約束 若の父とバーグルンド南軍将軍の会話
「よお、サキ、久しぶりだな」
兵士だったら思わず平伏したくなるような威厳ある声で私を呼ぶのはハシェ・バーグルンド。 サダが北軍に入隊した年に南軍将軍へと昇進した私の幼馴染みだ。
精悍な顔つきは間近で見ると結構な迫力で、役者だったらさぞかし舞台映えしたに違いない。 通った鼻筋、猛禽のような鋭い目、きりっとした口元。 透かしを入れた袖から見える鍛えられた筋肉。
しかもこの男、女ならくらっとくるようないい匂いがする。 今は酒の匂いが少々混じり、女が喜ぶ「危険な男」の香りとでも言おうか。 全くそんな傍迷惑なものをそこら中に撒き散らすな、と言いたい。 ハシェが現れただけでどんな男でも霞んでしまう。 女性の心を掴もうとしている男にとって、これ程迷惑な奴はいない。 女の心の中で密かに比べられた末、振られる事になる。
もっとも十代の頃二人でやんちゃをした時には一度ならず危うい所を女に助けられた。 ハシェにお願いされると女はついうんと言ってしまう。 味方にしておけばこれ程頼りがいのある奴はいない。 そんな一面もあるのだが。
そもそも単なる女たらしに将軍位は務まらない。 南軍は海軍で知られ、兵士は海で鍛えられた荒くれ者揃いだ。 指令だけ出しておけば後は兵がなんとかしてくれる、というものではない。 海ほどやさしく、同時に残酷なものはなく、海を知らぬ者を歓迎しないのは海だけではないのだから。
潮風が焼いたハシェの肌は彼が海に生き、海に死ぬ男であると皆に告げている。 何度も猛る海から奇跡の生還を果たしたおかげで船を操る腕前はほとんど伝説化していると言ってよい。 着る物によっては海賊の首領にしか見えない男だが下品ではない。
将軍ではなかったとしてもこの色気。 妻になりたい女は山ほどいるだろう。 しかし未だに独身だ。
ずっと昔、結婚した事はあるが、気の毒な事に結婚して二年目、妻が難産で亡くなった。 子供も助からなかった。 その後再婚せず、気楽な独り身を通している。
見合い結婚だったし、結婚後もハシェの振る舞いは独身時代と大して変わらなかった。 妻を深く愛しているようには見えなかったのだが、なぜか葬式が終わった後、このまま帰ってはならないような、後ろ髪を引かれる気持ちがして。 二人きりで朝まで酒を飲んだその夜。 長い付き合いの中で私は初めてハシェが静かに静かに涙を流し続けるのを見た。
私の妻のシノはそれを聞いても同情する様子を見せなかったが。 泣くくらい愛していたならどうして生きている時もっとカーラを大事にしてあげなかったの、と手厳しい事を言っていた。
女性にしては珍しく、シノにはハシェの魅力が通じない。 だがハシェの妻、カーラとは不思議にうまが合い、仲が良かった。 闊達なシノと物静かでおっとりしている性格のカーラに共通点があるようには見えなかったのに。
結婚後も平気で遊び回るハシェにカーラが文句を言った事は一度もないと聞いている。 またカーラがシノに愚痴を零し、意見してくれと頼んだ訳でもないが、カーラの気持ちを思いやったシノはハシェの顔を見る度、説教していた。 ハシェの行状に変化は見られなかったが。
夫婦の間柄など傍目で見て分かるものではない。 しかしハシェに一番近いと言える私でさえ彼がカーラをこれ程深く愛していたとは知らなかった。 ハシェが肝心のカーラに何も言っていなかったとしても驚かない。
今にして思えばハシェはカーラを深く愛する事を恐れていたのかもしれない。 既に深く愛していると気付かず、自分の気持ちを素直に伝えようとしなかったのだろう。
それだけに痛ましいと感じる。 ある意味、この男が結婚しないのは正解なのだ。 それで適当な候補がいても再婚を勧められないでいる。
「すごいじゃないか」
そう言うハシェの視線の先を見ればサダがいる。
「何がだ」
「どれが一番すごいのか選び難い。 とにかくすごいとしか言えん。 私が今まで経験した一番大きな嵐でさえこれ程世の中を変える力はなかった。 世間の奴らが感心するのは弓だけかもしれんがな」
見かけや世評に踊らされないハシェらしい言葉だ。 世間はサダと言えば弓の名手としか思わない。 或いは瑞鳥ロックと飛来して大出世した人。 そして今日からはそれに皇寵を戴きし者が加わる。
ハシェはそんなものを見ない。 サダが突出しているのは地位や名誉、弓の腕前でさえない。 辺りの全てを飲み込み巻き込んで既存の世界を変えていく巨大な力。 サダは力そのもの。
と、以前からハシェが気付いていたのかどうかは知らない。 サダは小さい頃からハシェのお気に入りで何かとかわいがられていた。 三人も息子がいるのだからサダを私に養子としてくれないか、と申し込まれた事もある。 シノが絶対嫌と言ったので実現しなかったが。
もしそれが実現していたらサダの人生は今と全く違ったものになっていた。 弓を使う事はなく、六頭殺しも瑞鳥飛来もなかったであろう。 サリが生まれる事も。 それを思うと私としては少々複雑だ。
皇国の命運を動かす者としての運命に逆らうべく、私がした事は結局全て無駄に終わった。
無名でも妻と子に囲まれた幸せな人生を送れるように。 そう願った私はサダが軍人として名を上げたりしないよう、剣の稽古をさせなかった。 官吏として出世する事もないよう、家庭教師を付けず、貴族に必要な勉強を一切させず。 高位の貴族の令嬢に気に入られて婿となったりしないよう、ダンスや女性への礼儀を何も教えず。 だから剣にすぐれてはいないし、勉強なんてまるでだめ。 官吏として出世していないし、ダンスや女性への礼儀を何も知らないから貴族令嬢との結婚も実現していない。
そして平民と結婚し、妻子に囲まれた幸せな人生を送っている。 皮肉な事に無名以外、私の願いは全て実現しているのだが。
普通なら必須であるはずの何をも持たぬまま皇国の英雄として名を上げ、大功により前代未聞の大出世をし、歌姫、女剣士として有名な妻を得た。 しかも平民と結婚したおかげで、爵位に惑わされず女を見る目がある男、とサダの人気を更に高めるというおまけまで付いている。
有名でも妻と子に囲まれた幸せな人生を歩んでいるのだ。 良しとせねばならないのか? そうは言ってもサダが困難な目にあうのはこれからだ。 今回の誘拐未遂など序の口に過ぎない。 宮廷や皇国上層部、外国さえ巻き込む大騒動の渦中にあって、それでも幸せな人生と言えるか?
もしハシェの養子となっていたら毎日海で遊び、弓の名手などにはならなかったはず。 猛虎の試合を見たとしても父がいずれ将軍となる南軍へ入隊しただろう。
歴史に「もし」を言ったところでどうしようもない事だが。 運命はそれでも尚かつサダを皇国の英雄に祭り上げる事が出来たのだろうか?
世の中を変えずとも良いではないか、と思う事自体が身勝手な事とは知っている。 自分はいい。 家族も幸せだが、皇国が斜陽へと向かいつつあった事は疑いもない。
皇都でも浮浪者が溢れ、強盗の類いが珍しくない様になっていた。 どんなに法で脅そうとまともな仕事にありつけない民に盗むなと言った所で効果はない。 彼らも生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。
領地によっては食料不足が深刻化し、困窮する民の数は増える一方。 限られた資源がより多くの人数で争われれば弱者は生きるのを諦めるしかない。
それを解決する一番手っ取り早い方法が、戦争によって領地や資源を他国から奪う事だ。 武力の優位が失われぬ内に、と皇国上層部がどこかと開戦するのは最早時間の問題である所まで来ていた。
そこに現れた、この瑞兆景気。 今まで打ち捨てられていたと言っていい北の大地に次々と人が流れ込んで行く。
国内だけではない。 国外からも大きな関心が寄せられている。 ウェイザダ山脈観光旅行が売り出され、それがまた大変な人気なのだとか。 仕事にしろ遊びにしろ、人が来れば金が落ちる。
人や物を運ぶ為の道路を整備する為、大規模な土木工事が始まった。 それは物流を更に活性化させ、土方や飯炊き女に至る様々な仕事に人が雇われる原因となり、皇都では既に浮浪者の影を見る事は珍しい。
その始まりとなったサダ。
皇寵は、もしサリに何かがあったとしてもサダの宮廷内での地位が変わらぬ様に、との陛下の思いやりであろう。 サダの力を御承知の上でこの度の御下賜となったのなら改めて陛下の御洞察に驚嘆せざるを得ない。
但し、私はサダに皇寵の意味を知らせるつもりはない。 サダはサダ。 あのままでいて欲しい。 これもまた親の身勝手な願いで、結局は叶えられない望みなのかもしれないが。
「嬉しくなさそうだな」
ハシェがそう呟いた。
長い付き合いだ。 ハシェは私の無言の意味を読み取る。
義父から伝えられた予言に関しては誰にも、妻のシノにさえ伝えていない。 けれど三人いる息子の一人にだけ極端に教育方針が違えば鋭いハシェの事。 何か事情がある、と先刻お見通しだろう。
だからと言って私が言いたくない事を聞いたりはしない。 それは今回のサリ誘拐未遂事件を含む。 将軍であるハシェがこの事件の概要を知らないはずはないし、容疑者もかなり絞り込んでいるのではないかと思われる。 だがその名を口にするのは憚られる御方だ。
最後にハシェと酒杯を片手に夜を明かしてから大分経つ。 そろそろ南の海の朝焼けを眺めに行くべきか。
ハシェに気付いたサダが駆け寄って来た。
「ハシェおじさん! いえ、バーグルンド将軍! お元気そうで何よりです!」
「サダ君。 いや、父となり、いずれ準大公となる御方に君付けはなかった。 許せ。 ヴィジャヤン大隊長、会えて嬉しいぞ」
「えー、今まで通りでいいですよ」
「そういう訳にはいかん。 爵位はともかく、軍での階級のけじめは付けねばならん」
「大層な階級名で呼ばれたって、おばかな俺にはどうすればいいのかも分からないし」
相変わらずサダらしい言葉にハシェが豪快に笑う。
「はっはっはっ。 これだけの大功を上げておいて何を言う。 ばかのままでやれるならわざわざ賢くなる必要などない。 そのままで充分だ。 どんどんその調子でやれ」
「えへへ。 バーグルンド将軍にそうおっしゃって戴けると元気が出ちゃいます。 お言葉、どうもありがとうございます。
南はいいですよね、暖かくて。 いつかサリに海を見せたいです」
我が意を得たりとばかりにハシェが大きく頷いた。
「それは中々いい考えだぞ。 特に皇王族になった後では船にお乗せしようにも制約が沢山あってな。 安全対策がああだ、天候がこうだ、やれ船が大きい、いや小さい。 とまあ、何かと五月蝿い。 お付きの者全員にうんと言わせる事など不可能となる。 御成婚の前に是非サリ様の船遊びを実現させたいものだ」
「そうなんですか?」
「ああ。 だがサリ様がもう少し大きくなってからの方がいいだろう。 御幼少の頃船に乗ったとて海の大きさを覚えていられまい。 浜辺で遊ぶくらいなら来年でもいいだろうがな。 サリ様が四、五歳になられたら私が船を操って美しい島まで御案内申し上げよう」
サダと固く約束を交わし、ハシェは南へと帰った。




