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弓と剣  作者: 淳A
新興
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285/490

シャツ  バリトーキの話

「バリトーキ軍曹、悪いけどちょっとそこで待ってて」

 ヴィジャヤン大隊長に言われ、立ち止まった。 どうなさったのかと訝しく思う間もない。 ヴィジャヤン大隊長はそそくさと茂みに向かい、例の水音を立て始めた。


 じゃーーーーっ。


 一瞬あっけにとられたが、はっと気を取り直し、急いでヴィジャヤン大隊長に背を向けて辺りを見回した。 間近にいたのは私だけだが、ヴィジャヤン大隊長の周囲には常に十人以上、呼ばれればすぐ駆け寄れる距離にうろちょろしている奴らがいる。 私がどこに立とうとこの立ちションを隠しおおせるものではない。

 取りあえず近くの奴らに、動けば切る、とガンを飛ばした。 私の殺気をものともせずに近寄って来る豪の者がいなかったのは不幸中の幸いだ。 北方伯の立ちションと言う前代未聞の現場に居合わせ、驚きのあまり動けなかったと言うだけかもしれないが。

 結局会議の時間にきちんと間に合ったのだし、立ちションが何十分も続いたはずは無い。 どう考えても一、二分の出来事。 なのに永遠とも思える時が流れたような気がした。 ようやく水音が止み、すっきり晴れ晴れとなさったお顔でヴィジャヤン大隊長がおっしゃった。 

「待たせてごめんな」


 ……それは。 それはいいのだがっ。

 かと言って何と申し上げてよいものやら。 言葉が見つからない。 大隊長を叱れる立場でもなければ、見ている奴らがいる前で注意や助言が出来る訳もなく。 私はかろうじて、どうかお気遣いなく、とだけ申し上げた。


 その後は特筆する事もなく、予定通り第五会議室まで護衛を務め、第三庁舎の警備担当に引き継いだ。 ヴィジャヤン大隊長は会議終了後御帰宅の予定で、それには別途担当している護衛剣士がいる。 今日の私の任務は終わった訳だが、この後に起こるであろう騒ぎを予想して密かに身震いした。

 百剣であるおかげで一目は置かれているものの、私の階級は所詮軍曹。 おまけにしがない男爵庶子では平民も同然と言ってよい。 私が平民出身の妻を娶る時でさえ誰も五月蝿い事を言わなかったくらいだ。 強力な縁故など一つもない。 そんな私がこれを報告して無事に済むだろうか?


 何も私が護衛している時になさらずもよいではないか、とつい恨み言が零れそうになった。 しかし悪気のないヴィジャヤン大隊長に向かって、そんな愚痴を申し上げられるはずもない。

 今まで何度もヴィジャヤン大隊長の御旅行に同道する機会があったからどれだけ天然な御方か知らない訳ではないが。 まさかこれ程とは。 思わず天を仰ぎ、一体私が前世で何をした、と叫びたくなる。


 大隊長の護衛は本来ならその大隊長が指揮する部隊の兵士が担当するが、私はヴィジャヤン大隊長が指揮する大隊の所属ではない。 ヴィジャヤン大隊長にも部下はいる。 しかしほとんどがイーガン駐在だし、第一駐屯地勤務だったとしても剣士として腕の立つ者はいない。 在宅警備任務に就いているバートネイア小隊長とネシェイム小隊長を例外として。

 マッギニス大隊長補佐も側近としては有能だが護衛となれる腕前ではなく、側付きのアラウジョは先が楽しみな若手剣士だが、今すぐ護衛として使える程の腕ではない。 それに職名こそ「側付き」だが、しょっちゅう大隊長の使い走りをしており、お側にいない事の方が多いのだ。 その為百剣の中でも軍曹以下の者が交代でヴィジャヤン大隊長の身辺警備を担当している。

 ヴィジャヤン大隊長が第一駐屯地の外へお出掛けになる時は少なくても十名。 御家族も御一緒なら最低でも二十名の護衛が付くが、駐屯地内をお一人で移動なさる時は常時一名の剣士が付いているのみ。 つまりその時ヴィジャヤン大隊長のお側にいた護衛は私だけだ。


 ため息と共に、まず第一の関門である報告書作成をどうするかについて悩む。 勤務時間内に報告事項がなければ書類提出の必要はない。 立ちションは報告すべき事項か?

 残念ながら報告事項以外の何物でもない。 この立ちションの噂は明日と言わず、今日中に第一駐屯地中に知れ渡る。 報告しなかったら叱責される事は間違いない。

 ただ事実をありのまま書いて提出したら別の問題が起こるだろう。 これが第一駐屯地の外であった事なら問題はなかった。 周りを固めているのは護衛だけで辺りに人はいなかっただろうし、近くに便所がなかった、で済ませられる。

 だが第一駐屯地内で起こった。 なぜヴィジャヤン大隊長は近くにある便所へ行かなかったのか。 ポイントは行かなかったのか、行けなかったのか、だ。

 事実は単純明快。 移動前にヴィジャヤン大隊長が水をがぶ飲みされただけの話なのだが。 いつもの会議室なら近いから、それでも間に合ったに違いない。 おそらく今日は少々離れている会議室へ行かねばならないという事をお忘れになり、移動前に的場にある上級将校用便所で用を足されなかったのだ。 そのうえ馬をお使いにならず、徒歩で移動なさった為、途中で我慢出来なくなったという訳だ。 しかしこの説明で査問官が納得してくれるか?


 ヴィジャヤン大隊長が特務大隊長に昇進なさった年、的場付近に上級将校用便所が設置された。 毎日的場にいらっしゃる上級将校はヴィジャヤン大隊長だけだし、上級将校用は中隊長以上でないと使えない。 だからこれはヴィジャヤン大隊長専用便所と言って差し支えない。

 元々上級将校用便所の数は一般兵士用と同じくらいあちこちにある。 その付近に常駐の警備兵もいるし、どれも新築同然で掃除も行き届いている。 なのに立ちションなさるとは。 一体上級将校用便所の何がヴィジャヤン大隊長のお気に召さなかったのか。 絶対査問官から聞かれるはずだ。 御本人が、ではなく、私が。

 そんな答えなど私が知る訳がない。 なのに運悪く意地の悪い査問官にぶち当たったら、満足のいく答えが得られるまで家に帰してもらえないだろう。


 幸い私の直属上官であるデトサレイ小隊長も百剣で、ヴィジャヤン大隊長のお人柄も良く御存知でいらっしゃる。 誰にでも起こり得る不運だからか、同情して下さった。 ただ査問官は大隊長直属。 小隊長では揉み消せない。

「上にうまく言っておくから心配するな」

 デトサレイ小隊長の上はスレッテン中隊長。 その上はトーマ大隊長だ。 トーマ大隊長は今年一杯で退官なさるから実質業務は既にタケオ大隊長がなさっている。 報告書の方は何とかなるかもしれない、とほっと一息ついた。

 もっともこれで終わりじゃない。 本当に大変なのはこれから私に襲いかかって来るであろう世間の好奇心というやつだ。 階級が軍曹だと質問されて無視する訳にはいかない同僚、上官の数は少なくない。 その予想通り、翌日から何十回となく基本的に同じ質問が繰り返される事になった。


「ヴィジャヤン大隊長が立ちションなさったんだって?」

「私は背を向けていたので何も見ていません」

「ふーん。 とは言っても、ちらっとは見えたんだろ?」

「いいえ。 ちらっとも見ていません」

「本当に?」

「本当です」

「そう堅い事を言わず。 誰にも言わないと約束するから、な?」

「本当に本当なんです」


 この繰り返しだ。 立ちションがあってから五日後、次に同じ質問してきた奴は将軍閣下であろうとぶちのめす、と思うくらい切羽詰まった気持ちになっていた。 すると染物屋の息子のパラパサンが、これを着てみては如何ですか、と白抜きの文字が入った藍染めのシャツを持って来た。

 シャツの胸には「見ていません」。 背中には「本当です」が鮮やかに染め抜かれている。 私に断る気力は既になく、有り難く受け取った。


 翌日そのシャツを着て食堂に行ったらものすごく受けた。 それだけじゃない。 私に対してしつこく繰り返されていた質問がぴたっと止んだのだ!

 深い安堵のため息が漏れたが、まだ安心する訳にはいかない。 軍曹以下の百剣は少数だから結構な頻度で私に護衛のお役目が回って来る。 星の巡り合わせでも悪いのか、何故か大きな話題となるものに限って私が当番だったりする。

 女難の相の時もこれでまた質問の嵐か、とうんざりしていると、パラパサンが、これなんかどうでしょう、と新しい一枚を持って来て見せてくれた。

 胸の中央には「護衛」の文字。 その周囲に北方伯家の象徴である矢羽根六つを置いてあり、背中には言わ猿が染め抜かれている。 このシャツにも前と同様、皆を黙らせる効果があった。


 嬉しくて、お礼に奢ってやるとパラパサンに言ったが、遠慮されてしまった。

「どうか気になさらないで下さい。 実は染め抜きのシャツを売りたいって、前々から親父に話していたんですが。 どれだけ売れるか分からんし、と渋られていて。 それがバリトーキ軍曹が着てくれたおかげでそっちこっちから引き合いが来るようになり、それで模様やら地色やらを変えた物も作っていたんです。 よろしければこれからも俺の作ったシャツを着て戴けないでしょうか?」

「もちろんだ。 売り出すなら金を払う」

「いえ、お代はいりません。 バリトーキ軍曹が着ているあのシャツ、というのがとても良い宣伝になっているんです。 これからも何があったか教えて戴ければ、それに合う染め抜きを作って差し上げます。 とりあえず色違いとか、お試しになっては如何ですか?」


 そして緑の地色の護衛シャツをもらった。 どうやら次々と注文が来たらしく、確かな手応えを感じたパラパサンは間もなく軍を辞め、シャツの専門店「バリシャツ」を開いた。

 今まではシャツといえば白無地と決まっていた。 それ一枚で外を歩くのは真夏でもなければあまり見かけないし、真夏でもそんな事をするのは男だけだったが、次の夏からバリシャツ一枚で歩いている人をあちこちで見かけるようになった。


 パラパサンの店では色付き、文字付き、絵付きのシャツを売っている。 六色(藍、白、黒、赤、緑、茶)の地色を取り揃え、客の好きな言葉を染め抜く事もしていると言う。 女物、子供用も売り出された。 娘達に欲しいとねだられたので店に顔を出したら、えびす顔のパラパサンが接客してくれ、いろいろおまけしてくれた。

 彼によると、一番の売れ筋は相変わらず藍染めの「護衛」と言わ猿の組み合わせらしい。 その他、観光客向けに作った北軍第一駐屯地やケルパ神社などの御当地に因んだ染め抜きが売れに売れ、作るのが追いつかない程。 嬉しい悲鳴、と言う所か。 どうぞこちらも着てみて下さい、と言って私がまだ持っていなかった色違いを何枚かくれた。 


 私は今まで自分の身なりを気にかけた事はない。 私服は全て無難な物ばかりだったが、バリシャツを着て以来、一転して流行の先駆けだの、かっこいいと言われるようになった。 第一駐屯地内はもちろんの事、妻や娘達、御近所のみなさんにまで好評を博している。

 しかしバリシャツの名前の由来が「バリトーキ軍曹の着ているシャツ」を短く縮めたものである事は、気恥ずかしくて妻にさえ教えていない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 見てません、本当ですに思わず吹いた。
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