余白 レンガスーケ小隊長の話
七月最後の週、定例中隊会議に出席するため第五会議室に入ると、テーブルの上には二枚の紙が広げて置いてあった。 ぱっと見ただけで役付用人事評価だと分かる。
平の兵士には文盲が多いので評価は口頭で言い渡されるが、軍曹以上に文盲はいない。 上官はこの書類を使って所感を記入し、翌年、去年の評価と突き合わせ、改善事項があればその進捗を見る事になっている。
私は最初、誰かが未記入の用紙を置き忘れたのだと思った。 空白が目立っていたし、人事評価は毎年七月中に行われる。 ほどんどの者は最初か第二週目には終わらせており、私もとっくに終わらせていた。 だが毎年同じ用紙なので来年使ってもいいと思って手をのばしたら。 なんとそれには評価が既に記入されていた。
「所属部隊 第十一大隊
役職名 大隊長補佐
名 オキ・マッギニス
姓 男
人事評価 五」
いきなり時間が止まった。
本物か?
本物だ。
ヴィジャヤン大隊長の筆跡は文字が不揃いで独特だから誰にだって簡単に見分けられる。 第一、姓の欄に「男」と書くなんて。 北軍広しといえども他に誰がやる? だめ押しをするかのように私の背筋に冷たいものが流れ、これが夢でも幻でもない事を告げた。
誤解のないように言っておくが、ヴィジャヤン大隊長はいつも姓の欄を書き間違えるようなおっちょこちょい、と言っているのではない。 大隊長でなくとも役付なら人事評価を毎年何枚も書いている。 他にこんな初歩的な間違いをする人はいないが、ヴィジャヤン大隊長にとって人事評価を記入するのは、おそらく今年が初めてだ。
ヴィジャヤン大隊長が小隊長へと昇進なさったのは三年前の夏。 評価が終わったばかりの頃だから、部下の評価は移動前の上官が終わらせていただろう。 次の年は「イーガンの奇跡」の直後に大審院召喚となり、ほとんど丸一年いらっしゃらなかった。 去年の夏は大峡谷探検で、お戻りになったのは八月の末。
それに調理場や衣料関係など駐屯地内に勤務している女性もいる。 書類によっては性別を書く事もあるのだ。 よくある間違いとまでは言わないが、これが本物である事に関して疑問の余地はない。
評価をどう受け留めるかは各人の性格にもよるし、受け取った評価次第とも言えるだろう。 しかしどんなに良い評価であろうと、それを会議室で大々的に公開する者などいない。 しかもこれは超が付く秘密主義で知られているマッギニス補佐のもの。 どんな理由があろうと御自分の評価を他人に見せるとは思えない。
去年の秋、マッギニス補佐に第一子がお生まれになった時だって名前はもちろん、性別さえ公表なさらなかった。 私のような下々の者に知らされなかったと言っているのではない。 どうやら上官であるヴィジャヤン大隊長でさえ御存知ないらしい。
何でもマッギニス家のしきたりで、次子が生まれるまで第一子の名と性別は明かさないのだとか。 マッギニス補佐が赤子を抱いていた所を見た者がいるし、皇王妃陛下からのお祝いが届いたという噂は聞いたから無事お生まれになった事は確かだが。
すると、ヴィジャヤン大隊長がお急ぎのあまり置き忘れた? それはヴィジャヤン大隊長がお一人だったらあり得るが、ヴィジャヤン大隊長のお側付きであるアラウジョも一緒に慌てていたとは考え難い。 私はアラウジョの友人ではないが、若いのに落ち着きと気配りがあり、このような忘れ物を見逃したりはしないような気がする。 アラウジョが側にいない事は良くあるが、そんな時は護衛が常に一人は付いているから、大隊長の周辺に誰もいないという事は大変珍しい。
それに人事評価は普通、一対一で上官の執務室で行われる。 置き忘れたにしても、なぜ会議室? まさか、わざとここに置いた? 何の為に?
目的があるとしたら何か、考えてみたが分からなかった。 マッギニス補佐が有能なのは周知の事実。 今更人事評価を公開する必要などない。 因みに評価は五段階で、夫々に以下のような言外の意味がある。
一(警告)ー> ただ飯食い。 次は無いと思え。
二(注意)ー> もっとがんばってもらわなきゃ困るだろ。 お互いにな。
三(普通)ー> 御苦労さん。 これからもその調子で頼む。
四(期待以上)ー> そこまでしてくれたんだ。 給金に色を付けてやる。
五(完璧)ー> おめでとう。 昇進が待ってるぜ。
五は何らかの功績があった場合に与えられる。 昇進祝賀会のようなしかるべき席を設け、上官が公表する事ならあるが、こんな置き忘れみたいなやり方では少しも功績を讃えているように見えない。
私が人事評価を見つめていると、私の同僚が次々と現れた。 皆一様に人事評価が広げてあり、しかもそれがマッギニス補佐のものである事に息を呑む。 そして囁き声を交わし始める。
「……五か」
「ま、当然だな」
「すると、昇進?」
「近い事は間違いない」
「諜報活動の指揮を執っていらっしゃるのに?」
大隊長補佐が大隊長に昇進する場合、普通なら序列の一番下、つまり第一駐屯地から一番離れた第十大隊の大隊長となる。 情報部の指揮を執る御方がそんな僻地の大隊に着任したら何かと不便だろう。
「空きなら第一駐屯地にだってあるじゃないか」
「うむ。 ブロッシュ大隊長の空きはトーマ大隊長が埋める事になったが、退官の御予定を延ばしての暫定という感じだからな」
「マッギニス侯爵家正嫡子なら大隊長はもちろん、副将軍、いずれは将軍に昇進したとしてもおかしくはない家柄だ」
「それはそうかもしれないが。 ヴィジャヤン大隊長とタケオ大隊長を差し置いて第一?」
確かに、どれほどの名家であろうと準皇王族の血縁に優るものであるはずはない。 それに年功から言えば次の第一大隊長として最も相応しいのはサーシキ第二大隊長だ。 ヴィジャヤン大隊長とタケオ大隊長はともかく、サーシキ大隊長が頭越しを黙って見過ごすとは思えない。
「他に適任がいないならともかく、マッギニス補佐がいきなり第一となったら相当な波風が立つんじゃないのか?」
「ま、サーシキ大隊長はな。 他は大丈夫なんじゃ? 弓と剣は誰が昇進しようとすまいとお気になさるとは思えん」
「お二人はそうかもな。 だが辺りの思惑だってある。 特にヴィジャヤン大隊長はいくらお年が一番お若くたってサリ様のお父上だ。 上の方だっていずれは将軍位を、と考えていらっしゃるのでは?」
「だろうな」
「たとえヴィジャヤン大隊長がマッギニス補佐を後押しなさっても、序列上ヴィジャヤン大隊長より上になる昇進はすんなり通らないと思うぞ」
「それにマッギニス補佐の場合、いくら能力や功績が抜きん出ていても隊長になった経験が全くない。 それが問題と言い出す者がいるのでは?」
誰を補佐とするかは隊長の指名次第だから補佐には所謂正規の昇進階段を上っていない人が多い。 その中でも上級兵からいきなり中隊長補佐となり、すぐ大隊長補佐に昇進したマッギニス補佐は異例中の異例だ。 つまり軍曹、小隊長、中隊長を経験していない大隊長となる。
「では、第十二?」
「あり得るんじゃないか? タケオ大隊長はトーマ大隊長の後任として見習い大隊長という前例のない昇進をなさったし。 ヴィジャヤン大隊長は今でさえ大隊と呼べる数の部下を持たない」
「序列は下でも第一駐屯地勤務なら次の昇進もスムーズだろうしな」
「ひょっとしたらサーシキ第二大隊長が副将軍に昇進し、ヴィジャヤン大隊長が第一、タケオ大隊長が第二に繰り上がり、マッギニス補佐が第三、とか?」
フィッチ小隊長の言葉に皆の目が一斉に輝き、声にならないどよめきが広がった。 そうなれば私達は晴れて北方伯直属。 ジンヤ副将軍は後二年で退官なさる。 私達全員がまだ現役である内に起こり得る人事なだけに胸の高鳴りは抑えられない。
「これが来年の昇進の先触れだとすると、取りあえずサーシキ大隊長が第一、ヴィジャヤン大隊長が第二、マッギニス補佐は第十一となるのかもな」
ラリオノバ小隊長の言葉に、妥当な線だ、と皆が頷いていると、スレッテン中隊長とモーワット中隊長補佐がいらした。 全員が席に着かず、テーブルを囲んでいる事に訝しげな表情をお見せになったが、そこに広げられている人事評価を御覧になり、うむ、と短く一言漏らされた。
どういう意味だろう? 全員が穴の開く程中隊長のお顔を見つめた。
うーむと長く唸った訳ではないから困惑ではない。 仰天なさってはいないが、眉を顰めていらっしゃる所を見ると、ここにこんな物がある事を予想していた訳でもないようだ。
人事評価は中隊長がいつも座る席の前に置いてあった。 スレッテン中隊長はそこからひとつ右にずれて座られた。 この会議室には十八人分の席がある。 出席しているのは中隊長、中隊長補佐及び小隊長十人の合計十二人だからそこを避けても席は余っている。
中隊長は顎を少し擦っただけで、まるで何も見なかったかのように会議を始められた。 第三中隊は第一駐屯地の公共部と第一庁舎の警備を担当している。 まず申し送り事項の通達があり、次に各小隊長が簡潔な定期報告をする。 その後、警備の見直しや変更を協議した。
いつも通り三十分程度で会議を終えると、中隊長はこの人事評価の置き忘れに関してどうしろと一言もおっしゃらないまま執務室へと戻られた。 目顔でヴィジャヤン大隊長に持って行けと命じたのでもない。 つまりこれはこのままにしておけという意味だ。 残された私達は、ちらっと互いの顔に視線を投げ、中隊長に続いた。
偶々その日は行く方向が一緒だったので、フィッチ小隊長が私に話しかけて来た。
「本当に届けなくてもいいのかな?」
「今届けたら私達しか見ていないと思われるだろ。 もし中身が噂になったらどうする?」
「あ、そう言われてみれば」
会議が行われていない時の会議室はいつも開けっぱなしだ。 誰だって自由に出入り出来る。 いつヴィジャヤン大隊長が置き忘れたか分からないのだから、私が来た時誰もいなかったからと言って他に誰も見ていない保証はない。
「いくら私達がばらしたのではなくとも、それを証明する術などまずないと言っていい。 ならば残る手段は見た者の数を増やす、だ」
定例会議に丁度良い広さのためか、この会議室は毎日頻繁に使用されている。 次の会議の出席者を含めるだけで見た者の数は倍だ。 ヴィジャヤン大隊長が気付いて誰かを取りに寄越すかもしれないが、そうでなければ少なくとも百人以上がこの人事評価を見るだろう。 数が増えればよいというものではないにしろ、僅か十二人でマッギニス大隊長補佐の冷たい視線に晒されるよりはましだ。
私達は第一大隊所属だから本来なら直属上官でもないマッギニス大隊長補佐を気にする必要はないのだが。 いつどこに昇進するかを抜かしても大変な影響力がおありになる御方だ。 それだけに下手な真似をして目を付けられる事だけは避けたい。
「なるほど。 しかし届けないとなると。 明日の大寒波は必至だな」
「良い評価なんだ。 大までは行かないだろう? 小では収まらないとしても」
フィッチ小隊長が呆れた顔をして見せた。
「同人誌の見本もかくやの開けっぴろげだぞ。 並で収めて下さるとは到底思えん。 予調(予算調整、年末に提出した予算の過不足を六月に修正する)の時だって、然したる実害はなかったのに大だったじゃないか」
私はため息と共に頷いて、庁舎内警備担当の部下を警告しに行く事にした。 ヴィジャヤン大隊長がお書きになった極端に短い所感についてどう思ったか、フィッチ小隊長に聞いてみたい気もしたが、余計な事は言わぬが花だ。
因みに自分のもらった所感や書いた所感とだけ比べて短いと思ったのではない。 名前は伏せて、他の小隊長と所感を見せ合っているし、中隊長から模範所感と言うか、これくらいの任務を遂行した兵にはこれくらいの評価をするように、という目安も手渡されている。 そもそも普通は階級が上に行けば行く程、所感は長くなるものなのだ。
私の評価は毎年三だったが、先週スレッテン中隊長から頂戴した人事評価は四になっていた。 上がったのはサリ様誘拐未遂事件で緊急出動した際、捜査及びその後の対応が評価されたからだ。
私の任務はヴィジャヤン大隊長御自宅周辺の安全確認だった。 それは済ませたからその時点で任務完了だ。 だがその後諜報部と連携し、湖岸の貴族の協力を仰いで湖を渡るのに使った小舟がどこかに打ち捨てられていないか、しらみつぶしに探した。 見つけた船は北ではちょっと見ない形をしていた為、犯人が北出身でもなければ北の貴族に雇われた傭兵でもない事が推測出来たのだ。
総合所感には私の任務遂行態度が満足すべきものである事、信頼が置け、部下の意欲を高め、柔軟な対応が出来る等が書いてあった。 第二項目には当初計画の予想を上回る速度で完成、または完成しつつある事が記されており、第三項目には私の指揮する部隊がどのように貢献したか、第四項目には私が遂行した通常任務四つと、緊急任務二つに関する評価が記述されていた。
マッギニス補佐の人事評価をぱっと見た時、所感はまだ書かれていないと思ったのだが、よく見たら全部記入されてあった。 (以下、原文のまま)
一、総合所感
とてもすごいです。
二、北軍強化目標達成に関する所感
おかげで達成できました。
三、部隊強化目標達成に関する所感
全て目標以上とは、りっぱです。
第二ページは第四項目の「個別任務に関する所感」で、上官によっては一ページで収まり切らず、ページを追加する人もいるのに、そこに記されていたのはたったの十文字。
これからもこの調子で
この後に長い所感が続くと思った者は一人もいなかったに違いない。 付け加えられた所で、がんばって下さい、で終わりだろう。 マッギニス補佐なら情報部関係だけでも数ページでは収まらない任務をこなしていらっしゃるだろうに。 ここまで行ったら無関心と言うか、放任と言うか。
皇国史に残る英雄は遠くから憧れる分にはよいかもしれないが、直属上官が英雄だと傍目に見る程楽ではない、という現実を見せつけられたような気がした。
ある意味では、あの余白こそがマッギニス補佐の卓越した能力を何より雄弁に物語っていたのかもしれない。




