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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 IV
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告発 4

 北軍第一駐屯地に到着して早速北方伯へ御挨拶に伺った。 すると私の顔を御覧になった途端、お声をあげられる。

「あっ! あの時のっ!」

 そう言われ、改めて北方伯のお顔を拝見したが、以前お会いした事があったか、あったとしたらいつ、どこでなのか思い出せなかった。

 私は教鞭を執っている関係で毎日百人を越す貴族の子弟と会っている。 新年の行事なら一日に数千の貴族と会うから、そのいずれかの機会にすれ違っていた可能性はあるが、通りすがりの顔を一々覚えている人はいないだろう。

「あの時、とおっしゃいますと?」

「覚えていらっしゃいませんか? 五年、あれ、六年だっけ? とにかく随分前の話なんですけど、新年の御前試合の休憩時間にお手洗いへ行ったんです。 その時一人で上級貴族用のお手洗いに入っちゃって。 それを見逃してくれたでしょ」


 何の見返りもなく見逃したのなら私だろう。 だが金を掴ませて見逃してもらったのなら私ではない。 しかし金を掴ませましたか、とは聞きづらい。

「……人違いでは?」

「えー? あ、双子の兄弟がいるんですか?」

「いえ、おりません。 兄弟は九人おりますが、儀礼官になったのは私だけです」

「じゃ、他人のそら似だけど、五等儀礼官にそっくりさんがいるとか?」

「誰かに似ていると言われた事はないので、そんな人はいないと思いますが。 五等儀礼官である事は確かなのでしょうか?」

「はい、それは後で教えてもらったから間違いないです。 儀礼官だって事は制服ですぐ分かったんだけど、等級の見分け方は知らなかったんで。 そしたらなぜそんな事を聞くのか理由を聞かれて。 儀礼官に注意されたって話したら、もう、大騒ぎ」


 それはそうだろう。 上級貴族用手洗いは大抵どれも空いているが、無人であろうと伯爵の子弟が使用してよいものではないのだから。

 五、六年前なら北方伯は十六歳か、その辺り。 子供のした事と見逃せる年ではない。 もし見咎めたのが私以外の儀礼官だったら大事になっていたはずだ。

 上級貴族が同伴しているのなら使用しても問題ないが、中級貴族が一人で上級貴族用施設を使用したとなると不敬罪に問われる。 刑事上の罰金は大した金額ではない。 とは言え、そんな事をして捕まった事が公になったらその施設を使用する権利のある貴族全員に謝罪せねばならない。 謝罪に行くのに手ぶらでは行けないから全公侯爵家に謝罪するとなると裕福な伯爵家であっても破産する程の出費になる。

 もし我が子がそんな馬鹿な真似をしたと知ったら、その子を殺す方を選ぶのではないか? 仮にその子がたった一人しかいない正嫡子であったとしても。 それ程重大な、してはならない間違いなのだ。


 もっともそんな間違いをしでかす貴族の子弟がこの御方の他にいるとは考えられないが。 いたとしても間違った時に言い逃れするぐらい子供でも出来る。 上級貴族の誰それが先に入って使っていなさいとおっしゃったとか、お許しを戴いて入ったとか。

 但し、上級貴族のお許しがあったと言ってしまうと、その上級貴族に口裏を合わせてくれるよう頼まねばならない。 そうなったら安い金では済まないはず。 だからその場で見咎めた儀礼官に金を掴ませるのが一番安上がりなのだ。 見咎めた儀礼官の数が多いとか、一人でもその一人が高等儀礼官だった場合、上級貴族に払う金額と大して変わりはないかもしれないが。


 当時を思い出されたのか、北方伯は一際大きなため息をつかれた。

「俺の名前を名乗ったか、親を連れて来いと言われなかったか、沢山の人に同じ事を何度も聞かれて。 儀礼官の名前は聞かなかったから知らないって言ったら、どうして聞かないんだって、びーしばし責められたんですよ。 出掛ける前に、話しかけられない限り誰にも話しかけるな、てきつく言われてたから言われた通りにしただけなのに。 理不尽ですよね?

 ま、それはいいんですが。 黙って見逃してくれる儀礼官なんかいるはずがないって。 俺の言う事を誰も信じてくれないのには参りました。 あの後トビと一緒にお手洗いへ戻って、ブラダンコリエ先生らしき人がいないか一生懸命探し回ったんですが。 結局見つけられなかったんですよね。 次の年も、その次も。

 しつこく探していたら、今年も幻の儀礼官を探しに行くんですか、とか。 まるで俺が真っ昼間に寝ぼけてたって言わんばかりなんですよ。 ひどいでしょ?

 やっぱり思い出せませんか? 絶対ブラダンコリエ先生だったと思うんですけど」

「実を申しますと、毎年かなりの数を見逃しておりまして。 数年前となると、あ、」

 覚えておりませんと申し上げようとした所で、六年前、上級貴族用お手洗いから出て来た伯爵子弟がいた事を思い出した。 なぜ思い出せたかというと、その少年が全く貴族らしくない謝罪をしたからだ。

「ごめんなさい、とおっしゃった?」

「そう! やっぱりあの時の人だ。 よかったあ。 これでようやく寝ぼけていたんじゃないって事が証明出来る! あの節は本当にお世話になりました。 儀礼官が見逃してあげるなんて普通はないんでしょう?」

「いえ、改めてお礼を言われる程の事をした訳ではございません」


 儀礼官全員が金目当てという訳でもない。 当たりが悪ければ脅されて五十万ルーク搾り取られる事もあり得たが、おそらく北方伯は子供の頃から強運な御方であったのだろう。

 私にしてみれば相手が北方伯でなくても見逃していたのだ。 今更恩を売りたい訳ではないが、これで北方伯が私に恩を感じてくれるなら好都合というもの。

 私が処罰されるとしたら上司である長官補佐からであって北方伯ではないけれど、生徒の心証が良いに越した事はない。 少なくとも年一回、長官補佐は北方伯とお会いになる機会がある。 その時教え方がまずいから教師を変えてくれと北方伯から文句を言われたら、私は即座に皇都に戻され、降格されるだろう。

 北方伯がきちんと儀礼を習得して下さるかどうか分からないし、恩を感じられた所でやはり私ではだめとなって解任されるかもしれないが。 取りあえず幸先が良い。 内心大きく安堵のため息をついた。


「ところで、なぜあのような間違いを? あそこが上級貴族用であると御存知なかったのでしょうか?」

「いや、知ってたけど。 サハラン近衛将軍に、いつでも使っていいぞって言われてたから。 それで、つい」

 思わず大きな声で申し上げた。

「なぜ最初にそうおっしゃらなかったのですか?」

「え? 最初にまず謝った方がいいんじゃないんですか?」

「許可を戴いているなら使用しても問題ありません。 この場合、ただ謝っては罪を認めて謝っているのだと解釈されます。 謝罪すれば全て良し、という訳ではございません。 又、私以外の儀礼官にごめんなさいと言った所で通用しないだけでなく、謝る必要がないのに謝ったら何か腹に一物あっての事と曲解され、拗れる原因にもなりましょう」

「ふう。 そうなんだ。 あの場に居合わせたのがブラダンコリエ先生で、ほんと、助かりました」


 助かったのは私の方だ。 中級や下級貴族の中にも上級貴族と太いパイプを持つ人がいる。 ヴィジャヤン伯爵なら当時から一目を置かれていた。 現在の爵位だけで判断しないように、とは私が新任儀礼官に繰り返し教えている事なのに。 もう少しで自分がその間違いを犯していた事を知り、冷や汗が流れた。

 告発するつもりがなかったから名前を聞かなかったのだが、ごめんなさいを額面通りに受け取り、この少年を拘束するようにと警備員に指示を出していたら、その後どうなっていた事か。

 最終的には無罪である事が分かり、放免されたと思う。 しかしそれが分かるまで半年から一年かかるのが普通だ。 その間被疑者は牢屋暮らしとなる。 結審を待つ間に死ぬ被疑者も多い。

 将来皇国の英雄となる子とは御両親でさえ思っていらっしゃらなかったとしても、正嫡子を無実の罪で失ったとなれば、間違いなくヴィジャヤン伯爵家から復讐されていた。 それにもしあの時北方伯に金を強要していたら、後で私の方が恐喝されていたに違いない。 さもなければ上司に告げ口されたか。 誰もがやっている事とは言え、収賄や恐喝で告発されたら穏便には済まない。 降格処分か最悪の場合懲戒免職の憂き目を見ていた。


「あの、先生? お疲れですか?」

 北方伯が呑気に聞いて来る。 いらついて、あなたはもう少しで儀礼官を一人殺す所だったのですよ、と申し上げたくなったが、私でさえ今この瞬間まで状況を正確に把握していなかったのだ。 この御方に理解しては戴けまい。 それにしても謝るくらいならなぜ金で解決しようとなさらなかったのか。

「つかぬ事をお伺いしますが、あの時現金はお持ちでしたか?」

「現金? 外出する時はいつも財布を持って行くけど。 うーん、でもあの時お手洗いには持って行かなかったような気がします。 なぜですか?」

「間違いを見咎められたら普通は儀礼官に金を掴ませて誤摩化そうとするものなので。 そうするようにと教えられませんでしたか?」

「そ、そうなんだ。 知らなくてごめんなさい。 あ、こういう場合のごめんなさいはいいんですよね? いや、それより。 ずいぶん時間が経っていて申し訳ないけど、今払ってもいいですか?」

 そうおっしゃって懐から財布をお出しになったが、どうやらいくらも入っていなかった御様子。

「えーと、あ、そう言えば。 ち、ちょっと待ってて」

 そして人を呼ぼうとなさる。 私は慌ててお止めした。

「い、いえ。 私に払うようにと申し上げている訳ではございません。 貴族の子弟は幼い頃から金銭で収まりを付ける事を学ぶものですから。 それを御存知かどうかを知りたかったのです」

「あー、俺、儀礼関係は全然だめなんです。 まあ、だめなのは儀礼関係だけじゃないんですけど。 勉強、苦手で。 期待されても無理っていうか。 遥々北へお越し戴いたのに、こんな生徒ですみません。 迷惑をいっぱい掛けると思いますが、どうかよろしくお願いします」


 北方伯は軍人らしく起立してきちんとしたお辞儀をなさった。 準大公である事を抜きにしても大隊長なのだ。 いくら私が先生であろうと四等儀礼官にお辞儀する必要はないのだが。 それより先に、金で片を付ける事に関して指摘しておかねばならない。

「こちらの方こそ何卒よろしくお願い申し上げます。 それに今後は金で収拾が付く方が珍しくなるでしょう。 そのような事はまずないと考えて戴いた方がよろしいかと存じます。 ですから御存知ないのは問題ではありません。 そう教えられていたら忘れて下さい、と申し上げたかっただけなのです」

「忘れるのは得意です」

 そう誇らしげにおっしゃって、ぽん、と御自分の胸を叩かれた。 欠点であろうと悪びれないのは長所なのかもしれないが。 出会いの時の謝罪といい、伯爵となられた現在も袖の下を御存知ない事といい、北方伯はシューウィッチ長官補佐のお言葉を上回る御方のようだ。 これは相当厳しく臨まないと。


「それでは明日から儀礼の練習を始めたいと存じます。 平日のお帰りは六時、週末の三時から四時は御予定はないと伺っておりますので、明日の夜七時、週末は二時半に御自宅へ伺います。 予定表及び練習項目に関する詳細はマッギニス補佐とウィルマー執事のお二人に渡しておきました」

「ひっ。 あ、いえ。 そ、そうですか。 いや、でも。 長旅でお疲れでしょう? 二、三日、ゆっくりお休みになられた方が」

「御心配、忝く存じますが、どうぞお気遣いなく。 サジ・ヴィジャヤン殿の御結婚式には諸外国からの貴賓も多数、御出席なさると伺っております。 いくらも日数がなく、本日只今より練習を始めたいくらいなので」

 北方伯の瞳が潤む。 私はさっと目を逸らした。 涙目についても警告されている。 初日から引っかかる訳にはいかない。


「それでは本日はこれにて失礼させて戴きます」

「あ、あの。 なんであの時俺を見逃してくれたのか、理由を聞いていもいいですか? 俺だけじゃないみたいですが。 何か信念があってとか?」

「そのような大げさなものではありません。 私の尊敬する儀礼官が間違いを告発しない人だったものですから。 その人の真似をしていただけです」

「へえ。 尊敬する儀礼官って、シューウィッチ長官補佐の事ですか?」

「いいえ。 シューウィッチ長官補佐の事も尊敬しておりますが、その告発をしない人は退官した六等儀礼官で。 組織上は私の部下でした」

「尊敬する部下かー。 俺にもいるんですよ。 そんなの俺だけかと思ったら結構いるもんなんですね」

「ほう、どなたかお伺いしてもよろしいですか?」

「俺の執事、トビ・ウィルマーです。 マッギニス補佐とタマラ補佐も。 メイレもすごい名医だから尊敬しています。 あと、リスメイヤーの薬は良く効くし、フロロバの御飯は美味しいし。 それにリッテルの助言は的確なんですよ」

 北方伯は次々と尊敬する部下の名を上げ始めた。 大隊長であっても部下の数は少ないと聞いていたのだが。 これほど沢山の尊敬する部下がいる人なんて他にいないのではないか?

 ともかく北方伯の尊敬する部下の名を聞き終えた所で辞去した。 カベロナ六等儀礼官の人となりを北方伯にも知って戴きたかったが、既にかなりの時間が経過している。 北方伯は名残惜しそうにしていたが、それは私の訪問を他の仕事をサボる言い訳にしていたからのような気がした。


 カベロナ儀礼官は私より四十歳年上で、八年前に亡くなっている。 儀礼官には珍しい、まろやかというか、会うと癒される独特な雰囲気を持っていた。 退官してからそうなったのではなく、在職中からそういう人だったのだ。

 上司と部下という関係だったし、年の差もあり、友人と呼べるような間柄ではなかったが、未熟な私を様々な場面で助けてくれた。 なぜ助けてくれたのかは知らない。 私はほとんどの部下から嫌われていたと思う。 一部の古参儀礼官からは嫌がらせをされていた程だ。 それにどう対応したらよいか分からず、途方に暮れている情けない上司だった。


 一緒に仕事をしたのは彼が退官するまでの四年間だけだが、在職中は勿論、退官した後も彼の洞察と助言にどれだけ助けられたか計り知れない。 彼は告発に熱心な儀礼官が増えている事を憂いていた。 彼が全く告発しない人である事は広く知られており、儀礼庁内では変人扱いされていたが、彼の言葉には無視出来ない影響力があった所を見ると、密かに私淑していたのは私だけではないのだろう。

 だがカベロナ儀礼官の退官後の暮らしはとても慎ましかった。 生涯一度も袖の下を受け取らなかったのだから無理もないが、給金は雀の涙であろうと退官後貧しい暮らしをする儀礼官なんていないのに。 清貧と言えば聞こえはいいが、それは若い私が思い描いていた理想的な老後とは程遠いものだった。


 彼が退官していくらも経たないある日、退官祝いを持参して彼の住む長屋を訪問すると、一枚の色紙を見せられた。


 石、小さきを恐れず


 宛名も書家の銘もなかったが、明らかに名のある書家の手によるものだ。 石とは意志?

「どういう謂れがあるのでしょう?」

「私の先輩に、儀礼官の本分は告発にあらず、と信ずる儀礼官がおりまして。 彼が退官した時、次はお前がやれ、とこの色紙を手渡されたのです」

 私が無言でいると、私の瞳を覗き込むようにして聞いてきた。

「受け取って戴けませんか?」


 今まで散々お世話になっておきながら失礼な事は言いたくない。 だが一回や二回見逃すならともかく、生涯見逃し続けるなんて私には無理だ。 何と言って断ったらよいか考えあぐね、彼に質問した。

「四十年もの間、余録のない事をし続けて後悔した事はありませんでしたか?」

「さあて。 あったのかもしれませんが。 覚えておりません」

 儀礼庁でも屈指の記憶力を誇るくせに? と言いそうになったが、問い詰めた所でその答えが私の参考になる訳でもないだろう。 彼は彼。 結局の所、私がどうしたいかだ。 そもそも私一人が何人かを見逃してあげた所でどんな違いがあるというのか?

 だから「小さき」? その「小さき」もののために生涯貧乏暮らしをする? 嫌だ。

 と思ったにも拘らず、気が付くと私は色紙を手にしていた。

「これで私の肩の荷が下りました」

 彼はそう言って少し微笑んだ。


 どうしろとは一言も言われていない。 私にしてもずっと見逃すつもりはなく、一年か二年したら色紙を誰かに手渡すつもりでいたのだが。 それ以来、自分の裁量一つで見逃してあげられる間違いは全て見逃している。

 カベロナ儀礼官に北方伯との一部始終を知らせたら何と言っただろう?


「零れ話 IV」、終わります。

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