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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 II
242/490

家族  若の義兄弟、レカの話

 自慢する訳じゃないが、人助けなんて生まれてこの方一度もしたことはない。 いや、なかった、と言うべきだろう。 その日が来るまでは。

 人助けなんてしたくともする機会などなかったとも言える。 森の中の一人暮らしだ。 しかもこの森は町の二つや三つ簡単に入るほど広い。 強盗や人殺しが偶に起こる事もあるが、私はいつもそれらしき痕跡を見つけるくらいで現場に居合わせた事はなかった。

 とは言っても私のような我関せずが町中で暮らし、困っている人を見たとしても何かをしてあげたとは思えないが。 何の巡り合わせか誘拐された子供を助ける羽目になり、その人助けが私の運命を変えた。


 私は危険を逃れるため毎日木の上で過ごす事が多く、その日も木の上にいた。 すると遠くから馬に乗った男二人がやって来るのが見える。 男達に見つからないよう隠れて見下ろすと、五つか六つくらいの子供を連れていた。

 言ってしまえばそれだけの事なのになぜ誘拐だと分かったかと言うと、まずその子の着ていた服だ。

 上等な布を使ったきちんとした仕立てで家紋らしき刺繍が入っている。 おそらく貴族の子だろう。 ところが着ているのはその薄い遊び着一枚。

 この森は大木に陽を遮られているので夏でも涼しい。 私は慣れているから平気だが、普通の旅人にとってかなり寒い。 広大な森だからここを通る旅人はどちらの方角へ行くとしても一晩は森の中で野宿する事になる。 仮に訳ありで貴族の子弟が人買いに売られたのだとしても、そんな格好で旅をさせるのはおかしい。

 そしてその子を連れている男が二人共人買いと言うより盗賊かならず者、せいぜいで元傭兵にしか見えなかった。 外見が全く似ていないのでその子の血縁でもないだろう。

 それに二人はどの町で売れば捕まらず、一番金になるかを相談している。 と言う事は、誰かにその子を殺してくれと頼まれたのでもない。 おそらく遊んでいる内に道に迷ったか子守りからはぐれた子供を見つけ、売れば金になる、と攫ってきたのだ。


 どこを目指しているのか知らないが、ここは深い森だ。 迷う危険があるだけでなく、どの町に行くにしても遠回りとなる。 だが追手がいるならこれ程便利な逃げ道はない。 誰も追いかけて来れないし、どちらの方角に逃げたかなんて分からないから行方をくらますのには最適だ。

 誘拐で間違いない。 下手に関わり、助けた私まで誘拐犯の一味と思われたり、最悪の場合私の出自を突つかれたりしたらやぶ蛇となる。 関わらないのが一番と思ったその時、その子が顔を上げ、木の上にいた私と目が合った。

 涙を溜めて必死に助けを求める瞳。


 獣のように暮らして何年も経つ。 なのにその瞳を見た途端、私の胸がずきんと痛んだ。 そんな人らしい気持ちがまだ残っていただなんて。 自分でも驚いたが、深く考える前に通り過ぎる人攫いの頭を狙って石を投げていた。

 人通りのない森の中だ。 いつも襲う方の自分達が襲われるとは夢にも思っていなかったらしく、二人共隙だらけ。 あっさり馬から転げ落ち、打ち所が悪かったのか地面の上でのびている。 私は石以外の武器を持っていなかったから一発で決まってくれてほっとした。


 木の上から降り、男達から役に立ちそうなものを適当に剥いでいく。 その子は馬の上でぷるぷる震えながら黙って見ていた。 奴らが起きても簡単に後を追えないようにしておき、もう一頭の馬に乗る。 そしてこの場から立ち去ろうとすると、その子は私の後ろにぴょんと飛び移り、腰にしがみついてきた。

「た、助けてくれて、ありがと。 そ、それから、僕ね、名前ね、サダっていうの。 サダ・ヴィジャヤン。 よ、よろちく」


 言葉を忘れた訳ではないが、長い間たった一人で暮らしてきたせいか、こんな状況で何と返事をするべきかを迷い、ただ黙っていた。 その子は構わず、ここはどこ、あなたは誰、と聞いて来る。

 子供は遠慮がない。 こんな面倒くさいものに関わって一体どうする気だ、と今更ながら舌打ちしたが、せっかく助けたのにここで見捨てたらこの子は飢え死にする。 そんな寝覚めの悪い事になる前に森の外へ連れて行くしかない。

 幸い馬が手に入った。 一番近い村なら二、三時間もあれば着く。 そこから先はこの子の運次第。 私の知った事ではない。


 と言う訳で村へ向かった。 途中、川で馬に水を飲ませていると、サダに私の名前を聞かれた。 私は事情があって誰にも本名を言わないよう、爺にきつく戒められて育った。 爺が死んで四年が過ぎたが、私にとってこの世で唯一の身内と言える人の戒めだから骨身に染み込んでいる。 ただ相手は子供だし、せっかく名乗ってくれたのだ。 自分の本名でなければ教えてもいいか、と思い直した。

「レカ」

「レカ。 かっこいい名前だね」

 そう言ってサダはちょっと微笑んだ。 真っ青になっていた顔には赤みが戻り、おっとりとした口のきき方には育ちの良さがにじみ出ている。 レカなんて平凡な名前のどこがかっこいいんだと思ったが、久しぶりに名前を呼ばれたのが何となく嬉しくて黙っていた。

 サダは私が返事をしないのを気にもせず話しかけてくる。 答えるまで同じ質問を繰り返すので、仕方なく返答した。

「レカはどこに住んでるの?」

「この森だ」

 子供らしい好奇心の溢れる目できょろきょろ辺りを見回しながら言う。

「すごーい。 でもここって広いよね。 お家はどこ? 何か目印があるの?」

「そんなものはない」

 目印だけじゃなく家もないが、余計な説明はしなかった。 すると私をじっと見つめてサダが更に聞いてくる。

「レカに家族はいないの?」

「いない」

 私の返事にびっくりした顔をして聞いてきた。

「いつも一人? 冬、寒くない?」

「ああ、寒い。 爺が死んで、一人になった最初の冬はあやうく死ぬ所だった」

「どうやって寒さをしのいだの?」

「毛皮がある。 爺が用意した食料もあったしな」

「じゃあ次の冬からどうしたの?」

「夏の間、毎日必死で食料を探して冬に備えたのさ」

「ここにはどんな食べ物があるの?」

「キノコや果物に木の実の類いだ」


 こんな調子で、無口な私がいつの間にか身の上話を洗いざらいサダに語っていた。

 爺に連れられ旅に出たのは私が九歳の時だ。 目的地がどこだったのか知らないが、ここではないと思う。 おそらく爺は誰にも会わずに自給自足が可能な事を見て取って、この森に住み着く事に決めたのだ。 私は十歳だった。

 爺が死んだのは私が十二の時で四年前だ。 それ以来たった一人で生きている。

「ねえ、レカ。 ひとりぼっちは寂しいよ。 僕の家に来て一緒に住まない?」

「お前の家はどこだ?」

 サダはあっちと指差そうとしたが、あっちではないと気が付いた。 しかしこっちでもない。 ではどっちだろう。 そこでようやく自分が迷子である事が分かったようだ。 指を宙に漂わせたまま困った顔をする。

「……分かんない」

「分からないなら行けないだろ」

「だね」


 私はサダに構わず人攫いから奪った袋を漁り、すぐ食べられる物が何かないか探した。 袋の中にあった干物の類を水に浸し、サダと一緒に食べた。 自分が苦労して集めた貴重な食料なら誰かに分ける気になれないが、人攫いが持っていた食料だから私もけちけちしなかった。

 育ちの良さそうな子だから、こんな物は食べたくないと文句を言うかと思ったら、もぐもぐ食べる。 どうやら腹が空いていたようだ。 食べ終わって、サダは今気が付いたかのように言う。

「うー、でもお、誰か僕の家を知ってる人がきっといるよ」

「誰かとは誰だ?」

「おじさんとか、おばさん?」

「名前を知ってるのか?」

「えっとー、知らない」


 名前も知らずにどうやってそのおじさんかおばさんを探す気だ、と言ったりはしなかった。 子供が馬鹿なのは当たり前で育てば知恵が付く。 それを待つ以外に子供を賢くする秘訣などあるものか。

 育っても馬鹿な奴はいるが。 この子など、まさにそれという感じがした。 もっとも二度と会う事のない子がどんな馬鹿に育とうと私には何の関係もない。


 それにしてもこんなちっちゃな子の食べる量なんて知れていると思ったのは大きな間違いだった。  サダはもっとちょーだいとねだってどんどん食べる。 私の半分の背しかないくせに同じ量を食べた。 こいつの胃袋は底なしか? まさか大食らいのせいで親に捨てられたのでは、という可能性が思い浮かんだ。

「サダ、お前、どうしてあいつらと一緒だったんだ?」

「家に連れて行ってやる、て言われたの」

「どうして自分で帰ろうとしなかった?」

「疲れちゃってー。 歩けなくなったんだもん」

「何をしてそんなに疲れた?」

「犬を追いかけたの」

「飼い犬?」

「ううん。 初めて会った犬」

 予想した通り、遊んでいたら迷子になって攫われたようだ。

「攫われてから何も食べさせてもらえなかったのか?」

「食べたよ」

「いつ攫われたんだ?」

「えっとー、昨日の前の日」

「昨日は何回食べた?」

「三回」


 食べさせてもらっていたなら少しは遠慮というものがあってもよさそうなものだが。 食べられる内に食べておこうという態度は、まるで大家族の平民の家に育った子供だ。 貴族は貴族でも最近叙爵された家なのか? それとも領地が飢饉に襲われた? それにしては肌の艶がいい。 太ってはいないが痩せてもいない。


「あのね、助けてもらったらお礼をする様にって父上が言ったの。 レカは何か欲しいものない?」

 その礼儀を弁えた言葉を聞いて少し見直した。 私が今身に付けている物と言えば薄汚れたぼろだ。 大人の目にも誘拐犯より悪人に見えるだろう。 子供の目には単なる乞食にしか見えないと思う。 なのに助けられた事に対してきちんと返礼する気でいるとは中々出来る事ではない。

 考えてみれば私が木の上から飛び降りた時、さぞかし怖い思いをしただろうに、一言目にありがとうと言った。 親の躾がいいのだろう。

 だがわざわざ褒めたりはしなかった。 それどころか、子供のくせに何が出来る、と言って笑った。 するとサダはむきになって言い返してきた。

「子供にだって出来ることあるよ! あのね、あのね、僕、弟になってあげる!」

「弟?」

「だってレカ兄上に家族はいないんでしょ? 僕が家族になればレカ兄上はひとりぼっちじゃなくなるよ」

 なにが兄上だ。 お前の親がうんと言うものか、とは思ったが好きに言わせておいた。 私には複数の兄がいたが、弟は一人もいなかったからかもしれない。 少しの間ならこいつと兄弟ごっこをしてもいいか、と思ったのだ。


「レカ兄上ってすごく強いけど、剣士なの? それともこれからなるの? 剣を持っていないなら僕の家にいっぱいあるからあげるよ」

 私の様な貧相な体格で剣士になんてなれるはずはない。 それに子供があげると言った所で剣みたいな高価な物、親に取り返されてお仕舞いだろう。 内心呆れていたが所詮は子供の言う事だ。 一々真に受ける事もないと聞き流した。

 私は家族も剣も持っていないが、そんなものを欲しいと思った事はない。 自給自足で暮らしている私には何の役にも立たないものだ。

 長年の森暮らしで世間知らずだが、時々通り過ぎる旅人を観察する機会ならある。 剣士や傭兵は私より頭一つは上背があり、筋肉の盛り上がった立派な体格をしている。 誰かと戦った事は一度もないが、小柄で痩せている私がまともに戦って勝てるはずがない。

 今日倒したやつらもそこそこりっぱな体格していた。 それでサダは私の事を強いと思ったんだろう。 あれは敵が来るとは思っていなかった相手の油断に助けられたのだ。 そんな説明、長過ぎて面倒だから黙っていた。


「レカ兄上は何色が好き? 僕のお小遣いでかっこいい服を作ってあげる。 レカ兄上はきれいだから、きっと青が一番似合うよ。 緑もいい感じ」

「きれい?」

 服はともかく、きれいだなんて。 聞き間違いかと思って聞き返すと、こくこく頭を振りながらサダが真顔で言う。

「レカ兄上みたいにきれいな人、僕、初めて見た」

 こいつの目はどうなってるんだ?

「あのね、きれいだとお金が稼げるんだって。 レカ兄上、知ってた?」

 今は人攫いから奪ったシャツを着ているが、出会った時は腰巻き一つの裸同然だ。 いくら子供でも私が男であることは分かっただろうに。 全く訳の分からん事を言う。


 絶句する私におかまいなく、サダは、僕の家が見つかったら一緒に来てね、と言い始める。 あれもあげる、これもあげる、と何度も誘う。 だが私は、行くとは一度も言わなかった。 それで金、剣、家族、服のいずれにも無関心な事が伝わったのだろう。 ちょっと頭をかしげてサダが言った。

「僕の家にくれば、おいしいものがいっぱい食べられるよ」

 その一言は私の中に封印されていた子供の頃に食べた物の記憶を鮮やかに呼び起こした。

 新年の色とりどりの焼き菓子。 春興祭の卵ケーキ。 夏のシャーベット。 秋のお月見のテーブルに乗り切らない果物と御馳走。


 情けないことに、私を長年育ててくれた爺の顔はもうぼやけてしか思い出せない。 なのに食べ物なら好きだった食材の色形や匂いに至るまではっきりと思い出せる。 そんなもの考えたってつらいだけだから忘れるようにしていたのに。

 思わず黙れ、と怒鳴りつけてやりたくなったが、こんな子供に悪気がある訳じゃない。 我慢した。 兎じゃあるまいし、食い物に釣られてほいほい付いて行ったら私こそ馬鹿だろう。 けれど飢えはしなくとも森でお菓子が食べられる訳もない。


 まるっきりの馬鹿かと思えば、サダは目聡く私の迷いを感じ取ったらしく、ここぞとばかり追い討ちをかける。

「あのね、僕、ポムポムが大好きなの。 タキのポムポムはあったかくて、ふわふわで、いくらでも食べられるんだ。 でも僕は三つしか食べちゃいけないの。 大きくなったら四つ食べてもいいんだって。 

 レカ兄上は大きいから四つ食べられるね。 うらやましいなあ。 ねえ、すごくおいしいんだよ。 だから一度ポムポムを食べに来て。 ね?」

 ポムポムを食べた事はないが、その言葉の響きに抗えず、つい、行ってもいいかもな、と口にしていた。 さり気なく言ったつもりだが、サダは大きな歓声を上げて喜んだ。


 大食らいという欠点はあるが、かわいい所もある。 村の近くで放り出すつもりだったが、私に急ぐ用事がある訳でもない。 一緒にサダの家を探してあげる事にした。

 最低でも二、三日はかかるだろうと覚悟していたのに、サダの家はあっさり見つかった。 村に着いて最初に出会った村人に聞いたらサダの家を知っていたのだ。

 なんとこれでも伯爵家の三男だと。 領主の息子なのだから知っているのは当然と言えば当然だが。 サダを探しに来ていたヴィジャヤン伯爵家の兵士もいた。

 もう大丈夫だ。 私はそこで森に帰ろうとした。 するとサダが私にぶら下がる。

「僕の家に行ってもいいって言ったじゃない! 嘘ついちゃだめなのー!」


 涙目で縋られ、結局伯爵家まで付いて行く事になった。 どうせ向こうに着いたら追い返されるとは思ったが。

 大した期待はしていなかった。 面白い事に、子供の戯れ言と思って聞いていたサダの言葉に一つも嘘はなかった。

 ポムポムは卵を溶いた小麦粉を揚げ、砂糖とシナモンをまぶしたお菓子だ。 サダと一緒にふうふう言いながら食べた時は、これが幸せと言うものかもしれないな、と思うほど美味しかった。

 伯爵家の料理人の腕前は中々のものだったが、贅沢な食材を使っているから美味しいのではない。 どこにでもある食材だ。 しかも私の好みを聞いて用意された食事には押し付けがましさのない思いやりが込められていた。

 私の記憶にある食卓の豪華さはない。 けれど食べる順番から始まって様々な制約があり、食べる頃にはどれも冷たかった料理よりよほど心が温まる。


 サダは家に帰るとすぐ、何着も私の服を注文し始めた。 子供がそんな無駄遣いしたら親が黙っていないんじゃないかと思ったが、サダには母方の祖父から貰った遺産があるのだと言う。

 伯爵夫人自ら一緒に見立ててくれ、青や緑の服を始めとして次々と仕立ててもらった。 森で暮らすのにそんな服なんて必要ないと言ったのだが、これからも遊びに来てくれるでしょ、その時にこれを着て頂戴とサダに言われ、結局受け取った。

 伯爵からは武器庫を見せてもらい、感謝の印として見事な一振りの剣をもらった。 その他にも好きな剣があれば言うように、とおっしゃる。

 試しに剣の道場に行ってみたら、私は体格は悪いが、素早いおかげで結構勝てた。 伯爵家の剣士が弱いのではない。 相当な腕のようで、正式に剣士とならないかと勧められた。 しかし剣士になりたいとは思わなかったので断った。

 私の見てくれが良い事や男でも顔が良ければ愛人となって金が稼げるという事まで本当だった。 但し、それがどういう意味か、本人は知らずに言ったようだが。 一体誰が子供にそんな事を教えたのか。 それを考えると少し嫌な気分になった。


 変な事まで良く知っている。 とは言え、サダは見たままの世間知らずだった。 そして家族から深く愛されているが、所詮は三男。 なのに伯爵から、サダの兄ならお前はこれから私の子供だよ、とのお言葉を戴いたのには心底驚いた。 

 いくら愛息が約束した事ではあってもたった五つや六つの子供の口約束だ。 それを真に受けて見知らぬ男を家族に迎えるだなんて伯爵の言葉とも思えない。 なのに私を正式に養子とする為、必要書類を宰相府から取り寄せていた。


 しかし私には秘密がある。 いつばれないとも限らないから長居する気はなかった。 ただ帰ろうとする度に毎回サダの涙目で引き止められる。 それでつい、先延ばしにして、気が付けば一年が過ぎていた。

 このままずっと居座っていたら伯爵家に迷惑をかけるかもしれない。 私はようやく決心し、ある晩伯爵に告白した。

「ヴィジャヤン伯爵。 私の本名はレカシャーザ・ノーイエンと申します。 ノーイエン王朝が滅ぼされた事は御存知でしょうか?」

「ああ、知っているよ」

「私はその生き残りです」

「実はね、それも知っていた」

「え?」

「ノーイエン王朝直系男子の耳は尖っているからね。 それでも君を家族として迎える気持ちに変わりはない。 ただヴィジャヤン伯爵家の戸籍に入れるとなると皇王室からの許可を必要とするし、審査もある。 その点、私の領内に新しい戸籍を作るだけなら皇王室の審査は必要ない。 出自を秘密にしておきたいのだろう? ならばレカ・ヴィジャヤンとして戸籍を新しく作ってはどうか? 私が身元保証人になろう。 それなら皇国中どこに行こうと身元が保証され、サダと義兄弟の契りを交わす事も出来る」


 大変有り難い申し出ではあるが、素直に受け取って良いものかどうか迷った。 爺が夢見ていた王朝の再興などとっくに諦めている。 父母とは会った思い出さえない。 死んだと聞いても悲しいとは思わなかった。

 だがノーイエンの名には未練と言うか、捨てる事に対する拘りがあったのだ。 私が多くの人々に傅かれていたのはノーイエンの名があればこそ。 その名を守るために殺された人も少なからずいた。 爺のように。 ノーイエンの名を捨てるのは、その人達の献身を捨てるも同然のような気がして。


 戸籍に関しては保留にして戴き、間もなく私は「皇国の耳」で諜報員として働くようになった。 諜報員なら元々本名で仕事をする事はないから。

 誘拐事件から三年経ったある日、私はようやくレカ・ヴィジャヤンとして戸籍を作る事を決めた。 いつまでも賢くなる様子がないサダを見て、こいつには面倒を見てあげる兄が必要だと思ったからでもあるが。 それだけが理由なのではない。

「僕が家族になればレカ兄上はひとりぼっちじゃなくなるよ」

 思えば出会いの時のあの言葉。 それが全てを失い、空っぽとなり果てていた私の人生を変えたのだ。


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