日傘 ターコッタの話
六頭殺しの若の噂を初めて聞いたのは俺が十六歳の時だった。
俺は弓を射る事は勿論、触った事もない。 その時はただ、すごいなあと思っただけだ。 でもみんな寄ると触るとこの話ばかりしている。 オークについてああだこうだ、弓の名手の誰それと比べてどうだとかの話を聞いているうちに、剣でも切れない化け物を素矢で射殺す事がどれだけ並外れた事かを知って。 それから不世出の英雄への憧れが日に日に膨らんでいったような気がする。
俺は楽師を目指してパリメーを習い始めた訳じゃない。 ただ子供の頃から習っていた。 俺がやりたいと言ったから始めたようだが。 俺自身はそう言った事を覚えていないから、母さんが俺に習わせたかったのかも。
ともかく十六になって進路を決めなきゃいけなくなった時、俺のパリメーの先生だったフーランシ先生から太鼓判を押してもらった。
「君なら貴族のお抱え楽団か、それに落ちても近衛軍の楽隊に選ばれるのは間違いない」
これはフーランシ先生からの受け売りだけど、一口に楽団と言っても序列があり、爵位が高ければいい楽団とは限らない。 楽団の質はそれを維持する貴族次第で大きく変わると教えられた。
良い楽団でも代替わりした途端、音の質が悪い方向に変貌を遂げた例もあるらしい。 だから何度代替わりしても楽団の質に揺らぎのないパーガル侯爵家の楽団は楽師の憧れの的で、軍なら近衛が他の追随を許さない、と言われた。
貴族の楽団の場合、一流どころになると給金も軍の約五割増し払う。 そうフーランシ先生から聞いて、俺は近衛を滑り止めにし、人気のある順に少なくとも五家、出来れば八家の楽団に応募する事に決めた。 夫々の楽団の特徴やどんな曲が好まれるかを教えてもらい、それに合わせた練習も本格的に始めた。
だけど十七になり、第一希望であるパーガル侯爵家の楽団に応募する時期が近づくと、貴族の楽団に入ったらどこであろうと一生六頭殺しの若に会う機会はない、という点が気になった。
俺の家は貧乏だけど、父さんは俺に好きな道を選べと言ってくれた。 俺は別にお金が欲しくて楽師を目指していた訳じゃない。 楽しいから弾いていただけだ。 それなら給金が安くたって構わないじゃないか、と思うようになった。
但し、北軍の給金は軍の中でも一番安い。 そのうえ冬物衣料や防寒具も買わなきゃいけないから入隊してもしばらく父さんに仕送りするのは無理だろう。
いろいろ迷ったけど、どうしても六頭殺しの若に会いたくて、十八の時北軍に入隊する事に決めた。
俺の決心を聞いたフーランシ先生から、北軍の楽隊を聞いた事はないが大したレベルとは思えないとか、お父さんだってお寂しいのではないかね、と何度も考え直す様に説得された。
俺の家は皇都にある。 貴族の楽団なら領地やそれ以外でも演奏するために旅する事もあるけど、楽師はほとんどが皇都住まいだ。 でも北軍に入隊したら簡単に帰って来れない。 無口な父さんと、それに輪をかけた俺じゃ一緒に暮らしていても何かを話す訳じゃないが。 とは言っても家に誰もいないのと誰かがいるのではやっぱり違う。 父さんだって一人暮らしは嫌だろう。
それに今まで父さんが俺の為にどれだけの事をしてくれたかを思えば、少しは仕送り出来る職について親孝行するのが当たり前だ。 俺の家は傘屋で、父さん一人で営んでいる。 見た通りの貧乏所帯なのに、高いパリメーの月謝を今までずっと出し続けてくれたんだから。
一人息子であるおかげで大事にされたんだと思うけど、晩酌やタバコの楽しみを諦めてまで、なぜこんな高級趣味の稽古に通わせてくれたのか分からない。 パリメーは中古でさえそんなに安い楽器じゃないし、俺が十二歳の時に母さんが病気で死んでから家計はますます苦しくなったはずなんだ。
そもそも俺に傘屋を継がせるつもりなら楽器を弾くより傘張りを手伝えと言うべきだろ。 なのにそんな事は一度も言われなかった。 八つの時に稽古に通い始めて以来、毎日パリメーの練習ばかりしていた。 だから俺は傘張りのやり方なんて何も知らない。
父さんや母さんの趣味が音楽だった訳でもないんだ。 年を追う毎に上達したとは言っても、それにつれて難曲を弾くようになったし、練習曲はどれも単調だから、間違えずに弾いてさえ父さんにとってはただ五月蝿いだけだったと思う。
貴族の楽団に入れば貰う給金がすごく違うって事は父さんだって先生から聞いている。 父さんは自分がお金に困っても俺に仕送りしろなんて言うような人じゃない。 それでも給金の良い所を諦めるだなんて。 バカな真似をするな、考え直せ、くらいは言われる事を覚悟していた。 最悪の場合、北なんて絶対だめだと反対されたらどうしよう?
俺の為を思って言ってくれてる、と分かっているだけに押し切る自信なんてなかった。 内心びくびくしながら北軍に入隊するって言ったんだけど、予想に反して父さんは全然反対しなかった。 てっきり猛反対されると身構えていた俺に、元気で頑張れよと言って、申し訳ないぐらいの旅費と支度金を持たせてくれた。
北へ向かう道すがら、この金を貯めるために父さんは何十本、いや何百本の傘を張ったんだろうと考えると、この先何年もお返しなんて出来ない道を選んだ事が後ろめたかった。
だけど俺にとって生まれて初めての長旅。 しかももうすぐ六頭殺しの若に会えるんだ。 そう思うとわくわくして。 殊勝な気持ちなんか北に着く前にどこかに吹っ飛んでいた。
希望に胸を膨らませて入隊したものの北軍楽隊のレベルの低さは想像以上で。 それには随分がっかりさせられた。 おまけに肝心の六頭殺しの若はどこを探してもいない。 今日会えるかな、明日会えるかもという期待は日が経つにつれ萎んでいった。
そりゃそうだよな。 第一駐屯地所属だけで一万五千の兵がいる。 会えない方が当たり前だろ。 一緒の隊でもなければ同じ宿舎でも同じ昼飯時間でもないんだから。 平の兵士が大隊長に会う機会なんてある訳ない。 それに今頃気付いて、ずーんと落ち込む日が続いた。
散々後悔したけど入隊してしまった後だ。 今更どうしようもない。 自主的に除隊または退団する時は理由がちゃんとしたものでないと次がどこだろうと入団は許可されないと聞いた事がある。 勧誘されて移るならともかく、勝手に除隊したら俺は傘屋になるしかない。
自分の事ばかりしか考えていなかった報いだと思った。 誰のせいでもないし、友達もいないから愚痴りはしなかったが。 北軍では毎日行進曲とかの簡単な曲ばっかり弾かされ、気が滅入った。
難曲を弾いてみせたって上手いと褒められない。 それが面白くなくて楽隊で合奏する時も真面目にやらなかった。 どうせ俺程上手い奏者はいなかったし、本番では間違えずに演奏をしたから叱られなかったけど、自分でも楽隊の中で俺の音は浮いている、て事は気付いていた。 だからって直そうとは思わなかった。 下手な奴の方が上手くなるように努力するべきだろ。 上手い奴が下手な奴に合わせるなんて。 逆じゃないか、とかそんな生意気な事を考えていた。
入隊した年の冬、ようやく自分の時間がいくらか持てる様になり、有名な六頭殺しの若の冬稽古を見に行く時間ができた。 皇都出身の俺にとって骨まで凍る寒さで、外になんか行きたくはない。 でも他の季節だと朝から自分の練習があるから冬でないと朝稽古を見る機会はないんだ。
それに寒いのは西南出身のヴィジャヤン大隊長にとっても同じなはず。 御実家は皇都より暖かい、て話だ。 この寒さは俺よりもっと身に沁みていらっしゃるだろう。
でもすごく寒がりな御方だって噂にも拘らず、ヴィジャヤン大隊長は弓さえ凍る寒さの中で真剣にお稽古なさっていた。 皇国中にその名を轟かせた英雄となった後で、どうしてこんなに毎日精進する必要があるんだろう、と不思議に思うくらい。
一本、一本、どの矢も丁寧に射る。 雨の日も、風の日も、雪の日も。 吹雪の日でさえ。
名人とか伝説の射手と賞賛されていながら、ただの一日でも稽古を疎かにしない。 それを見ている内に簡単な曲だからと手を抜いて演奏していた自分の態度が恥ずかしくなった。 それで遅ればせながら練習の時にも心を込めて弾くようになったんだ。
他の人の音に耳を澄ませ、合わせる事に気を配るように弾いた。 そうしたらなんだか自分の音が楽隊の音に溶け込み、幅が出た感じがする。 すると今までどんな難曲を弾いても何も言われなかったのに、他の隊員や隊長からいい音だと褒められるようになった。
そんなある日、俺はタケオ大隊長からダンスの伴奏を頼まれた。 引き受けて練習場に行ったら、そこにはなんと、ヴィジャヤン大隊長がいらした。 約一ヶ月もの間ヴィジャヤン大隊長を間近に見る事になるだなんて。 思わず飛び上がりそうになった。 やっぱり北軍に入隊した甲斐があった、と内心小躍りした。 他のどこに入隊したってこんな幸運、あり得ない。
伴奏は楽隊の練習を終えた後からだから疲れていたけど、憧れの人の側にいられる嬉しさでそんなものちっとも気にならなかった。 出来る事ならずっとこうして伴奏していたかったが、悲しい事に幸せな時間ほど終わりはあっと言う間にやって来る。
最後の練習を終えた後、ヴィジャヤン大隊長は今まで長々付き合ってくれてありがとうとおっしゃって、どう見てもお金の入っている封筒を俺に渡そうとなさった。
とんでもない、戴けませんと言ったのに、いいからいいから、とヴィジャヤン大隊長はその分厚い封筒を俺のポケットの中に押し込む。
部屋に帰って開けたら俺が一年がかりでも貯められるかどうか分からない大金が入っていた。 まず頭に浮かんだのは、これで新しいパリメーが買える、だった。 いや、新しい防寒具の方が先だ、そう言えばあれも欲しい、これも買いたいと次々浮かんで来たが、あれこれ迷っているうちに父さんを思い出した。
俺は入隊以来一度も帰省していない。 それでこの機会に初めて家に帰り、お金はそっくりそのまま父さんにあげた。 父さんにとっても大金だから、すごくびっくりされて。
「ラム。 兵士の安給金で、一体どうやって十万ルークも貯めた? お前、まさか」
「父さんったら。 ばかな心配しないでよ。 これはね、六頭殺しの若様から戴いた心づけ」
「はあ?」
「なんでもダンスの練習をしなくちゃいけないとかで。 でも北軍で社交ダンスの曲を何曲も弾けるのは俺だけだったから。 一ヶ月間、ダンスの練習の伴奏をしたんだ」
「ダンスの練習の伴奏? それ、お前の仕事じゃないのか?」
「ううん。 個人練習、てやつ。 仕事が終わった後でやったんだ」
「だがもしお前が貴族の楽団に入っていたとしても、一ヶ月の給金、十万はもらえないよな?」
「まあ、無理だね。 大隊長には、戴けません、て散々遠慮したんだけどさ」
すると何を思ったのか、父さんは傘を作り始め、俺が北に帰る時、それをヴィジャヤン大隊長に持って行けと言う。
北じゃ滅多に雨は降らない。 降っても三十分も経たずに止むから傘を持ち歩く人なんていないって、父さんに言ったんだけど。 傘屋の俺に出来るお礼といえばこれくらいしかないから、と無理矢理持たされた。
持ち帰ったものの、こんな貧乏臭い傘、とても大隊長に相応しいとは思えない。 捨てられるか捨てられなくとも使われる事はないだろう。 それぐらいなら自分が使おうと思って北に帰ってからその傘を広げてみたら、ヴィジャヤン北方伯家の家紋の象徴である六本の矢が模様として使われている。 これじゃ御本人と御家族以外の誰かが差す訳にはいかない。 仕方なく自分用にするのは諦め、ヴィジャヤン大隊長の部隊の人に、父からですと言って手渡した。
何日かして、タマラ中隊長補佐から色紙を戴いた。
「ラム・ターコッタのお父さんへ
かっこいい傘が差せて嬉しいです。
サダ・ヴィジャヤン」
その年の夏、俺は何度もヴィジャヤン大隊長の御家族が御散歩なさる姿を遠目に見かけた。 なんで分かるかと言うと、父さんの傘を日傘としてお使いになっていらっしゃるのだ。
秋には俺の給金に職能給が付く様になり、その分を父さんに送金したら、仕送りはいらないから偶に帰って来いという手紙が来た。 それで翌年の春に帰省したら、父さんの仕事がちょー忙しくなっているのに驚いた。 ヴィジャヤン大隊長が持っているような家紋に因んだ柄入りの傘が欲しいという注文が皇国中から来たおかげなんだと。
それだけじゃない。 父さんはヴィジャヤン大隊長から戴いた色紙を額に入れて店に飾っていた。 するとそれが知られて次々と人が見に来る。 そのついでに傘を買ってくれる。 そんな訳で一人では注文に追いつかなくなり、父さんは職人を雇い始めた。
次の年、父さんは新しく工場を買った。 工場開きのお祝いをすると言うので帰った俺に、父さんがしみじみと言う。
「ここまで店が大きくなったのは北方伯のおかげだが。 元はと言えばお前が北軍に入隊したからだよなあ」
「そう言えば父さん、どうしてあの時反対しなかったの?」
父さんはちょっと照れたように言った。
「母さんが生きていたら、ラムの好きな所に行かせてあげて、と言ったんじゃないかって気がしてな」
母さんが死んでから父さんが母さんの事を話した事なんて一度も無い。 何も言わず、ぎゅっと拳を握りしめ悲しみを堪える父さんを見たら母さんの事なんて口に出来なかった。 俺にとっても病気であっと言う間に死んでしまった母さんの事を思い出すのは辛いだけだったし。
その晩、父さんと俺は母さんが亡くなって以来初めて、母さんの思い出を語り合った。 今ならただ懐かしく温かいばかりのあれやこれや。
母さんがどうやってパリメーの先生を見つけて来たか。 母さんが上手と褒めてくれたから、もっと上手くなりたくて練習が苦にならなかった事。 それに俺が練習している間、父さんは母さんが作ってくれた耳栓をしていたのだ。 道理で、と思わず笑っちゃった。
そして父さんがパリメーの練習を俺に続けさせてくれたのは、母さんが俺のパリメーを聞くのがそれはそれは好きだったから。
翌日、俺はお祝いの席で「瑞兆飛来」を演奏した。
ねえ、母さん。
母さんならきっとこの曲をすごく気に入って、何度も弾いてと言ったよね?
「寵児」の章、終わります。




