遠慮
湖は、海の弟ではない。
あ、わざわざ言うまでの事でもなかった?
えーっとお。 うろうろ。 視線が泳いだりして。 ごほん。
いや、湖と海はどんな関係にあるかって事を言いたかったんじゃない。 どちらも水だけど、俺の気持ち的には全然似てないと言いたかっただけ。
湖を眺めていると落ち着くんだ。 ずっとここに住み、どこに行く事になったとしても、きっとここに戻ってくる、みたいな安心感がある。 なぜそう感じるんだかは分からないが。
俺が北に来るまで湖の側に住んだ経験はなかったからかな。 それとも結婚してここが我が家だと意識するようになったから?
俺は子供の頃から海が大好きで、夏になると南に遊びに行くのが楽しみでしょうがなかった。 今でも好きは好きだ。 でも海を眺めている時はいつも、いつか旅立つ時が来る、という予感みたいなものがあった。 いつかは分からなくても、きっと何かが起こる、て。 ぞわぞわって言うの?
それで海を眺めているといつも落ち着かない気分になった。 嫌な予感という程ではなかったけど、嬉しい予感じゃない。 困難な何か。 だからその日が来る事を楽しみとは言えない。
ただ海の旅なら何度も経験している。 そして海旅の最中に大事件が起こった事なんて一度もなかった。 皮肉な事に安心感のある湖畔に住む今の方が、よっぽど何度もいろんな事件に巻き込まれている。 もっともどの事件も湖の上で起こった訳じゃないが。
北の湖で初めて泳いだ時、海との違いをすごく感じた。 塩辛くないとか、波がないとか、そんな事じゃなくて。
海で泳ぐと、いつもどこか分からない所に否応無しに引っ張って行かれるような感じがあったんだ。 怖いと言うほどじゃないけど、気が抜けない。 それが湖だと雲になってふわふわ浮いて漂っているみたい。 今日はあのぷかぷか感をたっぷり楽しむつもりだ。
鼻歌混じりに馬車を降りると、そこには迫力のあるお兄さんがずらっと並んでいて、あまりの物々しさにぎょっとした。 ど、どうしたの?
早速次の事件? 何があった? というか、これからある?
我が家から馬車に乗って十分走っただけなのに、まるでこれから戦が始まるかの様な張りつめた雰囲気だ。 馬車が止まった途端、辺りを見ないで飛び降りちゃった事を後悔した。 慌てて馬車の中に戻ろうとしたが、俺を見て皆が一斉にびしっとした最敬礼をする。 仕方なく俺も答礼した。
全員ステヴァノ男爵家の家紋入り軍服を身に付けている所を見ると、この砂浜の持ち主であるステヴァノ男爵がサリをお迎えする為、気を遣って下さったようだ。 でもこれじゃ気の遣い過ぎだろ。 気疲れを吹き飛ばすつもりで来たのに。 かえって気疲れしちゃうじゃないか。
それにしても俺が泳ぎに来る事に決めたのはたったの二日前なのに、どうやって俺達が来る事を知ったんだろ?
うーん、この様子じゃトビにいろいろ根回しさせちゃったか。 そりゃそうだよな。 所有者に黙って泳いだりしたらまずい事になる。 家族数人だけならともかく、サリは護衛なしでの外出は出来ない。 師範がいるから今回の護衛は二十人におさえたが、それでも突然砂浜に二十人もの兵士が現れたりしたら、すわ何事、と大騒ぎになっただろう。
トビもダーネソンも忙しいのに悪かったな。 だけど二人は自分の奉公人だからまだいい。 急にこんな数の私兵を動員する事になって、ステヴァノ男爵の方こそ大変だったろう。 それだけじゃない。 よくよく辺りを見回すと湖に小船が何叟も浮かんでいる。 釣り糸を垂らしているのは北軍百剣の皆さんだ。
あっちゃー。 護衛は二十人だけじゃなかったんだ。 百剣にも釣りが趣味の人がいないとは言わないが、あの真剣な顔付き。 そして釣り糸を垂らしてはいるが、釣竿を握っている人が一人もいないんだから遊びで来ているとはとても思えない。 しかもこんなに良いお天気だというのに、この砂浜には俺達家族と警護の兵以外、泳ぎに来ている人の姿が見えない。 きっと一般の人は立ち入り禁止にしたんだろう。
沢山の皆さんに迷惑を掛けちゃった、と今頃気が付いた。 でもさ、俺の家は湖畔に建っているとは言っても浅瀬は全部葦で覆われている。 初心者のリネが泳ぐのは無理なんだ。
まあ、もう来ちゃったんだし、せっかくだ。 目一杯楽しまなきゃ。
砂浜にはもう師範とヨネ義姉上がいて、リヨちゃんと一緒に日光浴していた。 リヨちゃんも元気に大きくなって、ぷにぷにだ。 師範はいつもの仏頂面だったが、リヨちゃんが側にいるおかげで視線が緩んでいる。
娘っていうのは偉大だよな。 こんなにちっちゃい時から誰からも恐れられている剣豪をでれでれにしゃうんだから。
ともかく師範に挨拶し、ほれほれ、とリネを急かして泳ごうとした。 そこにステヴァノ男爵が現れ、こちらが恐縮しちゃうような丁寧な御挨拶をして下さった。 気を遣ってもらった事にお礼を言っていると、なんとケルパがステヴァノ男爵の側に控えていた護衛に例のひよひよ挨拶をしたんだ! 好機逃すまじ。
「お前の名前は?」
「マク・ロイーガと申します」
「ね、北方伯家に奉公に来てくれない?」
いきなりだったせいか、ロイーガはびっくりして答えられないでいる。 それともステヴァノ男爵の前で勧誘したのがまずかったのかな?
奉公人が奉公先を変えるのはよくある事だ。 とは言っても隣にいる主に遠慮しているのかもしれない。 それでステヴァノ男爵にもお願いしてみた。 すると何とも歯切れの悪い返事が返って来る。
御家の障りになるやも知れず、とか何とか。 どういう意味か、さっぱり分からないでいると、俺の後ろでダーネソンがトビの耳元にそっと囁いたのが聞こえた。
「ロイーガはステヴァノ男爵の愛人のようです」
愛人? 愛人って、あの愛人?
だーーっ。 俺ってば、何を言っている。 あの愛人もこの愛人もないだろ。 愛人と言えば意味なんて一つしかないじゃないか。 しかしロイーガはどこからどう見ても男だ。 男の愛人なんていたの?
びっくりしたが、俺の世間知らずは今更だ。 そういう人もいるのかも?
だけど愛人が旦那というか、奉公先を変える話なら聞いた事がある。 別に珍しい話じゃない。 ロイーガが愛人だって、なぜステヴァノ男爵が俺の家の障りになると言うのか分からなかった。 愛するあまり手放せないとか?
でも俺の家なら近所だ。 奉公人にはちゃんとお休みだってあげている。 住み込みになっちゃえば毎日は会えないけど、住み込みが嫌なら通いでもいいんだけどな。
待てよ。 まさか、まさか、俺の愛人にしたいという意味だと勘違いされちゃった?
ひえーーっ! そ、それは誤解! 誤解ですっ!
焦って言い訳したくなったが、ぐっと踏みとどまった。 ここでそんな事を言い始めたらステヴァノ男爵には男の愛人がいる事を世間に大っぴらにしてしまう。 きっとそれでステヴァノ男爵も当たり障りのない答えをしたんだろう。
余計な事を言えば言う程、話がややこしくなる。 だけど無言も相手に恥をかかせるからまずいし。 なんと言えば無難なのか迷ったが、とにかく承諾してもらいたくて俺は大きな声で言った。
「心配しなくても大丈夫! 安心して奉公してもらえる家だから」
ステヴァノ男爵はあっけにとられた顔をしている。 それが次第に諦めみたいなものに変わり、静かに傍らのロイーガに言った。
「御指名を誇りに思い、衷心を持って尊き御方にお仕え申し上げるように」
これって、俺の所に来てもいいって事だよな? やったね!
俺は嬉しかったが、ロイーガも嬉しいかどうかは分からない。 男爵家から伯爵家に移るのは普通なら大昇進だが、北方伯家の給金は他の伯爵家と比べて高い訳じゃない。 はっきり言って低い。
それに俺が払えるのは侍従の給金で愛人の給金じゃない。 もしステヴァノ男爵が愛人に金をつぎ込むタイプなら、ロイーガにとって気を遣う仕事になった上に減給となる。 だから通いでもいいと言ったんだが、トビがその場で警備上の問題を理由に反対した。 それでロイーガは住み込みで奉公する事になった。
新しい奉公人が見つかっただけでも今日泳ぎに来た甲斐があったぜ。 でも減給となるロイーガと、愛人を他家に取られちゃったステヴァノ男爵には申し訳ないから、あからさまに嬉しがるのは遠慮した。




