船ヒャラ 船員、ヒコの話
ギラムシオ様にさ、踊ろうよ、踊ろうよ、て言われると、ほーんと、弱っちまうんだ。 いくらどんな風に踊ったっていいんだって言われたってよ、こちとら生まれてこの方、踊った事なんて一回もねえんだぜ。 踊りを見た事だって碌にねえんだから。
食うや食わずの瀬戸際って時に踊ったら余計腹が減るだろ。 俺が今まで見た事ある踊りっていったら、年一回、神社の奉納舞ぐれえだ。 毎日海草と貝、偶の魚だけで食いつないでいる家なんざ、俺んちだけって訳でもねえのに。 分かんねえもんかね? わざわざ言われなきゃ。
これが他の誰かに言われたんならよ、できねえっす、でもいいんだけどさ。 相手がギラムシオ様じゃあ断れねえ。
船乗りにとっちゃギラムシオ様は神様みたいなもんだ。 いや、みたい、どころじゃねえ。 神様だ。 そのうえ俺にとっちゃ、ちょっと使い走りをやったぐれえでポロメロを貰った、ていう恩もある。 ギラムシオ様は手間賃だ、なんておっしゃってたが。 お偉いさんの使い走りを何万回やったって俺達平民が手間賃を貰える事なんてねえ。 やらなきゃぶん殴られる、やったら殴られねえ。 殴られねえ事が駄賃だと思えって、そんなもんさ。
トサなんて、ちゃんとやってあげた上に殴られて帰って来た事があるんだぜ。 だからって貴族に向かって文句なんか言ったら殺してくれって頼んでるようなもんだろ。 ま、それだって、ちゃんちゃん毎年税をふんだくっていく領主様よりましって言えねえ事もねえよな。 税は嵐で船が沈もうが稼ぎ手が死のうと待ったなしだ。 こっちの事情も分かってくれって領主様に言う方が無茶なんだけどよ。
とにかくあのポロメロのおかげで俺の妹は身売りしねえで済んだ。 俺が独り立ちする事が出来たのだって。 俺の飲んだくれのおやじは、今まで食わせてやった飯代だ、親に全部寄越して当たり前だとか、ふざけた事をぬかしてやがったがな。
けっ。 何が今まで食わせてやった、だ。 そこらに落ちてる海草を一生食わせた所で二十万ルークになるかよ。 俺が歩き出したか出さねえかの時から散々こき使いやがったくせに。 元はとっくに取れてるだろ。
それでもぐちゃぐちゃごねやがるんで、縁切りしてくれねえならこの金で俺の船を買うぜ、と脅してやった。 で、ようやく証書に判子つかせる事ができた、て訳さ。
二十万丸々やるのはもったいねえとは思ったけどよ。 俺が知らねえ内に船主の所に行って俺の給金を前借りして来る様な親だからな。 赤ん坊の時に売っぱらわれなかった事をありがてえと思えっていうのは耳にタコができるぐれえ聞かされていたし。 こういう時にちゃんと縁切りしとかねえと後々やべえ。
籍を分けちまえばこの先俺がどこに行って何をしようと俺の自由だ。 やいのやいの口出しされずに済む。 自分の人生を買ったと思えば安いもんだよな。
つまりあの金は俺の懐に一文も入ってねえ。 今でも毎日死に物狂いで働かなきゃおまんまが食えねえのはそういう訳さ。 とは言ってもよ、自分一人の食い扶持ぐれえは何とでもなるからな。 そいでドレジェッツ船長がギラムシオ様んとこへお礼奉公に行くって聞いた時、俺も嫁を貰う前にお礼を言っておきてえと思ったんだ。
親以上の事をしてもらったってのに、ちゃんとお礼を言う前に死んじまったら、あれだけ貰ったくせに一言の礼も言わなかった恩知らず、て海王様に言われるだろ。 その時、そりゃちげえますって言い返せねえじゃねえか。
死んだ後の事を今から心配しなくったってよさそうなもんだが、漁から無事帰って来れるかどうかは海王様の御機嫌次第だ。 若いから死なねえとは限んねえし。 押さえどころはきちっとしとかねえとな。
とは言ってもよ、最初は一年お礼奉公したら帰るつもりだったんだ。 北なんて聞いただけで鼻水が垂れるぜ。 雪なんて一回見りゃ沢山だ。 でもよー、こう次から次へと魂消た事を見せつけられちゃあなあ。
そりゃ大峡谷に虹の橋を掛けたとか、瑞鳥と空を飛んだとか、ギラムシオ様のいろんな噂は今までたっぷり聞いてはいたさ。 けどよ、大抵は噂ほどじゃねえ、てのが相場だろ。 それがギラムシオ様だと何から何まで噂以上なんだぜ。
初っ端からギラムシオ様御本人がこんな平民の漁船に乗り込んで来るんだものな。 あれにゃあびっくりした。 まあ、それは船名がいいから験を担いだのかもしれねえ。 だけどよ、沈没する船に向かって泳いで行くバカ、いや、命知らずが他にいるか? しかもそれで終わりなんじゃねえんだぜ。
ギラムシオ様はベルドケンプ島ってとこに行く事になった。 なんでも雲の上の御方から、どでかいヤマを任されたんだと。 少なくとも船長の話じゃそうだった。
俺にとっちゃギラムシオ様は雲の上の御方より偉いけど、ギラムシオ様の本業は軍人なんだよな? そんなら雲の上の御方って上官より偉いんじゃねえの? 真面目にやらなきゃやばいだろ。 偶にヒャラを踊るぐらいはいいとしてもさ、ヤマが終わってもいねえ内から海坊主と泳ぐって。 いってえ何を考えていらっしゃるんだか、俺にゃあさっぱりだ。
だからって俺みたいな雑魚がギラムシオ様に抱きついて止めるって訳にもいかねえし。 俺がもたついている間にギラムシオ様はぱっぱっぱっと服を脱いじまって。 ざぶんと海に飛び込んだ。
で、ほんとに海坊主と一緒に競争し始めるんだもんな。 魂消たね。
海坊主の方も待ってました、て感じでさ。 頭を使って、ぽーんとギラムシオ様を宙に放り投げる。 ギラムシオ様はくるんと宙で一回転。 それが合図だったみてえで、ふたりっつーか、ひとりと一頭つーか、とにかくギラムシオ様はすげえ勢いで海坊主の鼻先を泳ぎ出したんだ。
いやー、はえぇの、はえくねえのって。 ありゃ、まじでこの船よりはえぇ。
俺から少し離れた所でおんなじものを見ていたトサが目をまんまるにしている。
「……はえぇ」
「な、トサ、ど、どうする?」
「どうするって。 どうするもこうするもねえだろ。 この船じゃ全速力出したって追いつけねえ。 ま、ギラムシオ様なら大丈夫なんじゃね?」
「そりゃ泳いでいる内は大丈夫かもしれねえけどよ」
俺は甲板にいるおっかねえ人の方にちらっと目をやった。
ひーーっ。 ギラムシオ様をばりばりに睨んでる。 ありゃあ、めちゃくちゃやべえ。 だからって俺達じゃどうしたらいいんだかわからねえし。
トサもびびっていた。 そりゃ、ギラムシオ様のためなら火の中水の中の覚悟はあるけどよ。 相手があの御方じゃ、俺達が束になって歯向かったって屁のつっぱりにもなんねえだろ。
「おい、ヒコ。 どうしたらいいか船長に聞いとけ」
それだけ言って、さっさと飯の支度に行っちまった。
ちぇっ。 自分がやりたくねえ事だとすぐ俺に丸投げしやがって。 とは思ったが、他に誰もいねえんだ。 しょうがねえから船長に聞いた。
船長はちらっとギラムシオ様が泳いでいる方を見て、そうか、と言ったっきり。 船の方向を変えようともしねえ。 心配じゃねえのかよ?
そういう俺だって、ギラムシオ様が船に戻ってからの心配はしてるけど、海で溺れるって心配はしてねえんだが。 なんせ、がはがは笑いながら泳いでるからな。 笑いながら溺れる奴ってのもいねえだろ。
ただ船長はギラムシオ様に命を助けられたばっかりだからさ、俺より心配するんじゃねえかと思ったんだ。
それにしても海に落っこちそうになった船長の腰紐をがしっと掴んで、ほいっと引っ張り上げるんだもんな。 男ひとりを片手一本で、だぜ。 あの力技にも参ったね。 いやー、さすがのさの字だ。
船長は身軽だから軽そうに見えるが、七十キロはあるだろ。 俺が同じ事やったら腕が抜けちまって引っ張り上げるどころの騒ぎじゃねえ。 海の中へ一緒にまっさかさま、だ。
力技って言やあ、ギラムシオ様の奥様だってすげえ。 ギラムシオ様の奥様がそんじょそこらの女とおんなじな訳はねえけどよ。 ブレベッサ号が沈んだ時、海に飛び込んだ船員に向かってブイをくっ付けた綱を投げたんだ。 それを手伝ってくれてさ。 それがなんと、男の俺が投げるよりずっと遠くに届くんだぜ。 ギラムシオ様は、いってえどこであんな力持ちを見つけて来たんだ?
だからよ、川下りの途中でさ、奥様が、練習しなきゃとおっしゃったから、試合はいつですかって聞いんだ。 そしたら隣にいた乳母って人に、無礼者って怒鳴られちまった。
別に俺も見てえと言った訳じゃねえのに。 お偉いさんの雷ときたらいつどこに落ちるんだか、ほんと分からねえぜ。
なんで怒られたんだか分からねえんで、トサに分かるかって聞いたら、わけえ女は短気だからな、て言うんだ。 でもよ、わけえとか短気っていうのとはちょーっと違うような気がしてさ。 ギラムシオ様にも聞いてみた。
「試合はいつですかって奥様に聞いたら、乳母様に無礼者って怒られたんですが、理由を御存知で?」
「試合? 軍対の日付くらい知ってるはずなんだけどなー。 ま、忘れちゃったんだろ」
なーんとなく、軍対の日付の事でもねえような。 虫の知らせって言うか、なんだか誰かもう一人、別な人に聞いといた方がいいような、そんな気がしてさ。 フロロバさんに聞いてみたんだ。
いやー、聞いといてよかったぜ。 それから俺はギラムシオ様に余計な事は何も聞かねえ事にしてる。 かえって訳が分かんなくなるからな。
まあ、悪気はねえ御方なんだ。 考えてみりゃあ一緒に踊れって誘って下さるのだってさ、俺がいっつも苦虫噛み潰したみてえな顔してるから何か面白くねえ事でもあるんだろ、て心配して踊ろうって言ってくれてる感じがするんだよな。 この渋い顔は生まれつきなのにさ。
心配してもらうのはありがてえんだけどよ、踊らされる方はたまったもんじゃねえ。 なにしろ一回や二回じゃねえんだ。 すっかり嫌気がさしちまって。 申し訳ねえが今回きりって事で、旅が終わったら南へ帰ろうと思っていた。
そしたらマーシュで奥様の歌声が聞こえて来てさ。 あれにゃあ、じーんときて、思わず涙が零れちまった。 生きてる内に天国をちらっと見せてもらった気分だぜ。 ギラムシオ様に奉公してりゃ、いつか又あの歌声を聞けるかもしれねえよな?
それにギラムシオ様がやる事だってすげえ。 海坊主と泳いでおしまいのはずはねえし。 あの調子でこれからもどんどんなんかやらかしていくんだろ。 俺が見たのよりもっとすげえ事だってやっちまうかも。 それやこれや、ぜーんぶ見逃し聞き逃しちまってもいいのか? て言えば、よくねえよなあ。
首にされたってんならしょうがねえけどよ。 自分からやめて帰ったせいで見逃した、なんて事になったら死ぬまで後悔するだろ。 なら、偶にちょこっと踊るぐれえは我慢するっきゃねえ。
追記
ヒコ・マージロ
第三回皇国ヒャラ競技大会より設立された、平民男性成人部門の初代優勝者。
現在も多くの出場者の演技に取り入れられている「船ヒャラ」(ヒャラの止めと次の止めの合間に、ふらっとした揺れを入れる)は、彼が創始した。




