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弓と剣  作者: 淳A
寵児
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出仕  エナの母、ロナの話

「サリの側に居てもいいのはエナだけです!」

 ヴィジャヤン準大公の凛としたお声が、少し開けたドアの隙間から聞こえて来た。 そのお言葉に目頭が熱くなる。


 エナ。 我が娘。 まあ、なんと立派になって。

 二度と会えないと諦めていた娘が準大公より勿体なきお言葉を戴くほどに成長し、すぐそこにいる。 出来る事なら今すぐ駆けより、よくぞ短い期間でそれ程の御信頼を戴くまでになった、と強く抱きしめてあげたかった。

 けれど私は愛人の身。 エナが庶子である事は周知の事実でも、母が誇るべき身分ではない事に変わりはない。 準大公からのお呼び出しがあった訳でもないのに御前に進み出る真似などしては、あの子に恥をかかせる事になる。 私は部屋から顔を出して廊下を覗き見る事さえ遠慮した。


 これでも私はベイルビー子爵正嫡子。 若い頃は美人と評判で、そちこちから正妻に望まれた。 なのに若くて愚かな私はせっかくの出自を無駄にした。 私の目には美しい流行のドレスと宝石に身を包まれ、社交界で注目を浴びる上級貴族の愛人の方が、上級貴族の顔色を窺って汲々としている下級貴族の正妻よりよほど輝いて見えたのだ。 公爵か、それが無理ならせめて侯爵の愛人となる事を望み、伯爵家正妻のお申し込みでさえお断りした事がある。


 私の夢が叶ったのは十七歳の時。 当時三十七歳だったマレーカ公爵のお目に留まり、召し出された。 嬉しさのあまり浮かれ騒ぐ私を父母は心配そうな目で見たものの反対はしなかった。 上級貴族の愛人の実態など下級貴族に過ぎない父母が知るはずもなく。

 ただ一度だけ、マレーカ公爵愛人として美しいドレスと宝石に身を包まれ、舞踏会に行った事はある。 けれどすぐにエナを身ごもった私に二度目のお呼び出しはなかった。

 呑気な私は子供を産めば旦那様に感謝され、産後の肥立ちが良ければ、また舞踏会に連れて行ってもらえると考えていた。 でも旦那様が私の事を思い出された事はない。 私は邸内に何人もいる愛人の中の一人。 あれ程憧れた美しいドレスや宝石が苦い想いを呼び起こすだけの物と成り果てるのに大した時間はかからなかった。


 エナはとてもかわいらしく、私のせめてもの慰めだったけれど、彼女が五歳になった時、私の手元から引き離された。 庶子の育児用宿舎で教育されると言う。 少なくともエナの事は忘れ去られてはいなかったと安心したのも束の間。 私がエナに会えるのは月に一度だけ、と執事に告げられた。 遠くから姿を見るだけでも許してほしいと言う私の願いは聞き入れられなかった。

 面会に限らず、愛人の自由になる物など一つもない。 それはたとえ自分が産んだ娘であろうと同じ事。 他の全ての物と同様、娘は旦那様のものなのだ。 言ってしまえば私は籠の鳥。 侍女や下働きのように掃除や洗濯をしろとは言われないけれど、お給金やお休みがもらえる奉公人の方が余程自由がある。 私は旦那様のお許しがなければ外出も出来ない。 両親の葬式の時でさえ実家に泊まる事を許してもらえなかった。

 涙も怒りも今更何の役に立つというのだろう。 そもそも一番怒るべきは見かけに惑わされて愛人となる道を選んだ自分自身。


 自分のお金がないから下着一つを買うにも旦那様のお許しが要る。 お強請りしようにも旦那様にお目通りが叶う訳でもない。 私は本邸に住んでいるけれど、旦那様が本邸にいらっしゃる事自体、珍しいのだ。 欲しい物は全て執事に頼むしかない。 頼んで一ヶ月後に品物が渡される。 それでも来るだけまし。 いくら頼んでも来ないものは来ない。

 愛人であっても寵愛されているなら周りがちやほやしてくれる。 でもその花の期間のなんと短い事。 上級貴族が愛人を次々と代えるのは珍しい事ではないし、旦那様のようにお気に入りの愛人が一人もいない御方だっていらっしゃる。 上級貴族にとって愛人は自らの地位を誇る為の飾り。 いないと格好がつかないから囲っているに過ぎない。


 正夫人であればたとえ貧しくとも自分の家庭の采配は思い通りだったはずなのに。 下級貴族なんて貧乏臭い、と男爵夫人となった姉をさんざん馬鹿にした事を後悔した時には遅過ぎた。 実家は両親が亡くなる五年前に兄が爵位を継承している。 逃げ帰った所で、マレーカ公爵を怒らせるな、と追い返されて終わりだろう。 どこにも行く場所のない私には広い公爵邸の片隅で忘れ去られた人生を生きるしか道はなかった。

 そんな私の細やかな夢は、いつかエナが正妻として嫁いだら、嫁ぎ先に付いて行くお許しをもらう事。 公爵庶子なら伯爵夫人か子爵夫人、最低でも男爵夫人になれるはず。 昔自分があれ程嫌がっていたものを娘のために望むだなんて、と密かに苦笑したけれど。


 ところがエナが十八歳になった年、瑞兆であるサリ・ヴィジャヤン様の乳母に選ばれた。 皇王族の乳母となってしまえば一年後には国外追放となる。 半狂乱になって旦那様に会わせて欲しいとシュノバ執事に懇願しても、旦那様はお忙しいの一点張り。

 ようやくエナに会わせてもらったので、一生懸命娘に諭した。

「エナ。 今すぐ旦那様にお願いなさい。 乳母になる事だけはお許し下さい、と。 娘からのお願いならきっと旦那様も耳を傾けて下さるわ。 一度や二度、だめと言われたくらいで諦めないのよ。 何度でもお願いしなさい」

 励ますつもりでそう言った私に、エナは微笑んで答える。

「お母様ったら。 まあ、何をおっしゃるかと思えば。 これは皇国の英雄の子種を宿す絶好の機会なんですのよ? 六頭殺しに抱かれるのは嫌なんて言おうものなら、お父様でなくとも私の事を気が狂っていると思うのではないかしら」

 あっけにとられる私にエナが追い討ちをかける。

「お母様は御存知なの? もしこのお役目がなければ、私の夫はシュノバ執事になる所でしたのよ」

「シュノバ執事? あの方は、確か五十に手が届くはずではないの。 誰がそんなでたらめを」

「お父様が私に直接おっしゃった事ですわ。 それは六頭殺しのお兄様との縁談を逃した悔しさの余りの八つ当たりで本気ではなかったのかもしれませんが。 そうだとしても私の夫が五十歳だろうと百歳だろうと、お父様がお気になさったとは思えませんわ。

 それともお母様なら他にどなたか理想の旦那様を私の為に見つけて来て下さるとでもおっしゃるの? 仮に見つけて下さったとしても、その方との結婚をお父様がお許しになるかしら」


 情けなくて悲しくて。 でも私に何が出来ただろう?

 喜々として北に行く準備をするエナに昔の私を重ね合わせた。 愛人など空しいだけ。 しかもこのお役目は一年限り。 だからと言って、三十も年が離れた夫に嫁ぐ方が幸せなどと言えはしない。 涙を堪え、エナの荷造りを手伝ってあげるしかなかった。


 エナが北へ旅立ってから私の元へは手紙もなければ噂も届かず、どのように暮らしているのか心配で仕方がなかった。 すると旦那様が私にフレイシュハッカ離宮の一室を御用意下さった。 どうやら旦那様もエナの現在について何も御存知ないようで。 準大公の子を身ごもったか、子はまだでも手が付いたか否か、確認するようにと申し付けられた。

 これを逃したら次の機会があるとは思えない。 私にして見ればもう一度エナに会えるだけで嬉しい。 息を潜めて御一行の御到着を待った。


 間もなく御到着の気配がして、ファレーハ皇太子妃殿下筆頭女官の口上をもれ聞いた。 なぜ準大公を北方伯とお呼びしているのだろう? 訝しく思ったけれど、それよりも準大公の思いがけないお言葉の方に驚いた。 あのように強く、エナでなければ、とおっしゃるとは。

 エナは侍女に傅かれて育てられた。 女官や貴族の夫人として夫を助けるための教育ならされている。 けれど子育ては勿論、家事の手伝いらしい手伝いなど何もした事はない。 北はおろか、マレーカ公爵本邸から一歩も外へ出た事がないエナが、乳母としてお役に立っているとは思えないのに。 一体何をしたのかしら?


 準大公邸で何があったのか詳しい事情を聞きたくて、準大公御夫妻が舞踏会へお出掛けになるとすぐ、ドアを警護している剣士に名乗った。

「私はロナ・ベイルビーと申します。 マレーカ公爵愛人で、エナ・マレーカの実母です。 どうか一目エナに会わせて下さいませんか?」

「申し訳ございませんが、入室なさりたいのならヴィジャヤン大隊長より許可を戴いて下さい」

 丁寧ながら有無を言わせぬ拒絶の言葉を聞いて、私は途方に暮れた。

 舞踏会会場に入るのは招待客でなければ許されない。 公侯爵夫人なら侍女同伴を許されているから侍女も入場出来るけれど、この時間ならマレーカ公爵夫人はとうに入場なさったでしょうし、私はマレーカ公爵夫人から無視されている存在だ。 それに侍女の服を着ていない私が侍女と嘘をついた所で誤魔化せるものではない。 仮に舞踏会会場へ入れたとしても、事前に御紹介戴いた訳でもないのに準大公にいきなり私から言葉をおかけするなど出来はしない。 そんな非礼を犯せば、身の程を弁えぬ、と旦那様からどれ程のお叱りを受ける事になるか。


 けれどこれがエナとの今生の別れになるかと思うとどうしても諦めきれず、その場から立ち去れずにいた。 するとお年を召した方の剣士が諭すようにおっしゃる。

「御安心召されよ。 エナ殿は立派に乳母のお役目を果されておりますぞ」

「でもあの子は乳母としてすべき事など何一つ習わなかったのに」

 老剣士は微かに微笑まれた。

「子育てした事がある訳でもない私が申すのは烏滸がましいが。 乳母として一番肝要なのは頑是無き赤子を守り慈しむ心ではないかと思うが、如何? 手順は瑣末にて、習い覚えられるもの。 しかし日々を律する心構えの方は言うは易く行うは難し。 心構えの無い者に、心構えを持てと言っても無駄な事。

 その点、エナ殿には我らが瑞兆をお守りするに相応しき心構えあり。 これは私のみならず、衆目の一致する所。 母上の薫陶の賜物と推察致します。

 只今、エナ殿はサリ様をお守りしている最中。 心構えに一分の隙もなきエナ殿なればこそ、母上の訪問を知らせたとしても会おうとはなさるまい」


 胸に沁みるその言葉の温かさ。

 エナ。 あなたは本当にがんばっているのね。 そうでなければ準大公からあのように信頼され、護衛の方からこれ程までに言ってもらえるはずがない。 見も知らぬ北の地で、乳母という一つも報われる事のないお役目を戴いて。 言葉では言い尽くせぬ苦労をしたに違いないのに。

 私は深く一礼して、お二方に感謝の言葉を述べ、自室へと戻った。


 娘の努力が認められたのは嬉しい。 同時に、私は初めて自分の人生を振り返らずにはいられなかった。 母親らしい事など何もしていないのだもの。 エナが褒められたのが誰かの薫陶の賜物だとしたら、それは家庭教師のおかげであって、母上の薫陶の賜物と言われても恥ずかしいだけ。

 努力の末お褒めの言葉を戴いたエナに比べ、私はどうだろう。 旦那様の御寵愛を戴けない我が身の不運を嘆くばかりで漫然と二十年を過ごした。 公爵邸で働く誰に聞いても私の心構えはおろか、私の名を覚えている者さえ碌にいない有り様ではないの。


 その晩、二時間もしない内に準大公様は舞踏会からお戻りになった。 何か慌ただしい動きを感じ、少しだけドアを開け外の様子を窺うと、先ほどサリ様のお部屋の前にいた剣士のお一人が急いで駆け寄り、声を潜めておっしゃった。

「間もなく出発致します。 離宮の西側にある北軍用の厩を御存知か?」

 私は頷き、急いで身支度を整えて厩の近くに立って御一行をお待ち申し上げた。 そしてわずかな時間だけれどエナを見送る事ができた。 エナは私に気付いて微かに頷いてくれたものの、立ち止まったり私に声をかけたりする事はなかった。

 あっと言う間の出来事で、わざわざ知らせて下さったあの剣士の御好意にお礼を申し上げていない、と気付いたのは皆様がとっくに御出発なさった後。 全く私ときたら。 なんと気が利かない、とため息が漏れる。


 翌日、旦那様がいらして私にエナの事をお訊ねになった。 それを聞くはずだった事をすっかり忘れており、どう返事をするか考えてはいなかったけれど、準大公様とエナの間にはきちんとした主従の間合いが取られており、男女の仲となった故の親しみは感じられなかった。 何と言っても準大公様はしっかり夫人のお手を片時も離さず握っておられ、傍目から見ても御夫妻は大変御仲睦まじくていらした。

「準大公のお手は付いていないようです」


 旦那様は私の言葉に内心がっかりされただろうか? お顔を見ただけでお気持ちを伺い知る事は出来なかったけれど、これは旦那様に直接お会いする滅多にない機会。

「旦那様。 お許し戴けるなら女官として出仕したいのですが。 お考え下さらないでしょうか?」

 すると旦那様は少しお考えになっただけで、その場で許そうとおっしゃって下さった。 なぜ、とはお聞きにならなかったので理由は申し上げていない。 エナの母として恥ずかしくない女性になりたいだなんて、聞かれたとしても口には出せなかったと思うけれど。


 一ヶ月後、シュノバ執事より知らせがあった。

「来年、北に先代皇王妃陛下の離宮が完成します。 そこで出仕する女官の席に空きがあり、それで良いならマレーカ公爵家より推薦状を出せますが、如何」

 私はその申し出を謹んでお受けした。

 自分で自分の道を決めたのは私の生涯でこれが二度目。 一度も働いたことのない私が女官として務まるのか、不安はある。 今度の決断も最初の時と同じ様な後悔とならない保証はないけれど、出来る限りがんばりたい。 何より自分にそんな気持ちの張りが戻って来た事が嬉しい。


 エナ。 愛しい娘。

 再び会う事はないのでしょうね。 でももし運命が許すなら、いつか感謝と共に伝えたい。

 どんなにつらかろうとがんばる気になれたのは、あなたのおかげである事を。


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