次兄 ある病院事務局長の話
サジ・ヴィジャヤン先生が六頭殺しの若の実兄である事を知っているのは院長先生と事務局長である私だけだ。 だから夏の終わりに先生が兄上の結婚に出席するため皇都へと旅立たれた時、誰も何の詮索もしなかった。 それがかのヘルセス公爵令嬢ライ様とサガ・ヴィジャヤン伯爵様との結婚式である事を知る者はいないから。
この夏の話題は宰相、皇国全将軍、皇都の貴族、著名人という著名人が全員出席したこの慶事で埋め尽くされた。 皇都から遥かに遠い南のこの町も例外ではない。
何でも皇太子殿下の御臨席を戴いたのだとか。 やれライ様のドレスの色がどうの、首飾りがこうの、ベールはヘルセス公爵家がどこそこから取り寄せたの。 それはみな皇都にいる親戚やら友人から聞いた噂だ。 この病院に新郎の弟が勤めているとは思いもしない。 ヴィジャヤン姓は南では珍しくないので無理もないのだが。 おそらく初代ヴィジャヤン伯爵も南出身だったのだろう。
伯爵家正嫡子でいらっしゃるにも拘らず、ヴィジャヤン先生はとても気さくな御方だ。 看護婦や患者は全て平民なのに分け隔てなく世間話をしていらっしゃる所をよく見かける。 お育ちの良さは隠しようもない。 だが御本人が貴族であると言わないので周りの者は貴族の庶子か訳ありと察し、根掘り葉掘り出自を聞く事を遠慮している。
先生は結婚式からお帰りになると、良いお天気に恵まれ、無事に終わりました、とだけおっしゃった。 騒がれる事がお嫌なのだろう。 もっともただの伯爵の弟ならばれたとしても騒がれる事はなかったと思うが。 この病院に貴族の子弟はいないが、この辺りは風光明媚だから貴族の別荘がそちこちにある。 通りすがりにどこそこの伯爵やお買い物をなさる貴婦人を見かける事は珍しくない。
だが今や皇国中で知らぬ者はいない六頭殺しの若。 その実兄、となると話は違う。 この辺りの領主であるオーアバック伯爵様が御面会にいらっしゃるだけではない。 避寒にいらした公侯爵全員がこの病院に押し掛けるか往診依頼を寄越すのではないか。
ヴィジャヤン先生が六頭殺しの兄である事を自慢された事はない。 おそらく院長先生は密かに自分の娘との縁談を狙っていらっしゃるのだろう。 ヴィジャヤン先生がお勤めになる前、出自が万が一にも漏れたりしないように院長先生から厳重な注意があった。 そのため先生に関する必要書類は全て私だけが扱い、鍵付きの書類戸棚に仕舞ってある。
ここは平民の病院には珍しく守秘義務が徹底されているから特別な注意などなくても誰も口外したりはしないと思うが。 勤務している者や患者がどこの誰であるかを部外者へ話す事は禁止されており、漏らしたら例外なく首だ。
ただ本人がしゃべるのは自由。 だから内心私を口止めするより御本人を口止めすべきだろうと思っていた。 伯爵子弟である事には多くの特典がある。 金品の貢物も。 六頭殺しの実兄ならそれだけでいい商売になるはずだ。
ところがヴィジャヤン先生は意外な程お口の堅い御方で。 出自を匂わせた事もなければ弟自慢をなさった事もない。 私が知っている事は御存知のはずなのに、私しかいない時でもそれらしき事をおっしゃった事はなかった。
但し、弟の事を話さないという訳ではない。 酔狂な弟が北軍に入隊したという事は皆知っている。 その弟とは三つ離れているとか、勉強嫌いだとか。
「もう少しきちんと面倒を見てあげればよかったのですがね。 私も自分の事にかまけてばかりで。 良い兄だったとは言いがたい」
「まあ、男の兄弟なんて、みんなそんなものですよ」
訳知り顔に皆が言う。
これからも誰も知る事はないのだろう。 ヴィジャヤン先生が時々北軍第一駐屯地に送っていらっしゃるトビ・ウィルマー宛の小包。 南の色々な果物から作られた長期保存が可能なジャムやドライフルーツ。 痛み止めの薬。 風邪薬。 ひび止め用の肌クリーム。 虫刺されに効く軟膏。 それらの真の受取人が誰なのか。
真冬だろうと南で雪が降る事はない。 そんな南から北へと続く空を眺め、ヴィジャヤン先生がつぶやいた。
「あんな寒がりが、まさか北へ行くとはねえ」
「夢を追いかけている時は寒さなんて気付かないものなのかもしれませんね」
看護婦のトメがそう応じた所、何を思い出されたのか、ふっ、と先生は笑われた。
「いや、あれで中々強情な所がある奴で。 ちゃんと気付いているし、震えてもいる。 それでもしがみついた夢を手放さない。 そういう子なのです」
「そういう気性の兵士は出世するって言いますよ」
今日は大分顔色の良くなった患者のクマが請け合うように言うと、先生が少し首を傾げて答えられた。
「別に出世などしなくても構わないのですが。 怪我も病気もせずに帰ってきてくれさえしたら。 そう願っているのは父母だけではないのです。 祖母が特にかわいがっている末っ子で。 いるだけで何となく辺りが和むという子なものですから」
「そうでしたか。 でも新兵じゃ簡単に帰省も出来ないですしねえ。 お母様もおばあ様も、さぞかしお寂しいでしょう」
「でしょうね」
クマの診察が終わり、次の患者へと歩き出しながら先生が少し微苦笑を浮かべた。
「子供の時みたいに布団を蹴り飛ばし、北の寒さに風邪でも引いているのでは、と。 つい、気にかかるのですよ。 もう大概あの子だって大人なのに」




