困惑 ケイフェンフェイム大審院最高審問官の話
「端的に言えば、サリ様を背中に乗せた犬が真昼の大通りを突っ走った、となる訳か?」
口に出すのも馬鹿馬鹿しいが、そうとしか描写しようがない。 マイハム監察部部長の報告は常ならどんなに緊急で予想外なものであろうと簡潔だ。 ところがその日の報告は延々と続き、要領を得ない。 途中で遮るしかなかった。
私の質問にマイハムが大変歯切れ悪く答える。
「は、はあ。 そ、そう言う事になるかと存じます」
重厚な大審院最高審問官室にある歴史を感じさせる大机を前に、直立不動のマイハムの顔には隠せぬ戸惑いの表情が浮かんでいる。 過去、彼が優柔不断な表情を見せた事など一度もないのだが。
目下の者に気取られる真似はせぬが、同じ戸惑いは私にもあった。 何故この様な監察部が描写不能の珍事が起こり得たのか?
大審院は簡単に言ってしまえば持ち込まれた訴訟を裁く所だが、一般によく知られていない役割に皇王族や上級貴族に対する諜報活動がある。 それを行うのが監察部だ。
元々は皇王族や爵位がある者が悪事を働いた場合、宰相府の下にある保安庁の警吏では身分が低過ぎて調査出来ない、という理由で設立された。
警吏は捜査の為であろうと貴族の家には当主の許可がなくては入れないし、後宮には許可があろうとなかろうと後宮で働く者、後宮を住居とする者以外誰も入れない。 だが監察部諜報員なら私が出す令状一つで後宮を含め、どこにでも入れる。
幸い先代陛下の代になってから皇位継承を巡る宮廷内での皇王族同士の殺し合いはない。 だからと言って今後もないと断言出来るものではないし、上級貴族による反乱も最近はないとは言え、未来永劫あるはずはないと言いきれるものではない。
後宮及び貴族を監視する監察部の分署は現在国内に合計百を越える程ある。 だが伯爵以上の貴族が一人もいない北には今まで分署は存在していなかった。
デュガン侯爵が北に転封となり、いずれは作らねばと思っていた所に、サリ様が準皇王族となられ、北方伯領もある。 それでこの春、取りあえず第一陣三十名を派遣し、分署を設立した。
北方伯に不穏な動きがあると疑う訳ではないが、北方伯のような有名人を利用してあれこれしようと画策する者がいるかもしれない。 それでなくともオスティガード殿下の御婚約は様々な特異性を持っている。
まず、未来の皇太子殿下の婚約が御本人の成人前に成立した事は近年なかった。 又、婚約者が国内貴族の令嬢である事も大変珍しい。 しかも幼くていらっしゃるにも拘らず、後宮ではなく御実家でお育てする事を陛下がお許しになった。
これらを鑑み、分署は新しいが、署員は皇王室関連の法律に詳しく、諜報にかけては部内でも指折りのベテランを派遣してある。 その者達からの報告だ。 嘘や虚偽とは思わないが。 何とも奇天烈な事件としか言いようがない。
御婚約成立と同時にサリ・ヴィジャヤン様は準皇王族となられた。 つまり皇王族をお守りするための様々な法律が全て適用される。 この法の一つに危険防止条項がある。 これはお付き、守役、乳母、警護等がお怪我の元となりそうな遊びをさせる事を禁じており、遊び終わった後で御本人が無傷であったとしても禁を犯した者は罰せられるのだ。 その為未成年の皇王族はどなたも馬に乗れないし、泳げない。 成人なさってから御自分の意志でそれらを習得される方はいらっしゃるが。
サリ様は八ヶ月でいらっしゃる。 私は幼児の身体能力に関して詳しくはないが、一歳にならぬ赤子ならお言葉もまだのはず。 と言う事はサリ様から犬に乗りたいと強請られた訳でもなければ、ましてや御自ら犬の背中に乗ってお出掛けになったのでもない。 誰かが無理矢理サリ様にこの暴挙を働いた、という事になる。
これが聞いたままの事実だとしたら起こってはならぬ事態を防げなかったとして、乳母と警護の者達の罪を問わねばならぬ。 死罪となるかどうかは情状酌量の余地もあるが。 もし両親が危険とは思わずやった事であったとしても相当な刑となる事は確実だ。
しかし北軍からの正式報告にはサリ様が愛犬と御一緒にお散歩がてら第一駐屯地を御訪問なさったと書いてあるだけで、どこにも犬の背に乗り、馬に追い駆けられたという記述はない。 御母上、警護、乳母、侍女を同道した、至極安全な日常茶飯事であるかのように報告されている。
この差は一体どこから来ているのか? 早急に審問官を派遣し、事の真相を解明せねばならない。 では誰を派遣する?
ヘルセスはまずい。 北方伯が娘にそんな無体を働いたとは考えられないが、もし北方伯に何らかの原因があるとしたら彼を庇って終わりだ。
となると、同じ理由でダンホフも除外される。
カペシウスは乳母と血縁ではないが、マレーカ公爵家から罪人を出す様な真似を許すはずがない。
パーガルは血縁、姻戚関係こそないが、ヴィジャヤン準公爵が皇太子殿下相談役の時から何かと接近している。 明らかにヴィジャヤン派閥に属しているのだ。 この件に関しては中立ではないと見るべきだろう。
すると、残るは二人。
アベンドロスの妻はベイダー侯爵令嬢。 ベイダー家は証人喚問の際に証人を滞在させたが、一応今の所それだけの縁で終わっている。 あわよくば婿に、と狙ってはいたのだろうが。 結局実現しなかったのだから中立と見てよいか?
ネルブワナの洞察力は審問官の中で最も優れている。 ただ自らの意見や立場を決して読ませぬ。 そこの所がはっきりしているアベンドロスはある意味扱い易い。 ネルブワナの場合どちらに転ぶか、事前に予測する事が難しいのだ。
アベンドロスとネルブワナのどちらを派遣するかでしばし迷ったが、アベンドロスを呼び、二つの報告書を手渡して北に審問に行くよう命じた。 さっと報告書に目を通し、アベンドロスが答える。
「たかが犬の散歩に審問官を派遣するとは、少々大袈裟に過ぎませぬか?」
「犬の散歩? 監察部からの報告によると馬が後を追いかけて走ったのだぞ。 北軍からの報告書には散歩となっているが。 犬の背に乗り、馬が追いかけねばならない速さで散歩したら転げ落ちて大怪我をするであろう。 そんな乱暴な散歩があるものか」
「速さはともかく、どちらの報告書にもリネ様始め護衛の者、乳母も一緒にいたとあります」
「それは確かにいたのだろうが」
「仮に私が北に審問に行き、何か問題になるような事実を見つけた所で、罪を問わねばならぬのが北方伯夫妻、或いはマレーカ公爵令嬢では、審議投票での多数決を覆す事は出来ないのではございませんか?」
それは一理ある。 サリ様にお怪我がなかったのだ。 多数決で審判が下る。 四人が無罪を主張すれば、私を含む残りがどれだけ反対しようとそれを覆す事は出来ない。
私は結局命令を撤回し、アベンドロスを下がらせた。 けれどアベンドロスがヴィジャヤン寄りの発言をしたのが気にかかり、ネルブワナを呼んで同じ命令を出してみた。
報告書に目を通したネルブワナはしばし熟考した上でゆっくり言葉を紡ぎ出す。
「犬の散歩の裏には何かあるのでございましょうなあ。 それを白日の下に晒したい御方と晒したくない御方がいらっしゃる、と。 さあて、これはどうしたものか」
「どう言う意味だ?」
「言葉通りの意味でございます。 仮に、でございますが。 この散歩になった背後関係を審問し、やむを得ない事情があったと致しましょう。 何があったにしろ、その次に起こるのはサリ様がこのまま北にお住まいになるのは危険ゆえ、即座に後宮入りを、となるのではございませんか?」
私はネルブワナの顔をじっと見つめた。
食えぬ奴だ。 最高審問官の地位はネルブワナと私の間で争われたが、私が勝ち取った。 かろうじて。
過去も現在も、ネルブワナが誰に与しているのかを知る者はいない。 その旗印の曖昧さのおかげで陛下のお気持ちを私へと動かす事に成功したのだが。 この者が侮れぬ事には変わりない。
情報を知る知らないではなく、この分析能力だ。 同じ情報を読んでいてさえネルブワナの裏の裏を読む能力には負ける。
要するに、サリ様の後宮入りを早める様な何かが起こったには違いないが、そうなっては困る北軍はその事実を秘匿した、と言っている訳だ。
サリ様の後宮入りを強く望んでおられる御方と言えば、セジャーナ皇太子殿下、或いはその周辺。 またはレイエース皇弟殿下か?
いずれにしても陛下はサリ様の早期の後宮入りを望んではおられない。 北軍が意図して秘匿したのだとしても、それは陛下の御意を汲んでいる。
もしこの事件にサリ様のお父上が関与していたらどうなる? 下手をすると北方伯だけの叱責では済まず、北軍将軍、タケオ大隊長、マッギニス大隊長補佐の連帯責任を問う事態になるかもしれない。 いずれも北の要と目される人物。 その全てを処罰する事になれば、どのような理由があろうと陛下の御不興を買うのは必至。 彼らを支持する上級貴族からの大反発も確実だ。
とは言え、一旦事実が公になれば、相応の処罰をせねば大審院の面目が失われる。 とすればこの件に深入りするのは火中の栗を拾うも同然。
私は命令を撤回し、ネルブワナを下がらせた。 礼こそ言わなかったが、ネルブワナに助けられた事は確かだ。 借り一つ、と言う所か。
後で貸しを返せと言って来る様な男ではないが。 北方伯絡みで、これからも次々とネルブワナに借りを作る羽目になるような、そんな悪い予感がする。
私の胸中には言い知れぬ困惑だけが残った。




