祖母似 若の母の話
夜半の雨はいつか雪になり、今朝の地面は雪に覆われている。
「やれやれ。 節々が痛むから降るとは思っていたけどねえ」
暖かい暖炉の前でお母様がため息をついた。 広い邸宅はどの部屋も充分暖かく、外に出るのでさえなければ寒さに気づく事さえないのだけれど。
先代ジョシ子爵夫人であるお母様はお父様の死後、本邸から御自分の物を全てこの贅沢な別邸へと移した。 悠々自適の隠居生活とおっしゃってはいるものの偶に内装の仕事を受けていらっしゃるよう。
平民出身とは言え、国でも有数の材木問屋の娘であったお母様には商才があり、家具の販売等でジョシ子爵家とは別に財を築いた。 この別邸の建築費だけでなく管理費も全てお母様が御自分の資産から支払っていらっしゃる。
「北はもっと寒いのだろうけどさ」
どちらも口に出さない。 サダはどうしているかしら、と。
あの子にとって親の庇護から離れた暮らしは初めて。 ぬくぬくとした伯爵邸での毎日からいきなり飛び込んだ軍隊生活。 規律に加えて短い夏の後に続く長く厳しい冬。
食事だとて鴨のローストがほらと出てくる訳もなく。 あの子が毎日楽しんでいたお風呂も北では贅沢でしょう。 手紙の一本もなくともつらくないはずがない。
寒がりのくせに。 よりにもよってどこより寒い所へ行くだなんて何を考えているの。 てっきり雪が降る前に帰るかと思えば、ここに雪が降ってもまだ帰ると言って来ない。
名を上げたという。 それが何だというのかしら。 そんなものは一過性のものでしょう? 最初はちやほやされるとしても人が忘れるのは早い。
北の猛虎にも会えたのだし、充分気が済んだのではないの? 北軍に居続ける必要なんてどこにもないはずだわ。
何度も出した手紙のどれにも、いつでも帰っておいで、と書いたのに。 あの子ったら返事も碌に寄越さない。 筆無精のあの子が手紙を書くはずはない事は覚悟していたけれど。
「北軍だなんて。 旦那様がお止め下さると思っていたのに」
つい、愚痴が漏れる。
「なぜ? 他に入隊させたい所でもあったのかい?」
「いえ、どこ、とおっしゃった事はありません。 けれど御本心はサダをお手元に置きたがっていらしたような気がするのです。 それが無理ならば西軍か、南軍。 遠くても近衛軍をお望みと思っておりました」
「ふうん。 私は驚かなかったけどねえ。 あの御方はサダが小さい頃から随分な気ままをお許しになっていたし」
「それは。 御自分には許されなかった自由をせめて三男には味わわせてあげたいと思っていらしたからでしょう。 まるで愛玩動物のように、いえ、それ以上に慈しんでいらしたのですよ。 それがこのようにあっさり手放しておしまいになるだなんて」
「すると伯爵家の財産を食いつぶされる事を心配して遠くへやったのではない?」
「それは考えられませんわ。 お母様が子爵家財産とは別になさっている個人資産をあの子に譲るおつもりでいらっしゃる事、旦那様も御存知でしたもの」
「贅沢しなけりゃ一生食うには困らない程度だけどね」
「サガの代は勿論、その子の代になっても経済的にヴィジャヤン伯爵家に頼る必要はない程の金額ですわ。 サダにお金儲けの才能はありませんが、親のお金であっても散財した事はありません。 自分のお小遣いとなると吝嗇と言っても良いくらいの慎ましさですし」
「なのに、止めるな、と?」
私はため息と共に頷いた。
「止めた所で聞くような子ではない、とおっしゃるの」
「それは、そうだねえ。 ふふふ。 あの強情、一体誰に似たのやら」
ちら、とお母様の顔を見る。
サダの顔立ちは私達夫婦、祖父母の誰にも似ていない。 けれど気性は一番お母様に似ていると思う。 どこか奔放な。 細かい事は気にかけないかと思えば、気にかける事にはそれはそれは強情で。
そしてまっすぐに人を見る。 あの目にやられた、と亡きお父様が笑っていらした事を思い出す。
暖炉の軽やかに舞う炎を見つめながら私はそっと呟いた。
「結婚相手でも見つければ帰ってきてくれるかしら」
「あれは、戻るまいよ」
「どうしてでしょう?」
「北に行く前に私の所に寄っていったからね。 分かるさ。 あの子の目が、見つけた、と言っていたよ。 自分がいたい場所を。 偶には戻ってくるだろう。 観光か、仕事か。 結婚じゃあないね」
伯爵夫人として本音を顔に出さないくらい普段から気を付けている。 なのについ、お母様の前では気が緩んだようで。
「渋い顔をおしでないよ。 英雄の母が息子の活躍を誇りに思わないでどうするんだい」
「気を付けますわ」
お母様のお見立てが間違っているとは私も思わない。 ただ認めたくないだけ。
母とはなんと損な役回り。 産みの苦しみと育てる苦労。 やっと一息つける年になり、共に何かをしようと思えば忘れられる。 手紙も小包も戻ってこないから生きてはいるのだろうけど。
日だまりのような子が伯爵家から旅立った後の、残された邸の寒々しさと言ったらない。 情けない事に私はそんな寒さに耐えきれず、実家に逃げて来た。 けれどいつまでもここに滞在する訳にもいかない。
「ねえ、お母様。 夏になったら二人でサダに会いに北へ行ってみませんか? いつまでも待っていた所であの子が帰ってくるでなし」
「忙しい新兵に母や祖母が会いに行ったって邪魔にされるだけだろう?」
「そうはおっしゃいますけれど。 長年育てる間はさんざん邪魔をされたのですもの。 少しくらいやりかえした所で罰は当りませんわ」
「あはは。 こんどはこちらの番、と言う訳かい。 それもまあ、面白いかもしれないねえ」
会いに行った時見せるであろうサダの顔を同時に思い浮かべ、私達は顔を見合わせ吹き出した。




