組合に寄贈する事だ。 フアに聞くといい。 今なら自分のやった間違いを認めるだろう」
「自分のやった間違いって、どういう意味だ?」
「新しい方の遺言はフアが書いた」
「何だって? あれには先生の封印が残っていたぞ。 封印を偽造するなんて不可能だろう?」
呪術師は遺言に封印の呪術を掛け、掛けた本人が死ぬと読めるようにしている。 封印が消えれば誰にでも読めるし、遺言の改竄も可能だが、封印の偽造が出来る呪術師がいるだなんて聞いた事がない。
「消える前なら無理だが、お前が見たのは消えてからだ。 フアならやれる」
先生には妻子がなく、近親者もいなかった。 亡くなる十年前に遺産は全て組合に寄贈するという遺言を書いて組合に預けていた事は知っていたが、先生の遺品を整理している時、机の中からもう一通の遺書を見つけた。
先生から何も聞いてなかった私はその封筒を遺言とは思わず、その場で開封した。 それには旅行日記は全て私に贈ると書いてあった。 日付は先生が亡くなる三ヶ月前。 封印は解けても呪術の片鱗が残っている。 だから私は先生がその内組合に預けるおつもりで机の中に置き忘れた、と解釈した。
先生の日記には、いつ、どこで、何にどんな呪いが掛けられていたか、呪いの種類、石の色や形状、いつ頃解呪が可能になりそうかについての予測などが記録されている。 但し、内容は毎年組合の会報に掲載されていたから情報として重要という訳ではない。 紅赤石のような客が秘密にしたい石に関しては別のノートに記載されている。
収集家にとっては垂涎の代物だが、収集家でもない私になぜ、とは思った。 けれど日記を貰ったからといって仕舞い込むつもりはなかった。 図書館に寄贈はしないが、見たいという者にはいつでも見せてあげるし、先生も私がそうすると信頼すればこそ託して下さった、と思ったのだ。
「日記が私の物になったからといって、フアに何の得がある?」
「得とか損とかの話ではない。 フアは、先生の日記はお前が受け継ぎ、書き足していくべきと考えていた。 組合に寄贈したら書き足す事など許されない。 お前の物になればどうしようとお前の自由だが」
ヴァルは新しい遺言が無効であると主張した。 改竄された可能性は否定しきれないという理由で。
組合で預かった遺言なら開封する時必ず複数の立会人がいる。 しかし新しい方は封印が自然消滅して暫く経ってから開封された上に開封した時私以外誰もいなかった。
理屈としては納得出来る。 だが改竄されているかもしれないだなんて。 私への誹謗中傷以外の何物でもない。 そう受け取った私は、ヴァルと激しく争った。
呪術師同士が争う場合、まず調停員が間に入って話し合う。 調停が決裂すると調停員が裁定書を組合に提出し、それを承認するかしないか組合員が投票する。 改竄はなかったとしても、なかったという証明が出来ない以上、組合に預けられた遺言の正当性を覆せないというのが裁定だった。
多くの呪術師から同情はされたが、その裁定を否決するまでには至らず、投票の結果、私は負けた。
「もしかしたら先生も私に受け継いで貰いたかったのかもしれないだろ」
「そう思っていらしたなら、息を引き取る間際まで一緒に暮らしていたお前に、なぜ一言もおっしゃらなかったのだ?」
「では、なぜ私に受け継いで欲しくなかったのか、その理由は分かるのか?」
「それはお前にリスナーである事を教えるな、とおっしゃったのと同じ理由だ」
「私にはそれも分からん」
「毎日のように喜んで解呪しまくっていながら先生がそれに気付いていないとでも?」
「喜んで解呪して何が悪い」
「お前は何十年も先生と一緒に暮らしていながら、なぜ先生が滅多に解呪なさらなかったのか、おかしいと思った事はないのか?」
「それは先生が趣味を優先させたからだろ」
「つくづく呑気な奴だ。 先生は確かに多くの石を見て回られていたが、それは趣味というよりリスナーとしての務めを果たされていたのだ。 趣味と言うなら解呪の方こそ先生の趣味だった。 だが解呪をするには時間が掛かるし、体力も消耗する。 好きだからと解呪ばかりしていたら石の鑑定の方が疎かになる。
解呪がいつ頃可能になるか、予測出来るのはリスナーだけだ。 解呪はお前でなくても出来る。 お前しか出来ない事の方を優先しろ、と先生から言われていたら喜んで鑑定していたか? 自分の解呪の記録さえ碌に残していないお前が、他人がする解呪のために詳細な記録を残していたと言うのか?」
何と言い返したらよいか分からない。
遺言、リスナー、息子。
どれもたった今聞いたばかりで、正直な所、混乱している。
まあ、遺言の件はもう終わった事だ。 リスナーだって、その意味を知っても今までのやり方を変えようとは思わない。
石の囁きは年が経つにつれ、はっきりと聞こえるようになった。 難しい解呪を行うのは命がけだが、おそらく先生はそれが私にとって良い刺激となっている事にお気づきだったから何もおっしゃらなかったのだ。
それに頼まれない鑑定まではやっていないが、頼まれたものは一つも断っていない。 鑑定の数だけ比べるなら先生がなさっていたのと同じくらいこなしている。
だが、息子。
なぜ黙っていた、という気持ちはある。 けれど隠されていたおかげで呪術師になれ、修行に専念できた。 それを考えると文句を言う事は出来ない。 ただ知らないならともかく、知ってからも知らん顔をするのか? ルガの方は、育ててくれた訳でもないのに今更父親面するな、と思っているだろうが。
そこでいきなりドアが開いた。 ヴァルがそこに立っていた貴公子に深々と礼をする。
「次代様におかれましては本日も御機嫌麗しく、何よりでございます」
次代様と呼ばれた貴公子はヴァルに軽く頷き、私を見て言った。
「稀代の呪術師、ルデ・タイマーザとは其方か?」
「稀代かどうかは存じませんが、ルデ・タイマーザと申します。 よろしくお見知りおきの程を」
「ダンホフ公爵家次代、ナジューラである」
そして側に控えていた侍従と護衛の兵士に部屋の外で待つようにという手振りをした。 ドアが閉まると、ヴァルではなく私に向かって質問した。
「タイマーザ師は猫又について何か御存知か?」
「尾が二つに分かれている猫の事でございますか?」
「うむ」
「皇王族にとって天敵の如き存在と聞き及んでおりますが。 詳しくは存じません」
「解呪は可能か?」
「そもそも呪術が掛けられているのかどうか。 呪術を掛けるには簡単なものでも二時間程掛かり、その間に対象物が少しでも動いたら失敗します。 又、強度も必要とされるので陶器やガラスには掛けられません。 生きている猫に呪いが掛かっているとすれば、それは呪術によるものではないと思われます」
「いずれにしてもそなたなら呪いが掛かっているか否か分かるのであろう? 鑑定を引き受けてもらえないか?」
「私は生き物に掛かっている呪術の鑑定をした事はございません」
「では仕方がない。 ワジルカ。 そなたの息子を差し向けるように」
「畏まりました」
私は呪術師になって最初の二年くらいは鑑定を間違えた事があった。 先生が正して下さったからその内間違えないようになったが。 それはヴァルも知っている。
ヴァルが目で私に縋った。
お前の息子の為なんかじゃないぞ、とヴァルに目で答えてから、ナジューラ殿に申し上げた。
「少々お待ちを。 鑑定しないと申し上げた訳ではございません。 正確な鑑定が出来るかどうかは分かりませんが、取りあえず問題の猫を見せて戴けないでしょうか?」
「実は、私の義弟の元に現れたので、ここにはいない」
「義弟とおっしゃいますと、北方伯?」
「準大公と呼ぶように」
「失礼致しました」
「しかもサリ様が既にお触りになっているのだ。 事は急を要する」
「ではサリ様の御身に何かあった?」
「いや、御無事という報告だ。 しかしそれも不可解。 猫又自体も怪事だが、触れても大丈夫とは。 そんな事があり得るだろうか?」
「準大公がお側にいらっしゃるならあり得るでしょう」
「それは何故?」
「紅赤石に最初に触れたのは準大公で間違いございませんか?」
「それは間違いない」
「そして沈没の最中に取り出された?」
「うむ」
「それでしたら紅赤石から呪いが消えたのは、準大公が破呪なさったからとしか考えられません」
「破呪とは何か?」
「解呪ではない方法で呪術を消し去る事をそう呼んでおります。 但し、これは昔そういう事をした人がいたという口伝で。 私が実際見た訳ではございませんが」
「破呪、か。 呪いが消えているのだったらサリ様のお命に危険はない。 この顛末を陛下へどう奏上するかという問題はあるが。 ともかく早急に確認する必要がある。 飛竜を用意しよう。 直ちに北へ出発してもらいたい」
「承ります」
どうせ準大公には会いたいと思っていたのだ。 義兄からの依頼付きなら話は早い。