副将軍
ブロッシュ大隊長が七月一杯で依願退官なさるという発表があった。 そのため年内で退官なさるはずだったトーマ大隊長が、次の大隊長が決まるまで第一大隊の指揮を執る事になり、師範は八月一日付けで正式に第三大隊長となる。 実際に大隊を指揮している訳ではない俺の職名なんてどうでもいいが、第十二大隊長から第十一へ番号が変わる事になった。
それにしても大隊長がいきなり退官だなんて。 変と言えば変。 ブロッシュ大隊長はまだ退官するお年じゃないし、健康に問題があるとも聞いていない。 ブロッシュ大隊長はブロッシュ子爵家正嫡子だが、爵位は兄上が継いでいて継嗣もいるらしい。 妻の実家である子爵家も継承に問題がある様子はない。 一身上の都合という表向きの理由以外、退官理由を知っている者が誰もいないのだ。
将軍が熱心にお引き止めになったという噂もほんとか嘘か分からない。 少なくとも将軍が月例会議でこれを発表なさった時、残念ながらや、慰留したがとか、それっぽい言葉は何もおっしゃらなかった。 因みにその会議にブロッシュ大隊長は欠席し、本人からの退官の挨拶みたいなものもなし。
ブロッシュ大隊長は見事な体格をした、いかにも武人という豪快な雰囲気を持つ御方だ。 上級将校には知的な文官と言う感じの人が多いから随分毛色が違うと言えない事もない。 もっとも今では師範とポクソン補佐がいる。 俺にだって文官の雰囲気なんてこれっぽっちもないから珍しいと言う程じゃないのかもしれないが。
貴族だと昇進は早いのが普通だ。 新兵時代はあったとしても子爵家正嫡子であるブロッシュ大隊長が底辺で長々過ごしたはずはない。 でもどこか北軍の叩き上げという荒々しさを感じさせる。 師範が持つ野性のオーラとはまた性質が違うけど、さすがは北軍大隊長と言いたくなる独特の迫力があるんだ。
尊敬すべき先輩とは思う。 だけど新兵からいきなり大隊長になったも同然の俺とってブロッシュ大隊長は怖い人でしかない。 はっきり言って俺はブロッシュ大隊長が苦手だ。 上級将校に昇進して以来、他の大隊長ともしょっちゅう会っているし、それなりに世間話もしているが、ブロッシュ大隊長とは出来れば会いたくない。 たぶん向こうもそう思っているだろう。 少なくとも好かれてはいない、て感じ。
上級将校は感情なんて滅多に顔に出さない。 特に嫌われる理由があるとも思えないのに、どうしてそう感じるのかと言うと、ある件でブロッシュ大隊長に叱られた事があったからだ。
去年、大隊長親睦会をする時、一番下の大隊長である俺が皆さんの日程を聞き回っていた。 親睦会は参加自由で命令じゃないし、強制でもない。 俺はブロッシュ大隊長の都合を聞いた後で、じゃあ後は師範の都合を聞いて調整します、と答えた。 すると、なぜタケオの都合を聞く必要がある、とかなりきつい口調で責められた。
身に付いた新兵根性。 咄嗟に、申し訳ありません、と謝りそうになったが、ちょっとむっとして、結局俺は謝らなかった。 だっていくらブロッシュ大隊長から見れば師範は年下で後輩だろうと師範も同じ大隊長だ。 単なる同僚で、友人でもない。 剣についてはブロッシュ大隊長の方が教わる立場だ。 なのにタケオと呼び捨てにするなんて失礼じゃないか。
それに俺みたいな審問逃れの御都合昇進と違って、師範には昇進に相応しいだけの軍功だってあった。 大隊長としての仕事だってちゃんとしている。 今は見習いかもしれないけど。
第一、人の都合を聞くのは礼儀だろ。 俺だったら相手が師範じゃなくて平の兵士だったとしても相手の都合をまず聞いた。 出欠は本人の自由なんだから。
ところがブロッシュ大隊長は平民を呼び捨てにして何が悪いと言わんばかりの態度でさ。 貴族としての矜持がどうとかこうとか。 俺に説教っぽい事を言い始めたんだ。 俺は「きょうじ」の意味が分からなかったからただ黙って聞いていた。
説教されている時に余計な事を言ったりすると後が恐いというのはユーエル神社で経験済みだし。 ブロッシュ大隊長みたいな賢い人に向かって、きょうじって何ですか、なんて質問したくない。 賢い人に下手な事を聞くと説明が長くなるという事は、常々マッギニス補佐への質問で思い知らされている。 でも俺がうんともすんとも言わないものだから、ブロッシュ大隊長は無視されたと思って気を悪くされたみたい。
後でトビに矜持の意味を教えてもらったが、そんなものを大事にして師範を怒らせる気は全然ない。 怒鳴られて耳がじんじん痛むのは俺なんだし。 ブロッシュ大隊長なら怒鳴られたら怒鳴り返せと言うかもな。 実際それが難なく出来る人だから。 だけど俺に同じ事をしろって言われてもね。 猛虎に向かって子猫が怒鳴り返してどうしようって言うの?
矜持の意味を知っていたとしても同じ事をしたんだ。 ブロッシュ大隊長は別に誤解している訳ではない。 それでそのままにしていた。 ブロッシュ大隊長の御機嫌を損ねた事に、内心あっちゃー、とは思ったけどさ。
ブロッシュ大隊長は俺が入隊した年に大隊長へ昇進された。 師範や俺みたいな変則的な昇進を除けば、四十代で大隊長になった所謂出世頭で、対抗馬らしき人がいる訳でもない。 副将軍の座は手に入れたも同然という専らの噂で、次期将軍は確実な御方だったから。
噂って、ほんと、あてにならないよな。 とは言っても俺だってその噂を信じていた。 だからブロッシュ大隊長が退官すると聞いてほっとする気持ちがなかった訳じゃない。 だってブロッシュ大隊長が将軍になったらモンドー将軍の時にはしないで済んだ苦労をしたと思う。 建前では軍人とは上官の命令をやり遂げるのが仕事で、上官が誰かなんて関係ない。 それに同じ軍に所属している大隊長同士だからって仲良くしなくちゃいけない訳でもないんだけど。
例えば俺達にロックを探すよう命令した時、モンドー将軍は、こんな無茶を命じてすまん、と謝らんばかりだった。 あれがブロッシュ大隊長だったら、成功するまで帰って来るな、と言われて送り出されたような気がする。 成功しても、ふん、当たり前だ、て態度だったんじゃないかな。
俺に付ける兵士だって大峡谷に詳しい者を選ぶより、自分のお気に入りの兵士を選んだと思う。 こういう道を選べ、日程はああしろ、持ち物はこうしろって、一々指令を出したりね。 部下に任せるのが出来ない性格で、命令を遂行する人にも頭があるとは思っていないし。 自分が一番賢い事を信じて疑った事がない、と言うか。
もしブロッシュ大隊長が将軍になったとしても、ロックを探せみたいな命令がまた出される事はないだろう。 そういう意味では比べようがないから実際はどういう将軍になったか分からないけど。 いずれにしても反りが合わない人が上官だなんて誰だって嫌だろ。
それはともかく、俺とブロッシュ大隊長は仲が良い訳じゃなかった。 なのにわざわざ退官の御挨拶に来て下さった。 事前の予告なんて何もなかったから、その時マッギニス補佐は俺の執務室にいた。 普通は来客があると俺に何も言われなくても自分から遠慮して退席する。 なのに今日は出て行かない。 あれ、とは思ったが、ブロッシュ大隊長と二人きりになるなんて嫌だったからそのまま同席させた。
挨拶抜きで、いきなりブロッシュ大隊長が俺に向かって言う。
「これで無事、ヴィジャヤン大隊長が副将軍の座を手に入れられた訳ですな。 いや、目出度い」
「は? 副将軍の座? 手に入れたりしてませんけど?」
何の事を言ってるのか分からなくて俺がそう答えたら、ブロッシュ大隊長は苦笑いされ、マッギニス補佐に向かって言う。
「これはなんとした事。 ヴィジャヤン大隊長が秒読みとなった御自分の昇進について知らないとは」
「起こりもしない事を知る必要はありません」
マッギニス補佐がそう答えたのを聞いて、ほっとした。 俺が副将軍になるだなんて大事件だ。 世間の皆さんだってびっくりするだろうけど、俺程じゃないだろう。 そんな事さえ知らずに毎日御飯を食べていたのかと思ったら今日の弁当だってちゃんと食べ切れる自信はない。 たとえそれが俺の大好物のハムと卵のサンターラだとしても。
弁当はどうでもいいが、俺ならそんな噂、聞いた途端にでまかせだと思う。 当事者だからというだけじゃなく。 たぶん師範だって他の大隊長だって、まともに信じるとは思えない。
だからそんな噂をまともに信じた人が自分の目の前にいる事に驚いた。 それって俺も顔負けの勘違いと言えるんじゃないの? しかもその勘違いをしたのが選りにも選って鋭い読みで知られているブロッシュ大隊長。
以前カルア補佐と立ち話した時、ブロッシュ大隊長を指して、中々の戦略家とおっしゃった。 それで他には誰が戦略家ですか、とお伺いした事がある。 そしたら、残念ながら今の北軍にはブロッシュ大隊長とマッギニス補佐しか戦略家と呼ぶに値する人物はいない、とおっしゃったのだ。
カルア補佐だけじゃない。 誰もがブロッシュ大隊長の事を先見の明の鋭さでは北軍一と言っている。 それ程の御方なのに、こんなとんでもない勘違いをするだなんて。 マッギニス補佐が勘違いしたのと同じくらい信じられない。
誰かが嘘を教えたんだろうが、たとえ本職の詐欺師がついた嘘だろうとブロッシュ大隊長は簡単に騙されるような人じゃないんだ。 そりゃ食堂に行けば俺が将軍になると噂してる兵士はいくらでもいるさ。 でもまさかブロッシュ大隊長ともあろう御方がそんな兵士のばか話を真に受けたはずはない。
ところがブロッシュ大隊長は本気で俺が副将軍になると思っていたみたいで。 マッギニス補佐に向かって厳しい口調で言い返す。
「起こらない? それはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。 信じられない者には年月が証明するでしょう」
冷静なマッギニス補佐の言葉にブロッシュ大隊長は皮肉な笑いを浮かべた。
「ほほう。 ではマッギニス補佐が副将軍の座を手に入れるという筋書きか。 漁父の利を視野に入れずにいたとは私も迂闊な」
マッギニスが副将軍? それは俺が副将軍になる事に比べれば驚くべき事じゃない。 マッギニス補佐なら明日と言わず今日副将軍となったって仕事を立派にこなせるだろう。
それでも充分仰け反っちゃう話だ。 それならそうと、せめて上官の俺に一言あってもいいんじゃないの? いくら名ばかりの上官とは言ってもさ。 いや、だからこそ、だ。 改めて言いたくはないが、マッギニス補佐は俺の仕事を全部やってくれている。 いなくなられたらその日から一番困るのは俺なんだぜ。 代わりの人を見つけようとしたって三人から五人はいないとマッギニス補佐の仕事量はこなせない。
そんな重大な事、一体いつ決まったのさ、と俺が聞く前にマッギニス補佐が言う。
「その程度の稚拙な筋書きしか書けないとでもおっしゃりたい? マッギニスも見くびられたもの。 人を過小評価するのがお得意な御方では無理もないとは言え」
ちょっ、ちょっとー。 稚拙とか、過小評価が得意って。 ブロッシュ大隊長に喧嘩を売っているようなもんだろ。 元々温厚とは言えない人柄だけど、マッギニス補佐が無用な挑発をした事なんてないのに。 いきなりどうしたの?
わざと挑発したに決まっているが。 ブロッシュ大隊長はつい最近まで次期副将軍、いずれは将軍になると思われていた御方だ。 間もなく退官なさるとは言え、北軍内部での影響力だって無視出来ないくらいある。 今までかなりの数の軍人に恩を売っているだろうし。 マッギニス補佐といえども怒らせていい人じゃないと思うんだけどな。
どうやってこの場を取り繕ったらいいの? 俺がおろおろそんな事を考えていると、明らかに悪意の籠ったマッギニス補佐の言葉を聞いて、ブロッシュ大隊長から熱風みたいなものがぶわっと溢れ出た。 熱風が吹いて執務室の温度が急に上がる。
ひーーっ! こ、恐いっ! ブロッシュ大隊長も人外!?
「稚拙な筋書きだと?」
「それを書いた御本人に面と向かって、あまりな言い様でありましたか?」
氷のマッギニス 対 炎のブロッシュ!
ぶつかり合えば丁度良い温度になる、と言うものじゃない。 ブリザードと火山の衝突。 北軍史上に残る最悪の対決だ。 そんな歴史的瞬間に居合わせるだなんてどんな不運だよ。 このままじゃ凍傷と火傷のどちらにもやられちゃう!
昨日ケルパ神社に行った時、もう一回お祓いをお願いしておかなかった事を後悔した。 逃げたいっ!
でも本当に逃げたりしたら、生き残った所でマッギニス補佐から、あの時逃げなきゃよかったと後悔するような目にあわされる。 喧嘩はやめて、と叫びたいが、声が出ない。
ううっ、絶体絶命? まだサリに、ちちうえって呼んでもらってもいないのにっ。 氷と炎が空中衝突し、ばちばち言って俺の肌に冷たい礫と熱い礫がびしばし当たり始める。 た、助けてーーっ!!
声にならない叫びが漏れ、だらだら嫌な汗が背中を伝う。 助けてくれるとしたら誰?
師範? 将軍? 誰でもよいけど、その人に生きて辿り着くにはどうしたらいい?
答えの見つからない疑問がぐるぐる頭の中で回転し、俺の体は金縛りにあったかのよう。 しかし始まりと同じくらい突然に衝突が止んだ。 ブロッシュ大隊長が、ふっと笑いとも受け取れる音を漏らして言う。
「いずれにしても北軍の未来は明るいという訳だ」
それに対してマッギニス補佐が、未来の北軍将軍はこの人で決まり、みたいな威厳を持って答える。
「当然至極。 拾った命だからと言って捨てる事もなし。 心安んじて退官生活を楽しまれるがよい」
俺に言われた言葉なら、へへーっ、有り難き幸せ、と土下座して返事をしたが。 今この場でそんな事を言ったって笑いを取る事さえ出来ない。
ブロッシュ大隊長はマッギニス補佐の言葉に何も返さず、俺の方なんてちらっとも見ずに帰った。
ねえ、俺に挨拶しに来たんじゃなかったの? 穏便に帰ってくれるなら挨拶なんかしてくれなくてもいいんだけどさ。 それなら最初から来なけりゃいいじゃないか。 とは思ったが、さすがにそれを口に出すのは憚られた。
お元気で、の一言くらい言うべきだったかも? でも声が出なかったんだからしょうがない。 とりあえず執務室の気温が元に戻り、ほうっと大きなため息をつく。
机の上に置いてある水の入ったコップを掴むと、少し温かかった。 そこに氷の欠片が浮いている。 ちょっと嫌な感じがしたけど、水は水だと思い直し、喉を潤した。
声が戻ってきた所で、まず一番気になった事をマッギニスに聞いた。
「マッギニス補佐って副将軍になるの?」
「当分なりません」
じゃあ、あのやり取りは何、と聞こうかと思ったが、まだ心臓がどきどき言っている。 余計な事を聞いて、これ以上心臓を痛めつけるような真似はしたくない。
「拾った命」は、昔ブロッシュ大隊長が将軍を助けた時、危うく死ぬ所だったと聞いているから、きっとその事だろう。
「稚拙な筋書き」と「過小評価するのがお得意」の方はどうしてそんな事を言ったのか、聞いておいた方がいいような気がしないでもないが、俺が知っておくべき事ならマッギニス補佐の方から言って来るはず。 心臓には長い間きちんと動いてもらわなくちゃ困る。 取りあえず無難と思われる事だけ聞いておく事にした。
「あのう、俺が副将軍になるって。 誰が言ったんだか知らないけど、ブロッシュ大隊長はそれを信じたんだよな? ブロッシュ大隊長を騙せる程の凄腕の詐欺師なんてこの世にいると思う?」
「おります。 どれほど優れた戦略家であろうと騙す事が出来る人間がこの世には最低でも一人、いるものなのです」
「へえ、そうなんだ。 誰?」
「己自身」
己自身に騙される?
「えーと、つまりブロッシュ大隊長は誰から言われた訳でもないのに、自分で勝手にそう思い込んじゃった、て事?」
「おそらくは」
分かるような、分からないような。 あの人だったら仮に腹心の部下が言った事でも簡単には信じないと思う。 信じるのはたぶん自分と自分の言った事だけ、という意味では分かる。 だけどあんなに頭のいい人が、どうして俺が副将軍になるだなんてあり得ない事を自分から考え出して信じたのか、という意味ではやっぱり分からない。
ただここで一番肝心なのは俺が副将軍になったりはしない、て事だ。 それはマッギニス補佐が起こりもしない事と保証してくれたんだから安心していい。
マッギニス補佐がいずれ副将軍になるのは驚くべき事でもない。 俺だけじゃなく、誰だって驚かないだろう。 そして「当分ならない」のなら、マッギニス補佐の後任を見つける時間だってあるはずだ。 なら何も心配する事はない。
よな?




