口止め リネの話
「サリ様、リネ様共々、御無事で何よりでございました」
将軍様から御丁寧なお言葉を戴いて、とっても恐縮しちゃった。 どうやらケルパのおかげで私達はあやうい所を命拾いしたらしい。 私達はそのまますごく立派な応接間に案内され、そこでお茶を戴きながら帰っても良いという知らせが来るのを待った。
しばらくしてリイ兄さんがやって来て、家に戻っても大丈夫と教えてくれた。 その時とても怖い顔で口止めされた。
「リネ、いいか。 今日の事はな、公式にはサリがケルパの散歩がてらサダに会いに来た、となる」
「散歩?」
「つまり誘拐未遂などなかった、という事だ」
「誘拐されそうになったと言ったらまずい、とか?」
リイ兄さんが頷いて言った。
「事件があった、というだけで誰かの責任問題となる。 未遂だからいいだろうというものじゃない。 危うい所を助けたのが犬だったのもまずかった。 それに今回の誘拐犯を捕まえるのは難しいだろう。 仮に全員を捕まえられたとしても黒幕が誰かを知る事はおそらく無理だ。 すると、このままサリを北に置いていては危ないと言い出す奴が出て来る。 そうなれば即、後宮入りだ」
後宮入りかあ。 そんなの何年も先の事だって思っている旦那様はがっくりなさるだろうな。 私は遅かれ早かれそんな事になるかも、て覚悟してたけど。
そりゃ駐屯地に来る前は、子供が授かったら自分で育てる事を許してもらえるかもとか、夢を見たりしていた。 でも本気でそうなると信じていた訳じゃない。
平民の娘が貴族の子供を生んだら父親の元に引き取られて育てられるのが普通、て聞いてるし。 産んだら最後、子供の顔なんて一度も見れないのが当たり前なんだもの。 それくらい田舎者の私だって知ってる。 ここに来てみれば私の常識じゃ考えられない事ばっかりで。 つい、忘れそうになるけどね。
かわいい赤ちゃんに恵まれて、毎日とっても幸せ。 それでも心の隅ではいつも思っていた。 こんな幸せがいつまでも続くもんじゃないって。
私の母さんも似た様な事を考えていたみたい。 リイ兄さんの結婚式で会った時、いざという時のへそくり、ちゃんと用意してあるんだろうね、なんて聞かれちゃった。
そんなものない、て答えたせいだと思うけど。 旦那様って耳がいいから、後で「へそくり」って何、て聞かれたんだよね。
「えーっと、奥さんが旦那様に内緒でやる貯金です」
「じゃ、これをへそくりにしな」
そうおっしゃって五十万ルークをぽんと下さったんだよ。 あまりの大金に思わずのけぞっちゃった。
「そ、そんな。 旦那様からもらったら内緒にならないです」
「いいから、いいから。 そんな細かい事、気にするな。 誰かに聞かれたら、俺に内緒、て言っとけばいいだろ」
ほんと、申し訳なかった。 旦那様が私のためにして下さったのはそれだけじゃないのに。
新年の叙爵の後、初めてリイ兄さんが家の名義について教えてくれたんだけど、家を買うお金は私がここに来る前からとっくにリイ兄さんが預かっていたんだって。 道理であの時旦那様がいないのに家が買えた訳よ。
爵位をもらって私達の家は貴族として独り立ちした。 私も一応伯爵夫人になったから名義を移しても大丈夫になったとリイ兄さんに言われ、今あの家の名義は私になってる。
そして旦那様のお名前の貯金は、もし旦那様が死んだら子供と妻で半分づつ分けるんだって。 そのように御遺言が書かれております、てトビから教えてもらった。 もしサリが皇王室へお嫁に行って、他に爵位を継ぐ子供がいなかったら全部私のものになるらしい。
旦那様にこれほど何から何まで思いやって戴けて、私は涙が出そうだった。 一筋に愛してもらっているだけでも夢みたいなのに。 農家の娘に過ぎない私が様付けで呼ばれちゃって。 そりゃ旦那様は誰よりえらくなったんだって説明してもらったけど、私まで。
今でもリネ様って呼ばれる度に身がすくむ様な感じ。 奉公人にならともかく、将軍様とか旦那様のお父様やお母様にまで様付けで呼ばれるんだもの。
こんなに次々世の中のありったけの幸運が自分の身に起こるなんて信じられないよね? サリは雲の上の御方に望まれた。 なのに好きなだけ抱っこしたって誰にも文句言われないし。
嬉しい事だらけだけど、そう遠くない日にこんな幸せ、全部消えてなくなるんだろうな、て思う気持ちはなくならなかった。
屋根の上にロックが舞い降りたのを見た時だって、まず思ったのは、きっとこれでサリは私の手の届かない所に行っちゃう、て事だった。
だってロックは私達平民から見たら天からのお告げとか、そんな感じなんだもの。 瑞鳥って、特別な子供が生まれた時に現れるんでしょ? それが屋根に留まったって事は、サリは特別なんだよね? なら平凡な私が育ててもいいはずないじゃない。 まあ、おっぱいは誰のおっぱいでも関係ないから、私のでもいいんだろうけど。
サリはもう八ヶ月になる。 間もなく乳離れして、言葉を覚え始めるのに、ようやく字の読み書きが出来るってだけの私の手元で育てたらまずいでしょ。 ほんとに私が育ててもいいのって、いつも心の中で聞いていた。
私にしてみれば、旦那様がサリを手放すなんて夢にも考えていらっしゃらない事の方が、ずっとずっと不思議。 サリが瑞兆なら、そして雲の上の御方と結婚するなら、遠く離れたどこかで高貴な方々に育てられるものなんじゃないの? それが私が引き続き面倒見ていてもいいだなんて。 そっちの方にびっくりしていた。
びっくりと言えば乳母のエナにだってびっくりした。 皇王室から乳母が来るって言うから、きっと色々大切な事を知っている人なんだろうって、私はその人に頼る気満々でいたんだよね。 公爵令嬢なら私よりずっと物知りな、えらい人に決まっている、て。
だからエナが私にああしろこうしろって命令するんだとばっかり思ってたの。 だけどエナって赤ちゃんの事を何も知らない。 おむつって何ですか、なんだもの。
赤ちゃんの事だけじゃなく、掃除をした事もないし、御飯を作った事もない。 積もった雪を見たのも初めて。 とまあ、分からない事だらけ。 結局私がエナにああしろこうしろって命令してる。
名前だって、ほんとはエナ様と呼びたいぐらいなんだけど。 じゃないと申し訳ないっていうか。 だけど彼女もトビみたいな怖い顔をして、お呼び捨て下さいませ、て言うし。 ほんとはエナのような高貴な貴族の御令嬢こそ旦那様に相応しいんじゃないの?
エナもそのつもりでいたみたい。 だからちゃんと最初に言ってあるのよ。
「旦那様、私は夜のお勤めも覚悟して参りました。 何卒御用命下さいませ」
なのに旦那様ったら。
「そんな心配しなくてもサリはもう夜中に起きたりしないよ」
そこで、そんな意味じゃないと思いますけど、て私が旦那様に言うのもなんか変だよね?
トビならちゃんと説明してくれるかと思ったんだけど、なぜか黙ってる。 いつまで経っても何も言ってくれないもんだから、しびれを切らして頼んだの。
「ね、トビ。 旦那様の誤解を解いてあげて。 このままじゃエナがかわいそう」
「奥様。 旦那様はあれでよろしいのです」
そう、なの? 念のためにカナにも聞いてみたんだけど、トビと同じ事を言うし。
まさかこんな事、旦那様の部下には話せない。 だからアタマークにこっそりどうしようって聞いたら、げらげら笑われちゃって。 笑いは長寿の秘訣じゃて、とか訳の分かんない事言われて終わりだった。
ともかく今日の所はこれで帰れる事にほっとした。 玄関に案内されて行ってみると、来た時の馬じゃなくて、すごくりっぱな馬車が私達の為に用意されてある。 馬車の周りには騎馬の兵士が百人ぐらいいた。
ひえーっ。 な、何、この物々しさ。
大丈夫と言われたけど、ほんとは大丈夫じゃないのかしら? でもカナもエナもこの大層な護衛に驚いている様には見えない。
「あの、カナ。 これってちょっと、大袈裟なんじゃない?」
「そんな事はございません。 この程度は当然と申せます」
そこでエナが私にびしっと言って来た。
「奥様。 御遠慮なさるべき場合ではございません。 準皇王族ともあろう御方に百や二百の警備が付かないでどうするのでしょう。 今までがあまりに手薄でございました。 北軍が手不足という事でしたらマレーカ公爵軍兵士を呼び寄せますわ。 取りあえず、五百人程で如何」
「エナさ、いえ、あの、エナ。 それだけは止めて、ね? まだ、その、事情がよく分かってないし」
「奥様がそうおっしゃいますなら」
とにかく何が何だかよく分からない。 詳しい事は旦那様がお帰りになったら聞こうと思っていた。 だけどお帰りになった旦那様は泣き腫らした目をして。 すごくお疲れの御様子。 珍しく夕御飯はいらないとおっしゃって、そのまますぐお休みになったから結局何も聞けなかったんだよね。
誘拐されそうになっただなんて大事件だもの。 きっと軍でいろいろあったんでしょ。
旦那様が責められたりしてなきゃいいけど。 旦那様のせいじゃないんだし。
でも軍なら問答無用っていうか。 言い訳なんてさせて貰えない事もあるんじゃない?
旦那様がかわいそうで心配で、何とかしてあげたかったけど、私に出来る事なんて何もない。
情けないけど、サリだってそう。 いくら私が生んだと言ってもサリをどこで育てるかを決めるのは私じゃない。 旦那様でさえ何も言えないっぽい。 雲の上の皆さんが決める事、て感じにとっくになっちゃってる。
もしかしたら今回の事情はマッギニスさんに聞いたら詳しい事が分かるのかな? とは言っても、マッギニスさんは旦那様に呼ばれない限り自宅に来たりしないし。 御迷惑になると思うから私が向こうのお家にお邪魔した事もない。
奥さんのリオさんは気さくな方で、いつでも遊びにいらして下さいと言って下さるんだけど。 上司の奥さんが遊びに来たら、やっぱり何かと気を遣わせちゃうでしょ。
それで旦那様の事を一番よく知っているトビに聞いた。
「ねえ、トビ。 サリがすぐ後宮入りする事になったら、どうしてまずいのか分かる?」
「皇王族の皆様には夫々思惑がございます」
「思惑?」
「詳しい事は私も存じません。 何分にも高貴な御方のお胸の内。 どなたがどちら側で、何をお考えかと名指しで申しあげられる事でもなく。
ただサリ様の後宮入りをなるべく早目に実現させたい御方が複数いらっしゃる、という事だけは御承知おき下さい」
「早くなるのと遅いのと、サリにとってどっちがいいのかしら?」
「サリ様の御為を私が推察申し上げるのは余りに僭越、畏れ多い事でございますが。 旦那様は出来るだけサリ様をお手元に置いてお育てしたいと願っていらっしゃいます。
勿論皇王陛下の御意に背いてでも、と申し上げているのではございません。 しかし後宮入りなさってしまえば日々皇王族としての義務を果たす重圧はどれ程のものか察するに余りあるもの。
父として娘の安寧を望むは自然の情。 しきたりと勉学に雁字搦めとなる日が避け得ないとしても、来るのが一日でも遅ければ遅いほどよい、と旦那様が密かに願っていらしたとしても責められません。
そして旦那様はそれはそれは多くの方々に愛されておいでです」
トビの説明で、どうして北軍の皆さんがサリを北で育てる事が出来るように必死になって下さっているのか分かったような気がした。 だってサリが後宮入りすれば、サリを守るのは近衛軍のする事になる。 なら北軍にとってはサリがさっさと後宮入りしてくれた方が面倒がないはずだよね。 口止めも警備を増やすのも、やらないで済むものならその方が簡単でしょ。 それでも旦那様のために、あれもこれもやろうとしてくれている、と考えるならつじつまが合う。
旦那様ってほんと、愛されてるよね。 御本人にその自覚が全くない、て所がちょっと痛いような気もするけど。




