感謝
祭祀長は将軍執務室にお入りになられると、すぐにカルア将軍補佐やお付きの神官を含めた全員をお人払いなさった。
師範と俺は師範の執務室でお二人から呼び出されるのを待った。 そこにデゴーテが師範の着替えを持って来てくれたので着替えを済ませ、水を飲んで一息つく。 俺は師範に改めて命を助けてもらった事に対するお礼を言った。
「それは、違う」
「え?」
「俺は自分の命を助けただけだ」
「ついでに俺の命も助けてくれた、と言う意味ですか?」
「いいや。 俺やベルビバッケンがいようといまいとお前の命は無事だった、という意味だ。 奴らはお前に棺桶に入れと言っただろう? それはお前を生きたまま神域から連れ出そうとしたからだと思うぞ」
「はあ?」
「棺桶なら誰が死んだかの証明書さえ付いていれば中身の検査なしに神域から運び出せる。 夏だしな。 蓋を開けろと言う奴はいないはずだ」
「うー、でも連れて行かれた先で殺されたでしょ?」
師範はちょっと考え、そして首を横に振った。
「おそらく誘拐先でも殺されはしなかっただろう。 刺客は俺とベルビバッケンには最初から殺気全開で襲いかかってきたが、お前に向かって殺気を飛ばしている奴はいなかった。 誰がこの誘拐を企んだか知らんが、そいつは生きているお前が欲しかったんだ。
第一、殺すのが目的ならもっと手軽な方法がいくらでもある。 神域に入り込む準備やら根回しやら、面倒な手間をかける理由はない。
あの刺客六人が北軍に関係のない傭兵だとすると、神域に入るだけで内部の手引きがなきゃやれん。 そのうえでかい人形連れだ。 棺桶は元々神域にあったのだとしても、一体どうやってあんなにかさばる物を神域に持ち込めたんだか。 やろうとしたって簡単に出来る事じゃない。
とは言ってもお前を駐屯地内から誘拐するとなると、もっと大変だ。 身辺護衛の数こそ少ないが、お前の回りには常にうろちょろしている奴がいる。 たとえ無事誘拐できたとしても誰にも気付かれずに駐屯地の外に連れ出すなんて不可能だろう。 仮に連れ出せたとしても余程段取りをうまく付けていないと追手をどう撒くかで苦労する。 何しろ皇国広しといえどもお前の顔を知らない奴はいないからな。 それこそお面でもつけさせるしかない。 途中で逃げられ、助けを呼ばれたら終わりだ。
その点、神域なら広さの割に警備人数が少ないし、神域から運び出される物には検閲がない。 お前を棺桶に入れておけば顔を見られずに運べる」
そうなのかな? そう言われればそうかも、という感じはする。 あの時誰も俺に襲いかかって来なかった。 二人がベルビバッケンにかかっていくんじゃなくて、一人は俺にかかってくれば丸腰の俺を殺すのなんて一瞬だ。
なら、師範とベルビバッケンは俺と一緒にいたせいで危うく殺されそうになった、て事? すると巻き添えにしてごめんなさいと謝った方がいいのかな?
とにかく誘拐されず、師範もベルビバッケンも無事でほっとしたが、ほんとに危なかった。 刺客の剣の鋭さを思い出して今更ながら恐ろしさが蘇える。
師範があんな棒一本で真剣の相手を倒せたのに驚いたが、ベルビバッケンが凄腕の刺客を二人同時に相手取って無傷だったのは奇跡としか言い様がない。 もしベルビバッケンがあそこで殺されていたらと思うとぞっとした。
神域内での流血沙汰はどんな理由があろうと厳罰に処される。 もし刺客が全員殺され、ベルビバッケンが血を流して死んでいたら、ベルビバッケンを殺したのは刺客で、師範じゃない、と証明するのは俺の言葉だけになる。 俺の言葉を信じる人と信じない人に別れたら、たとえ最後には無実となったとしても、何年も、いや、何十年も、師範は被疑者として留置場暮らしになっただろう。
一体誰がこんな事を? もっともサリの誘拐未遂だって結局誰がやったのか、俺は未だに知らない。
今回の事件だって神域内で起こったという事で、責任問題とか何たらかんたらはあるだろうけど、真犯人なんて分からず仕舞いになるんじゃないのかな。
まあ、分からない方がいいような気もするけどさ。 だってもし本当に誘拐されていたら、いくら自分の命は無事だって、これを命令した奴に会って俺は平気じゃいられない。 仇を取ってやろうとか思ったんじゃないか。 たとえそんな事をするのが無謀で、返り討ちにされると分かっていても。
だけど人を憎むって疲れるよな。 そんなおばかな事をぼーっと考えるともなく考えていると、師範が言う。
「俺の方こそ、お前に礼を言わんとな」
「はい? えーっと、俺、何かしました?」
「生きているのは六人だと教えてくれただろ」
「なーんだ、そんな事。 俺に教えられなくたって、戦い始めても全然動かないんだから、師範ならすぐ人形だって分かったでしょ」
「戦い始めたらな。 しかし相手が十六人だと思って戦うのと、六人だと知って戦うのでは戦い方が全く違う。
俺にはあの人形は殺気を完璧に消している刺客に見えた。 あんなへなちょこな仕込み棒じゃ十六人を相手に出来ない。 たとえ俺に剣があったとしても全員を倒すのは無理だ。
知っての通り、警備兵でもないのに神域内で剣を振り回したら、どんなに正当な理由があろうと首が飛ぶ。 だがどうせ死ぬんだ。 出来るだけ沢山道連れにしてやる、とまず思った。
先頭の奴をぶちのめすのは同じでも、すぐさま奴が持っていた剣を拾って戦っただろう。 お前が六人だと教えてくれたから、それならベルビバッケンもいるし、あの棒だけでも倒せる。 だから落ちた剣に手を出さずに済んだんだ」
「えへっ。 師範のお役に立てたのなら嬉しいです」
「それだけか?」
「それだけって。 他に何かありました?」
「俺の命を救ったんだぞ。 欲しい物とかないのか? それでなくても貯まりに貯まった今までの礼もある」
「今まで? 貯まるほど、俺何かしましたっけ?」
「ああ、したぞ。 何度も俺の首を救ってくれたじゃないか」
「いつ?」
「くくく。 そうきたか」
「あのー?」
「そんなんだから、お前って奴は好かれるのかもな」
「えっ? 俺が好かれるって、誰に? もしかして、リネがそんな事を師範に言ったんですか? ね、俺のどこが好きなんだって?」
「ぶっ。 お前は女房に好かれているかどうかが気になるのか?」
「そりゃなるでしょ。 師範はならないの? なに、それって惚れられて一緒になった夫の余裕、とか?
ちぇっ。 嫌味っぽーい。 よーもーやー、のろけ?」
最後の一言を言った途端、強烈な部分殺気攻撃を唇にくらった。
いででで。 いでーよー。
あ、ちょっと腫れちゃった感じ。
なんだよー。 たーった今、俺に命を救われたとか言ってたくせに。 この仕打ちはないよな? 恩を仇で返す気?
もうすぐ将軍から呼び出されるのに、こんな膨れ上がった唇じゃ恥ずいだろ。 ほんと、どうしてくれるのさ。
こうなると知っていたらリスメイヤーの特効塗り薬をもってきたのにな。 冬の肌荒れ防止にもらったんだけど、唇のひび割れにもよく効くんだ。 それを塗ればこんな痛み、一発で治まる。 でも夏だからって油断して持ち歩いてなかった。 失敗したぜ。
まったくー。 感謝しているって言うなら何もくれなくていいから日常の態度をもうちょっとそれっぽいものにしてくれよ。
ぷんぷん、と怒った目線を師範に投げた。 すると、何か言いたい事でもあるのか、という怖い視線が返って来て、弱気な俺はひとたまりもなく、いいえありません、と言うかのように目を伏せた。
そりゃ言いたい事ならあるさ。 だけど本当に誘拐されていたら簡単に家に帰してもらえたはずはない。 俺にあれしろこれしろと命令するだけならまだしも、誘拐犯は俺を人質にして、北軍や家族に無理難題を吹っ掛ける気だったのかもしれないんだ。
何をされる所だったのか知らないが、命は無事だって死にたくなる様な目にあわされたと思う。 それを思えば唇が腫れたくらいで文句を言う訳にはいかない。 また師範に助けてもらった事を感謝しなくちゃ。




