大漁
トビをひっぱたいてしまった。 何も叩かなくったって、そんな危ない橋、二度と渡るんじゃない、と一言言えば済む事なのに。 抵抗出来ない奉公人に、一方的な暴力を振るった事をすごく後悔した。
それにあれじゃあ叱ったと言うより泣いて縋った、だろ。 格好悪いったらありゃしない。 結果的にはトビに申し訳ないと言わせたし、もうやらないと約束させる事が出来たから目的は果たした、と言えるんだけど。
トビはきっと俺の為によかれと思ってやったんだろう。 なのに問答無用で叩いちゃって。 出来れば謝りたいが、同じ間違いを繰り返してもらいたくない。 いや、トビの事だ。 同じ間違いはしないだろう。 でも似たような間違いならするんじゃない? 俺の為なら死んでもいい、とか。 本気でやりそうだから怖い。 それを思うとここで俺が謝る訳にはいかないんだ。
まったく、忠義者はこんな風に突っ走るから。 なんでもっと自分の命を大切にしないんだよ、とつい文句の一つも言いたくなる。
俺の事を一番に考えてくれるのは有り難いし、嬉しい。 だけどもっと自分も幸せになろうとしたっていいだろ。 そんな説教をしてやりたくなる。 言った所で、私は幸せです、とか言われそう。
ふと、入隊前にオークに襲われた日の事を思い出した。 あんなに切羽詰まった場面で、俺に逃げろと言われているのに逃げなかったトビ。 はあーーーーっと、大きなため息が零れる。
あの後の家族の反応も、すごーく気まずいものだった。 ばっちりくっきり俺の手跡がトビの頬に赤々と付いているのに誰も何も言わないんだもんな。
トビはみんなに信頼されている。 尊敬されているし、好かれていると思う。 なのに、あんなに一生懸命仕えてくれているトビを叩くなんてやり過ぎです、と俺に意見する者は誰もいなかった。 口では言わないが目で責める、というのもない。
今更かもしれないが俺に意見出来るトビのすごさに頭が下がる。 そりゃマッギニス補佐や俺の部下から間違いを指摘される事なら毎日のようにある。 でもそれって俺が勘違いしていたとか、知らずにやっていた間違いを正す、て感じのものばかりだ。 俺が一旦こうしようとか、ああしようと決めた事に対して、やめろと意見してくる奴や、やってしまった事を責める奴はいない。
まあ、仮にも俺の部下と言う位置付けなのに上官に向かって意見するなんてやりづらいとは思うけど。 普段平気で人をぼろくそに言うくせに意見する事は出来ません、なんて変だろ?
唯一の例外がリネだ。 最初の頃こそ俺のやる事は何でも正しい、て感じで、うんうん言ってくれていた。 でもこの間なんて、俺が儀礼の稽古をずる休みしたいから口裏を合わせてくれって頼んだら、ずる休みなんてやっちゃいけません、て言うんだぜ。 信じられる? いつの間にこんなに冷たい妻になっちゃったの?
意見してくれるのはいいんだけど、これってまさか、噂に聞く「第二次倦怠期」じゃないだろうな?
第二次は子供が生まれた後に訪れる。 第一次を無事に乗り切ったし、と安心した隙を狙って現れる怖いやつなんだって。
これを乗り切れない奴が多いんだよなー、と遠い目をしながらソーアが教えてくれた。 何だかびびっちゃって、もしかしたらソーアもなの、とは聞けなかったが。
それでなくてもこの所、俺に対するリネの気持ちの温度が下がったような気がして不安なのに。 これ以上俺を心配させないでよってリネに愚痴りたくなる。 きらきらのお目目で俺を見つめていたリネはどこに行ったんだよー。
今じゃ俺が帰ったって、お帰りなさいと抱きついてくれない。 代わりに伯爵夫人が夫を出迎えする時にやるような、とてもきれいなお辞儀をしてくれるようになった。
上品なのはいいんだけどさ、俺的には上品でなくたっていいんだけどな。 あのぱふんと抱きつかれる時の感触が何とも言えず好きだったのに。
それにお風呂だって俺抜きでサリと入るようになった。 これはエナに言われたんだけど、皇王族や貴族の未婚女性は父親と言えども男性と一緒にお風呂入ってはいけないんだって。
そんなの我が家の風呂を覗いている奴がいる訳でもあるまいし。 黙ってりゃ一緒に暮らしている人以外、誰にも分からないだろ。 なのにリネったら、しきたりを知らないでやっているならともかく、知っているならちゃんと守らなきゃだめですう、なんて言うんだぜ。 後でお嫁さんに行った時サリが苦労するとか何とか。
皇太子妃になっちゃったらお風呂より他にもっと苦労する事がいっぱいあるだろ。 つまんない事まで心配しなくても大丈夫、と言ってもだめなんだ。 ほんとにリネったら、変な所に頑固で。 融通が利かないったらない。
それはともかく、今回の件ではリネでさえ俺とトビを交互に見て、ちょっと心配そうな顔をしたが、それだけで何も言わなかった。 やっぱり聞きづらかったんだと思う。 ただの喧嘩じゃないと感じて。
そう言う意味でもトビはほんとに掛け替えがない奴だ。 数字に強いとか仕事が早い人なら他にもいる。 でも一本筋が通っていて、俺がぐちゃぐちゃの時、ぐちゃぐちゃですってちゃんと言ってくれる人は他にいないんだ。
トビはどうやら自分が叩かれた事を当然と思っているみたいで、一言も文句を言わない。 それでかえって俺は自分のやった事が正しかったのかどうか自信が持てなくなった。
そもそもトビがやりたかった事の意味って言うか、何が目的だったのか俺は聞いていない。 確かにエナがずっと乳母でいてくれたら楽だ。 次に来る乳母がケルパに好かれる保証なんてないし、エナはよくても次はだめ、なんて言おうものなら、きっとどうしてだめなんだって聞かれるよな?
そこで、犬がだめと言ってます、とは言えないだろ。 言ったら絶対いろいろ面倒な事になる。
だからって、命を懸けてまで皇王陛下にお願いしなきゃならない事じゃないはずだ。 断る言い訳なんてその時になれば何か考えつくだろうし。 大体、最初に一言、手紙を書けと俺に言えば済む事じゃないか。
だけどもし本当の理由は何とトビに聞いたら、その返事は俺が聞きたくないような怖い事を言われるんじゃないかって気がした。 聞きたくないとか、そんな子供みたいな事言ってる場合じゃないんだが。
何となくトビって俺にもっと偉くなってもらいたいんじゃないか、て感じがする。 乳母の任期を延長した事で俺が更に偉くなる、みたいな?
そんなばかな事あるか、と言われそうだけど。 皇王室のしきたりを変えるなんて誰にでも簡単に出来る事じゃないと聞いている。 それがやれる俺って感じで。 俺なんて、もう分不相応なほど偉くなっちゃっているのに。
そもそも英雄になったのだって俺がなりたくてなった訳じゃない。 それでも今更辞めますって言う訳にはいかない。 俺が英雄でないと困る事もあるから。
北軍の予算が増えたのだって俺に会いたくて王侯貴族がわんさか来てお金を落としてくれるのだって、俺が英雄だからだ。 中身はこんなもんでも客寄せになるって言うか。 どうして人が寄って来るのか分からないけど、とにかく北軍の役に立っている事は確かなんだ。
北軍には既に師範と言う英雄がいる。 でも平民出身のせいで、特に相手が王侯貴族だと向こうからやって来ると言うより師範にこっちに来いと言いがちだ。 幸い呼び寄せたい人が多過ぎて、どちら様にも断っている以上、あなたの所にだけ行く訳にはまいりません、で済んでるけどさ。
その点俺は貴族だから、会いたきゃそっちが来て頂戴、でも誰も不思議に思わない。 偶々英雄と祭り上げられたに過ぎない俺だが、なってしまった以上弱気な態度を見せる訳にはいかないんだ。 尊敬されなくなるだろ。
でも何しろ元が元だし。 どんなに自分を偉く変えたいと思ったって簡単に出来る事じゃない。 トビはそんな俺の為に、世間の方を変えようとしているんじゃないかって気がする。
今だって世間の皆さんは俺の中身を知らないから、すごい英雄だって思ってくれてる訳だし。 その誤解をもう一押ししちゃおうって感じ?
トビに余計な事をさせずに済むよう、いつか本物の英雄になるため俺だって努力はしているつもりだ。 とは言っても、立ってもいない赤ちゃんに走れって言ったって無理だろ。 いきなり偉くなれって俺に言われてもねー。
とか思っている所に、部下が百五十名だもんな。 ソーベル中隊長補佐にウェルター中隊長の後を継いでもらいたくて俺から願った配属替えだが、それにはイーガン常駐の兵全部が付いて来てしまったのだ。
もうちょっとで、えー、そんなの困る、ぼろが出るじゃないか、と文句を言いそうになった。 俺が命令したって聞いて貰えなかったりして。
だけどウェルター中隊長が言うには、転属になったのは全員俺がイーガンで命を救った兵士だから、この転属にすごく感激しているんだって。 それを聞いて少しほっとした。 俺みたいな頼りない大隊長の下に付くのは嫌だと言われたらどうしよう、とか思っていたから。
世間じゃあれをイーガンの奇跡って呼んでいるし、俺がやった事になっている。 だけどみんなが助かったのはステューディニ中隊長が氷の塔を設計してくれたおかげだろ。 実際行ってみたら大峡谷の隙間は百七十メートルもなかったんだから俺の矢でなくたって届いたはずだ。 という事は知ってはいても大きな声では言いません。
まあ、ウェルター中隊長と言う強力な指揮官がいる。 俺が出る幕なんてないだろう。 その後を継いでくれるソーベル中隊長も頼りになる人だ。 何とかなるとは思うが。
とにかく、この機会にイーガンに挨拶に行く事になった。 俺はついでに家族も一緒に連れて行く事にした。 本来、領主の娘は領地で育つものなのに自領を一回も見ていなかったらまずいだろ。
大峡谷は危険だがイーガン駐屯地付近なら安全だ。 警備の兵は四十人程度で、あまり大袈裟にならない様にしてくれ、とバートネイア小隊長に頼んでおいた。
幸い旅は快適で、無事イーガン駐屯地に到着した。 家族は全員大峡谷を見るのは初めてだから、うわあと大きな歓声をあげていた。 ウェイザダまで行けばもっと強烈な景色が見れるが、さすがに赤ちゃんをあそこへ連れて行く事は出来ない。
イーガンには相当数の夏の駐在兵が到着し始めていたが、今回俺が挨拶するのは直属の兵だけに限った。 出来ればトタロエナ族用教官と俺の奉公人、そのどちらもケルパがこの人です、て感じでぱっと見つけてくれれば簡単なんだけどな。 そううまくはいかないだろう。 たとえ一人の奉公人も見つからなくともあの大峡谷の異景は一見の価値がある。 と、あまり期待しないで行ったんだが、なんとケルパが三人もの兵士にひよひよ挨拶をしたのだ! 大漁だっ!!
いや、まあ、魚じゃないけどさ。
そしてその後、二十人の兵士がケルパからぽんと尻尾で叩かれる挨拶をされていた。 おおっ。 ここまで来た甲斐があったぜ!
俺の気分は一気に明るくなり、その勢いで教官面接に臨んだ。 せっかくだから以前小耳に挟んで気になっていた、教師がモテるって、ほんとの所はどうなのかを聞いてみた。 でもみんなそんな事はないって言う。
うーん、教師と教官って同じ職業だよな? まさか違うって事はないよな?
自信はなかったが、かと言ってトビにこんな事を聞いて、また何をおばかな事を聞いている、と思われるのも嫌だし。 結局俺の疑問は解けないままだ。
面接した教官がみんながっかりした感じで退室したのはちょっと気にかかったが。 ま、俺を身近に見ればがっかりもするよな。 それは仕方がない。
ところで、ケルパが誰かに挨拶したら即座に奉公人として引き抜く事にしていた。 一挙に三人も奉公人が見つかるだなんて近年まれに見る大漁で嬉しい。 ただ身上書を読んだだけではどうしてケルパがこの三人を選んだのか分からなかった。
年齢もバラバラだし。 出自もトムフォーデは子爵庶子。 ガイゼンバンは男爵家正嫡子だが継承権を捨て、平民の戸籍になっている。 ダーネソンは生まれも育ちも平民、と様々。
特技欄はいずれも空欄だった。 階級は三人共軍曹だったが、それは単なる偶然の一致だろう。
とにかく直属上司となるトビと面接してもらわなきゃいけない。 それでネシェイム小隊長が選ばれた三人を別室に連れて行き、すぐに出発の用意をして俺達と一緒に第一駐屯地まで来るように伝えた。
大隊長のくせに自分の家の奉公人として引き抜く事を優先するだなんて。 職権乱用みたいな気もするが、大漁なら目出度い事だものな。 細かい事は気にしない事にした。




