感化
遊んでばかりもいられない。 もうすぐ旅に出るんだし。
俺は必死になって仕事をした。 自分で言うのも何だけど、今ではすごく大隊長らしい仕事をしていると思う。 以前に比べたら、というだけかもしれないが。 それでなんとなーく、部下から過小評価されている事が気になるんだよな。
気の所為だって? 違うね。
その証拠に俺の署名印には全く重みがない。 書類という書類にはマッギニス補佐の署名印がないと通らないようになっていたのだ。
なぜ知ったかといえば、ある日マッギニス補佐の署名印がない書類が俺の所に来た事があった。 珍しいなとは思ったが、重要な案件でもなかったし、そもそもほとんどの書類は大隊長の署名印さえあれば通るものだ。 それで、はい、て感じで署名印を押し、副将軍へ提出した。 俺だってちゃんと読んで、問題ないと思ったから署名印を押したんだぜ。 なのにその書類はしばらくしてからマッギニス補佐の所に差し戻されていた。
自分が何に署名したかなんて一々覚えていないくせに、どうして分かったんだ、て? それは後で俺の署名印が既に押してある書類が回されて来たから。
タマラ中隊長に、日付だけ直して下さいと言われた時にはがっくり来た。 そりゃ何度も失敗と失言を繰り返している俺だ。 信用されてなくても仕方がないけどさ。 よくよく考えてみれば、そうなってしまったのも無理はない事が、一つか二つ、あったし。 いや、みっつか? えーと、もっとあったかも。
まあ、そんな細かい事は気にしなくてもいい。 とにかく日付を直すぐらいで文句を言う訳にはいかないから直して提出した。
こんな時は字が汚いって事が役に立つ。 元がぐちゃぐちゃだから3を8にしたり1を4に誤魔化すのは簡単だ。 でも4を直すとなると、ちょっと苦しい。 縦棒を延ばして何とか9っぽくしたけど。 2だって直すとしたら8にしかならない。 だけど8日が休みだったら休みに仕事をしたと嘘を吐いた事になっちゃう。 すると12か22にするしかないが、もしまだ9日とかだったら未来の日付にするのはまずい。 元の日付が28だったりしたらお手上げだ。 一から書き直しとなる。
とまあ、なんだかんだあって、俺はどんなに簡単な書類であってもマッギニス補佐の署名印がない書類には署名印を押さない事にした。 実を言うと、最初からマッギニス補佐の署名印だけで提出すればいいのに、と思っている。 その方が書類の流れが簡単になるし、俺に説明する手間が省けるだろ。
俺的にはそれで全然構わない。 だけど体裁上俺の署名印がないと、今度はなぜ上官の署名印がないのかを関係者全員に説明しなきゃならないらしい。 余計ややこしくなるとマッギニス補佐に言われ、おとなしく盲判を押している。 お飾りだってなけりゃ寂しいという事もあるんだろう。
お飾りならお飾りらしく、余計な事はしません、言いませんをモットーに、周りに迷惑をかけないよう気を付けている。 ただ泳ぎに行った時にやっちまった着替え失言を見ても分かる通り、良かれと思って言ったから大丈夫という訳じゃない。 いくらとろい俺だって同じ間違いを何度も繰り返したりはしないが、俺には知らない事が沢山あるからさ。 言っては悪い事と知らずに言っちゃった、なんて事がこれからもあると思うんだ。
だからと言って何も言わなけれりゃいいのか、というとそうでもないから困る。 俺が無言を通した所為で相手を怒らせた事もあるし。 俺の場合、挨拶だけなら上官と同僚の数が少ない。 それ以外なら誰に返事をしなくても問題ないくらい偉くなったが、平民軍と呼ばれる北軍でも最近は結構身分の高い新兵が入隊して来るようになった。
挨拶されて返事をしなかったら、なんたら家の継嗣(または正嫡子)である私に返事をしないとは、となる。 たとえ俺の方が上官で相手は平の兵士だとしても、伯爵以上の身分の兵士を無視したら何か裏の意味があるんじゃないかとか深読みされちゃうんだ。
そもそも俺が呼んでもいないのに近寄って来る人なんて新兵といえども身分が高い人に決まっている。 そして生まれが高貴なだけに平気で無茶を言う。
この前なんか、的を外したくらいで、なぜ外したんですか、と理由を聞かれたし。 どうやら皆さん、俺を弓の神様だとでも思っているみたい。 当たらないはずはないと信じ込んでいるんだよな。
そりゃ他の人に比べれば当たるさ。 でも絶対外れないって訳にはいかないだろ。 こう見えても生身の人間なんだから。 それをわざわざ説明しなきゃいけないの?
その日は前日ケルパに逆らわれ、言う事聞かせようとがんばったせいで、すごく疲れていた。 疲れていただけです、と正直に言ってるのに全然信じてもらえない。
やれ、わざと外しただの、そこを狙ったんだだの。 ではどうしてそこなのか、とかさ。 散々騒がれ、もう大変。 過小評価は残念だが、こんな風に過大評価されるのもどっと疲れる。
何しろ俺に迫って来るのは、どなたもお姿を拝見しただけでどこか違うとわかる迫力の持ち主だ。 お願いだからそんな怖い顔で睨まないで、と言いたくなっちゃう。
ま、今からそんな事言わないけどな。 だって今年はこれでもましなんだ。 高級兵舎が完成していない関係で、二つ目(侯爵家)や真打ち(公爵家)の入隊がない。 前座(伯爵家)辺りで怯んでどうする。 怖いものは怖いけど、俺だっていい加減、慣れなきゃまずい。 俺の人生、この先はもう上級貴族との付き合いで始まり、そして終わると思って間違いないんだから。
先代陛下のお見送りにしたってそう。 ただお見送りだけについて言えば、向こうに着いたら式次第に従うだけだし、主役は独唱する予定のリネだ。 あの美声に聞き惚れない人はいないだろ。 それはあんまり心配していないが、その前にダンホフ公爵家の船に乗る。 その船にはダンホフ公爵家継嗣であるナジューラ・ダンホフ義兄上が船長として乗っていらっしゃるのだ。
ナジューラ義兄上にはサジ兄上の結婚式の時、紹介されているので初対面じゃない。 でも式の後すぐに出発した関係で長々話をしている時間はなかったから、どんな人かは知らない。 冷たい人という印象だった。
と言っても、マッギニス補佐や初対面のレイ義兄上に感じた冷たさとはちょっと違う。 マッギニス補佐の場合、目的のある冷たさって感じ。 その目的の邪魔さえしなければ冷たさに触れる事はないし、どんなに冷たいかを知る事もない。
レイ義兄上は頭の中やお腹の中で何を考えていようとそれを外に出す気は一切ありません、て感じ。 だから蓋を開けて見ないと中身が冷たいか温かいか分からない。
だけどナジューラ義兄上は要するに冷たい。 何に対しても誰に対しても。 たぶん、自分に対してさえ。 仮面なし。 掛け値なしの冷たさだと思った。
もっともナジューラ義兄上に限らず、貴族の第一印象なんて大なり小なりそんな感じだけどな。 レイ義兄上の人柄だってお出迎えの旅で様々な危機を一緒に乗り越え、その後もいろいろあったから冷たいだけの人ではないと知ったんだ。 今じゃ会えばにこやかに嫌味を言ってくる。 能面の頃のレイ義兄上が懐かしいぜ。
ユレイア義姉上の事も最初は美しいお人形さんだと思っていた。 証人喚問でお宅にお邪魔した時、笑った所なんて一度も見なかったし。 なのに結婚してからサジ兄上の側でころころ笑ってる。 どこで聞いてきたんだか、北軍ではおしっこ飛ばし競争があると思い込んでいたり、中々面白い人だ。 上級貴族ほど見かけによらない人はいない。
ナジューラ義兄上も、きっと根はいい人なんだと思う。 その根に辿り着くまで深く、ふかーーーく掘り下げなくちゃいけないだけで。 掘っている最中にその穴に生き埋めになったりして。
あ、嘘。 今の、冗談、な?
マッギニス補佐に感化されてとうとう俺も黒くなった、て訳じゃないから。




