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弓と剣  作者: 淳A
春遠き
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北国の冬

 それはどっからどう見ても、おまるだった。 

「あの、トビ。 これって、もしかして」

「もしかしません」

「それって、どういう……?」

 意味、事、事情、ギャグ、悪意、おち?

 どれを続けたらいいの? いや、入れるべき言葉がもっと他にあるのかもしれない。 俺って言葉を沢山知っている訳でもないから。

 とにかく、トビを怒らせたら怖い。 下手な事は言いたくなくて、どれが一番無難だろうとか、あれこれ迷っているうちにトビが言った。

「明日から冬になります」

「え?」

「北の秋は年によっては一ヶ月以上続く事もあるようですが。 例年は二週間程度で終わるのだそうです。 そこからは冬。 つまり明日から雪が降り始めます」

「ええっ? 雪? そんなはずないだろ」


 外を見れば明るく気持ちのいい秋。 紅葉のまっ盛りだ。 三週間前まで短パンで弓の稽古をしていた事を思えば秋になって間もない頃と言える。 俺の実家みたいに三ヶ月続くとは思っていないが、一ヶ月は続くんじゃないの?

「秋は始まったばかりだぜ。 そんなにすぐ終わる訳ないじゃないか」

 俺がそう言ったら、天気の事なら俺に任せろ、みたいな威厳を込めてトビが答えた。 

「ところが、そんなはずがあるのです。 気温がぐんぐん下がり始め、間もなく外で用を足すのが大変厳しいという状況になります」

「ま、まさか、このおまるって」

「お察しの通りです。 貴族の子弟は室内で用を足し、従者が外の便所に捨てに行くとの事。 それでこちらを購入して参りました」


 俺はおまるを見つめた。 そして、悩む。 どうしよう?

 もちろん使う気はない。 見るだけで恥ずいのに。 だけど狭い部屋だ。  隠せる場所なんかない。

 かと言って買ったばかりの新品を捨てるっていうのも。 でもこんな物、いくら新品だって人にあげる、て訳にはいかないよな?

 なんでこんな物を買って来た、と責めてもいいんだろうか? こんな時、主としてどういう反応を見せるべき? こういう時のためにこそマニュアルというものがあるべきではないのか? 人生、マニュアルなしにどうやって生きていけ、と。 特に、俺のような新米主が。

 正解が一つじゃないなら選択方式でもいい。 例えばこの場合なら。

1 トビが無駄遣いした事を怒る。

2 まあ、使わないだろうけど、病気とかした時のために一つはあるべきだよな、とクールに受けとめる。

3 そんな恥ずかしい物、死んでも使わない、と無視する。

4 お前が使え、俺はいいから、と主としての度量を見せる。


 どれも同じぐらい正しいような気がするから選ぶのに迷うが、選択が四つしかないという事に奇妙な安心感を覚える事も確かだ。

 俺の気持ち的には3が七割。 1と2と4が一割ずつ、て感じ? ただこれをわざわざ俺のために買って来たトビの気持ちを考えるとなあ。 悪気はないんだろうし。

 それに無視はまずい。 実家に居た時よくトビに無視されていたから、された方の気持ちならよく分かる。 あの頃は俺が何度も謝りに謝ったら最後にはトビも機嫌を直してくれた。 主の息子にすぎない時だって許してくれたんだ。 主となった今、笑って許してくれるような気がしないでもない。

 とは言ってもあの性格だ。 正しい事は正しい。 正しい方が謝るなんておかしいという生真面目な所があるから。 自分が正しいと思っているトビが、いくら相手は主だって謝ったりするか? 謝らなければいけない事などしておりません、と強気だろう。

 せっかく主従としてまずまずのスタートを切ったのに。 こんな下らない事で拗れるのは嫌だ。 じゃ、どうする?

 マニュアルも無ければ決断力にも欠ける俺は、あ、うん、まあな、とかなんとか、意味不明の音を口から出すだけで誤魔化した。 どうせ雪なんて当分降らない。 問題は何であろうと先送りにすればいつか消えてなくなったりしないものでもない、と思った訳。 雪じゃないんだ。 気が付いたら消えていた、とはならないと思うけど。 要するにこの冬をおまるなしで乗り切ればなくても済む物、て事が分かってもらえるだろ。


 ところが次の朝、目が覚めたらそこは雪国だった。

 どうしてっ? お天気までトビの味方なのっ?

 これぐらいの事で衝撃を受けるというのも情けないが、実は、俺は結構な寒がりだ。 認めたくはないが、たぶん普通の人以上に。

 だけど俺にだって見栄というものがある。 ほんとに? と聞き返されるだろうから口に出したりはしないが。 その俺にとってこの寒さは、もう口では言い表しようもない。

 寒いったら、寒いったら、寒いっ! がんがんに冷える。 駐屯地近くには巨大な湖があるんだけど、そこが凍った。

「ひえー、湖の上を人が歩いている!」

 驚いて言ったら周りの連中にどっと笑われた。

「若、この程度で驚いていちゃ先が思いやられます。 その内氷の厚さは人の身の丈を越える程になる。 犬ぞりが何十台走ったって割れない程です。 犬ぞり競争とか見た事ないでしょう? 面白いですよ」


 つまりこんなに寒いのに、これでもまだ序の口、て事? 俺は文字通り震え上がった。

 西にだって西はずれの山脈近くまで行けば万年雪が積もる高い山がいくつもある。 雪というものを見た事がない訳じゃないが、俺の実家があるのは南寄りの西だ。 雪はちらちら降る程度で珍しい。 一年の内に二、三回降ったりする事はあるけど積もらない。 その程度でさえ俺は冬が苦手で湯たんぽを用意してもらわなきゃ寝られなかった。 実家で冬着と言えば長袖シャツ。 そんな俺にとってこの寒さは強烈だ。

 幸い暖かい防寒着をそっちこっちから沢山もらっている。 毛皮のコートや毛糸で編んだセーターの出番だ。 どれもここに来て初めて着たが、すごく暖かい。 取りあえず、もこもこ厚着した。 それで便所への行き帰りをなんとかしのいだが、用を足す時はパンツを下ろすしか道はない。

 最初は我慢したさ。 見栄より何より恥ずいだろ。 部屋で用を足すだなんて悶絶以外の何ものでもない。

 そりゃ、トビとは毎日一緒に風呂に入っている。 だから裸は見られているんだけど、それとこれとは別だ。 いや、用を足している時、廊下に出ています、とは言われたよ? て事は俺が用を足しているという事が廊下を歩いている奴らに丸分かりじゃないか。 男同士で何恥ずかしがっていると言われりゃそれまでだけどさ。


 しかし何しろ半端ではない寒さだ。 たかがしずくを振り切るのでさえ素早さに切れが不十分と思い知らされた俺が、大に挑戦するなんて無理。

 そう思い知らされた後でも俺は往生際悪く、ほんとにみんな室内で用を足しているのか、こっそりあちこちで聞いてみた。 だけどトビの言っている事に嘘はなかった。

 まあ、トビが嘘を吐くような人間だとは思わないけど。 ほら、こっちに不慣れなせいで、ちょっと大袈裟に言われた事を言葉通りに受け取ったとか、あるかもだろ? 六頭殺しをからかってやれ、のジョークを真に受けて、とかさ。

 どうやら平民なら鍛えられているおかげで早ション早ぐそで冬を乗り切れるらしい。 強者になると夜中にぱっと起きて寝間着のまま便所に行く奴さえいるという。 でも貴族の子弟は北出身であろうと室内で用を足し、従者が後始末していたのだ。


 底なし沼みたいな終わりのない寒さが、これでもかこれでもかと襲って来る。 俺はとうとう諦め、室内で用を足すようになった。

「トビ、それぐらい自分で捨てに行くから。 そのままにしていて」

 俺のほやほやを捨てに行こうとするトビにそう言ったら、すぐさま言い返された。

「従者の風上にも置けない奴、と私が後ろ指さされるようになってもよいとおっしゃる?」

「いや、そんな事」

 言う人なんている訳ない、と言葉を続ける事は出来なかった。 トビの顔が怖すぎて。 

 怒るトビと寒さには勝てぬ。 勝とうと思う方が間違っていたんだろうけどさ。


 そしてある朝、東の空に虹がかかっているのが見えた。 確かに虹だ。 夏の虹と違って柱みたいにまっすぐに立っているが。

 そもそもなぜ朝に虹が見えるんだ? 今は冬だぞ? がっちがちに全てが凍る、真冬だぞ?

 夏の雨あがり、西の空に見える半円の虹しか知らない俺は混乱していた。 ところが聞いてみると、冬の虹ってこちらでは珍しくもなんともないんだって。 本格的な寒さの始まり、というだけで。


 虹の柱が見える頃、俺は初めて矢が当たらないという経験に苦しむ事になった。 ちっちゃい頃なら矢が当たらない事ぐらいしょっちゅうあったが、十歳を過ぎた辺りから狙った的を外した記憶があまりない。 だけど気温がこれだけ下がると当然弓も矢もそれに合わせて違った動きになる。 矢の飛び具合や逸れ具合に微妙な、いや、かなり大きな差が出るんだ。 それが掴めないというか慣れないせいで狙った所に当たらない。 的がでかけりゃ当たるけど。

 手がかじかんじゃって感覚がなくなる。 冬の虹が見えると、もう外に出るのは嫌だ、春になるまで稽古止めちゃおうかな、とかそればっか考えちゃう。

 止めたって誰かが責めるとは思えない。 そもそも真冬に弓の稽古をしているのは二、三人しかいないし、毎日違う顔ぶれだ。 つまり毎日稽古やっているのは俺だけなんだ。


 なら冬の間、稽古しないの? それはまずいよな。

 稽古しろ、と誰かからプレッシャーをかけられている訳じゃない。 剣と違って弓は競技会とかがある訳でもないし。 将軍がなんか春にやるとおっしゃっていたけど、俺は模範演技すればいいだけなんだって。 それなら少々稽古を休んだって的には当たるだろ。

 とは言っても矢を射るために必要な筋肉は矢を射る事でしかつかない。 毎日稽古しなきゃなまる、て事は経験上知っている。 矢を射るための筋肉が衰えたら当然当たらなくなるし、春になってから突然稽古を始めたって衰えた筋肉は一日や二日で戻ってきてはくれない。

 そりゃ弓以外の稽古でも体を鍛える事は出来るけど。 腕立て伏せとか懸垂とか。 屋内で鍛えた筋肉が邪魔になるって訳じゃないし、弓だって踏ん張るから足の筋肉も必要だ。

 でも例えばトビはすごく足が速い。 俺よりずっと。 実家では密かにみんなから韋駄天というあだ名で呼ばれていた。 それ程足が速くたって弓を引かせたら、ぽとって矢が三十メートル辺りで落ちる。 的まで届かないんだぜ。 的から三十メートルの所まで近づいたって矢が真ん中に命中した事はない。

 そうなったら困る。 弓は俺の唯一の取り柄なんだから。 て事は、稽古に行くしかないんだよな。 寒かろうと暑かろうと。

 くすん。 恨めしげに冬の虹を睨む。 睨んだところで暖かくなってくれる訳でもないが。


 寒い、寒いと毎日愚痴を零す俺をトビが見かねたようで。 ある日へんてこな手袋を差し出した。

「若、どうぞこれをお使いになってみて下さい」

 その手袋は手甲と手首が羊の皮で覆われ、毛糸で編んだ指サックがくっついていた。 親指、人差し指には付いていなくて、中指、薬指、小指用だけ付いている。

 おおっ。 こ、これは、かじかんだ手に朗報だ!

「トビ、これ、すごい! あったけー。 こんな弓用の手袋、一体どこで見つけてきたの?」

「皮職人に余った羊の革を分けてもらいまして。 それを若の手甲と手首にあわせて切り、毛糸屋に持って行って三本だけ指を付けてくれるように頼んだのです」

「トビ! お前は従者の鑑だ! 褒めてつかわす! ところで、これいくら?」

 今ではしこたま金を持っている俺だが、つい身に付いた貧乏性。 もう、条件反射だね。 必ず値段を聞いちゃう。

「ただです」

「え?」

 ただ、と聞いてすぐに喜べないのは過去に苦い経験があるからだ。

「まさか、御用達と看板に入れたい、とか?」

「いいえ、それは絶対やらないよう約束させました。 でも他の弓部隊の人からこの手袋をどこで買ったかを聞かれた時、その店の名を言ってほしいそうです。 そして値段は二千五百ルーク、と」


 北の商人達の商魂、侮り難し。 でも冬場に稽古に来る弓部隊兵士なんて数えるほどしかいない。 買ってくれるお客さんが大した人数いる訳でもないのに、ただであげたりしたら店の損になるんじゃないの?

 とは思ったが、宣伝代という事なら、と有り難くその手袋を戴いた。 そして弓隊員に手袋の事を聞かれた時ちゃんとその店の名前を言った。

 沢山の人に何十回も言った訳じゃない。 的場で二、三回。 食堂で二、三回くらいか。 そんな感じだったから、あんまり宣伝にならなかったろうな、と思っていた。

 ところが次の年の秋、指のほつれを直してもらいにトビがその店に行ったら「若の手」と名付けられた、かなりな数の同種の手袋が店に置いてあったんだって。

 店主は持ち込んだ奴をただで直してくれただけでなく、新しい手袋をもう一組ただでくれた。 毎年春になったら修繕に出してください、店の続く限りただです、とまで言われたという。

 気を付けて周りを見てみると確かに翌年の冬から俺がしている手袋をよく見かける。 よくよく考えてみればこの手袋は弓の稽古をする人だけがいる物じゃない。 誰だって冬でも狩りをする。 冬に弓を引かなきゃならない人にとってすごく便利な手袋だものな。

 弓部隊兵士もみんなこの手袋を買ったみたい。 手袋をしている人の数は増えても俺の隣で稽古する人の数は増えていないが。


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