前例 ベイダー侯爵令嬢、ソニの話
ヴィジャヤン準大公は初対面で賢いという印象を与える御方ではなかった。 けれど準大公がベイダー侯爵家別邸に一週間滞在なさった時の事は、二年の時が過ぎた今でもまるで昨日の事のように覚えている。 私に限らず、あの御方に一度でもお会いしたのなら決して忘れる事はないでしょう。
証人一行が到着した日、珍しく父自らが出迎えた。 父は著名な弁護士として同位の侯爵は元より、公爵からさえ尊敬されている。 出迎えられた事はあっても出迎えた事など滅多にないというのに。
「ようこそ、我が別邸へ。 栄えある皇国の英雄を二人も迎えるとは実に喜ばしき事」
「はじめまして。 サダ・ヴィジャヤンと申します。 お忙しい所、お邪魔して大変申し訳ありません」
「なに、丁度昨日、手掛けていた訴訟の判決が言い渡された所でな。 次の裁判開始まで一息吐いておった」
「ベイダー侯爵は何か法律関係のお仕事でもなさっているのですか?」
私はまず著名な弁護士である父を知らない者がいる事に驚いた。 兄達でさえ新進気鋭の検察官、審問官、或いは弁護士として法曹界で活躍しており、余程の紹介状がなくては面会をする事は叶わない。 この滞在は準大公が伯爵に叙される前の話とは言え、伯爵家の三男で正嫡子でいらっしゃる。 貴族なら著名な弁護士の名を知っていて当然と思っていた。 いざ事があれば、いえ、なくてさえ、家名と財産を守ってくれるのは剣のみではないのだから。
しかも今回当家に滞在する理由は証人喚問。 証言次第で判決が変わるし、その証言をどう解釈するかは審問官次第。 法律関係の知識が欠かせない。 裁判によっては被疑者だけでなく、証人のその後の人生を左右する事もある。 自分に法律の知識がなければない程、顧問弁護士の重要性が増すものなのに。 証人喚問という命に関わる一大事の渦中にいながら有能な弁護士の助言を求めようとは思わなかったのだろうか?
稀代の軍師と評判のオキ・マッギニス様が随行人として付いていらっしゃるとは言え、所詮は素人。 どれ程法律関係に明るかろうと審議過程の詳細まで御存知とは思えない。 どのように証言すべきかは勿論の事、今回の大審院の審議の経過、結審、その後の司法上及び政治的な側面に関する御質問が数多あると予想していた。 当然父や兄達からの助言を御希望のはず、と。
なのに準大公は当家に滞在中の一週間、ただの一度も審議や司法手続きに関する御質問をなさらなかった。 これから何が起こるかを既に御理解なさっているからという理由ではない。 それは到着したその日の夕食の席で準大公がなさった御質問を見ても分かる。
「廷内供述調書? それ、何ですか?」
「証人供述調書の事です」
「証人供述調書って何ですか?」
「……証人供述調書は、事件の証人の証言を記録したものです。 証人がいてもその調書がないと証拠として認められません。 大審院の審議過程で使用される調書と刑事事件で作成される調書には違いがあります。 刑事事件でしたら軍警が提出した調書、物によっては貴族が提出した調書であっても正式な証拠として認められますが。 大審院が審議する事件の証人の証言は全て法廷内で証言されたものでなくては証拠として認められないため、廷内供述調書と呼ばれております」
「へえー。 さすがにベイダー侯爵令嬢。 まるで弁護士みたいに詳しいんですね」
それくらい子供でも知っている常識ではありませんか、と申し上げたりはしなかったけれど、内心呆れた事は否めない。 父からヴィジャヤン様の妻の座を狙えと言われなかった事にほっとした。 但し、父が姻戚関係に無関心、と言う訳では勿論ない。
「ダンホフはマッギニスよりタケオを狙ったであろう。 それはこの場合かえって好都合。 マッギニスの方が法曹界に大きな人脈を持つベイダー侯爵家との縁組みに利を見るはず。 ヴィジャヤンの妻の座も捨て難いとは言え、タケオの実妹を離婚して、となると後々何かと尾を引く事は避けられぬ。 それに賢さとは程遠い男が賢しい妻を望むとも思われん。 最初からマッギニスに的を絞った方が効率がよかろう」
賢しい妻を望まないのはヴィジャヤン様だけではないのでは、とは口に出さなかった。 私の方が正しければ正しい程、それを口にすれば疎まれるのは何も夫に限った事でもない。
「賢しい妻」という言葉遣いを見ても分かるように、父は私の賢さを無用の長物と思った事はあっても褒めた事はない。 侯爵令嬢として様々な教育を受けたとは言え、私の兄弟が学んでいるレベルの法学は課目の中に含まれていなかった。 それも当然の事と言える。 女性では弁護士になれないのだから。
弁護士だけでなく、検察官、司法書士、法廷書記等、どの法律関係の職に就く事も出来ない。 いくら名門ベイダー侯爵家の正嫡子であろうと女性は女性。 例外は認められないし、そのような陳情をするのは家名の恥として父が許さないだろう。
但し、女性が弁護士になる事を禁じた法律がある訳ではない。 でも私が司法試験を受けに行った所で入室を拒否される可能性が高い。 そんな前例はない、という理由で。
仮に受験する事が許され合格したとしても、弁護士になるにはその後弁護士として開業している者に付いて三年間の研修期間を経ねばならない。 それがないと弁護士として開業する許可が下りない事になっている。
司法試験を突破したとしても私を研修生として置いてくれる弁護士は皇国中に一人もいないに違いない。 私の父は女性の法曹界進出に反対している。 法廷書記にさえ女性を雇う事に反対しているのだ。
「女性の役割は子を生し、育てる事にある。 法廷は法と法が戦い、時に惨たらしい結果もあり得る戦場。 そのような修羅場に次代を養育する者を引き出すべきではない」
「それでは子を生し、育て終えた女性が法曹界へ進出するのは構わないのではありませんか?」
「それは机上の空論というもの。 子育て終了後に勉強を始め、司法試験に合格するまでに生き長らえていられるか?」
皇国の弁護士全員が父と意見を同じくする訳ではなくても、法曹界における父の影響力を無視する事は出来ない。 父に内緒で司法試験問題を解いた事があり、受験すれば合格する事は知っていた。 けれど受験させて欲しいと父に願った事はない。 私が法律を熱心に勉強したのは自分で興味を持ったからであって、父に勧められたからでも褒められたいからでもなかったから。
職業として選ぶ事は不可能と知りながら私は勉強を続けた。 そもそも私が法律を学びたいと思った理由は、分厚い本を開くと現れる不思議な文字の羅列に魅かれたからであって弁護士になりたかったからではない。
法学にはまるで謎解き遊びをしているかのような面白さがあった。 簡単な事をわざわざ難しく言う。 一見明快でありながら解釈次第で黒が白、白が黒となる。 法の意味を知り、どのような解釈がされたか、或いは却下されたか。 それを知りたくて学ぶ事が止められなかった。
ただ法学の家庭教師は付けてもらえなかったけれど、私の法解釈は自己流ではない。 我が家には本邸だけでなく、どの別邸にも相当数の法律関係の書物が置いてあり、読もうと思えば本はいくらでもある。
それに息子であれば正嫡子、庶子を問わず法律の勉強は必須課目。 だから兄弟の誰かが常にどこかで勉強していた。 その部屋で習字や刺繍をしていても叱られたりはしなかったし、講義を聞いているだけでも学べる事は多い。 それに私の疑問のほとんどは兄が同じ質問をしてくれた。 又、歴史の勉強なら兄弟と一緒に学ぶ事が許されていたので学ぶ機会には恵まれていたと言える。
けれどマッギニス様の妻の座を射止める事は、いくら父の命とは言え、努力次第で叶うものではない。 私の容貌では名花と謳われるダンホフ公爵令嬢と比較にならないし、グゲン侯爵令嬢は妻として愛でるに最適な可愛いらしい御方でいらっしゃる。 ヴィジャヤン様、タケオ様、マッギニス様への人気は日を追う毎に上昇しているから、我が家の後に滞在する家にもお目に留まる事を夢見ている女性は数多いるはず。
残念ながら愛らしい父の娘達は全員嫁いでおり、残る未婚の娘は法学が趣味の私だけ。 理屈っぽい私が選ばれる可能性などないと言い切ってよい。 父も内心理解していたのではと思うけれど、一縷の望みを捨て切れないのか、私の服を新調するよう侍女に命じていた。
そのような小手先の細工、無駄な費え。 と思っていたけれど、意外な事にマッギニス様は滞在中、父や兄ではなく、私に何度も御質問なさった。
マッギニス様と私が話し込んでいると聞いて父は密かに喜んでいた。 でも話していたのは結婚に関係するような事ではなく、大審院審議とさえ何の関係もない、審問官任命手続きの詳細に関してどの書物を読めばいいかとか、法律関係の歴史や前例集についての御質問だった。
妻にと望んだ故の御関心とは思えない。 かと言って他にどんな理由があって私と法解釈を議論なさったのか、私にも答えられないのだけれど。
マッギニス様が無駄な事を一切なさらない御方である事だけは確かで、用もない質問をなさっているのではない。 図書館のどこに何が置いてあるか、私は司書にさえ引けを取らない程知っているから、仕事に追われている司書より私に聞けば早い。 とは言え、少し調べれば司書にも簡単に答えられる質問ばかり。
法知識がなくては弁護士になれないけれど、それだけでは有能な弁護士になれない。 過去の判例を調べるのは弁護士を補佐する者の仕事。 弁護士として最も重要なのは、法廷で法をどのように解釈すべきかを議論し、審問官の同意を得る事にある。
私はマッギニス様が滞在なさるまで一度も誰かと法解釈を議論した事はなかった。 弁護士でもないマッギニス様と議論して勝てない私が法廷に立った所で誰にも勝てはしない。 マッギニス様ならそれを見抜いたはず。
僅か一週間であろうと充分娘を売り込んだと考えていらした父の思惑は外れ、私はマッギニス様から申し込まれなかった。 他のお二人からも同様。 私にとっては特に驚くべき結果でもなく、失望もしなかったけれど、結婚相手の選択に悩まねばならない事になった。
女官として出仕する道もあるとはいえ、私が女官長になれる可能性はゼロに等しい。 私が仕える御方の筆頭女官が誰であるかによって閑職に追い込まれる場合もある。
父はどこで何をする事になるか分からない女官を選ぶより私を嫁がせようとしていた。 私としても仕事によっては本を読む暇もない女官の道は望んでいない。 でも嫁ぎ先次第で一生本の表紙を見る機会さえなくなる事があり得る。
内助の功を目指して勉強していた訳でもないけれど、何とか法律関係者を夫に選んで欲しいと父に願った。 アベンドロス大審院審問官の妻は父の妹で私の叔母なので、小審院審問官の中から何人か紹介して戴けた。 でも婚約が調うか調わないかという所でいつも何らかの問題が持ち上がり、私の結婚は中々決まらなかった。 そんなある日。
「ソニ、ヴィジャヤン準公爵夫人がそなたに会いたいとおっしゃっている」
諦めにも似た思いで法とは全く無関係な人との婚約が調うばかりになっていた私に、準公爵夫人からお茶のお誘いがあった。 お伺いすると、それは準大公家へ法律顧問として就職する気はないかとの打診だった。
法律顧問はどの貴族にも最低一人はいる。 準大公家ともなれば数人はいるべきもの。 準大公家にはまだ一人も法律顧問はいないから、弁護士として長年経験を積んだ人が選ばれると考えていた。 女性弁護士が存在しないのだから、当然女性法律顧問の前例もない。
「準公爵夫人。 それは他に法律顧問がいらっしゃり、その方の補佐をするという事でしょうか?」
「いいえ。 法律顧問はあなただけ。 単独で勤めて戴きたいとの事です」
「それは望外の御指名。 大変な名誉と思うのですが。 御存知の様に私は弁護士資格を持っておりませんし、法廷経験もありません。 弁護士でもない私に準大公家法律顧問が務まりましょうか?」
「準大公家が法廷に引き出されるとは国を揺るがす大事件。 その際担当する弁護士の数も十人や二十人ではございませんでしょう。 その時はその時。 改めて弁護士を招集する事になるでしょうし、そもそもそのような事態が起こるかどうか。
それより準大公の所行の方が問題なのです。 日常、突拍子もない事をなさる御方ですので。 今までは笑って済まされる事でも、準大公がなさったという事で思わぬ問題に発展する事があり得ます。 それらは法廷に至る前に解決すべきもの。 ですから法廷内での経験より、そうならぬよう的確な助言の出来る者が家内に一人必要なのです。
ところで、これは北にある準大公家で同居して戴く事が条件となります。 準大公家は貴族とは思えない質素な生活をしていらっしゃる。 奉公人の数も少なく、普通なら二、三百人はいるはずの下働きもおりません。 侍女もいないので、現在の侯爵令嬢としての生活とは比べようもない不便な暮らしとなるでしょう。 加えて容赦のない北の寒さ。 それらに耐える覚悟がありますか?」
「二百冊程、本を持参してもよろしゅうございますか? それが無理でしたら百冊程度に抑えますが」
「第一駐屯地にある準大公家別邸は手狭ながら敷地が広いので、来て戴けるなら図書室を増築するとウィルマー執事がお約束なさっています」
私は二年前、準大公がおっしゃったお言葉を思い出した。
「ベイダー侯爵令嬢ならきっと良い弁護士になれますね」
「私は女性ですので弁護士にはなれません」
「どうして女性だと弁護士になれないんでしょう?」
「そのような前例がないからでございます」
「前例がないって。 どうして前例がないと駄目なんですか?」
「どうしてとおっしゃられましても。 法とはすべからく前例に従い、適用されるものですので」
「でも何にだって最初ってあるはずですよ」
「……それは、あると存じますが」
「一番最初の例の前には前例なんてなかったんだし。 そんなの大して気にしなくてもいいんじゃないですか?」
準大公家に仕えるとなれば家名が歴史に残る絶好の機会。 父も、諦めよとは言わないに違いない。 私はその場で準公爵夫人に申し上げた。
「準備が整い次第、北へ向かいます。 何卒準大公へよしなにお伝え下さいませ」
前例のない事件を判断する事は法律家として苦難の道を歩む事と同義でもある。 そう考えると、これは決して賢い選択とは言えない。 なのに抑え難い期待が広がっていく。 私の中にあった「賢さ」の定義が、あの御方によって書き換えられたからなのかもしれない。




