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弓と剣  作者: 淳A
海鳴
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辞典  上級航海士、ロークトロスの話

 ギラムシオ様がラーザンタ人の帽子を射抜かれた。 それを見た私はすぐさま隣に居た部下にハイリベール船長へ報告するよう命じ、自分は桟橋事務所へ向かって全速力で駆け出した。 

 

 私の船、ピーエイチ号は第一桟橋に停泊中だ。 ギラムシオ号が停泊しているのは第三桟橋で、桟橋事務所はその中央、第二桟橋の後ろに位置している。 船長に桟橋事務所へ行って貰った方が話は通り易いのは確かだ。 ハイリベール船長なら詳しい報告がなくても事の重大性を即座に理解し、桟橋事務所へ駆けつけてくれるだろう。 しかし部下がピーエイチ号まで走り、それからハイリベール船長が駆けつけるとなると、どんなにすんなりいっても二十分以上かかる。 その小半時が運命の分かれ目になるかもしれないと思うと船長が来てくれるまで悠長に待つ気にはなれなかった。


 剣を振り回した男を止める為に帽子を射ったのだからギラムシオ様が悪い訳ではない。 帽子を射抜いただけで被っている人の体が桟橋に叩き付けられた、あの矢の力強さ。 さすがは六頭殺しと言うべきか。 帽子は射抜いても被っている人の頭には少しも傷を付けていない。 ギラムシオ様に害意がなかった事も明らかだ。 噂に違わぬ狙いの正確さにも感嘆したが、相手がラーザンタ人であったのはまずかった。


 皇国の遠洋航海においてラーザンタ人は重要な意味を持っている。 それは私が上級航海士だから言うのではない。 ラーザンタは海に囲まれているからか昔から船や遠洋航海に詳しい。 沿岸付近を航行するならともかく、岸から離れて何十日も航海するとなると船位測定方法を使用して水平線に対する太陽の角度を正確に読み取る必要がある。 羅針盤や地図はどの国にもあるし、慣れれば複雑な手順ではないとは言え、天測実技の訓練を行った者でないと船の正確な現在位置を割り出せないのだ。

 皇国でも上級航海士なら船位測定が出来る。 私もその一人だが、常に人手不足なものだから上級航海士は船一艘につき一人となりがちだ。 遠洋航海中に唯一人の上級航海士が病気や怪我で死んだりしたらその船は永遠にどの港にも辿り着けず乗組員全員が死ぬ事にもなりかねない。

 だから遠洋航海に行く大型船は自国の上級航海士の他に必ず複数のラーザンタ人を乗せている。 ラーザンタ人なら上級航海士の資格がなくても三十歳以上の船員は船位測定方法を熟知しているからだ。 又、皇国の上級航海士が複数乗船している場合でもラーザンタ人を乗船させている船をよく見掛ける。 航海技術に優れているラーザンタ人が乗っていると安心感が違うからだろう。

 それにラーザンタ人は皇国人より低給で雇える。 それなら航海士は全員ラーザンタ人でもよさそうなものだが、そうならないのは皇国語を不自由なく話せるラーザンタ人が少ないからだ。 つまり通訳も一緒に雇わねばならない。

 通訳はいる事はいるが、日常会話に不自由はなくても船の知識があるとは限らない。 そのうえ遠洋航海に出掛けても構わない通訳となると更に数が少なくなる。 仕方なく通訳なしでラーザンタ人の航海士を雇ったりすると、命令した事が実行されなかったり、命令とは違う事をされたりする。 遠洋航海での命令の不履行は大損に繋がるから大抵の船では通訳を雇う。 だがせっかく通訳がいてもその通訳がお粗末だと、間違いや問題が起こった時にそれが航海士のせいなのか誤訳のせいなのかはっきりせず、通訳がいればいいというものでもなかったりするのだ。


 遠洋航海は成功すれば大儲けが期待出来る商売だから船を出したいと思っている貴族は多いだろう。 なのに皇国で遠洋航海が中々盛んにならないのは上級航海士不足が一因と言ってもよい。 それで航海士養成学校を設立し、皇国人の上級航海士の数を増やそうという話になったのだと思う。

 まだ設立はされていないが、その噂は学校の教官探しを手伝っている私の友人から聞いた。 リューネハラ公爵を中心とした有力貴族が中心となって出資するという。 教官には皇国人以外にラーザンタ人を二十五名雇う予定なのだとか。 このような具体的な数字が出ているのなら本決まりと言ってもよい。 なのにここでラーザンタ人と揉め事を起こしたら何もかも御破算となりかねず、その原因という事でギラムシオ様が責められる事にならないものでもない。

 リューネハラ公爵家は造船業界の最大手だ。 北にお住まいのギラムシオ様が船を必要とする場面はないとは思うが、貴族なら海との繋がりを無視してよいものではない。 それにいくらギラムシオ様の方が格が上とは言え、今の爵位は伯爵。 公爵家を蔑ろにしては後々何かと面倒な事になる。


 事と次第によっては、あのラーザンタ人一人の怒りでは済まないかもしれない。 ゴーンザーレ桟橋はかなり内陸にあるから桟橋としては大きく、大型船が停泊する事もよくある。 とは言ってもほとんどが国内専用の貨物船だ。 私の船のような遠洋航海用の船が停泊する事は珍しい。 おそらくラーザンタ人を見た事のある人足はそんなにいないだろう。

 ラーザンタ国の習慣に馴染みがなくても不思議はないが、帽子に傷を付けるというのはラーザンタ人にとって大変な侮辱だ。 少しの傷でも復讐をする理由になる。 帽子を射抜くだなんて死を覚悟していなければやれない。 ラーザンタ人が帽子を射抜かれたら射抜いた者が死ぬまで復讐を諦める事はないのだから。 たとえ復讐が失敗に終わったとしても親族や友人がその復讐を引き継ぐ。 それ程の事なのだ。 ラーザンタ国では帽子を射抜いた者が殺されても復讐した者が罪に問われる事はないと聞いている。 それがまた復讐を助長しているのだろう。


 この国で同じ事をしたら殺人犯として死罪になる。 それくらいはラーザンタ人でも知っていると思いたいが、だからといってあっさり引き下がるとは到底思えない。 外国で汚名をそそぐ事は容易ではなくても帽子を射抜かれたのに何もしなかった男というレッテルを貼られたら最後だ。 大概の遠洋航海船には同国人が乗っている。 あんな腰抜けと一緒に仕事をしたくないと言われる事を覚悟せねばならない。 そうなったら祖国に帰れないだけでなく、生きる術にも事欠く。

 今回の場合、仮にギラムシオ号が御用船でなくても人足に剣を振り回すなどしてよい事ではない。 困窮した所で自業自得と言えない事もないが、人足の一人や二人が抜けたのならともかく、全員がいきなりいなくなったのだ。 ラーザンタの船と知って嫌がらせをしたようにしか見えない。


 人足達はただギラムシオ様の積み荷を運んであげたかっただけだ。 そうと知れば、あのラーザンタ人も怒りを収めるはず。 射手がギラムシオ様と知っても尚、復讐に来るラーザンタ人はいないと思いたい。 ギラムシオ様を崇拝するのは皇国では南に限られるが、海洋王国のラーザンタでは海王ギラムは厚く全国民に信仰されている。 当然、ギラムシオ様への尊崇の念も厚かろう。

 しかしギラムシオ号はどこからどう見ても普通の漁船だ。 あれがギラムシオ様所有の御用船と私に言われても、一体何の冗談だ、と信じてもらえないに違いない。 ギラムシオ様のカレンダーやポスターはラーザンタにも出回っていると思うが、あのきりっと鋭い視線の絵だけを見た人が、本物に出会って本人だと気付けるかどうか。 顔立ちくらいは似ていると思うかもしれないが。 その、こう言っては何だが、絵の方がずっと賢そうだし。


 それに矢を射った時、ギラムシオ様は大隊長服をお召しではなかった。 たぶん御自ら荷物運びをなさるおつもりでいらしたのだろう。 なんと木綿のシャツ一枚。 しかも今私が着ている普段着のシャツよりずっと粗末な物で、家紋も入っていなかった。

 極めつけがあの済まなそうなお顔。 ごめんね、と謝らんばかり。 威厳も神々しさもあったものではない。 けれど正真正銘、あれがギラムシオ様なのだ。

 それさえ分かってもらえたなら事は簡単に解決する。 残念ながら私の片言ラーザンタ語では、とてもじゃないがそこまで説明出来ない。 そもそもラーザンタ語でギラムシオ様の事を何と言うのか?

 今までラーザンタ語を習う機会ならいくらでもあったのに、真剣に学んでいなかった事を後悔したが、そんな事をここで悔やんだ所でしょうがない。 私の船はいつもならラーザンタ人の船員数名とラーザンタ語の通訳を乗せている。 でも今回はゴーンザーレ桟橋が終着地だ。 ここで荷を下ろしたらマーシュへと向かう。 そこで積み荷をし、その際ラーザンタ人を乗船させて外海へ向かう予定だったから今は通訳も乗っていないのだ。

 それにしても南でならラーザンタの船はよく見掛けるが、こんな内陸でラーザンタの船を見掛けるのは珍しい。 大抵はアブーシャ川を北上するとしてもホドロフ桟橋止まりで、ゴーンザーレ桟橋まで来る事はあまりない。 ひょっとしたらラーザンタの船でここまで来たのは初めてではないか? もしかしたらギラムシオ様見たさでブラースタッドへ行こうとしている? そうだとしたら話も早いのだが。


 桟橋事務所に着いてすぐ、私は大声で怒鳴った。

「ギラムシオ様の一大事である! この事務所にラーザンタ語が話せる者がいるか?」

 事務所内にいる者の視線が一斉に一人の男の上に集まった。

「お前か? 流暢に話せるか?」

「え、えーと、話せるって言えば、まあ。 でも、その、流暢かって言われても」

 自信なさ気な様子で、大丈夫なのかと不安を抱いたが、事は急を要する。 他に話せる者はいないようだし、贅沢を言ってる場合でもない。

「私の名はルセ・ロークトロス。 ピーエイチ号の上級航海士だ。 ラーザンタの船に説明に行く。 通訳として一緒に来てくれ。 所長はどなただ? 所長にも御同道願いたい」

 急いで所長を呼び出してもらい、事情を簡単に説明した。

「分かりました。 説明して納得してもらえれば円満に収まると私も思います。 一緒に行くのは構わないのですが。 万が一拗れでもしたら、その責任は誰が取るのでしょう? 最悪の場合、私達が勝手に説明しに行ったせいだ、とギラムシオ様の御不興を買う事になりませんか?」

 確かに丸く収まる保証はない。 私も焦っていて、納得してもらえなかった時の事までは考えていなかった。

「う、うむ。 それはあり得ないとは申せません。 かと言って、ここでギラムシオ様に事前の許可を戴いている時間がございますか? 御用船とは言え、あの大きさではお守りする剣士が何十人も乗船しているはずはない。 船をお守りする護衛兵を差し向けたくても、ここに大した数の常駐兵はいないのでは? 他から応援を頼むにしてもその救援が到着する前に何か事件が起こらないとは限りません。 あの帽子を射抜かれたラーザンタ人が上級船員であれば自分の部下だけでも五、六人はいるでしょう。 部下を引き連れ、今すぐギラムシオ号を襲撃する事も可能です。 対するギラムシオ号には北の猛虎がいらっしゃるとは言え、流血の惨事となれば、たとえサリ様にお怪我がなかったとしても国を巻き込む騒動に発展するのではありませんか?」

「取りあえずギラムシオ号の皆様に、この事務所へ避難して戴くというのは如何でしょう? 剣士は数名しかおりませんが、この桟橋事務所には数十名が勤務しております。 簡単に襲えるとは思えません」

「ギラムシオ様御一家の安全確保という意味ではそれで充分かもしれませんが。 もしギラムシオ号が焼き討ちされ、沈没したら、たとえ御身は御無事であったとしても穏便には済まないでしょう。 それに私達は本来なら皇王庁からの許可がなければ御用船に近づく事は許されない身分です。 危険が迫っているという事をどうやってお知らせするのでしょうか?」


 荷物運びをした時、偶々私の運んだ箱がギラムシオ様用の物だったらしく、それはこっちに置いて、とギラムシオ様から直接お声をかけて戴ける幸運に恵まれた。 しかしこれが皇王城や正式な場であれば、私は呼ばれもしないのにお側に行ける身分ではない。 所長だって私と似た様な身分だろう。 因みに私は先代ロークトロス伯爵の息子で当代伯爵は私の兄だから、現在の爵位だけを比較するならそれ程かけ離れた身分ではないのだが。


「仮に危険をお知らせする事が出来たとしても、御予定を変更して下さいと申し上げるのは余りに畏れ多い。 先を急ぐ故そのまま出航する、と避難する事を断られたらどうなさいます? それをお止め出来る者は今ここにはおりませんし、すぐ出航出来るような護衛船が待機している訳でもないでしょう? それとも貴殿に何か妙案でも?」

 所長は少し首を横に振り、ため息をついた。

「致し方ありません。 火急の事態です」

 念の為、ラーザンタ語が話せるという男に質問した。

「ギラムシオ様の事をラーザンタ語で何と言う?」

「ミ、マレレジネポ、と言います」

 その発音がラーザンタ人の話すラーザンタ語に近く、少し安心した。

 所長が護衛剣士三人に付いて来るよう命じ、その中の一人にリヴァノファーバ侯爵家の家紋が入っている旗を掲げさせた。 桟橋事務所の勤め人は全員家紋入りの制服を身に着けている。 ラーザンタの船にも皇国語が分かる者が少なくとも一人はいるだろう。 これで何とかなると思いたい。 

 すると事務所を出てすぐの所でギラムシオ様のお隣に立っていた御方に出会った。 私達が一斉に深く礼をすると、その御方は静かな威厳をもっておっしゃる。

「ヴィジャヤン北方伯家執事、ウィルマーである。 ギラムシオ号が御用船である事をラーザンタの船に説明しに行く。 私の身分を証明してくれる者に同道してもらいたい」

 まさか御自分からラーザンタの船へ説明に出向いて下さるとは。 さすがにギラムシオ様にお仕え申し上げる御方なだけはある。 先の先を読まれ、行動に無駄がない。


 こうして私達一行はラーザンタの船に向かった。 通訳がラーザンタの船の船長に桟橋事務所長を紹介し、所長が人足が突然消えた理由と射手がギラムシオ様であった事を説明した。 通訳がそれを船長に伝えた途端、船長が大声でミ、マレレジネポと叫び、深く額ずいて所長に何か言い始めた。 通訳が船長の言葉を所長に伝えようとしたが、ウィルマー様が目で遮り、何とも流暢なラーザンタ語で、直接船長に向かって話し始めた。 なんと多能な。 さすがは準大公家執事。 ただ者ではないとは初対面の時から感じていたが。

 その後、ウィルマー様は帽子を射られた男とお言葉を交わされた。 どうやら無事、誤解は解けた様で、ウィルマー様は帽子を射られた男と共に下船なさった。


 ギラムシオ号に乗船なさる前、ウィルマー様は同行した所長におっしゃった。

「足労であった。 リヴァノファーバ侯爵にはブラースタッドに到着し次第、私からお礼状を差し上げるつもりだが、届くまで日数がかかるであろう。 今回の首尾が上々であった事、そなたの方からよろしく伝えておいてもらいたい」

 そして通訳及び私達一行全員に向かって念を押された。

「本日の詳細、他言無用と心する様に」

 そのお言葉があったので、ウィルマー様が船長及び帽子を射られた男とどのような会話を交わされたのか、通訳の男はその場にいた私にさえ教えてくれなかった。


 この日以来、私は真剣にラーザンタ語を学び始めた。 遅かりし、の感は拭えなかったが。



 追記

 ギラムシオ海洋大学の前身であるギラムシオ航海士養成学校の教官となったロークトロスは、ラーザンタ語辞典の編纂に協力した事でも知られる。 当初、この辞典は航海技術関係用語を中心にした語彙数約一万程度を予定していたが、ロークトロスが帽子関係の用例、成句に関する説明を担当。 語彙数約二万で発行され、ラーザンタ語学習者必携となった。


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