長兄 若の兄、サガの話
自分に弟がもう一人いたとは思わなかった、とまでは言わないが。 年が三つ離れたすぐ下の弟サジとは一緒に学び、多くの時を共に過ごしたので今でも手紙のやり取りがある。 だが一番下のサダとは私が実家を出て以来、音信不通だった。
仲が悪かった訳ではない。 子供の頃の六つ違いは大きいという事もあるが、それ以上に父の方針で私達は全く違った育てられ方をしたという事が大きい。
私は次代の伯爵となるべく六歳になった時から家庭教師を付けられ、読み書き算数は勿論、歴史や宮廷儀礼など様々な事を学ばされた。 それにはダンスや謡(領民が結婚する時、お祝いに領主が一節歌う慣習だから)も含まれる。
陛下にお目見えする時の御挨拶や宮廷儀礼の習得も欠かせない。 儀礼は時と場所、相手の地位、爵位によって変えねばならないだけでなく、その時その時の思惑、都合、用件によっても変える必要がある。 覚えねばならない事は無限と言っても過言ではない。 私が十歳の誕生日を迎えると、これに領地経営に関する勉強が加わった。
次男のサジにも私と同じ教育が施された。 けれど三男のサダは領民の子供達用に建てた読み書きを教える六年制の学校に通ったきりだ。 父の命だが理由は知らされていない。 私だけでなく母も執事も理由を知らなかった。
毎日決まった予定に従って学習していた私がサダと会うのは夕食の時だけ。 意図して無視した訳ではない。 食事が終われば私とサジはカードやボードゲームで一緒に遊んだが、数が碌に数えられないサダが参加する事は無理だった。
数が数えられるようになったら一緒に遊んでやると約束したが、その日が中々やって来ない。 しびれを切らした私はサダが学校に行くようになり、おそらく数が数えられるようになっても、数えられるようになったか、と聞いたりはしなかった。
サダも兄と遊ぶより同い年の学友達と遊んでいる方が好きだろう。 それを本人に聞いた事はなかったが、そう思っていた。
毎日遊んでばかりいると思っていたが、実は子供の頃から狩りをしてわずかながらも家計を助けていた事は、つい最近本邸の収支決算書を提出している会計士から教えられた。 知らなかったとは言え一度も労いの言葉を掛けてあげなかった事を悔やんだが、知っていたとしてもサダと一緒に遊んだとは思えない。 狩りや弓の事を何も知らない私と儀礼や勉強が苦手なサダ。 共通の話題や趣味が一つもないのだから。
宰相府郵政庁情報伝達部に勤務が正式に決まってから私は増々勉強に追われた。 いつも家にいないサダを気にかける事はなく、十八歳になった私は皇都へと旅立った。
皇王城へは何度も行った事があるが広大な場所だし、郵政庁に足を踏み入れたのは初めてで、緊張と期待と共に今まで学んだ事を役立てる気満々で仕事に臨んだ。 毎日忙しさでへとへとになり、充実していたと言えない事もない。 しかしやっている事といえば、つまりは郵便配達夫、と気づくのに大した時間はかからなかった。
宰相府から出される手紙や書類は普通郵便で送る訳ではない。 一通ずつ通し番号を付け、誰がどこに配達したかを全て記録する。 当然かなりの人手がいるが、簡単な仕事だからと言って平民にやらせるわけにはいかない。 重要な書類をわざと間違えたり盗まれたりしたらとんでもない事になる。 平民の配達夫を恐喝、又は買収するなど簡単だ。 それで失うものの大きい貴族の、しかも継嗣を雇うのだ。
現実を知った事による失望は大きい。 今までのあの必死の勉強は一体何のため、と同じ勉強をやらされたサジになら愚痴を零せる。 けれどそんな愚痴、サダには零せない。 あの、兄上って頭いい、すごい、偉い、というきらきらの尊敬の眼差しを向けてくるサダにだけは。
まあ、郵便配達夫もそれなりに面白いと言えば面白い。 国中様々な所に派遣されるし、宰相の手紙は必ず受け取る本人でなければ手渡せない決まりだから公侯爵という普通なら簡単には会う事が叶わない御方にも直接お会いする。
何年か郵便を配達している内に私はヘルセス公爵令嬢ライに見初められるという幸運に恵まれた。 彼女に捨てられないよう心を配り、未来の義父であるヘルセス公爵に嫌われないよう気を使うのに忙しく、サダの事など少しも思い出さなかった。 ある日突然、「六頭殺しの若の兄」と呼ばれるようになるまでは。
噂が届いただけではない。 宰相府の中でも最も奥まった所にある情報伝達部まで、わざわざ私の顔を見に次々と人が訪ねて来るようになった。
私とサダは両親が同じで正真正銘血の繋がった兄弟ではあるが、全然似ていない。 私の顔を見た所でサダの顔が連想出来る訳でもないのだが。 私達兄弟が一緒にいる所を見た訳でもない他人がそれを知るはずもなく。 訪問者の数は日に日に増えていった。
そして誰もが同じ事を聞く。 彼らのお願い及び質問は次の四つだ。
1 絶対使わないと約束するから家紋入りの矢を分けてもらえないか?
2 サダのサイン(又は色紙)をくれないか?
3 次にサダが皇都に来るのはいつ?
4 サダに会わせてもらえないか?
それらに対する私の答え。
1 だめです。
2 持っておりません。
3 知りません。
4 無理です。
何度も何度も言わされる同じ答えにうんざりし、質問とその答えを紙に書いて壁に貼っておこうかとさえ思うようになったある日。 ヘルセス公爵が私を訪ねて来た。
「これはヘルセス公爵。 今日はわざわざ情報伝達部まで如何なさいました?」
「うむ。 まあ、偶には一緒に昼食を、と思ったものでな」
一緒に昼食だと?
その場で仰け反ったりはしなかったが、内心の驚きは禁じ得ない。 確かに私はライと婚約した。 近い将来ヘルセス公爵の義息となる。 だが彼にとってこれは渋々認めた結婚だ。 ライが私でなければ誰とも結婚したくないと泣いて懇願した為、仕方なく。
だから婚約が調った後も不本意な縁組である事を隠そうともなさらなかった。 この仕事場に私の顔を見に来る事はおろか、私がヘルセス公爵邸を訪問した時でさえお顔を見せた事等一度もない。 お前の挨拶など受けている暇はないと言わんばかり。
面白くないという気持ちは分からないでもない。 正嫡子である公爵令嬢ともなれば皇王族だけでなく諸外国の王族との縁組も望める。 現にライの実姉、サイ様はサジアーナ国の王太子妃殿下だ。 格下の伯爵なんぞに娘をくれてやる義理はないのに結婚のお許しが戴けただけでも深く感謝している。
昼食の時の四方山話は予想通り、前述のお願い及び質問だったが、未来の義父に対して他人と同じ返答を繰り返すつもりはない。
1 結婚式の日に式が終わり次第、差し上げます。
2 サダからの手紙が届き次第、差し上げます。
3 今の所予定はありませんが、帰省の際には必ず皇都の別邸に立ち寄るようサダに伝えます。
4 その際には予め日程を御連絡申し上げます。
公爵はかつて見せた事のない上機嫌でおっしゃる。
「孫が出来たらその子はかの六頭殺しの甥か姪になる訳だ。 何とも先が楽しみな事ではある」
「お言葉、ありがとうございます」
私は頷いて微笑みを返した。
弟よ。
間もなく、生まれて初めて兄からの手紙を受け取る弟よ。
でかしたぞ。