頑固 猛虎の話
「明後日家族で泳ぎに行くんですけど、師範も一緒に行きませんか?」
緊張感溢れる道場に不似合いな明るい笑顔で、サダが俺を泳ぎに誘った。
「泳ぎにって。 どこへ行く気だ?」
「適当に決めといて、とトビに言ったんです。 砂浜がある近場の湖ならどこでもいいから」
こいつはなんでこうなんだ。 顔には出さないが、内心深いため息を漏らした。
サダの事を貴族の穀潰しと思う気持ちはもうない。 だが育ちの違いを感じる事は今もある。 例えばこんな風に人が仰け反るような事を気軽に言い出す時なんか。
領主の息子として生まれ、どこに行って何をしようと事前に許可をもらう必要なんて全然なかったからだろう。 呑気なこいつの事。 新兵の頃だってこの調子でそっちこっちの湖で勝手に泳いでいたのかもしれない。
第一駐屯地とその周辺の土地は皇王陛下の直轄領だ。 かなりの広さがあり、軍が管理している湖もいくつかある。 そこだったら兵士の水練にも使われているし、上官の許可があれば誰でも泳ぎに行ってよい。 兵士の家族が泳ぐのも許されている。 大隊長のサダがいつ泳いでいようと文句を言う奴なんて居る訳がない。
だがこの辺りの直轄領内に砂浜付きの湖は一つもない。 砂浜付きの湖ならいくらでもあるが、全て誰かの私有地だ。 湖畔の土地なら貴族の私有地と思ってまず間違いない。 滅多に売りになんか出ないし、出たとしても平民が買える値段じゃないんだ。
どんなに広い敷地であろうと自分の土地に許可なく出入りする不埒者を黙って見逃す貴族がいるか? それは私有地の湖で泳いではならないという法律があるとかないとか言う以前の問題だ。
とは言っても許可なく泳いでいるサダを見咎める貴族が今まで誰もいなかった事には驚かない。 仮に六頭殺しの若でなかったとしても伯爵家の三男なんだ。 育ちの良さが顔に出ている。 無断で泳いだからって目くじら立てる子爵や男爵はいないだろう。
だがもし平民が同じ事をしたら理由の如何を問わず、借金でもしなきゃ払えない額の罰金を払わせられる。 周辺を警備していた兵の機嫌次第ではその場で殺される事だってあり得ない話じゃないんだ。 殺されたとしても文句なんか言えない。 泥棒に入った先で殺されたって誰にも訴えようがないのと同じなんだから。
貴族の私有地で無断で泳ぐのは命あっての物種という事くらい、平民なら子供だって知っている。 柵がないために迷い込んだ時でさえ親が呼びつけられて罰金を払わせられるから、まともな親なら予めどこに行っていいか悪いか子供にはっきり教えておく。
もっともいくら眺めがいいからって湖畔の近所に住む平民なんて滅多にいないが。 そんな所、家を買おうにも高いし、湖畔近くに繁華街はない。 仕事も八百屋も肉屋もないから、どこに行くにも何を買うにも馬が要る。
自分の馬を持っているのは平民でも金のある奴だ。 馬を持たない者にとって徒歩で通える距離に仕事がある事や食料品店があるかないかは死活問題。 だから湖で泳いでいる平民の子供がいるとしたら貴族の邸に勤める下働きの子供だろう。
貴族なら出入りの商人がいるし、馬車も馬もある。 交通の便を考える必要はない。 早い話が砂浜での水遊びは貴族だけに許された贅沢の一つで、歩いて行ける所に湖があったとしても平民なら生涯一度も砂浜で泳いだ事がない方が普通なんだ。 俺や俺の両親のように。
それに貴族だろうと他人の所有する湖に気軽に泳ぎに行ったりしない。 それはたぶん貸しの一つとして数えられたら堪らないからだ。
サダの場合ヴィジャヤン準公爵を始めとする親戚が次々と別荘を建築中で、その中には砂浜付きの別荘もあると聞いている。 だがいずれも近場と呼ぶには少々遠い。 それに家が建て終わっているなら休息も出来るが、飲み水や食べ物が簡単に手に入らない場所へ子連れで泳ぎに行ったらゆっくり出来ない。
因みに俺の家は見晴らしはいいが湖畔じゃないし、マッギニス侯爵の別荘はサダが住んでいるのと同じ湖で砂浜はない。 つまりどの湖に行く気か知らないが、どこであろうと身内の所有地じゃないのは確かなのだ。
他人の湖で泳いだりしたら面倒な事になる事くらい、どうして分からない? この場合、咎められる事が問題なんじゃない。 準皇王族であるサリが水遊びに訪れたとなれば相手にとっては大変な名誉だ。 第一駐屯地の近所なんて今の所下級貴族しかいないんだから、その家にとって家史に残すべき出来事と言ってもいい。 瑞兆が湖へ水遊びに行ったという噂が広まったら、次は是非当家へもお越し下さい、と招待合戦が始まるに決まっている。
明後日行くなら急だし、大袈裟な準備はしたくても出来ないだろうが、それでも当主自ら挨拶に出てきて恭しくもてなされるに違いない。 それを受けただけであっさり終わるか? サダならありがとうと言って終わりにするかもしれないが。 そこで終わらないと見る方が当たり前だ。 準大公夫妻にお近づきになるという、次があるかどうかわからない絶好の機会を無駄にする奴がいるものか。
貴族なら誰だって上級貴族に嘆願したい事の一つや二つはある。 娘や息子の就職の口利きを頼まれる程度ならかわいいものだが、貴族の中には領地争いをしている者も多い。 話を聞いただけではどちらに味方するべきか判断出来ない事だってある。 こちらの味方をしてくれ、と頼まれたらどうする気だ? 咄嗟の判断が出来る頭を持っている訳でもないくせに。
サダなら後先考えずに断れるかもしれないし、断っても許されるだろうが、つい最近貴族になった平民あがりのリネに同じ事が出来るか? 出来なくて妻が揉め事に巻込まれたらどうするつもりだ。
それにサリを一緒に連れて行くとなると、それ相当の警備なしでは行けない。 今ではサダも一個中隊を指揮しているが、第一駐屯地に駐在していないんだから他の隊に警備を命じる事になる。 今回は俺の隊から出してやるが、俺にだって都合というものがある。 もし俺の隊の都合が付かなかったら他の大隊長に作らないでもよい余計な借りを作る事になっていただろう。
一体お前は何を考えている、と聞いてもいいが、サダが何も考えていない事は聞くまでもない。 分からないのはウィルマーとマッギニスだ。 俺から言われるまでもなく、どこの湖を選んだとしてもまずい事になると予想出来るだろうに。 なぜ止めない?
まあ、そう言う俺だって止めていない訳だが。 行くなと言った所で、こいつを止める事は出来ないと知っているからな。 まずい事が起こるかもしれないと言った所で、起こらないかもしれないでしょ、師範て、ほんと、心配性なんだから、とか言われて終わりだ。
普段腰が低く、何かと言えばすぐびびるせいか、サダが筋金入りの頑固者である事は意外な程知られていない。 サダ本人だって自分の事を臆病者だと思っている節がある。
恐がり屋ではあるが、変な所で俺より頑固なんだ。 俺が知っている誰より頑固、と言い切ってもいい。 それは泳ぎに行く行かないの些細な事に限らない。 人生を左右するような決断に関して、いや、重大な決断であればある程頑固になる。
北軍に入隊を決めた事、他の軍からの引き抜き、数多の見合いを次々と断った事を見ても分かる。 サダとリネの結婚だって、あの時俺は全力で止めた。 なのに蛙の面にしょんべん。 結局サダに押し切られた。
大峡谷へ探検に行った時だってカルア将軍補佐がわざわざ後でこっそり俺達に、人目につかない所で遊んで来い、とおっしゃった。 行ったという報告だけ提出すればよいから、と。
サダはそれを単なる社交辞令というか、気遣いと受け取り、大丈夫です、と言って胸をどんと叩き、行く気満々。 大峡谷について何も知らないからだろうと思い、どんなに厳しい環境の所かソーベルに詳しく教えてくれるように頼んだが、それでもサダの気持ちを変える事は出来なかった。
「こんな時でもなきゃ北軍のお役に立てないですし」
「お役にならとっくに立っているだろ。 入隊志願者が急増したのは誰のおかげだと思っている」
「えー? それは北の猛虎のおかげでしょ。 俺だってそれでここまで来たんだし」
バカと頑固は紙一重、とつくづく思い知らされた。 サダの御両親や親戚の誰に聞いても、一度決心したあいつを説得しようとするのは無駄、と口を揃える。
思わず唸り声に近いため息をつきそうになった。 俺自身は泳ぎが好きな訳じゃない。 新兵にとって水泳は必須訓練項目だ。 仕方なく練習したから沈まない程度には泳げるが、長付きになれば水練はやらなくてもいいので、もう何年も泳いでいない。
せっかくの休日が泳ぎなんかで潰れるのは癪に触る。 とは言ってもこいつを一人で行かせて、万が一急襲にでもあったら? 付いて行かなかった事を一生後悔する事になる。 襲われはしなくても今頃サダが何か馬鹿をやらかしているのでは、と一日中気になるはずだ。 あいつがそれでどんなに困った事になろうと俺の責任じゃない、と自分に百万遍繰り返したって気にする事は止められないだろう。
期待に輝くサダの瞳をうんざり眺めながら俺は諦めと共に答える。
「ああ、行くぜ。 場所が決まったら連絡をくれ」




