乗船
俺達一行はダンホフ公爵が御用意下さったブレベッサ号に乗船するため、ブラースタッドにある桟橋に着いた。 アブーシャ川は大きいから俺の家から馬車で十分も走れば川岸に着く。 でも船体が大きいと水深がない所では走れない。 それで大きな船用の船着き場が整備されていているブラースタッドから乗船する事になった。
大型船用船着き場に停泊している黒光りする真新しい豪華客船ブレベッサ号を見て、俺は思わずうわあ、と大きな歓声を上げた。
三本マストで全長四十五メートル。 マストには皇王族が乗船している事を示すきらびやかな刺繍がされている旗。 その下にダンホフ公爵家の家紋を縫い込んだ船旗が掲げられ、船首にはロックの彫刻が羽ばたいている。 瞳に嵌め込まれている見た事もない大きさの赤い宝石と銀色の爪が初秋の日差しを受けてまばゆい。 船なら沢山見た事がある俺でさえ息を呑む美しさだ。
北で一番大きな桟橋を使わなきゃいけない船だなんてさぞかし大きいんだろうと予想していたが、これ程とは思わなかった。 だってサジ兄上がこの船は元々はダンホフ公爵夫妻の旅行用に作られたと言ってたんだ。 つまり二人用の船。 なのに百人乗りの客船と同じくらいの大きさがある。
まあ、二人用とは言っても公爵ともなればどこに行くにも護衛と奉公人がぞろぞろ付いてくるからな。 これくらいの大きさがないと困るんだろう。 それに広告塔の役目もあるんじゃない? ブラースタッドの桟橋には他にも沢山の船がずらっと横付けされていたが、ブレベッサ号は一際華やかで目立っている。 見よ、これぞダンホフ、て感じ。
きっとすごく速いに違いない。 もしかしたら海軍の一番速い船より速いかも。 わくわくしちゃう。 こんなすごい船にただで乗れるだなんて、上級貴族と親戚になるのも悪い事ばかりじゃないよな。 密かにユレイア義姉上を射止めたサジ兄上に感謝した。
そりゃ北にもいろんな船がある。 対岸が見えないほど大きな湖だってあるし、川だってアブーシャ川ほどではなくとも大きな川がいくつもあるから、そこを渡るのに船は欠かせない。 軍用船もあるし、漁師だって沢山いる。 小型や中型の漁船だってよく見かけるが、北では冬は水が凍るから、その前に水から引き上げておかないといけない。 船を暖かい所まで持って行って冬を越すか、雪で潰されないように屋根付きの船置き場に囲っておかないと。 氷漬けにしていたら船体が傷んで一冬でだめになっちゃう。
その手間があるので北じゃ自家用船を持っていたとしても小さくて軽いものがほとんどだ。 実用一本やり。 美しさや見栄えを考えた船体にはなっていない。
だけど貴族なら大抵自家用船を持っている南に行っても、これ程贅沢な造りの船なんて数えるくらいしかないと思う。 さすがはダンホフ公爵家。
船首のロックの爪とか、本物の銀だったりして? もしそうだったら爪一つ買うだけで俺の月給が吹っ飛ぶよな。 それにあの瞳の紅赤石。 あれ程大きかったら俺の年収をそっくりそのまま差し出したって買えないだろう。
これでもか、と言わんばかりに飾り立てているのは、ちょっと引いちゃうが。 実は一度でいいから豪華客船に乗ってみたかった。 貴族なら旅に出れば豪華客船に乗る方が普通だと思うけど、父上は行き先に変わりがないのに余計な金を払う必要がどこにあると考える人で。 豪華客船はいつも遠くから見るだけだったんだ。
兵士になってからオークの賞金とか手に入ったし、乗船賃を払うくらいの金ならあったが、その代わり船に乗っている時間がなくなった。 豪華客船に乗るにはまず南まで行かなくちゃならない。 そこからどこに行くにしろ、少なくとも合計三週間以上の長期休暇をもらわないと行って船を見ただけで帰って来る事になる。
最初の一年は新兵だから休暇はないし、その次は王女様のお出迎えとか毎年なんだかんだあって。 遊ぶための休暇なんて取る前に一年が過ぎ去っている、て感じ。 これからも俺が豪華客船に乗る事はないんだろうと諦めていた。
実は、俺は子供の頃船員になりたかった。 師範に出会わなかったらきっと海軍のある南軍に入隊したと思う。 剣士としては三流にしかなれない俺でも船員としてならそこそこ使えたんじゃないかな。
とは言っても南軍にだって豪華客船なんてない。 民間の船員になったとしてもこれほどの船に乗るには縁故なしでは無理だったろう。
ほんと、人生って何があるか分からないもんだ。 船員にならなかった事を後悔した事はないけど、船員じゃないのにこんな豪華客船に乗れちゃうんだから。 しかもただ! 重要なポイントだから何回も言っちゃうけど。 いろいろ苦労はしても北軍に入隊したのはやっぱり正解だった。 英雄になっちゃったのだけは残念だけどな。
俺は期待に胸をふくらませ、ブレベッサ号に向かった。 船の前にはびしっとした制服を身に着けたダンホフ家の乗り組み員が一分の隙もなく整列している。 先頭に立っているのはナジューラ義兄上だ。 ちょっと緊張しちゃうかも。 ちゃんと御挨拶出来るかな?
俺が挨拶しようとしたら、その前にナジューラ義兄上の方から進み出て上級貴族特有の優雅な仕草で御挨拶下さった。
「サリ様におかれましてはお健やかなる御成長目覚ましく、喜びに堪えません。 初秋の佳き日にダンホフ公爵家船舶、ブレベッサ号へお迎え致しました事は当家の名誉として幾久しく語り継がれるでありましょう」
丁寧な御挨拶とお手数をおかけした事に対するお礼を言い、いよいよ乗船となった所でいきなりケルパが船に向かって吠え始めた。
「びよびよっ、びよびよっ、びっびっびっ」
な、何? 今まで聞いた事のない吠え方だ。 威嚇や攻撃、気に入らない、とも違う。 いずれにしてもサリを出迎える為船員は全員下船しているから人に向かって吠えているんじゃない事は確か。 どちらかと言えば、この船に乗っちゃ駄目、と言ってるみたいな。 警告?
えー? こんなにかっこいい船なのに。 一体何が問題なの? だけどそんな事、ケルパに聞いたって答えてくれる訳がないし。 ダーネソンはすぐ側にいるが、これは嘘を警告している訳じゃないから吠えている理由を聞いたって分かるはずがない。 ど、どうしよう?
ナジューラ義兄上が、乗船しようとしない俺達一行を訝しげに見ている。 内心焦ったが、ケルパが乗らないとがんばっているのにサリを乗せるのは無理。
我が家に来てから随分大きくなったとは言ってもケルパはせいぜい中型犬だから、簡単に抱き上げて乗せる事が出来そうに見えるし、抱き上げる事自体は出来ない訳でもない。 但し、ケルパがその気になったら、という条件がつく。
ケルパが機嫌の良い時、抱き上げられたい時なら、大して力のないエナでも抱き上げられる。 でも不機嫌な時とか、一度踏ん張ったらまるでケルパ神社の石像じゃないかと思う程重くなるのだ。 そうなったらこいつを地面からひっぺがすなんて大の男二人掛かりでも出来ない。 この間俺は自分一人でそれをやろうとして、次の日ひどい筋肉痛に悩まされて的を外したりしちゃった。
とにかく、この船には乗らないと言っている事は間違いない。 俺はケルパを宥めるかのようにしゃがんで、そっと囁いた。
「どの船ならいいのさ?」
俺の質問に答えるかのように、ケルパの吠え方が明るくなった。 こっち、こっち、と言うかのように、ひよっ、ひよ、ひよ、と吠えて桟橋から走り出す。 仕方なくケルパの後に付いて行く。
ケルパは俺達の馬車が止まっている地点を通り過ぎ、更に走って平民の船が繋いである桟橋の中でも一番小さいやつに向かった。 ようやくその一つの前で止まり、これにしな、と言うかのように吠えた。 それは割と、いや、かなりぼろい漁船だ。
ちょっとー。 これはないだろ? そりゃ人を見かけで判断しちゃいけないとは教わったさ。 それって船にも同じ事が言えるのかもしれない。 だけどブレベッサ号と比べたら豪邸とほったて小屋くらいの差がある。 客船じゃないんだから乗り心地だって期待出来ないし、ブレベッサ号が嫌なら他にいくらでもましな客船があるじゃないか。 漁船じゃなきゃ嫌、て言うなら他にもっと大きな漁船があるのに、なんでこの漁船?
代わりに乗るのがこれかと思うと、生まれて初めて乗る豪華客船への未練が募る。 いろんな船に乗り慣れているとは言え漁船に乗った事はないから生まれて初めて乗る、て所は同じだが。 乗り慣れていないからリネに格好いい所を見せる事だって出来ないし。
それに今回の旅は豪華客船に乗れるという話だったんで、奉公人の慰安旅行というか親睦もかねている。 アタマークが留守番で残った以外、同居している部下と奉公人全員を連れて来た。 それに師範と従者二人。 ヨネ義姉上はリヨちゃんが余りに幼いという理由で遠慮なさった。 サリは軽いし、持って来た荷物も最小限に抑えている。 それでも大人だけで一行十七名。 この船の船員が何人いるんだか知らないが、俺達全員が乗ったら定員オーバーになるんじゃないの?
まあ、大きさだけは中型漁船と言える。 魚を運んでいなければ十八人が乗っても沈みはしないと思うが。 この船じゃ旅の間みんなに、特に女性に、相当な不便を強いる事になるだろう。 男は船員部屋でごろ寝したって文句を言ったりしないと思うが、公爵令嬢のエナにとってこれは慰安どころか拷問、そこまではいかなくても快適から程遠い旅となる。
なにせ見かけが悪いだけじゃない。 川旅だから船がぼろくたって揺れないと思うが、もし急に天候が悪くなったらすぐ岸に付けないとやばいって感じ。
一番嫌なのは、どう見てもこの船は遅いという事だ。 南へは五日で着き、帰りが十日として、せっかくだから南で一週間くらい観光しようと思っていた。 だけどこの船じゃどんなに急いでも着くのに予定の倍はかかる。 どこにも泊まらず全速力で走らせたとしても行きだけで二、三日は余計にかかると言う事は、南で観光している時間はない。 初雪が降る怖れがあるからとんぼ帰りで北へ戻らないと。
船上で愛を囁く計画だって、おじゃん。 こんなぼろ船の上で愛の告白するくらいなら家でした方がましだろ。
ため息が出たが、ケルパを説得しようとしたって時間の無駄という事は分かりきっている。 ケルパときたら頑固さにかけては俺の周囲の頑固者(敢えて誰とは言わないが)と比べても負けない程なんだ。 少しは飼い主の俺を見習って偶には柔軟な対応をしてくれてもいいのに。
俺は諦めてナジューラ義兄上に謝った。
「お手数をかけたのに大変申し訳ないのですが、別の船に乗る事にします」
そこでナジューラ義兄上が、ふ、と微かに笑ったような? こ、怖いかもっ。
ぞっとする笑いランキングと言うものがもしあったら上位三位以内に食い込むのは間違いない。
あれ、どうして「上位三位」? これくらいぞっとする笑いなんて他にあったっけ?
あった、という事を思い出しそうになり、俺は慌てて考える事を止めた。
ふー、あぶない、あぶない。 嫌な汗、かいちゃったぜ。
ナジューラ義兄上は、分かりました、とだけ静かにおっしゃり、俺を引き止めようとはなさらないで下さった。 内心不満を俺にぶつけたくてたまらなかったと思うけど。 たぶん愚痴は旅が終わった後でおっしゃるつもりなんだろう。
トビがぼろ船(と呼んだら失礼なのは百も承知だが、その時はまだ船名を知らなかったんだからしょうがない)の船長に、乗船させてもらえないか、交渉しに行ってくれた。
有り難い事に二つ返事で承諾してくれたので、俺達一行はギラムシオ号という、名前だけは俺と関係がありそうな漁船に乗って出発する事になった。




