拳骨
「なによー、ひさしぶりにあったってのに、およがないのー」
ゆらゆら泳ぎながら海坊主が俺を責めた。
いや、聞こえて来るのは、わわきゃ、ぶっぶぶーぶぶ、わきゃわきゃー、なんだけどさ。 あいつの言いたい事くらい俺でなくたって分かるって。 すっごく分かりやすい奴なんだ。
「ちぇっ、お前は気楽でいいよな。 何も考えずにばしゃばしゃ泳いでいる内に任務が終わるなら俺だってとっくに泳いでいたさ」
「からだ、なまってんのー? (ががが、ほはほはーっ)」
「な、何だとー? バカにするんじゃないっ! ほらっ、これっ! この筋肉の盛り上がりが見えないのかよっ」
「それが、なにー? (びょー、とととろ)」
「こう見えても苦労してんだぞ。 泳いでる暇もないくらい。 そもそも今回の任務だってお前がこんな島の周りをうろちょろしているんじゃなきゃ動かせとか言われずに済んだんだっ。 て事は、お前のせいで俺が忙しい目にあってるんじゃないかっ」
「いいわけ? なっさけなーい (ぶっはあ、わーわーきゃっ)」
「何が言い訳だ。 今だって泳げばお前に負けるもんか」
「あはは、いってろー (ぶわっぶわっ、じゃじゃー)」
実はあたしに負けるのか怖いから泳がないんでしょ、と俺をバカにするかのようにヒレをぶるぶるっとさせた。
「んもー、お前って奴は。 しょーがないなー」
こいつには言葉で言ったって分からない。 やっぱり泳いで見せなきゃ。 幸いマーシュまでまだ大分ある。 どうせ俺が何かを一生懸命考えた所でいい案が思いつける訳でもない。 さっと泳いで戻ればいいよな。
ぱっぱっぱっと甲板で服を脱ぎ、下履き一丁で海に飛び込もうとしたら近くにいた船員のヒコがびっくりした顔で俺を止めた。
「お、お待ち下せえ! いってえ何をなさるんで?」
「え? ああ、ほら、海坊主がさ、久しぶりに会ったのに泳がないの、て言ってるからさ」
「へ?」
「体、なまってんのー? とか。 海坊主にバカにされて黙ってられないだろ? 昔一緒に泳いだ時だって俺が負けた事なんて一回もなかったんだぜ。 なのに、ちょっとばかり大きくなったからって調子づきやがって。 ま、すぐに戻るって」
ざぶんと海に飛び込み、まずギラムシオ号の進行方向とは逆の方向へ向かって泳ぎ始めた。 マーシュに向かっている船は沢山ある。 俺と競争している内に海坊主が他の船にぶち当たったりしたら迷惑掛けちゃうからな。 でもあんまりギラムシオ号から離れたら見失っちゃう。 それでギラムシオ号を中心に大きな丸を描く感じで泳いだ。
海坊主が喜んでいる。 そうこなくっちゃ、て感じで。 俺もこんな風に思いっきり泳げるのは久しぶりだ。 嬉しくない訳じゃない。 大隊長だの、領主だの、準大公だの。 そんな事、全部忘れてひたすら泳いだ。
泳いでいる内に、ぽつぽつ子供の頃の事の思い出が頭に浮かんで来た。 物覚えが悪い事で知られている俺だが、なぜか海にまつわる事だけはよーく覚えていたりする。 誘拐事件みたいな自分の命に関わるような事件だって今ではうっすらとしか覚えてない。 その原因だったケルパと会っていた事さえ忘れていたのに。
例えば俺がまだよちよち歩きの頃、父上とふたりっきりで海水浴に行った事とか。 兄上達と母上だけじゃなく奉公人もいないだなんて、今考えるとすごく変なんだけどさ。 俺が知る限り父上が護衛を連れずに外出なさった事はない。 だから単に俺が気付かなかっただけで護衛はちゃんといたのかもしれないが。 とにかく父上が砂でいろんな物を作ってくれて。 とっても嬉しかった。 持って行ったちっちゃなシャベルでお手伝いしたり。 その時父上が言ったんだ。
「サダ。 海に一人で行ってはいけないよ。 海にいる神様に気に入られたら家に帰してもらえなくなる」
そう言われたからか、俺は今まで海に一人で行った事はない。
もうちょっと大きくなってから海辺の町のお祭りを家族で見に行った事がある。 たぶん俺は二つかそこら。 散々はしゃいで疲れきった俺は父上の腕の中で目を瞑っていた。 すると父上が母上に向かってそっとおっしゃった。
「ハシェがね、サダを養子に貰いたいと言っている」
「お断りして下さいませ」
母上は即座にきっぱりとお返事なさった。 なんだか怒っているみたい。 母上が怒った所なんて一度も見た事がなかったから忘れられないのかも。 思わず目を開けそうになったけど、何だか見るのが怖いような気もした。
「あれを見て、この子は海に生きるべきとは思わなかったかね?」
「思いませんわ」
あれ、というのがどれの事なのか俺には分からなかったし、父上はそれ以上何もおっしゃらなかった。 俺が寝こけちゃったから聞いていないだけで、その後も何か話したのかもしれないけど。
そんな事が本当にあったのかどうか、はっきりしないけど、二つの時の事なんて普通、誰も覚えていないんじゃない? おばかな俺が「ようし」って言葉の意味を知っていた事、辺りに奉公人が何人もいたのに父上が俺を抱いていた事も変だ。
だから本当にそんな話があったんだかどうか確かじゃない。 ともかく俺はどこにも養子に出されなかった。 ハシェおじさんの事は好きだったけど、両親の事はもっと好きだ。 下手に詳しい事情を聞いて両親から離されたくなかったから、そんな話が本当にあったのか誰にも聞いた事はない。
サジ兄上が浜辺で怪我の手当をしてくれた事もしっかり覚えている。 貝殻だか何かで指を切っちゃって、びーびー泣いていたら、サジ兄上が俺の指をぱくんと銜えた。 すごくびっくりして泣き止んだ。 サジ兄上は俺の傷口を舐めて、ぺっと血を吐き出した後、指に紙を巻き、こよりを使って縛ってくれた。
「包帯したからね。 もう大丈夫。 でも指を濡らしちゃだめ。 今日の水遊びは終わり。 わかった?」
その包帯のおかげで何だか自分がすごーく強くなったような気がして、いいでしょ、すごいでしょ、てみんなに見せびらかした。 今思うと、恥ずいっ。
そういえば、泳ぎをサガ兄上に褒められた事もあったっけ。
「魚と見まごう泳ぎ、見事である」
あれは忘れられない。 サガ兄上に褒められたのって後にも先にもそれっきりだから。 そんなあれこれが、あぶくのように浮かんでは消えていった。
「ねえ、こっちに来ない?」
海の底から不思議なお誘いを聞いた様な気がした。 海坊主じゃない。 全然違う何か。
隣でゆーららと御機嫌に泳いでいた海坊主が、急に不機嫌な動きを見せた。 いきなり深く潜って、水を掻き回すように泳ぎ始める。 まるでそこにいる何かを散らそうとするかのように。
「人のものにちょっかい掛けるんじゃないわよっ (わぎゃわぎゃ、ぶががっ、わーぎゃっ)」
ちょ、ちょっと何、その「人のもの」って。 それってリネのものって意味じゃないよな? 海坊主がリネを知ってる訳ないし。
つまり、あたしの亭主、て言ってる? えー、海坊主って女?
いや、それもびっくりだけど、俺が海坊主の亭主って。 そりゃないだろ。 命の恩人とまでは言わないし、飼い主でもないとは思うが。 だからって亭主じゃ、ぶっとび過ぎだ。
どちらかといえば泳ぎ友達? 更に言えば、お友達から始めましょう、じゃない方の友達だ。 念の為に言わせてもらうが、これからもお友達でいてね、とランクが下がったとかの過去がある訳でもない。
そんなどうでもいい事なら考えたのに、「こっち」ってどっち、とは思わなかった。 毎日楽しいわよ、と言われ、そうだろうなと思ったり。
行ってもいいかも? 陸に戻ったって、また毎日、ああしろこうしろ、それはだめ、これもだめ。 面倒で、しんどい事ばっか。
ただ、あっちにリネはいない。 サリも。
師範、トビ、父上、母上、部下や奉公人。 その他いろんな人達の顔が次々と思い浮かんだ。 俺がいなくなったって困る人はいないけど、みんなにもう二度と会えないとなったら俺は寂しい。
「行かない」
せっかく誘ってくれたのに、と思わないでもなかったが、俺はかなりはっきり断った。
そんな事言わないで。 おいでよ、が二、三回続いたけど、その度に行かないを繰り返した。 すると不思議な声は段々小さくなり、その内聞こえなくなった。
たっぷり一緒に泳いで気が済んだのか、海坊主の泳ぎがゆらゆらという感じに戻った。 俺の方がまだ速いという事をちゃんと海坊主に見せてやれたから俺もなんとなく満足した気分。 この辺りで戻った方がいいかも。 あんまり長々泳いでいたらまた何を言われるか分からないし。
すぐに戻ったつもりでいたら、俺はなんと二時間以上だらだら泳いでいたらしい。 ギラムシオ号に乗船した途端、師範の拳骨が俺を待っていた。 行かないと言った事を、こんなにすぐ後悔するとは思わなかったぜ。




