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弓と剣  作者: 淳A
胎動
338/490

平伏

 先代陛下にサリをお見せする為、マーシュ郊外にあるオードラ離宮を訪問した。


 あ、また、ここで大ポカやらかすんだ、なんて思ったでしょ。 ぶーっ、ぶーっ。

 俺の常識をそこまで疑ってもらっちゃ困る。 だけど皇王族の皆様はどなたも普通の育ち方をしている訳じゃない。 その中でも先代陛下は次代様として生まれた時から多くのお付きにかしずかれていらっしゃる。 それが当たり前の御方だ。 勝手に育て、で大きくなった下々の事なんか分かるはずがない。

 そういう意味では相手の方に常識がないとは言える。 だからか、今まで何度も俺の常識が通用しない場面に沢山ぶち当たった。

 俺に常識なんてあったの? とか聞かないでね。 俺にはなくても俺の周りにはある。 そしていつもちゃんと俺に教えてくれているんだから。


 ただ世の中には常識が通用しない時と場合が結構あると思う。 これこそまさにその時、て感じ。 先代陛下はお育ちが違うから、とかじゃなくて。 先代陛下は譲位なさると離宮へお移りになる。 でも一旦離宮にお移りになった先代陛下がその離宮から外出なさった例はここ百年くらいないんだって。 それはトビが言ってたんだから間違いない。

 どの離宮にお住まいになるかはそれぞれで、新しく離宮をお建てになる御方もいたし、お気に入りの離宮に移られる御方もいた。 先代陛下はイグナテン離宮に移るとお決めになった。 俺は行った事ないけど、皇都の郊外から馬車で二日くらいの所にある。 美しい森に囲まれた離宮らしい。 


 ところで皇太子殿下なら皇王陛下の御名代としてそちらこちらに遠出なさるが、一旦戴冠なさったら城の中の人となる。 外出の機会と言えば新年の時軍対抗戦を御観覧なさるのに、城内の一部と言ってもよい隣接する大競技場へお出ましになるくらい。 それ以外で陛下が外出なさるとしたら外国との戦争とか。 つまり滅多にない事なんだ。 先代陛下にとってイグナテン離宮へお移りになるのも実に二十年ぶりのお出掛けだったと聞いている。

 もっとも皇王城は城とは言っても町が二つか三つ、すっぽり入るくらいでかい。 皇王陛下のお部屋だって見た事はないけど狭いはずはないから狭くて息が詰まるって事はないと思うけど。

 政務をなさる場所からお休みになる後宮までだってかなりの距離があるらしい。 毎日移動には馬車をお使いになると聞いた事があるから。

 あれだけ広けりゃ皇王陛下がまだ一度も足を踏み入れた事のない場所だってあるはずだ。 そういう意味では毎日旅行しているようなものかも。 とは言え、どこに行くにしても自分以外の誰かが決めた予定に従っている事には変わりない。


 長年天子としてのお仕事を休みなくなさったその後で、ようやく手に入れた御休息だ。 今までやりたくてもやれなかった事を楽しまれたらいいじゃないかと思う。 でも先代陛下だから勝手が出来るって訳でもないようだ。 それどころか、先代陛下だから勝手が出来ないようになっている。 譲位と同時にお移りになった離宮から一歩も出れないだけじゃなく、謁見するのだってごく限られた人にしか許されない。 それってなんだか体の良い監禁?

 ただそうなるのも無理はないあれこれが昔あったらしい。 歴史を遡ると、当代陛下と先代陛下との間で争いが起こり、内乱となった事が何度もあったんだとか。 監禁も同然の扱いは当代陛下の治世の安定の為なのでしょう、とトビが推測していた。

 だから今回、先代陛下が御外遊なさるのは例外中の例外。 おそらく余命の宣告があった為に許されたんだ。 そんな事、誰も口に出しては言わないけどさ。


 皇王族にお会いする時は誰であろうと事前に先例に則った受け答えを丸暗記しておく。 だけど今回の場合、御外遊中の先代陛下にお目通りする。 先例を使おうにもその先例がない。 それ程まれな事なんだ。

 いつも自分が物知らずなせいで知らない内に間違った事をしているんじゃないかとびくびくしているが、今日の場合誰も知らないんだから俺が知らなくても何もおかしくない。 そこから来る妙な安心感があった。

 だからって何を言ってもいい訳はない。 旅の出る前にどう振る舞うべきか、何と申し上げれば失礼にならないのか、ブラダンコリエ先生に一通り聞いておいた。

 その時まず注意されたのは、当代陛下と先代陛下の間には山頂と麓くらいの違いがある、という事だ。 先代陛下は譲位と同時に他の皇王族の皆様と同様、天子の僕となった。


「現世におきまして天子と呼ばれるのは皇王陛下のみ。 従いまして、皇王陛下に対する礼儀作法はそれ以外の御方に使用してはならない決まりとなっております」

 皇王陛下の実父である先代陛下はどの皇王族より上のお立場だ。 当然目上に対する礼儀は必要となるが、俺も今では次の皇王陛下の義父であり、次の次の陛下の実祖父。 だから先代陛下と同室になった時、絶対平伏しないように、とブラダンコリエ先生に繰り返し警告された。

「平伏には忠誠を誓う、という言外の意味がございます。 それを当代陛下以外の御方になさったりしては後々大きな問題となるでしょう。 他はともかく、この点に関してだけは外せない、と御留意下さるよう」


 どうして皇王族ってこう面倒臭いの、と文句を言いたくなる。 しかも苦労してあれこれ覚えたって、この先代陛下用の礼儀作法を使うのはたったの一回きり。

 新年の挨拶なら何度も使うけど、それだって一年に一回しか使わない。 偶にしか使わない挨拶なんて忘れるだろ。 明けましておめでとうございますで済むものじゃないんだからさ。 誰にでも同じ作法が使えるようにすれば覚える手間も少ないし、何度も使う機会があって忘れないのにな。

 因みに、先代陛下が当代陛下の御内意を伝えるお使いとしていらした場合は、サガ兄上が御内意を伝えた時と同じ作法で承る事になる。 つまり平伏しなきゃいけないんだって。

 慌てて復習しようとしたら、但し、最後にそんな事があったのは二百年前、とか言うんだもんな。 そんな昔にあった事まで教えてくれなくてもいいのに。 細かい事なんか聞いたってどうせ覚えられないし、かえって混乱するだろ。 記憶力抜群なトビはブラダンコリエ先生になんたらかんたら聞いていたけど。


 とにかくどんなに面倒臭かろうと儀礼には過去にあれがあってこうなった、という理由がある。 俺には諦めて従う事しか出来ない。

 俺達がマーシュに着いたのは先代陛下御出発ぎりぎりだったから、到着した翌日、先代陛下がいらっしゃるオードラ離宮へと伺った。 オードラ離宮は離宮としては小さいらしいが、俺の家に比べたら三倍の広さがある。 そこに俺達夫婦、エナ、カナ、トビ、バートネイア小隊長、ネシェイム小隊長、それにケルパを連れてサリの顔を見せに行った。 師範と従者とヘルセス家の護衛兵も付いて来てくれたが、離宮の外で待ち、中には入らなかった。


 侍従に客間らしき一室へと案内され、そこで待っていると先代陛下がお見えになった。 退官して準公爵となったサハラン前近衛将軍と、お医者さん、侍従、護衛を伴っていらっしゃる。

 譲位なさったとは言え、さすがは皇国皇王陛下として君臨された御方なだけあると感じた。 師範が持っている威圧感とは違う。 だけど王者の風格と言うか、辺りを従える独特の雰囲気があるんだ。 ブラダンコリエ先生に繰り返し警告されていなかったら、きっとへへーーっという感じで思わず平伏しちゃっていただろう。

 先代陛下には新年の軍対抗戦の時に遠目で何度もお目にかかっている。 俺にとっては初対面じゃない。 実はロックと一緒に空を飛んでいる時にも陛下のお顔は見えていたが、こんなに間近でお顔を拝見するのは初めてだ。 やっぱり緊張する。


「ヴィジャヤン準大公。 この度は遠路遥々、余の見送りに馳せ参じた事、嬉しく思う」

「有り難きお言葉、畏れ多い事でございます。 先代陛下に於かれましては増々御健勝の御様子。 誠にもって喜ばしき事と申し上げます」

 ちゃんと練習した通りに言えたものだから、そこでつい、気が緩んだ。 体が勝手に前屈みとなり、平伏寸前の姿勢になっていた。 慌てて踏ん張ったが、手が既に膝小僧の上を彷徨っている。 咄嗟にその辺りを擦って、本日はお日柄も良く、とか何とか意味不明の事を言って誤魔化した。

 いや、誤魔化せたとは思わない。 ただ先代陛下のお側付きともなれば賢い人揃いだから。 気が付いていないはずはないが、人の失敗に気が付いたからってげらげら笑ったりするような人はいない。 サハラン準公爵が、げふん、とわざとらしい咳払いを一つしたけど。 幸い誰にも咎められなかった。 その場では。

 膝を擦っただけでもまずかった? 後で何か言われたりする?

 皇王族って何事にも大袈裟だからな。 ちょっと心配になったけど、少なくともその場では大事にならなかったからほっとした。 謝っておいた方がいいかと迷ったが、謝る事に関してはいろんな人から簡単に謝るなと何度も注意されている。 謝るって事は自分が悪いと認めた事になるんだって。


 ありがたいことに、その部屋には皇王族の言動を書き留める書記らしき人がいなかった。 護衛は室内に五人いたけど、みんなサハラン準公爵が将軍だった時の腹心だ。 俺も何度も会って名前を知っている。 後はお医者さんと侍従の人が四人いるだけ。

 大丈夫だと思いたい。 まあ、大丈夫でなくたってもうやってしまったんだから今更取り返しはつかない。 後でトビに叱られる事は免れられないだろうな、と考えただけで、ずどーんと落ち込んだ。


 実は、先代陛下にお会いする前に一番心配したのはケルパが失礼な事をするんじゃないかという事だった。 なのにケルパときたら厳しく躾けられた宮廷犬顔負けの礼儀正しさで控えている。 先代陛下の御前はもちろんの事、離宮に入った時の門番に対しても離宮内ですれちがった侍従や警備兵の人にも一度も吠えたり唸ったりしなかった。

 念のためトビがケルパの側に付いていたが、案内された部屋に入ると命じられる前に扉の近くに邪魔にならないように座り、先代陛下がお出ましになってもそこから少しも動かない。 宮廷儀礼は一通り心得ております、と言わんばかり。


 なんでこんな時に限ってお利口さんなんだよ。 ケルパが派手にまずい事をしてくれたら俺がした小さなまずい事なんて簡単に誤魔化せたのに。 まったく気の利かない犬だ。 そんな事を考えていると、先代陛下からの御下問があった。

「旅の途中、サリが乗船していた船で其方の義兄を救ったのだとか。 真か?」

 あ、やばいかも。 早速レイ義兄上に警告された質問が来た。 

「いえ、船ではなく、私が泳いで川岸まで引っ張りました」

 乗組員の事は聞かれていないんだし、俺が泳いで義兄を引っ張ったのは事実で嘘じゃない。 でもこれ以上深く質問されたら辻褄の合わない事をしゃべってしまいそう。 そしたら面倒な事になる。 俺はとっさにサリを使う事にした。

「先代陛下、サリ、さま、をお抱き下さいませんか?」


 孫で誤魔化せるかどうか分からないけど、厳格で知られた人でも孫には甘いもんだろ。 俺の父方のおじい様も厳格な事で知られていた人だったが、俺には甘くて。 よく一緒にかくれんぼとかした。 走っちゃいけませんと言われている所で駆けっこしたり。 楽しい思い出がいっぱいある。 かくれんぼでは俺がいつも勝っていたから自分の事をすごいと思っていたが、今になって思えば孫に勝ちを譲ってくれていたんだろう。

 なぜかおじい様と父上はあまり仲が良いようには見えなかったが。 時々すごーく冷たいやりとりをなさる事もあったりして。 でも俺が喧嘩しないで下さい、とお願いすると、いつもぴたっと止めてくれた。

 先代陛下も孫で軟化され、ついでに孫の親の失敗も見逃してくれたりしないかな? それはなくても赤ちゃんを抱くと気持ちがなごむもんだろ。


 俺がサリを差し出したら、先代陛下は少しお首を傾げられた。 もしかしたら先代陛下は今まで一度も赤ちゃんを抱いた事がないから、どうしようか迷っていらっしゃる? でもゆっくり頷かれ、ぎこちない手つきでサリを抱っこして下さった。

 サリは何となく緊張していたっぽい。 泣きたいけど、今泣くより後でゆっくり泣こう、みたいな? こんな赤ちゃんに、誰と会っているかなんて分かるはずないけどさ。

 先代陛下はじっとサリを見つめていて、それ以上あの事故に関する御下問はなさらなかった。 俺とリネは先代陛下が御退席なさった後で美味しいお茶を御馳走になり、おいとました。


 帰ったらトビに盛大に叱られる事を覚悟していたんだが、あっさり大丈夫でしょう、と言う。

「仮に問題になったとしても、あの場にいたサハラン準公爵が揉み消して下さいます」

 はあああ。 その一言を聞いて思わず座り込む。 どっと疲れたが、疲れたくらいで済んで本当によかった。


 やっぱり大ポカやらかしたじゃないか、なんて言わないでくれる?


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― 新着の感想 ―
[気になる点] >ネシェイム補佐 昇進等の話はなかったように思いますので、小隊長ではないでしょうか?
[良い点] 周回中です >俺の父方のおじい様も厳格な事で知られていた人だったが、俺には甘くて、よく一緒にかくれんぼとかした。 走っちゃいけませんと言われている所で駆けっこしたり、楽しい思い出がある。…
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