歌姫 セジャーナ皇太子殿下の話
美しく結い上げた髪に、豪華な瑞鳥ロックの刺繍を施したリボンが揺れている。
六頭殺しの愛を独り占めにする歌姫、リネ・ヴィジャヤン。 平民出身ながら瑞兆の母。 女剣士の勇名を馳せる猛虎の妹。
顔が普く知られる夫に比べ、彼女は依然として謎の人だ。 顔が知られていないだけではない。 結婚してから何年も経つというのに、未だに貴族の女性がする気晴らし、買い物やお茶、観劇の類を一切しないと聞いている。 何かに出席したとしたら親類の結婚式で挨拶をするだけ。 直接親しく話した事のある貴族が非常に少ないため、このような機会に是非お近づきになりたいと誰もが願う、今宵の裏の主賓だ。
小柄だが、あの肩の筋肉を見れば相当な鍛錬をしている事は一目瞭然。 ぴんと伸ばした背筋と隙のない身のこなし。 有名な夫や護衛の剣士が側に居なかったとしても近寄り難さに気軽に声をかける者はおるまい。
下々の者が催した歌の競技会に出場し、第一位を獲得した事さえあると聞く。 ならば人嫌いではないのだろうが。 夫と二分する人気を博していながら常に夫を立て、従い、決して表に出ようとしない。
ヴィジャヤン準大公に自覚はあるのだろうか? 彼の幸運はあの歌姫の煌めく瞳の中にこそある、と。
そのような事を考えるともなく考えながらプレリュードの流れる舞踏会場で貴賓、臣下から挨拶を受ける。 そこで準大公が挨拶をする貴族の列の最後尾に付いた事に気が付いた。
なぜ順番を守っているのか? 確かに現在の爵位からすればそこだが。 オスティガード皇王子とサリ・ヴィジャヤンの婚約はとうに成立している。 未来の皇王妃陛下の両親なのだ。 たとえこれが皇王陛下主催の舞踏会であったとしても準大公として振る舞う事が許されているのに。
単なる伯爵が準大公となったからと突然傍若無人な態度を見せれば反感を買いもするだろうが、皇寵がある上に瑞鳥と共に飛来した英雄なのだ。 公侯爵を押しのけて列の先頭に進んだとて文句を言う者などおるまいに。 第一、並んでいる公侯爵はほとんどが彼の姻戚か、彼の父の派閥に属する貴族。
今日の出席者の中に私以外の皇王族はいないし、テイソーザ(大公)は欠席している。 外国からの招待客を含めても全て大使か、王位を継ぐ予定のない王子ばかり。 準大公より身分が上の者はいない。
そもそも招待客にとって本日最大の関心事は六頭殺しとその愛妻。 皆、この二人に会いたくて出席しているようなもの。
皇太子という身分は人を平伏させるし、尊敬されもするが、準大公夫妻が受ける称賛は出自とは無縁だ。 彼らの生き様への憧れ、とでも言おうか。
ただよくよく注意して見れば、今夜の挨拶は誰も爵位順に従ってはいない。 爵位の低い者は高い者が後から到着した場合、挨拶の順番を譲る事になっているが、侯爵が挨拶し終わっているのにヴィジャヤン準大公の周りにはまだ挨拶をしていない公爵がいる。
後から来た位の低い者達に先に行くよう促している一団の先頭に立つのはヴィジャヤン準公爵。 続く長兄、ヴィジャヤン伯爵。 そして北の猛虎、オスタドカ東軍副将軍、ヘルセス公爵、ダンホフ公爵、マレーカ公爵、カイザー公爵、グゲン侯爵、ボルダック侯爵、マッギニス侯爵、パーガル侯爵、モンドー北軍将軍。 錚々たる顔ぶれだ。
彼らだけでも皇国の命運を左右するのが可能な一大派閥と言える。 お近づきにはなりたいものの遠慮があり、遠巻きにしている者も相当数いるのだから。 私が皇王であったら和やかに談笑する一団を見て、内心少なからぬ脅威を感じずにはいられなかったであろう。 政治に興味はない私にとってはどうでもよい事だが。
皆の挨拶を受け終え、舞踏会の開会を指図した。 私の喜びは音楽にある。 皇都の歌劇場にはよく出掛け、人気指揮者で作曲家でもあるマイ・クレムとは臣下と言うより音楽を語り合う友として親しい。 音楽に関する造詣の深さで彼の右に出る者はいない。 私が準大公夫人に対し少なからぬ興味を抱いているのは、御典医となったサジ・ヴィジャヤンの結婚式で彼女の祝婚歌を聞いたクレムが、その美声を称賛したからだ。
「声とは天より下された最高の楽器である、との思いを新たに致しました。 驚異の音域と声量。 あれでしたらバスビジェット劇場で聴衆を魅了する事は確実でありましょう。 叶う事なら私の新作歌劇に御出演戴きたいと、お願い申し上げに日参致しましたものを」
クレムは今、新作「逃げた歌姫」のヒロインとなる歌手を探している。 しかしいくら惚れ込んだ所で準大公夫人が歌劇の舞台に立つなど実現するはずがない。
楽譜を見せてもらったが、女主人公ジェレの歌う曲はどれも興味深いと同時に難曲揃いだ。 これが歌いこなせるなら準大公夫人の声は相当なレベルだろう。 舞台でなくともよいから一度は聞いてみたい。
だが皇太子と雖も臣下の妻を召し出すには夫の許可がいるし、自ら興が乗って歌うなら別だが、職業歌手ではない者に歌えと命ずるなどして良い事ではない。 皇王族だとて何を命じてもよい訳ではないのだから。 そんな事をしたらたとえ相手が男爵夫人であったとしても顰蹙を買い、陛下からのお叱りとなるだろう。
下級貴族の妻であれば我が愛妾として召し出せるし、愛妾に歌を所望するのなら何も問題はない。 夫が伯爵であっても妻が皇太子の側に侍る事は名誉と思うはず。 それによって夫が受ける様々の恩恵があるから。
けれど夫が準大公となると、私が与えられるものは全て持っている。 夫が居なくてさえ彼女が未来の国母の母である事に変わりはない。 つまり身分は私と同等なのだ。
人は手に入らないと知った途端、手に入れたがると言っていたのは誰だったか。 自分は嫉妬という感情とは無縁と思っていたのだが。 兄上が戴冠した時も、お気の毒と思いこそすれ、嫉妬など少しも感じなかった。 もっともそれは皇王というお立場がどれ程日常を拘束されるものか知っているからでもある。 皇王になれば日々楽器を手にする時間など欠片も許されまい。 今でさえ公務優先。 自分の趣味など後回しだ。
私に作曲の才能はないが、楽器を演奏するのは楽しい。 特に弦楽器が得意で、忙しい公務の合間を見ては爪弾いている。 私の伴奏にあわせて歌う準大公夫人の声が聞けたらどれほど幸せな事だろう。
準大公は彼女の歌声を毎日聞いているのだ。 一日くらい私にその恩恵を分けてくれてもよさそうなもの。 とは言え、皇太子という立場でそんないじましい願いを口に出す訳にはいかない。
羨望の念を抑えるのは難しいが、諦める事には慣れている。 それは準大公夫人が最初でもなければ最後でもない。 皇王族であれば諦めねばならない事に限りはないのだ。
私は皇太子より楽師になりたかった。 幸い陛下に第一皇王子がお生まれになった事でもあるし、出来る事ならもう臣下に下りたい。 さりながら宮廷とは変えられない順序としきたりの塊。 こうしたい、ああしたいなど言った所で詮なき事。 それは皇太子であろうと変わらない。 気に入った指揮者を宮廷楽団に雇う事さえ諦めざるを得なかったのだ。 他は推して知るべし。
宮廷楽団員に不満がある訳ではない。 彼らの技術には満足しているが、歴史のある楽団であるだけに作曲家以外は世襲だ。 これは指揮者を含める。
クレムを作曲家として入団させるのは出来ない事でもなかったが、入団させたら今度は宮廷楽団内特有の制約に阻まれ、彼が現在民間で上演している様な面白い演目を試みる事は到底許されなかったであろう。
実の所、今宵の宮廷舞踏会に音楽的な期待はしていなかったのだが、いつもと異なる事が次々と起こった。
まず舞踏曲が手拍子足拍子で始まった。 なんとメンザルバに歌が付いている。 今まで聞いた事がない新曲だ。
メンザルバの新曲? 一体誰が? まさか、ログウォントが作曲した? 規範に則った面白味のない無難な曲しか作った事のないログウォントが? ログウォント以外の作曲家を新しく雇ったとは聞いていないから彼が作曲したに違いないとは思うが。
そして私の妃のファレーハが真っ先に準大公と踊り出す。 顔には出さなかったが、内心ぎょっとした。 ファレーハはダンスが嫌いで、いつもは誰それと踊る様に、という指示が陛下か私からあった時にだけ仕方なく踊る。 今夜は私は勿論、陛下からも何の御指示も戴いていない。 だから彼女が踊る事はないと思っていた。
妃とは言え、私とファレーハは恋愛関係にある訳ではない。 私が見た事のない瞳の輝きを見せながらヴィジャヤン準大公と踊るファレーハに少々むっとしたが、自分は準大公夫人に憧れているのに妃には準大公に憧れるなと言うのは少々身勝手か、と思い直した。 母上の様な熱烈な六頭殺しファンになられてはお諌めのしようもないから困るが、ダンスくらいで目くじらを立てる事もない。
エルウェル伯爵やキュイパー準伯爵などの名立たる踊り手が次々とメンザルバを踊り始める。 彼らがメンザルバを踊った事などかつて見た事はなかったが、斬新な振り付けだ。 釣られるかの様に我も我もと皆がメンザルバを踊り始めた。
私は準大公夫人とバンガセンを手始めに、ジャナントをいくつか踊るつもりでいた。 でもこのメンザルバならば踊ってもよいかもしれない。 私は侍従を遣わし、準大公夫人に踊りを申し込ませた。
呼ばれてしずしずと歩み寄る美しき歌姫の手をそっと包み込む。 心浮き立つままメンザルバを踊り始めた。
彼女とは一月の婚約式の後に会っているから初対面ではないが、あの時は型通りの挨拶を交わしただけだ。 ここでいきなり手を握りしめては驚かせるだろう。 それでも私の掌に触れる鍛え上げられた剣ダコに、名立たる女剣士と踊る嬉しさがこみ上げる。
きりっとした顔に緊張を滲ませながら軽やかにステップを踏む準大公夫人。 ダンスを褒めると、ただ一言、恐れ入ります、と消え入りそうな言葉が返って来た。
恥ずかしがり屋なのか? 私の肩の辺りを見つめるだけで目を見ようとしない。 皇太子と踊るのは名誉なだけでなく、お強請りのチャンスでもある。 だから皇王族は舞踏会で気軽に踊ったりはしないのだ。 元々メンザルバは会話をするためのダンスと言ってもよい。 踊りが退屈なものである以上に何かを強請られるのが煩わしかったから、私は今までこれを踊った事はなかった。 しかし準大公夫人のお強請りなら別だ。 何であろうと叶えてあげよう。 そうすればお返しに歌って欲しいと言っても許されるだろう。
なのに踊り始めていくら待っても準大公夫人は何も強請ろうとしない。 今までの舞踏曲とは違って歌詞が付いているから会話がなくとも間が持たないという事はないが。 彼女からの言葉を待っている内に曲が終わってしまった。
待っていては埒があかない、と遅ればせながら気が付いた。 どうやら私の方から強請るしかないようだ。 明日、帰る前に歌ってくれとお願いすれば良い返事がもらえるだろうか?
いや、いくらなんでも明日は疲れているだろう。 帰るのを二、三日延ばしてもらうにはどう切り出せばよい? それとも直接本人に言うより夫である準大公に頼むべきか?
その方が警戒されずに済むだろう。 では準大公を呼び寄せるにはどうする? あちらから来てくれれば何も問題はないが。 私から呼び出すとなると理由が要る。 どんな理由であってもうまく逃げられそうな予感がした。
とにかくもう一曲踊るつもりで踊り終わっても彼女の手を離さずにいると、準大公夫人が困った様な顔をして言う。
「あ、あの、皇太子殿下。 その、大変申し訳ないのですが。 わ、私の、夫、が」
「準大公が? どうかしたか?」
「一曲しか踊ってはだめ、と申しておりまして」
あまりに意外な返事で意表を突かれた。 それはどう言う意味だ? なるべく多くの人と踊るために一人一曲とする、という事か?
だがその理由を聞く前に、目前にヴィジャヤン準大公がすっと現れた。
「セジャーナ皇太子殿下。 今宵はすばらしい舞踏会に御招待戴きまして誠にありがとうございます。 充分堪能致しました。 何分舞踏会に慣れぬ粗忽者故、これにて失礼する無礼をお許し下さい」
準大公は妻の手をぱっと私から奪い取り、深々と礼をして歩み去った。 待て、と引き止める間もない。 呆然として彼らの後ろ姿を見ていると、本当に会場から出て行った。
舞踏会は大体九時から始まり、翌日朝三時まで続く。 十二時前に帰る客などいない。 今二曲目が終わったばかりだから十時にもなっていないだろう。
それ程疲れていたのか? 退出する際の軽やかな足取りを見ればそうとは思えないが。
仕方がない。 明日の出発を遅らせる様、招待の言葉を侍従に伝えさせるしかないか。 と考えていたら間もなく筆頭侍従から報告があった。 なんと準大公一行は宿泊を取りやめ、帰宅の途に就いたと言う。 そう言われ、改めて会場を見回せば北軍将軍と北の猛虎の姿も見えない。
正に、「逃げた歌姫」。
彼女に次に会えるとしたらレイエースが秋に主催する舞踏会か? しかし準大公の場合それは断ろうと思えば断れる。 舞踏会嫌いという噂が事実なら確実に出席するのは新年の舞踏会のみ。 但し、私より先に彼女と踊る権利がある皇王陛下が彼女の手を離さなかったら私に順番は回って来ない。 そうなれば次の機会は私の舞踏会。 つまり丸一年待たねばならないという事になる。
魂を高揚させる出来ばえのメンザルバでさえ消せぬ落胆。
なぜだ? このような急な予定の変更など、絶対何か理由がある。
ふつふつと沸き上がる怒りを面には出さず、事情を知る者を執務室へ呼ぶ様、侍従に申し渡した。




