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弓と剣  作者: 淳A
胎動
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紅赤石  若の義兄、ナジューラの話

 北方伯が救助に来た事に驚いたが、すぐさま船首に登り、紅赤石をくり抜いたのを見て、それが目当てだったのかと腑に落ちた。

 上級貴族であれば宝石には呪いが込め易い事を知っている。 だから大きければ大きい程、気軽に手に触れたりはしない。 だが出自が伯爵程度ではおそらくこれ程の大きさの宝石を見た事がないのだろう。


 この紅赤石は「血涙」と呼ばれ、触れた者に悲運と狂気を齎すと言い伝えられている。 そんな不幸を呼ぶ石の為に自らの命を危うくするなど馬鹿者のする事だ。 もっとも初対面の時から北方伯の事を賢いとは少しも思わなかった。 馬鹿者が馬鹿な事をするのに何の不思議がある。 ただ石を取って来た北方伯の様子に何の変化も見られないのは不思議だったが。


 北方伯は私の腰のベルトに付いていた小袋に石を入れ、私の体に手早く縄を巻き付けたかと思うと一緒に川へ飛び込んだ。 鍛えられた軍人の腕に抗う術はない。

 すぐさま冷水が肌を突き刺す。 なぜまだ生きている、と責めるかのように。

 何故責められねばならない? 私は父の御計画通りに船を爆発させたではないか。

 ブレベッサ号沈没の責任を取り、私は廃嫡される事になっていた。 廃嫡より死を選ぶつもりでいた私が水中で見苦しく足掻いているのは北方伯が余計な邪魔をしたせいで、私の責任ではない。


 ダンホフ公爵家では先代より更に資産を殖やす事が次代の公爵の役割。 それは名誉であり、義務でもある。 そしてその才のある者が家を継ぐ。

 次代としての能力を見極める為、十五歳になった男子には資本金一千万ルークが与えられる。 二十五歳の誕生会でそれが幾らに増えたかを報告し、一番金額の多い者が爵位を継ぐのだ。 単純明快にして公平と言えない事もない。 であればこそダンホフは財を増やし続けているのだろう。


 庶子の何人かは六頭殺しの若人気が始まったと同時に北の成長を見込んだ商売を始めた。 北方投資信託を始めたニアン。 小口金融商売を始めたユーエン。 多数の小売り店舗を展開したエミラ。 いずれの業績も目覚ましく、資本は五倍から八倍に膨れ上がっている。

 それに比べ海外投資に重点を置いていた私の事業は縮小こそしていないが、大した成長もしていない。 現在の評価額は二千三百六十五万ルーク。 私の二十五歳の誕生日は十一月。 一ヶ月や二ヶ月で四倍に増やすのは無理だから、父が北への投資を早期に開始していた庶子のいずれかに爵位を継がせるとお決めになった時、私は少しも驚かなかった。


 父も庶子であり、歴代ダンホフ公爵には庶子が少なくない事を見ても分かるように、正嫡子なら庶子を従える、庶子なら継嗣を押しのける才覚が必要だ。 又そうでなくてはダンホフ公爵を名乗る資格はない。 父は誰が一番頭脳明晰か厳しく見極められる競争を勝ち抜き、爵位を掴んだ。

 但し、父の代に資産が増えた訳ではない。 せいぜいで横ばいと言った所か。 父の名誉の為に一言言っておかねばならないが、誰が公爵であったとしても同じだったろう。 いや、稀代の相場師として聞こえた父であればこそ横ばいで済んだのであって、凡庸な才では資産の減少は避けられなかったはずだ。 国の衰退は金の動きにまず表れる。 物流が鈍化し、人が飢え、国が荒廃していく中で資産を増やすのは容易な事ではない。


 非凡な父は私が生まれる前から皇国の衰退を察知し、来るべき戦乱の日々を覚悟しておられた。 だからこそダンホフ公爵家資産を国外に流して蓄積する戦略をお立てになったのだ。 事は秘密裏に運ばねばならない。 それにはブルセル国を通して行うのが一番痕跡を消し易い。 だからブルセル国のフィシェルズ大公家令嬢である母を娶ったのだろう。

 ダンホフ公爵家は密かに多額の資金を傭兵集団に融通していたが、それはいずれ皇国が内乱状態となった時、皇王位を簒奪する男が必要だからだ。 ダンホフ公爵家が簒奪者となっては家名に傷が付くし、戦後、国の再建をする時の障りともなる。 だが簒奪者なら殺しても何も問題はない。 そうする事によって次の皇王となるか、次の皇王となった者に恩を売る事が出来る。


 抜け目のない父がセライカ国金融事務次官ディルビガーの娘を私の婚約者として選んだのは、ダンホフ公爵家全資産の約三分の一をセライカに隠す目的があったからだ。 皇国の斜陽は避けられずとも父の計画によってダンホフ公爵家の繁栄は保証されたかに見えた。

 父の誤算は六頭殺しの若が名を上げた日に始まったと言える。 六頭殺し人気は即座に北軍志願者増となって現れたが、国外投資を優先していた父は北への投資に関心を示そうとはなさらなかった。

 それまで皇国の北は雪と氷に閉ざされた荒野で、人家が点在する野蛮の地に過ぎず、当然そこに移り住もうとする者はいなかったから無理もない。 そして私は父の戦略に間違いがあるはずはないと考えた。


 暖かい所から来た者にとって北の寒さは厳しい。 移住者用の家屋が建てられ始め、それと同時に暖房器具、防寒着、寝具への需要が急増した。 その需要を満たす為の物流を容易にするため道路が整備され、その土木工事の資材と人材が北へ北へと目指して流れて行く。 それでも尚、父はこれを一過性のものと看過された。

 大功に次ぐ大功、遂には瑞鳥と飛来した北方伯人気は今や平民に留まらない。 皇国中の貴族という貴族が北に拠点を作ろうとしている為、別荘需要が急増し、地価が高騰している。 土地を買いあさるよりは、と伯爵は勿論、公侯爵家でさえ北に領地を持つ子爵、男爵に正嫡子である娘を嫁がせているというのに。


 世の動きに聡い父がこれ程見通しを見誤るのは珍しい。 かろうじてユレイアの結婚によりヴィジャヤン派閥内での地位を確固とする事が出来たが、出遅れを挽回するには到底充分とは言えない。

 自らの戦略の間違いを認識し、父はダンホフ公爵家の投資戦略を方向転換した。 私はセライカより北を何度も訪れる事になるだろう。 だがセライカ人である私の婚約者は皇国語が話せない。 結婚後も妻はセライカで暮らしてよいと言う約束だったので、覚える意欲が湧かなかったのも無理はないのだが、こちらに呼び寄せた所で何をするにも通訳が必要な妻では足手まといだ。 それに私がディルビガー公爵令嬢と結婚したら、ディルビガー公爵が私の廃嫡に真っ向から反対するのは目に見えている。


 時間が経てば経つ程婚約解消は難しくなるから今すぐ婚約解消を申し出た方がよい事はよい。 とは言え、相手に非のない婚約解消だ。 吝嗇で知られるディルビガー公爵家が要求する慰謝料は一千万や二千万では済まないだろう。 廃嫡される私の婚約者に高額な慰謝料を払うのは金を火に焼べるも同然。

 とは言え、ダンホフ公爵家資産の五分の一は既にセライカにある隠し金庫の中にある。 セライカと不仲になる訳にはいかないし、私の母の実家、フィシェルズ大公家の手前もある。 慰謝料を払いたくないから廃嫡した、では外聞が悪いだけでなく、そんな理由ではフィシェルズ大公家が納得するはずはない。


 父が私を廃嫡するつもりである事を母が知れば、必ずや実家を動かし、皇王陛下へ直訴する事も辞さないだろう。 そうなっては家名に傷が付くだけでなく、訴訟費用だけで簡単に億を超える事になる事が予想される。 最悪の場合母もしくは私の伯父のフィシェルズ大公が爵位を継ぐ可能性のある庶子を次々謀殺するという暴挙に出ないものでもない。

 という訳で、父はサリ様の送り迎えが終わり次第、ブレベッサ号がエンジンの暴発により沈没する手はずを整えた。 その責任を取って廃嫡となれば母も世間も納得する。 ブレベッサ号の建造費は六千万だったが、公称建造費は一億。 これ程高価な船をわざと沈めるはずはないと誰も疑わないし、少々高く付く方法ではあるが下手な芝居よりは後腐れがない。 


 ただ出発当日、北方伯が乗船拒否をしたのは意外だった。 どうやら飼い犬が乗船を嫌がった事が原因のようだが。 そんな理由にもならない理由で御用船の乗り換えをしたら、北方伯はマーシュに着いた後で大審院に呼び出され、申し開きをする羽目になるだろう。 その申し開きが不充分であれば爵位の剥奪さえあり得るのではないか?

 だが自分の死後、北方伯に何が起ころうと心配する気にはなれない。 北方伯の漁船にはサリ様が乗船されていらっしゃるし、そのうえあんな漁船ではお見送りに間に合うか合わないか、ぎりぎりだ。 先を急ぐのだから私の船が沈没した所で構いはしないだろうと予想していた。


 ところが北方伯は救助に駆けつけた。 私が離船しないと見ると、沈没しかかっている船に自ら泳いで来てまで。 紅赤石を取りに行ったのを見て、石欲しさにした事と理解したのだが。 上陸してから北方伯へ石を渡そうとすると不思議な顔をされた。

「それはナジューラ義兄上の物です」

「そなたがいなければ失われていた物である」

「落とし物を見つけたからって、それは自分の物じゃありません。 まあ、お礼をもらうくらいはあるだろうけど」

「それでは謝礼は何がよい?」

「だーかーらー、ブレベッサ号に乗らなかった失礼を帳消しにして下さいと言ったじゃありませんか。 忘れたとか言わないで下さいよ」

「忘れてなどいない。 それ以外に何を望むかを聞いている」

「何もいらないです」

「ダンホフ公爵家継嗣の命を救ったのに何故謝礼を望まない?」

「謝礼って。 弟が兄を助けるのは当たり前でしょ。 ナジューラ義兄上ったら、ほんと、水臭いんだから」

「みずくさい、とは?」

「え、水臭いを知らない? えっとお、ほら、その、遠慮?

 ちょっと違うな。 うう、他に何て言うんだっけ。 何か、あったんだけど。 うーん、と」

「気にせずともよい」

 言葉の意味は他の誰かに聞いた方が早いだろう。


 それにしても謝礼を断られるとは思わなかった。 いくら私が助けてくれと頼んだ訳ではなくとも命を救ってやったのだから石を寄越せと言われると思っていたのだが。

 この石は見かけだけは華やかなので沈没させる予定の船の飾りとして嵌め込んだが、元々公爵家の宝物庫の奥に眠っていた屑石だ。 くれてやった所で惜しい訳でもない。 まさか、この石が無価値であると知っている?

「この石の価値を知っているか?」

「すごく高そうですよね。 俺の年収、全部出したって買えなさそう。 貯金をはたいても無理、て気がします」

「では何故欲しくないと言うのか?」

「そんな高い物、戴けません」

 そなたはこの石以上の価値があるオークの甲冑をそちこちに献呈したではないか、と言いそうになったが押し止めた。 元々吝嗇ではないのだろう。

 但し、金遣いが荒いというのでもない。 平民が差し出した粗末な食べ物を丁寧に食べていたし、余りがあったらお弁当にして、と村人に頼んでいた所を見ると、金の価値を知らないという訳でもなさそうだ。


 いらないという言葉を額面通りに受け取ってもよいものか? 裏がある男のようには見えないが。 もしその言葉に偽りがあるのだとしたら、ダンホフを騙し遂せた男として尊敬に値するし、本当に何の見返りも望んでいないのだとしたら、それはそれで驚嘆に値する。

 北方伯をどう読むべきか迷っていると、食事を終えた北方伯は村人にヒャラ踊りを教え始めた。 誰かが笛と太鼓を持って来て、お囃子が始まった。

「血涙」に触れたら悲運と狂気は即座に現れると聞いていた。 なのに北方伯は石をくり抜いてから泳ぎ、川岸に着いてからかなりの健啖ぶりを披露し、そして踊っている。 沈没事故直後に踊るのは正気の沙汰ではないとしても、次々届けられる食べ物や服、村人達の歓待を非運と呼ぶには無理があろう。 これは一体どうした事か?

 つらつら物思いに耽っている間に「血涙」に纏わる言い伝えがもう一つあった事を思い出した。 石の価値に揺るがぬ者の手に触れし時、悲運と狂気の系譜に終止符が打たれる、とか。 もしこの石から呪いが消滅しているのだとしたら、おそらく一個五千万の値が付く。 つまり二つで一億。


「ナジューラ様」

 侍従のヌリーヤが、御無事で何よりでございましたと言いながら私に無地のシャツを差し出した。

「早急にお召し物を取り寄せますが、届くまで大変申し訳ございません。 何卒こちらのシャツをお召し下さいませ」

「ヌリーヤ、そなたは『みずくさい』という言葉を知っておるか?」

「『みずくさい』でございますか? 他人行儀という意味かと存じます」


 他人行儀、とな。

 今更ながら、北方伯が初対面の時から私を義兄上と呼んでいた事に気が付いた。 年下の庶子なら何人もいるが、私を兄と呼ぶのはユレイアだけだ。 年上年下に拘らず、皆私をナジューラ様と呼ぶ。 私の事は競争相手として見て、兄や弟として見てはいないからだろう。 私にした所で異母兄弟の誰かを兄弟と思った事はない。 ましてや姻戚関係しかない北方伯を自分の弟と考えた事など一度もなかった。


 私は無地のシャツをヌリーヤに返し、何枚ものシャツが重ねて置かれてあるテーブルに近づいた。 そして六つ矢に護衛の文字が染め抜いてあるものを選んで着た。

 北方伯が驚いている。 実は、私自身も驚いていた。 仮にもダンホフ公爵家継嗣を名乗る者が、伯爵家の象徴と護衛の文字を染め抜いてあるシャツを身に付けるなど許される事ではない。


 それがどうした。 継嗣としての務めなら果し終えている。 私は兄としてこのシャツを着たのだ。 馬鹿な弟に助けられているばかりでは情けない。 たとえ弟がいる事さえ知らずにいた兄ではあっても。



 追記

 ナジューラ・ダンホフとディルビガー公爵令嬢との婚約はブレベッサ号が沈没した翌年、解消された。 その際、慰謝料として「瑞鳥の瞳」と名付けられた長径八センチの紅赤石二個(時価一億ルーク)が送られた事がダンホフ公爵家家伝に記載されている。


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